短篇小説「子供たちが鳴いている」
トオルKOTAK
子供たちが鳴いている(1/10)
ログハウス風のカフェは、ペンションのダイニングルームを広くした感じだった。
暖色に彩られた抽象画。奥行きのあるレイアウト。木製テーブルと暖炉。大きなガラス窓が店全体を明るくしているものの、その開放感がなんだか寒々しい。
客席にいるのは私だけ。
少し離れた場所で、腰下のエプロンを着けた店主がコーヒー豆を挽いている。都会の喧騒とは一生無縁な表情で、こちらの存在を黙殺しているようにも思えてしまう。
地方の土地を踏むと、私はいつも決まって美花(みか)のことを想った。
いまこの時間は何をしているだろう。今晩は何を食べるだろう、明日はどんな一日を過ごすだろう。
窓際のテーブル席でレコーダーと手帳を取り出して、グラスの水に口をつける。
いちばんたいせつな男――縦書きの便せんに、黒のボールペンでしっかりそう書かれていた。
だから、私はじっと待つ。
やがて、有線放送の協奏曲がシンフォニーに切り替わったタイミングでエントランスの鈴が鳴り、スタジアムジャンパーの男がポケットに手を突っ込んで、私の顔をあらかじめ知っていた様子でテーブルにやってきた。
「三沢さん、ですね?」
私の方から口を開く。
男は無言のまま、カシミヤのマフラーを外し、向かいの席に腰掛けると、誰かにむりやり連れて来られたように息を大きく吐いた。
パーマの緩くかかった長髪と二重目蓋の彫の深い顔は、往年のアイドルを思わせるものの、肌の白さと無精髭が私の警戒心をかき立てる。
テーブルに四十五度の角度で体を傾けた顔は、頬れい線が目立つせいか、実際の年齢よりも老けて見えた。
「お時間をくださいまして、ありがとうございます」
初対面の相手にひるむことなく、私は背筋を伸ばして頭を下げた。
「……別に礼を言われるほどのことじゃないよ」
低くしゃがれた声で発した男の前に、店主が水のグラスとおしぼりとラミネート加工されたメニューを置いていく。
「青森には久しぶりに来ました。かなり前ですが、この近くのスキー場のオープンイベントを取材したことがあるんです」
「……ここまでの交通費は、記者さんの自腹なの? それとも、どこかの新聞とか出版社が出してくれるわけ?」
差し出した名刺を見つめ、男は軽い調子で言った。標準語を仕方なく使っているようなバランスの悪いイントネーション。
最初の会話で何かを訊いてくる相手は少なくないけど、それはたいてい丁寧語で、挨拶代わりの愛想笑いを見せるのが普通だった。いくら「テーブルに四十五度」でも、あまりに唐突で遠慮のない質問だった。
ほんの数秒、私はとまどう。
指輪の跡に相手の目線を感じ、額に薄くにじんだ汗をハンカチで吸い取る。薬指は新しい生活を受け入れず、指輪を失くした私を許していない。
「……交通費は自分の負担です。私はフリーランスですから、どこもそんなものを保証してくれません。正確に言えば、仕事の経費扱いですけど」
「なるほどね。つまり……身分の保証もない」
「ええ、そうです。申し訳ありませんが、私を証明するものは、その名刺に書かれた『ライター・記者』という肩書きだけです。ご了解いただけますか?」
爬虫類みたいな目で、男は身じろぎせず、こちらの動作を見据えた。好奇心も興味もなく、ただ網膜に映り込む対象物を捕らえた表情で。
三沢祐也――
いまこうして、この男に会うまでに五ヵ月の時間を費やした。「費やす」……そう、その言葉が適当だ。およそ150日間、私は今日の取材に向けて、出版社からの別の原稿依頼を断わり、この仕事だけに向き合ってきた。
間もなくして、店主がタイミングを諮った感じで、私たちのテーブルを訪れる。
三沢は「ウィンナ」と短く応え、名刺をポケットにしまってから、水を口に含んだ。格子模様のグラスの下半分に、雲間からの弱い陽射しが透過していく。
私もグラスを傾け、飲み口に残った薄紅を親指で拭い、両手をチノパンの上に重ねる。
「このお店には、よくいらっしゃるんですか?」
「……まぁ、たまにね。あいにく毎日コーヒーを飲むほどの余裕がなくてね」
「お時間をくださいまして、本当にありがとうございます。三沢さんにやっとお会いできて、ほっとしています……いま、お仕事はこちらで、ですか?」
「余裕」という単語が、時間を指してのものなのか、経済的な理由かが分からないまま、私は慎重に言葉を返した。
三沢は「仕事ってほどのもんじゃない」とぶっきらぼうに答え、肩まで無造作に伸びた髪を片手で梳いた。
店主がウィンナーコーヒーを彼の前に、ブレンドコーヒーを私の前に置き、裏返した伝票を残して背を向ける。
「今日は……お時間は大丈夫ですか?」
三沢は何に答えず、カップに張ったクリームの泡を救い上げ、赤味の乏しい唇に運んだ。
(2/10へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます