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「カルベさん、確か今日はできるだけ早く帰りたいんだったよね。もう上がっちゃって大丈夫だよ」

 私がカルベと名乗り、フェニックスモール内のチェーン喫茶店で働くようになってから、すでに半年が経とうとしていた。ブラックなのではというミライの思いは杞憂だったようで、職場の環境はすこぶる良好だ。特にチーフリーダーのミクラさんは、仕事も気遣いもできる聖人のような方だ。彼のおかげで、この店は回っていると言ってもいい。少々お顔が個性的だが、そんなことは人間の本質には関係ない。現在恋人はいないらしいが、すぐにできて瞬く間に幸せな家庭を築くことだろう。

 お言葉に甘えて、私は同僚たちより一足お先に店を出た。何を隠そう今日は、ミライの誕生日なのだ。いくら記憶喪失の私でも、誕生日はその人に感謝を伝える日であることくらい知っている。そもそも私の失った記憶は、いわゆるエピソード記憶のみで、一般的な常識については、年齢相応の知識を残していたようだ。しかし、それ以上のことはまだ何もわかっていない。

 閑話休題。

 私はミライに、返しても返しきれない恩がある。その一部分でも彼に伝えたい。そう思って私は、にぎわうモールの中では例外的にひっそりとしているその店、ツルギに足を踏み入れた。

 ツルギは、未成年お断りの店である。といってもいやらしいお店ではない。種を明かすとなんてことはない、ここはミライ御用達の、煙草屋である。煙草屋といっても、一昔前の駄菓子屋と兼業しているような味のある店構えではない。黒と群青を基調とした配色に、直線と直角を多用した内装。そのままバーに転用できてしまいそうだ。彼曰く、海外の珍しい銘柄を扱っているのは、このあたりではこの店だけだという。

 趣味といえる趣味のないミライだが、唯一煙草だけは好んでふかしている。ここならば、彼のお眼鏡にかなうプレゼントが見つかるはずだ。おまけに店長はミライと顔見知りなので、彼の好みに合ったものを選定してもらうこともできる。完璧なプランだ。

「はいよ、お嬢ちゃん。これこれ。ミライ君の味覚だと、こいつは絶対気に入るはずだ。保証するぜ」

 スキンヘッドのいかつい店長が奥から持ってきたのは、ゼビウスという銘柄の葉巻だった。店長の言うところによると、つい最近開発された新しいタイプの葉巻らしい。箱を開けてもらうと、小ぶりの胡瓜ほどの太さの、黒い皮に包まれたゼビウスが五本、まだ火もつけていないのに香りを漂わせていた。

 確かに、これならばミライは大喜びするだろう。喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。しかし、私は満足がいっていなかった。

「思っていたより、安いんですね。」

 五本セットでも、せいぜい五千円である。これでは、私の気がすまない。もちろん、プレゼントで大事なことが値段ではない ことくらいは分かる。しかし今回のプレゼントは、私がミライと出あったときに貰った衣服のお礼でもあるのだ。あの時彼に貰った一式は、安く見積もっても三万円は下らない。

 一体どうしたものか。煙草以外に、ミライが気に入りそうなものなど思いつかない。しかし煙草では、一万円もかからないお手軽なプレゼントになってしまう。だからと言って、一年分贈るというのも芸がない。私は頭を抱えた。

 何かよい贈り物はないだろうか。考え私は店内を見渡す。手巻き煙草、噛み煙草、嗅ぎ煙草、シーシャ……。さすが専門店なだけあって品ぞろえは豊富だが、琴線に触れるものはない。と、思ったそのとき。

「あ、あれいいじゃない! 店長店長! あのショーウィンドウの中に入ってるの、売ってくれないかしら。」

「ええ、あれかい? 困ったなあ。あれは俺のコレクションで、売るつもりはなかったんだがなあ」

 店長の顔がくしゃりと渋くなる。しかし、ここで引くことはできない。あれを渡せば、ミライは絶対にお気に召すに違いない。なんとしてでも手に入れなくては。私は演技力の限りを尽くして、艶めかしい猫撫で声を作る。

「ねぇん、いいでしょう。おねがあい。」

「やめろやめろ。知り合いの同棲相手の色仕掛けなんて、背筋におぞけが走る」店長は野良犬でも追い払うような仕草をした。心外である。「わかったわかった。そこまで言うなら売ってやる。ただし、三万円だ。それよりまける気は一切ないからな」

「さすが店長! 話の分かる男!」丁度、私の理想とする値段に設定してくれた。ミライがここを贔屓にする理由がよくわかる。私は上機嫌で店を出た。あとはケーキと高級な牛肉と酒を買い、部屋を飾り付けるだけだ。祝い事というのは、本人も企画する者も楽しくなるからたまらない。もしかすると記憶を失う前の私は、誰かを祝う役目を担っていたのかもしれない。


 クラッカーが爆ぜる。ちょっとした火薬の香りがあたりに漂った。彼の煙草と同じように、この香りも私の好きな香りだった。私はどうやら、火の気配を好むらしい。

「誕生日、おめでとう。」

 破裂音に腰を抜かし年甲斐もなく玄関ですっころんだミライに、私は手を差し伸べる。本日の主役だというのに、なんと間抜けなのだろうか。約半年居候してわかったのだが、こいつは格好をつけている割に、変なところで決まらないのだ。こういう愚かなところを見せられると、庇護欲がくすぐられる。

 奮発した牛肉は、ローストビーフにしてみた。炊飯器でもできるらしいが、それでは味気ないので本格的にオーブンで。赤ワインとパンを添えると、我ながらなかなかどうして様になっている。

「おいしいからって食べ過ぎないでね。この後にケーキもあるんだから。」

「すごいな。まるでミサみたいだ。祝われる僕はさしずめ十字の子かな」

「また私の知らない言葉で例えるんだから。何はともあれ、乾杯よ。」

 高級食材を台無しにしてしまわないか不安だったが、出来は上々であった。ミライもひねくれた感想は言わず、素直に味をほめてくれた。彼から率直な感動を引き出すことは至難の業なのだ。

 ワインも程よく回り、気分よく料理も平らげてしまった。やはり赤は肉とよく合う。そろそろケーキを出すころだが、その前に。

「じゃーん、プレゼント。ツルギで買ったんだ。店長さんもおめでとうって言ってたよ。」店長の名前を出すことによる、高度な照れ隠しだ。「開けていいよ。」

 いつもラッピングの類はびりびりに破り捨ててしまうミライも、この時ばかりは丁寧だった。そうっとテープをはがそうとしているが、アルコールのせいか指が震えている。つついてやりたくなってくるが、我慢して見守る。

「おお、こいつは風流だねえ」

 私が彼に選んだのは、煙管キセルだった。それも、一般的な石州ではなく、延べ煙管という全体が金属でできているものである。名前は残武者といい、その名の通り抜き身の刀のように鋭い光を発している。

「早速吸ってみなよ。」

 刻み煙草をミライに渡し、ケーキにさす前に蝋燭に火を着ける。ミライも察したようで、それを火種に着火する。雁首の部分から少し離した遠火で着けるのがコツだそうな。

 火皿が赤く灯り、香ばしい煙が広がっていく。やはり火は、炎はいい。熱の至る極致、何かが酸化され侵されていく。寒々しいはずの喪失が、暖かさによってごまかされていく。

 ミライは優しく吸い込み、煙を吐き出す。巻き煙草のように一息に吸引せず、控えめに楽しむのがおいしいらしい。私は彼の煙を肺に取り込む。私自身は喫煙しないが、彼の副流煙は大好物なのだ。体の中から、彼を味わい感じることができる。私は今彼の中にいるし、彼は今私の中にいる。幸せとは、こういうことをいうのかもしれない。

 灰を火皿を叩いて灰皿に落とそうとするミライを、私は優しく止める。煙管が傷つくから、実はそのやり方は間違ってるんだって。高い一品なんだから、大事に使ってよね。

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