子供たちが鳴いている(3/10)

ふいに、テーブルの携帯電話が点滅し、三沢は受信メールを確認すると、10秒もかからないボタン操作で画面を閉じた。

細く長い指とメールを打つ速さ――目の前にいる男が、新宿・歌舞伎町のホストだった現実を、私は改めて思い知る。

いまは、無造作なヘアスタイルと無頓着な外出着だけど、ダークスーツに身を包んだかつての三沢祐也は、新宿で田中さつきと出会い、特別な関係になったらしい。私はそのことを二人の周辺取材で知り、確証に近い仮説を立てた。

「……記者さん、で、何の話だっけ?」

あくびを噛み殺した三沢が、何事もなかった顔で私を見る。

「田中さんはとりたてて印象のない女性だったんですね? 三沢さんのお店に現れた日はお仕事がお休みだったんでしょうか?」

「あんたはあいつの商売のこと知ってるだろ。休みっていうか、休憩みたいなもんじゃないの? そんなこと、オレはわざわざ聞かなかったけどな」

「はい……では、話を戻します。冴えない女とおっしゃいましたが、あなたにとって、田中さつきさんは、その後、ただの存在ではなくなったんですよね? 歌舞伎町の人気ホストのリュウキさんが、とりたてて印象のないお客さんと、なぜ、仕事を越えた特別な関係になったのかを知りたいです。いけませんか?」

発するひとつひとつの単語を点検する思いで、私は続けた。取材相手に敵意がないことを暗黙に知らせながら。

「記者さん、その質問は的を外れてるな。あんたの推測する『特別な関係』ってヤツは、さつきの他にあったから」

不機嫌な様子で脚を組み換え、三沢はテーブルに両肘をついた。

田中さつきのことを、「田中」ではなく「さつき」と呼んだ――やはり私の仮説どおり、二人は特別な関係だったはずだ。

すべての会話を記録するレコーダーとともに、三沢の顔色や動作を見て、慎重に、少しずつ、核心に迫っていく。

「私は、ホストの世界を……夜のお仕事のルールを知りません。ですから、見当違いの質問でしたら申し訳ないですが、三沢さんとさつきさんの関係は、特別なものではないということですか?……あくまでもホストと一顧客にすぎなかったということですか?」

ストレートな問いから逃げる感じで、三沢は二本目のタバコを乱暴にくわえた。使い捨てライターの小さな炎が、暗くなりかけたガラス窓に淡く映る。

「あんたはなんか勘違いしてるよ。もっと調べて、具体的なことを聞いてくれれば、ちゃんと話すけどな。こんなヘンピなとこまでわざわざ来たんだから」

「ありがとうございます。実は、私は、田中さつきさんと何度も手紙のやりとりをしています……」

言うやいなや、三沢は口が半開きの笑い顔を浮かべた。笑い顔というより、動物が人を威嚇する顔だ。

「なにか……おかしなことを言いましたか?」

「いや、メールの時代に、手紙なんてもんを久しぶりに聞いたからさ。しょうがないか……塀の中じゃ、電話もメールも禁止だもんな」

「ええ……とてもていねいで、彼女の頭の良さを感じさせる手紙です。いつも、自分の考えをしっかり文章にしています。三沢さんは、さつきさんから何かの手紙を受け取りましたか?」

「そんなもん、一度もないよ。こっちから出すこともない。だいたい、ムショの住所だって知らねぇし」

訛りを矯正した発声の中で、「い」と「え」のシンクロした音だけが妙に浮いている。

交信がないことは事実だろう。

しかし、私への手紙に、確かに名前が書かれていたのだ。何かのサインを知らせるように、唐突に。

いちばんたいせつな男――三沢祐也、と。


アルミ製のバケツを携えた店主が暖炉の前にしゃがみ、背中を丸めて作業を始めた。

薪のはぜる音。

火掻き棒で炉内をかき混ぜたらしく、火花が宙を舞い、火打ち石を叩くような音が聴こえてくる。

いきなり、私の時間が止まる。

……あの夏の夜、夫と美花はベランダで花火をしていた。夕方に美花にねだられ、コンビニで買った500円の花火セットだった。

原稿の締め切りに追われていた私は、束の間の家族団らんにつき合わず、リビングでノートブックパソコンのキーを叩いていた。ガラス越しに花火の光をときどき眺めることが、精一杯の二人への愛情だった。

そして、予期せぬ出来事が起きた。

西風を受けた線香花火の火玉が、美花の足の甲に落ちたのだ。

獣のような悲鳴が上がり、娘を抱きかかえた夫が浴室に駆け込んでいく。

ほんの数秒の出来事。

原稿用紙数千円の仕事のために、私は二度と巻き戻せない時間を家族に与えてしまった。

ベランダに出て、種火を残していた容器に慌てて水をかけると、花火の残骸が鈍い音を立てて、私に抵抗した。

「……しばらく別居しようか。美花は、まだ新しい母親が受け入れられないんだ」

その晩、ベッドの端で、夫がポツリと言った。

そう、私は、新しい妻であり、新しい母親だった。それでも、自分の中には「新しい」という思いは少しもなかった。普通に夫と娘を受け入れ、生まれて初めて得た「家族」を愛していた。



(4/10へ続く)

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