子供たちが鳴いている(6/10)

キーボードに触れる前に、週刊誌と新聞記事をスクラップしたファイルを開く。すべて、田中さつきの事件だ。

[新宿のマンションで母子の絞殺死体]

図書館でコピーした新聞には、ゴシック体の見出しの下に800字ほどの記事がある。

報道のわずか二日後、殺害現場のマンションから1キロも離れていない保育施設の経営者が逮捕された。

その容疑者が、[無認可保育施設・すたあらいとチルドレン]経営者兼保育士の田中さつきだった。

新聞・週刊誌・ワイドショー……あらゆるメディアが事件を追いかけ、悲劇的に命を落とした母子の顔と名前を世間の誰もが記憶した。ネットでは、根拠のない噂や憶測が広がり、事件は真相を曖昧にしたまま、ひとり歩きした。

加害者・田中さつきと被害者・江坂恵子は、ともに島根県出身で、年齢(とし)も同じだった。そして、その「35」という年齢は、私も一緒だった。

[裁判はいらない! 田中さつきに極刑を!!]

当時、指輪を失くしたばかりの私を揺さぶったのは、雑誌の中吊り広告のそんなフレーズだった。

コマンドを待つノートパソコンが、一定のモーター音をたてている。

今日、取材相手が量刑についての問いかけを繰り返したことは、事件の鍵となる何かを知っているからにちがいない。私はその確信を得た。三沢祐也が間接的に事件に関与している可能性もゼロではない。

ファイルをめくっていく。

週刊誌は、田中さつきの写真に「鬼」という活字を被せ、彼女の過去を容赦なく暴いていたけれど、私が留意したのは被害者の人となりだった。歌舞伎町の高級クラブに勤め、外車を乗り回し、銀座のブランドショップの常連客だった被害者・江坂恵子は、四歳の子供を持つ親の顔ではなかった。

パソコンの壁紙を指でなぞる。

美花の笑顔。その唇に付いたバースディーケーキのクリームが人さし指の先に触れる。

「美花は、まだ新しい母親が受け入れられないんだ」――夫の声が雨音に重なり、頭(かぶり)を振って、「死刑廃止論」のフォルダを開く。

そうして、現れた六つのファイルから「卒業論文」を選ぶ。十五年ほど前にワープロで書いた文書を、最初の裁判傍聴日にノートパソコンに移したものだ。ゼミの教授の薦めで何となく選んだテーマが、現在(いま)の仕事の拠り所になるとは思わなかった。

人が人を裁き、その結果、また別の命が奪われるという負の連鎖。

国家による殺人・冤罪の歴史・犯罪の抑止的効果――論文の目次に、三沢の発言が重なる。

「人一人殺したら、死刑」

はたして、田中さつきの量刑は正しいのか……。

別の新聞記事に目を通して、私は事件をもう一度振り返る。


六月二十九日午前。新宿区北新宿の住居マンション宅に何者かが侵入し、就寝中だった江坂恵子とその娘・絵美を絞殺した。寝室は荒らされ、母子の死体はベッドに仰向けの状態で発見された。その二日後、室内に残された指紋と目撃証言で、田中さつきが浮上し、捜査官が任意同行を求めた後に、本人の自白で緊急逮捕となった。現金五万円と三十万円相当の貴金属が強奪されていたことが、彼女自身の供述で明らかになる。

刑法第二百四十条・強盗致死傷罪

金銭目当ての強盗殺人――検察側は「被告人の保育施設経営の行き詰まりによる短絡的かつ残虐な殺人」と主張し、東京地裁は求刑どおり「死刑」を言い渡した。母親と四歳の幼い子の将来を自己の欲求で奪い去った罪は極刑をもって臨むほかないと、裁判長は判決文に添えた。

しかし、私の胸にはわだかまりがある。

二十四時間営業の施設経営だから夜の犯行が難しくても、白昼堂々とマンションに忍び込む強盗犯がいるだろうか? 自分の施設で預かっていた子を絞殺することができるだろうか?

田中さつきの手紙にも、公判での一挙一動にも、「鬼」を象るものはなかった。

暗く深い闇の奥で、真実が息を潜めている。

背中に寒気を感じたとき、何かの気配を感じた。

卓上ライトの内側で、黒い影が動いている。左手で傘を左右に揺らすと、複数の足を持つ生き物が現れた。蜘蛛だった。

チェストの縁に軽やかに飛び移り、こちらを伺うそぶりで動きを止める。

私はその生き物をティッシュでくるみ、窓を開けて外に放した。



約束の時間より早くに来ていた三沢は、読みかけの文庫本を閉じて愛想笑いを浮かべた。

「まぁ、今日もたいした話はできないけどな」

着古したダウンジャケットを脱ぐと、陽射しを受けたシルバーのネックレスが白いタートルネックの上で光った。

昨日よりも血色が良く、気のせいか、表情も明るい。

カフェは、まるでこの二日間、私たちが借り切ったようで、空は晴れ、降り続いた雨は、アスファルトにも海面にもその跡を残していなかった。

「三沢さんがおっしゃっていた映画を観ました……ホテルの部屋で一人で観るには怖い映画でしたけど。有名な映画なんですね……アカデミー賞の」

「日本語の吹き替えが良くなかったな。コマーシャルも多過ぎるし。だから、テレビはダメなんだ」

時候の挨拶程度に切り出した私に、三沢は顔をしかめてタバコの箱をテーブルに置いた。

「昨日はありがとうございました。今日も貴重なお時間をくださり、感謝しています。いただいた時間は無駄にしませんので、どうかおつき合いください」



(7/10へ続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る