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「先輩、最近えらい機嫌ええやないですか。どないしたんですか。一年くらい前までは、今にも自殺しそうな顔してはったのに」
「そう見えるのは、君の機嫌が悪くないからだよ」
はぐらかしはしたものの、イハラの言ったことはほとんど正解だった。全く女性の勘というのは侮れない。
正体不明の美人同居人、ケルビムが現れてから、すでに三か月が経った。彼女は今カルベと名乗り、チェーンの喫茶店でアルバイトと、そして家で家事を行っている。
家に帰ればケルビムが待っている。それだけのことで、これほど世界が色づくとは思ってもみなかった。仕事中でも、彼女のことが頭から離れない。早く彼女に会いたい。
「先輩、今日仕事終わったらみんなで飲みに行こう言うてるんですけど、ご一緒にいかがですか? どうせクリスマスイブに予定なんかないでしょう」
「あいにくだけど、遠慮しておくよ」
そう答えると、イハラはもともと丸い目をさらに丸くして、
「まさかとは思てましたけど先輩、アベックになってしもうたんですか! 裏切られた! 先輩みたいなひねくれもの、絶対誰にも見向きされん思てたのに!」
「なんて失礼な後輩だ」
アベックなんて久しぶりに聞いた。かわいげのある関西弁の罵詈雑言を浴びせてくるイハラは置いておいて、僕は早々に会社を出た。今日はクリスマスイブ。大切な日である。一年近くケルビムと過ごし、彼女の過去について、わかってきたことが三つほどある。一つは彼女は炎が好きなこと。もう一つは祝うことが好きなこと。そしてもう一つは、彼の十字の宗教について何も知らないことだ。
普通生きていれば、あの宗教については嫌でも一部を知るはずだ。クリスマスなんてのはその典型で、人類を見渡してもこのイベントを知らない人間なんてほとんどいない。しかし、彼女は知らなかった。クリスマスとはいつで、どんなイベントなのかを全く知らないのだ。他の知識については人並み以上に持っているのに、あの宗教に関連することは何も知らない。
それだけなら、ただの偏った知識というだけで済むのだが、問題はさらに根深い。知らないなら教えてやればいいと思ったのだが、ケルビムは少しでも十字の宗教が関連する知識を、覚えることができないのだ。教えてすぐなら問題ないのだが、一晩経つと教えたことから記憶に残っていないのだ。忘れたことすら覚えていない。何かの病気か特殊な体質かはわからないが、この特徴を手掛かりにすれば、なにかわかるかもしれない
ともかくそんなわけで、今日は彼女が初めて体験する、十字の宗教を最も意識せざるを得ない日なのだ。下手をすれば、明日になれば今日の出来事を丸々忘れている何てことにもなりかねない。だから今夜は、出来る限り忘れられない一日にしてやりたかったのだ。
「じゃあ、行こうか」
「? どこに?」
「やっぱり覚えてないか。まあいいお楽しみだ。とにかく車に乗って」ケルビムは急いで、いつぞやのハイネックとダウンコートに着替えた。
女性との交際経験がないに等しかった僕には、気の利いたクリスマスのイベントなど、イルミネーションくらいしか思いつかなかった。県をまたいだところで催されているそれは、災害からの復興を願ったもので、国内でも指折りの美しさだという。デートスポットとしては、まず間違いがないそうだ。
すでに居候以上の関係にはなっていると自負している僕たち二人だが、まだ超えられていない一線も確かにあるのだ。今日こそは、そこを破らなくてはいけない。僕はハンドルを少し強めに握っていた。
到着した街は、全体がきらめいていた。陽はどっぷり落ちているにも関わらず、光に包まれていないところなどどこにもなかった。歩行者の天国となった道路の頭上にはアーチ状の光の輪が輝き、街路樹は一本残らずLEDを実らせている。思わず息をこぼしてしまう。ケルビムも同じ感想を抱いたようで、
「綺麗ね。私といい勝負だわ。」
「そこの勝敗は僕にジャッジさせてくれよ」
「「君の方が綺麗」なんて寒いセリフを、冬空の下で聞きたくないから先回りしたのよ。そんなことよりほら、屋台もいっぱい出ていることだし、なんか食べましょうよ。神戸牛の肉まんなんてあるわよ。二人で食べましょう。」
花より団子を地で行く女だ。しかしあの天真爛漫さこそが、受動的なニヒリズムに憑りつかれた僕には丁度良いのだ。ケルビムはもはや、僕の人生に欠かせない存在となっていた。
僕は今日彼女を抱くつもりだった。クリスマスの夜は一年で最も性交の行われる日だという俗説に倣ったわけではないが、もう辛抱できなかった。僕は彼女を愛しているし、彼女も僕を愛している。
もう一つ理由を付けるとすれば、彼女の謎めいた記憶の解明だ。いくら彼女が十字教を記憶できないとはいえ、初めて交わった日のことを忘れるはずはないだろう。しかしこんなもの、今となっては後付けに過ぎない。
本音を述べると、もはや僕はケルビムの過去などどうでもよくなっていた。むしろそんなものが明かされてしまえば、僕と彼女の関係は終わってしまうかもしれない。それはすなわち、僕そのものの終わりと等しい。
僕は過去のケルビムとではなく、今のケルビムと、より深いところでつながりあいたいのだ。過去がないというならば、ともに未来を作っていけばいい。欠けた部分は僕が補うだから、だから――
「気持ちは嬉しいよ。私だってもちろん、あなたとつながりたいよ。」
だけど、だめなの。できないの。
イルミネーションの奔流から戻り、思いをぶつけた僕に彼女はそう告げたのだった。
「どうしてだめなんだ。僕は君と、一つになりたいんだ。愛しているんだ。君のことを」
「私も愛しているわ。でもそれだけはだめなの。これは私の、本能の部分がそう言っているの。あなたと交わってしまえば、今の私は私でなくなってしまうの。――記憶が、戻ってしまいそうな気がするの。」
彼女の言葉を、僕には信じることができなかった。一年間探しても、決定的な手掛かりはなかったのだ。それを今更、記憶が戻りそうだというのは、彼女が怖気づいて言い訳をしているようにしか思えなかった。
僕はケルビムを、強引にベッドに押し倒した。そうだ、彼女は恐れているだけだ。乱暴に服を脱がす。ダウンコートは無造作に放られ、ハイネックは少し破れた。けれどもすべて終われば、彼女も理解してくれるはずだ。
「やめて、ミライ。本当にいけないの。禁忌を犯すような、あっ、嫌っ。」
すでに言葉は僕の耳に記号としてしか入ってこなかった。露わになったケルビムの柔肌に顔をうずめる。どこまでも沈み込んでしまいそうだ。息苦しささえ愛しさに変わる。もう抑えることはできない。
僕は自分と彼女の下半身から、一切の衣服を剥いだ。一糸纏わぬ彼女の姿は、街のきらめきを星の数集めてもかなわないほどだった。
僕の欲望は彼女の美しさに支配された。怒張した自身をケルビムにあてがう。なおも彼女は制止の願いを叫んでいるが、抑え込んでいる両手には力が入っていない。このままひと思いに、入れてやる――
そのとき、彼女の肉体が輝きを発した。
正確には、彼女の背後。背中の後ろに、地平線のない虹のような形状の光の輪が現れたのだ。イルミネーションなど比ではない、本物の輝きだ。さらには彼女の背中から、純白の翼が。
ケルビムは目を開き、射殺すように冷たい視線を僕に突き刺した。
「ヒノミライよ。天使と交わることは禁じられている。精霊の領域は、犯してはならぬのだ。」
確かにケルビムの声だ。しかし話しているのは、僕の知る彼女ではない。もっと大きな、何かだ。
「返せ、返せよ。ケルビムをどこにやった。あいつはお前じゃない」
「今までお前とともにあった存在なら心配はいらない。記憶なら私の中に残っている。ただ、失った記憶を思い出しただけだ。私の名は天の使い。名をケルビムという。天の使いは、人の子と交わると消滅してしまうのだ。」
しかしそれでも、もう僕の愛したケルビムではない。人間ですらなくなった。失われてしまったのだ。
「さて。お前のおかげで、私は地の民の喜びでなんであるかを理解した。愛する者を見つけ、一つになる。それこそがお前たちの喜びなのだな。お前の行いは偉大なものである。お前のために、地の民は救われるのだ。私はこれより天に還り、
ケルビムの体が透け始める。世界のレイヤーが重ねられているかのように、彼女は別の位相の存在になっていく。音もなく、ただ存在だけが僕の前から消えていき、認識ができなくなっていく。待ってくれ。おいていかないでくれ。無理に迫ったことは謝る。金輪際こんなことはしない。それが無理ならせめて、僕を君の領域まで連れて行ってくれ。あんまりに、突然すぎる。
僕の叫びは、むなしく空に反響する。彼女はとうに、この世界にはいない。
それはすなわち、僕自身の終わりと等しかった。
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