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もはや、繭になっていない人間などいなかった。
虹色の繭が電柱の数より多くなってしまった町は、趣味の悪いサイケデリックな現代芸術のようで、僕の食欲を減衰させるだけだった。目障りなので壊してやろうかという気にもなったが、金づちでたたいてもひび一つは入らない。どかそうにも、菌糸が硬質化したようなものが地面に深く根を下ろしていてかなわない。
僕の眼にはその現象は、前触れもなく人間の体から虹色の糸が吹き出し、幸せな表情のまま包まれているようにしか見えなかった。しかし繭に取り込まれる寸前の人間のWeb上の書き込みや、動画の生配信などの状況を見ると、彼らは意識の途切れる間際、まるで愛する者と性行為をしているような幻覚を見ているようだ。
この現象は、僕の住む町、国だけでなく、全世界で同時多発的に起こっていた。しかもその速度は尋常ではなく、インターネットを介したもの以外のメディアは、この現象を取り上げる間もなく全滅していた。この現象は、名前を付けられる前に人類を滅ぼしてしまったのだ。おそらく地球上で肌色な人間は、僕一人しかいないだろう。
繭は割ることはできないが、よく目を凝らしてみると中の人間の顔が分かる。マンションから出てすぐのところにあった繭の中身は、後輩のイハラだった。仕事をしていたはずの彼女がなぜこんなところにいるのかは疑問だが、よく見知った人間が、こんな気味の悪いものに加工されているのは心にくる。無事な知り合いはいないだろうかと、フェニックスモールのツルギまで足を運んだが、店長もまた七色に包まれていた。もともといかつかったその顔が無理やり幸福に歪められているのには、生理的な嫌悪を感じさえした。
世界はもはや機能を停止していた。喧騒などどこにもなく、静寂に包みこまれたすべての中に、時折鳥の声が響く。人間という存在がいなくなるだけで、ここまで地球は落ち着きを取り戻すものなのか。
しかし人類が滅亡したところで、僕には何の感慨も湧かなかった。ケルビムが僕の前から消えたあの日から、僕自身は終わっているのだ。今更何が終わろうとも、喜びも悲しみも感じない。
もういいだろう。これ以上、なにもしたくはない。僕の足は自然と、会社の屋上へと向かっていた。有給も終わるので丁度いい。確実に死ねる場所は他にも思いついたが、やはり僕の三十と一年を終えるのに、これ以上ふさわしい場所は考えられなかった。今回は気まぐれでも、嫌がらせでもない。
懐から、銀色の煙管を取り出す。彼女がくれた残武者。彼女がいなくなってからずっと禁煙をしていたが、半月ぶりに火を付ける。やはり禁煙というものは、長くは続かない。
煙が空へと昇っていく。空の向こうには、やはり天国が広がっているのだろうか。繭に包まれた者たちは、そちらの方に行ったのだろうか。イハラも、店長も、――そしてケルビムも、雲を越えたら会えるのだろうか。
僕も今からそっちに行くよ。
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