子供たちが鳴いている(2/10)
最初の質問を投げかけようとした矢先、太陽が厚い雲に遮られ、いくつかの雨粒がガラス窓に貼り付いた。
「にわか雨ではなさそうですね。さっきまで陽射しがあったのに……」
「明日の朝まで降るらしいな。あんた、こんな遠くまで来るなら、天気予報くらい聞いてただろ」
こちらの言葉に三沢はそう返し、口角を上げた。
発声の中に「い」と「え」の曖昧な音を見つけ、私は取材相手の確かな情報をインプットする。きっと、ここ青森が出身地にちがいない。訛りがほとんど消えているのは、東京での暮らしが長かったためか、それとも取材を受けているからか。
三沢はジーンズの後ろポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出し、コーヒーカップの脇に置いた。閉じた端末の小さな窓が黄緑色に一瞬光ると、取材を邪魔しないよう存在を潜めた。
店の中は、外と違って暖かい。
私たちのテーブルは暖炉の正面にあり、空気が滞留してからカウンターのダクトに導かれる構造になっていた。
「差し支えなければ、お話を録音させていただきたいのですが……」
眉間に皺を寄せた三沢は、タバコに火を点し、煙りを静かに吐いて、私を見つめた。居丈高な振るまいながら、神経質な内面が垣間見れる。
「別に構わんよ。たいした話をするわけじゃない。電話で言ったように、オレの名前を記事に出さなければな」
「もちろん、そうします」
はっきり宣言して、私はレコーダーの録音ボタンを押した。
「記事に三沢さんのお話を書く場合は仮名にさせていただきます。それが条件でしたね。あなたの名前とまったく異なる仮名です……あるいは、適当なイニシャルにしても構いませんが、どちらがよろしいですか?」
選択権を与えると、三沢は二度しか呑んでいないタバコを陶器製の灰皿でもみ消し、薄笑いを浮かべた。
「……どっちでもいいよ。こう言っちゃナンだが、どうせ、あまり読まれないだろうから。だいたい、終わった事件のことなんか、あんた以外に、誰か興味あんの?」
「そのとおりかもしれません。でも、事件はまだ終わってません。裁判は続いています」
テーブルに右肘をついて嘲る相手に、私はきっぱり言った。
「……では、仮名にしますね。イニシャルだと記事の信ぴょう性が薄れますから」
何も答えないまま、三沢はウィンナーコーヒーのクリームをスプーンで沈めていく。
誰も興味のない記事――そうかもしれない。週刊誌の編集者と懇意にしているものの、原稿が誌面で採用される保証さえなかった。
たとえ、脱稿した文章が魅力的なものでも、外交問題や凶悪事件や芸能人のゴシップ記事で、私の仕事はいとも容易く吹き飛んでしまう。三沢の言うように、事件は風化しかかっている。しかし、その風化を止めるために、いま、私はここに居るのだ。
ガラスを叩く雨が強くなり、事の終焉を知らせる感じで私を急き立てる。雲間に消えた太陽は姿を見せず、空から落ちる水滴がやがて雪に変わるように、万物が移ろっていく。
「記者さん、ひとつ訊きたいんだけどな」
コーヒーを啜った後で、三沢が落ち着いた声色で切り出した。
「あんたみたいにバリバリ仕事しそうな女が、どうしてその日暮らしの、こんな仕事をしているわけ? どっかの企業に就職して、フツーのOLになって、結婚して、家で子供育てりゃいいじゃん……なんで、記者なわけ?」
「普通のOLですか? そういう女性が、東京にいた頃の三沢さんのお客さんには多かったですか?」
手帳を開きながら、私は事務的な口調で質問をはぐらかし、別の問いかけにすり替えた。
企業に就職してOLになって、結婚して子供を育てる――初めて会話を交わす男の、別れ間際の夫と同じセリフ……。
心のさざ波を隠し、本題の一端をつかもうとした。
ようやくジャンパーを脱いだ三沢は、ダンガリーシャツの袖を数回折り返して、グラスの水を再び飲む。右の手首の近くに、ミミズ腫れに似た火傷の痕が見える。
「オレが店で働いていたのは、もう昔話だよ。まぁ、いろんな客がいたけどな。何もOLばっかじゃない」
かつての自分の生業をまざまざと思い出したのだろうか。三沢はそこで言葉を止めて、ため息をついた。白い肌が明るさの加減で青味を帯び、冷蔵庫に眠るチーズみたいな色を浮かべている。
「そのお客さんの一人が、田中さつきさんだったんですね?」
三沢は口をすぼめ、「それがどうした?」という表情で窓の外に視線を移した。
国道をなぞるテールランプが赤信号の連続みたいに列をなし、その先で、雨を受けた海面と白く霞む水平線が一体になっている。鉛色の風景は、美術展に飾られた絵画のようだった。
「三沢さんと田中さんとの出会いは、いまから二年半ほど前ですね。当時のことを覚えていますか?」
「まぁ、うっすらとな」
目線を合わせずに、三沢は思いのほか真面目に肯定した。
「そのときの田中さつきさんの印象を教えてもらえますか? あなたのお店にやって来たときの服装とか雰囲気とか、なんでも……」
「印象はないな。ただの冴えない女だったよ」
(3/10へ続く)
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