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去年のクリスマスイブの日以来、ヒノ先輩のテンションはまた、自殺しそうな顔をしていたときのそれに戻ってしまった。年が明けてからは、ずっと有給を使って引きこもっているらしい。ため息ばっかりついている先輩の姿を見るのは心苦しかったけど、その原因が恋愛関係にあるということに感づいた時には、性格が悪いがほくそ笑んでしまった。
これはチャンスだ。私、イハラ・ユウのもとに舞い込んだ千載一遇のチャンスなのだ。相手がどんな人だったかは知らないが、彼女に振られていまヒノ先輩は傷心のはず。そこに私がフレンドリーな関西弁で優しく声をかけてあげれば、あの人は優しい娘だとメロメロになるに違いない。
不自然な休み方をしているヒノ先輩の様子を確かめに行くという名目で、会社から許可と彼の住所を手に入れた私は、意気揚々と彼の家へと向かうのだった。
一度も降りたことのない駅から、歩いて大体十五分の場所に、先輩のマンションはあるらしい。これまで何度かお邪魔しようと機会をうかがってきたが、いつも適当にはぐらかされていた。いったいあの人はどんな部屋に住んでいるのだろうか。
平日の昼間、駅から少し離れると、もう通行人はほとんど見かけなくなる。駅前だけはにぎわって、そこを抜けると閑散としている。あと五分も歩けば、マンションへ着くだろう。問題は、果たして先輩は私のことを入れてくれるか、だ。そこで今回私は、駅前でモンブランを買ってきた。甘いものを手土産にしている人間を、人は門前払いすることができないのは自明である。するりと自宅に潜り込み、良い雰囲気になれば、あわよくば。
そこまで妄想していたところで、私は路上に奇妙なものが落ちていることに気が付く。
初めは蝶か蛾のさなぎかと思ったが、形状こそ似ているものの、色は極彩色でとても生物感のあるものではなかった。私の親指くらいの大きさで、虹色の糸にくるまれている。
何かのおもちゃだろうか。身をかがめてよく見てみると、それは少し動いた。そしてぺりぺりと、内側から纏った衣を破り始めた。そして中から、銀色の液体がどろりとあふれ出した。液体といっても流動性に乏しく、水銀のように重みがある。それはゆっくりと道路に広がった。流出した液体は、明らかにさなぎの容量を超えた量だ。私は底知れぬ恐怖を感じ後ずさりをする。
液体は、半径一メートルほどの水たまりを作ったところで流出を止めた。そして重力を無視して、人の形を取り始める。はじめは足、その次は腰、腹、肩腕と、裸の人間の姿に変わる。私より背の高い、がタイの良い人間の像のようだ。次第に色も、銀色から生々しい肌色に変わる。そして最後に、首から上が完成する。その顔は。
「ヒノ先輩……?」
極彩色のさなぎから出てきたのは、まごうことなきヒノ先輩であった。けだるそうな顔、がっちりとした肩幅、どこをとっても、ヒノ先輩そのものだった。状況からすれば、ここで彼が現れるのはおかしい。彼は今マンションに引きこもっているはずで、これは偽物か、そうじゃなければ道中の電車でつい寝てしまって見ている夢のはずだ。だが、目の前のヒノ先輩の存在感が、その可能性を抹消する。何も言わずとも、自分こそがヒノ・ミライであると主張している。目の前のそれは、本物のヒノ・ミライよりも、私の思い描くヒノ・ミライと合致していた。
眼前のこれは、おかしい、おかしいはずなのに、彼の存在がすべてを納得させてしまう。私はその絶対性に飲まれ、話しかけてしまう。
「せ、先輩。こんなところで何してはるん」
私の言葉をすり抜けるようにして、ヒノ先輩は私を抱き寄せた。
まさに問答無用だった。力強い、私をくしゃっと丸めてしまおうとするような抱擁だった。彼と触れた部分が、燃えるように熱くなる。性的衝動にも似た情熱だ。何が起こっているかはわからないが、まずい。このままだと私が私では、人間ではなくなってしまう。
ヒノ先輩の体が、再び溶け液体となる。そうして彼はどろりと私の体を包み込む。私と彼の触れる面積が増えるたびに、情熱も温度を上げていき、そして快楽へと名を変える。
圧倒的な快楽だった。性行為や薬物などおそらく比ではないだろう。もはや周りがどうなっているのかわからない。世界が定義を失ってゆく。いや、私とヒノ先輩の定義の濃度が常軌を逸したため、そう感じるだけなのだろうか。どれだけ言葉を尽くしても、この快楽の実態をとらえることはできない。
私は今、ヒノ先輩になりつつある。私はヒノ先輩であり、ヒノ先輩は私なのだ。アルファでありオメガ。愛する人との同一、合致、融和。それは人間の根源的な喜びだ。ヒノ先輩は私を定義してくれるし、私もまたヒノ先輩を定義している。破滅的なラッパの音が聞こえる。世界が閉ざされていく。圧倒的な快楽の奔流にあること以外、何もわからなくなっていく。
私であるヒノ先輩が虹を吹き出す。七色の糸だ。ヒノ先輩である私はくるまれる。外界と隔てられる。繭の中には無限の空間の可能性が広がっている。子宮に包まれているかのような安心があった。
快楽と安心で意識が薄れていく。ヒノ先輩である私の人生は、これで達成されてしまったのだ。見るに堪えない暴力的な達成だが、私であるヒノ先輩はその違和感さえ忘れさせてしまう。残ったのはただの幸せだ。交じりっ気のない純粋な幸せが、私を飲み込んでいく。
そしてすべてを証しする方が、言われる。
「
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