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場所を会社の屋上にしたのは、気まぐれな嫌がらせからだった。鳥でもない僕がここから飛び立ち三十年の生に幕を下ろしたら、同僚も上司も後輩も驚くに違いない。そうでもしないと、僕は誰かの心には残れないのだ。
死ぬ意味なんてのは、生きる意味がないからで十分なのだ。生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬ。僕には前者のべくがなかった。ただそれだけだ。
僕は煙草の箱を振った。ちょうど最後、一本しか残っていないようだ。取り出し火を付けくゆらせる。最後の晩餐といったところだろうか。これであとくされなく逝けそうだ。
ぽうっと口から煙を吐き出す。空に昇っていくそれは、火葬場を連想させた。行く先は天国だろうか。そんなことを夢想しながら、煙の行く先をぼんやりと眺めていると、本来空にあるべきではない物体が、雲の切れ間に見えた。見えてしまった。
初めは、鳥か飛行機かと思った。しかしだんだんと大きくなるそれに羽はなく、両足と両腕、そして頭があった。人、人だ。人が落ちてくる。女が落ちてくる。それも、天国から。
女は狙ったように、僕のいる屋上に落下してきた。はて、空で飛行機が空中分解でもしたのだろうか。まさか飛び降り自殺をしようというときに、さらに上から人が落ちてくるとは。いったい何が起こっているのかは毛ほどもわからないが、これも何かの縁だ。彼女の下敷きになって死ねたら、より皆の記憶に残るに違いない。空から降ってきた女に潰されて死ぬなんて、新聞に載ってもおかしくない珍事件だ。もしかしたら、僕をクッションにして彼女は助かるかもしれない。いいことずくめだ。僕は逃げずにその場にとどまった。
しかしそんな僕の目論見は、残念ながら叶わなかった。重力加速度9.8に反するように、彼女は地面に近づけば近づくほどに減速し、僕の上に来た時には、鴻毛が舞うような速度になっていた。拍子抜けした僕は、ひらひらと落ちる彼女を両手に抱えた。
絹のように美しい女性だった。栗色の長い髪に、つんと際立つまつげ。華奢な体は、ほんの少し力を入れたら折れてしまいそうだ。身にまとっているのは、みすぼらしい皮の布だけで、とてもじゃないがこのままにはしておけない。
やれやれ、僕にも後者のべくができてしまったか。警察に事情を説明するのも面倒なので、僕は彼女を家へと連れて帰った。途中で煙草の箱を捨てようとしたところ、あと一本残っていた。まだ最後ではなかったらしい。
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