第2話 誰が為に廻る理由




そこは都の中に在る、泉を囲う森の中。

地の底から蠢く存在が、今目の前で生まれようとしている。

暗闇の中で、頭上の月だけを光源に、『彼ら』はそれを見守っていた。


「魔物が形成される瞬間ってのは、あんま気持ちいいもんじゃねぇな」

「何を今更。都市主達をおびき出すには邪なる意思を持つ魔物が必要不可欠なのよ。忘れたワケではないでしょうに」


呆れたように女は眉を変形させるが、男はそれに対して特に文句を言うでもなかった。

目の前で創られていく形に不満を抱くように、ただそれらを見守り続けている。


「昔っからイワクの語り継がれる場所だけに、魔物が騒動を起こしてもおかしくはない。・・そう判断されれば、私達の存在も気付かれる事はない筈だわ」


胸を強調するようにしなやかに体が揺れ、その瞳が大きな泉へと向かう。

泉の外周には公園やマラソンコースなどもあり、一年中賑やかではないが泉には白鳥や生息している。貸し出しボートもあるのだが、あまり儲かってはいないだろう事は見ただけで分かる。

それでも静かに散歩を楽しむ老夫婦や、ピクニック気分で楽しむ家族連れには好評だ。



「この宝ヶ池が、次の対戦場所か。・・・楽しませてくれよな、都市主さんよ――――」



不気味な期待と妖しい嘲笑。

男は、遊戯を愉しむかのように笑っていた。













――――生徒会長は走っていた。

ただひたすらに、校内を走り回っていた。

その顔には酷い汗と恐怖から逃れる為の気迫が集っている。



「はぁっ、はぁっ・・・!」



足は痙攣を起こしてもおかしくはないのだが、それでも彼はただその足を全速力で活発に活動させていた。

―――6月25日。土曜日。

時刻は昼を少し過ぎた12時12分。

土曜日は半ドンという事もあってか生徒達の姿も疎(まば)らだったが、クラブ活動に精を出している者達にとっては昼食タイムである。

だが、あの凛々しく格好いいと評判の生徒会長のこんな姿を目撃するのはそう珍しい事でもなかったのである。それを知る生徒達にとっては





―――あぁ、またいつもの鬼ごっこだ

―――神門様も大変ねぇ





と、微笑ましい感想のお釣付きである。

本人にとっては全く以って有難くないのだが。

――――そう、生徒会長、つまりは夜近がここまで走るのには理由があった。彼は『追う者』ではなく、『追われる者』だったからだ。



「夜近様~~っ、お待ちくださいまし~~~っ!!」



いわずと知れた、彼の婚約者。月詠である。

その腰にはいつものように愛用の二刀真剣が携えられているというのに、彼の足についていける彼女の体力そのものを疑いたい。

一昔前の漫画じゃあるまいし―――夜近は脳裏でそんな一人ツッコミを入れてさえいた。


「月詠っ、いい加減にしろ・・っ!」

「ワタクシはただ、夜近様と二人きりになりたいと申しただけではありませんか~~っ」

「その後が問題だっ!!」


当然、追いかけっこをしながらの状態で会話している二人だ。

夜近は後ろを振り向く体力すら無駄な労力とでも考えているのか、ただひたすらに知り尽くした校舎を迷路のような道順でその体を舞わせている。そして一方月詠は、誰よりも小柄な体格を利用して狭い通路も人の群れもお手の物だ。その気になれば、高く飛び上がって身軽な技すらも披露できる。


「何か問題がございました~~?」

「体育館倉庫の鍵をどう使うつもりだ、お前はっ!!」

「ですから~~、密閉された空間に夜近様と二人きり~~~」


乙女に夢馳せて甘く唱えられた声も、夜近にとっては恐ろしいだけである。

彼女の目的を知っているからこそ、その体は自然と拒絶反応に襲われているようだ。

「婚約者なのですから~~、何も不自然な事ではありませんわ~~」

「思いっきり不自然極まりない事に気づけっ!!」


まず第一に、未成年者。

第二に、健全な高校生。

第三に、不純異性交遊を管轄する生徒会長という立場。

そして何よりも重要なのが、『体育館倉庫の鍵』―――だろう。



「勘弁してくれ・・っ!」



―――いつもの日常であった。

ただ違ったのは、そのリアルな展開を望む月詠がとうとう実力行使に出てきた事だろう。

いつもならば、媚薬入りおにぎりだとかいう軽症――と、世間では呼ばないとは思うが――で済んでいたはずだ。

注がれたお茶の中に痺れ薬を盛られた事もある。その後、『今日こそは既成事実奇襲作戦成功ですわ!』と、嬉しそうに麗しい笑みで微笑んでいたのは言う間でもない。それを受ける夜近にとっては恐怖以上の閻魔大王を相手にしている心境だったが。


そんな頃には彼の足は校舎の4Fを駆けており、マイペースな時間を過ごしている女生徒達が各教室にパラパラと見受けられた。

当然この夜近の事である、黄色い歓声が聞こえてくるのにそう時間はかからない。


「きゃーーっ、生徒会長様っ!」

「夜近様だわっ!!」


いつもはウザイとしか思わなかったこの群れも、今の夜近にとっては有難い材料でもあった。

そう、この走り抜ける短時間の間にも関わらず、月詠の習性を逆に利用する方法を思いついたのだ。



「用がないなら早く帰宅する事だ」



走り様にそんな微笑を浮かべ、女生徒の肩に ポン と手を乗せる。無論、たったの一瞬の出来事ではあるのだが、背後の効果は絶大だという予想は当然的中した。


「・・この、女狐・・・っ!夜近様を名前で呼ぶ事は愚か、夜近様に色目を使いましたわね・・っ!!たかが同じ在校生でしかない分際で触れて頂けるなどっ、許されるとでもお思いですのっ!?」


遠くなっていく背後では、いくつかの断末魔と―――月詠の駿河奥義が炸裂した轟音が響き渡っている。



(・・安らかに逝ってくれ)



我が身可愛さに、罪もない女生徒を犠牲にする夜近であった。

その辺りに罪悪感は感じていないらしく、その足はこの隙とばかりに庭が広がる裏校舎へと駆けていた。








※ ※ ※








「ちょっと、風。いつまでも嬉しそうな顔してるんじゃなくてよ」

「だって、メシア様のライブチケットがようやく手に入ったんだもん!これで喜ばずして何を語れって言うの!?」

「・・・知らないわよ」


風曰く、入手困難な限定ライブのチケットらしいのだが―――

涼は共に喜ぶなどと同情じみた真似も一向に見せず、ただ呆れているだけだった。いや、朝からこんな調子が続けば疲れてきたというのが本音だろう。

大学部内・大学院に通う二人は、結構自由に毎日を過ごしている。高等部までは出席日数で影響が出てくるのだが、大学にもなると講義講習の単位だけ収めておけばどうとでもなる。

特に二人の専攻している分野はそんなに厳しい規則もなく、教授の講義すらも適当に聞いてるだけだ。一応テストなるものが決まった時期にやってはくるものの、たまに取っているノートだけで充分事足りるのだ。

最も、二人とも最初からそれなりに頭の出来がいいのだろう。あの猪突猛進型の弟とは正反対である。


「涼、お昼どうする?食堂でも行く?」

「この時間では一杯でしょう」

「じゃぁ購買部で何か買う?」

「そうね、じゃぁアタシが何か買ってくるわ」


二人はサークルなどといったものには入会していないので、昼からの予定も特にない。だが、御飯は手軽に気楽に済ませたいという性格は二人とも同じようで、その調達を涼が自ら志願していた。

風はまだメシア様とやらのライブチケットを大事そうに見つめては眺め、時には頬ずりをしたりしており、この様子なら多少遅くなっても問題はないだろう。

そう、何も特別な思いがあったワケではないのだが。

―――高等部校舎に寄ってみようと思ったのだ。









「・・・気持ちのいい陽射しね」


上空を見上げれば、穏やかな日光を独り占めしている気さえした。そんな暖かい陽射しに喜びを歌う小鳥の声も、周囲の木々からは聞こえてくる。緩やかな風は赤い髪を舞わせ、それを掻き上げればその美貌は確かなものだった。

これで特定の恋人がいないなど、第三者的には俄かには信じられはしない。無論、彼女に言い寄ってくる男は腐るほどいるのだが、涼は話を聞くより先にフるのだった。

誰かが『好きな男でもいるのか?』と聞けば、


「誰もアタシの中に住まう事なんてできなくてよ」


と、嫌味と皮肉のこもった言葉で一刀両断である。

後味の残らないフり方としては一級品だが、だからこそ余計に誰もが彼女を落としたい、と願っていく。

涼本人にしてみれば迷惑以外の何物でもないのだが、とりあえず差し出される高価なプレゼントだけはちゃっかり着服しているようだ。


「ふ~ん、庭もちゃんと手入れされてるのね」


大学部校舎から高等部敷地内へと抜けるには、一応二つの敷地を区切る境のように大きな門がある。西門から抜ければ、そこは高等部裏庭に出ていた。

裏庭といっても質素なものでなく、まるでカフェのようにインテリアに凝ったテーブルセットが幾つか並んでいたり、ちょっとした噴水まである。無論、そんな優雅な景色もほんの一部分なのだが、更に足を進ませれば表校舎へと続く道が待っている。



(歌麿の様子でも見に行きましょう)



今のこの時間は道場の裏で食事でも摂っている頃だろう、少しぐらいは話もできるかもしれない。顔を見た瞬間にウザがられる表情をされるのだろうが、それでもいいと彼女は思う。



(楽しく過ごしているかしら?)



思わず鼻歌を歌ってしまう程、彼女の心は満たされていた。









※ ※ ※









――― 一方、高等部正門付近。

10代の若い青春を送る敷地内には似つかわしくない風貌が、その道を歩いていた。

藍染の呉服、腰には愛用の長剣。

髪は黒く長く、中途半端に肩に乗せて雅な雰囲気が彼にはある。独特の雰囲気がそう思わせるか、その長身ながらに歩くだけで誰もの視線を受ける。

しかし、そんな彼が手に持っていたのは―――いや、その腕に抱えていたのは、異様なものでもあった。

風呂敷に包まれた縦に長い物体。随分と重いような印象を受けるが、それを抱える彼は全然苦でもないような面持ちで軽々と歩いている。


「朝一生懸命作っていたというのに、まさか忘れて行くとはな。しかし、ここでわざわざ持って行ってやれば、月詠の高感度もUPするはず・・!そう、大好きですわと、叫んでくれるに違いない・・!」


―――相変わらず馬鹿な兄である。

感謝はするだろうが、そこまで飛躍した考えにいきつくのは最早病んでる証拠だろうか。

しかし、彼にしてみても綾小路学園内を歩くのは懐かしくもあり、また新鮮でもあった。暫しはそんな風景を眺めながら道程を楽しんでいたのだが、ふいに視線の片隅に愛しの妹を見つけた。

「ふ、やはり俺と月詠は結ばれているようだ。こうも簡単に見つかるとは」

妖しい笑みを浮かべながら、彼女の後を追っていく。

どうにも随分と走っているようで、何か急ぎの用でもあるのだろうかと思うも、それは決して『夜近を追い掛け回しているから』などといった考えにまでは当然達しない。

校舎と校舎と脇道を続き、裏塀に沿うようにして続く道を渡り、またいくつかの角を曲がって―――ようやく妹の背中を見つけた。

このあたりは裏庭だろうか、季節独特の花や緑生い茂った空間である。


「月詠―――」


喜びを隠しながら背中に声をかけるも、彼女の体から発せられているオーラに違和感を感じた。

荒い息を整える呼吸はこの距離でも聞こえてくるが、それ以上にその両腕が無気力に放り投げられている。


「月よ―――」


何かが彼女の視界に映っているのだろうか、彼もその状況を確認しようと、その先にある風景を覗き込んだ。



「―――っ!」






そこには。


涼を押し倒している夜近の姿があったのである。
















高等部は部活の成績も大変優秀で、学校側も名誉な事であるからと設備には金をかけている。

体育館やグラウンドは元より、剣道場や柔道場、弓道場なんていうのも各個別に設備が整っている。

昼食時間も終わりに差し掛かった頃だろうか、彼女はまだ誰も練習の始めていない弓道場内で一人弓を引いていた。

軋む床は広く、正面遠くには並ぶ的。その上空は吹きさらしで、穏やかな空が眺められる。弓を構える位置から的までは何メートルだろうか、公式飛距離を考えれば10メートルはあるのだろう。

弓道と云えば、元は『弓術』から来ている。

その名の通り、弓で矢を射る術だ。

古代より射芸として行われ、中世には逸見流・小笠原流・日置(へき)流・吉田流などの流派が出現した事で知られているだろう。近世には通し矢が人気を集め、明治以降は武道の一つとして『弓道』の名で普及したのが始まりだ。



「・・・―――」



獲物を狩るかのように厳しい眼光で弓を引けば、射は放たれる。

一直線に駆けるそれは、まるで空間を裂くかのような旋律で的の中心部に重い音で刺さった。

何かに安心したのか一つ溜息をこぼせば、張り詰めていた気迫も一緒に解き放っていく。

弓道着姿のそんな彼女がゆっくりとその弓を下ろせば、緊張感のない声が背後からかけられていた。


「さっすが密羽♪まるで戦士の時みたく百発百中だね」

「・・・呉羽?帰ったんじゃなかったの」

「アイドルの僕が帰ったら、皆悲しむじゃん」

「喜ぶ奴もいないと思うけどね」






弓道場の正面入り口から入ってきたのだろう、密羽とそっくりの風貌をした少年は、悪気もない口調で肩を竦めてみせたりしている。

彼の扱いには密羽も慣れているのだろう、適当な返事だけで済ましているようだ。

「アタシに何か用?」

「僕の片割れに会いに行くのに、理由がいるの?」

呉羽と呼ばれた少年は、密羽が次の射の準備をしない事からか彼女に近寄っていく。

葛葉呉羽―――密羽の双子の弟である。

勿論、葛葉家の血を継いでいるので彼も『都の戦士』の一人である。だが、二人の家柄は隠密系統を継いでおり、彼はもっぱら密偵専門だ。前線で活躍している密羽は、都市主にその戦闘能力を高く評価されて今の位置にいるらしい。

「次の射の邪魔だから、少し下がって」

「了~解」

ぶっきら棒に邪険を示してみせるものの、呉羽はマイペースな態度を崩さない。

密羽の近くにある柱を背もたれに、後頭部で腕を組んではそんな姉の姿を見守っている。

彼女が弓矢を構えた頃だろうか、彼は何気ない会話のつもりで切り出していた。

「そうそう、密羽。さっき面白いもの見たよ」

「集中力が乱れるから話しかけないで」

隣の少年を鬱陶しそうに、彼女の眉が変形する。それでも弓矢は徐々に引かれていき、射は放たれる瞬間を待ち望んでいた。

左手で弓を定め、右手で弦と矢を合わせる。

そして静寂が訪れれば、集中力を高めてその瞬間に射を放つ。



「今さっきさ、誰もいない裏庭で夜近が涼を押し倒してたよ」



放たれた矢は彼の言葉に軌道を歪め、的にすら当たってはくれなかった。



放たれた筈の矢は、的近くの土の中に半身を埋めていた。

誰に拾われることもなく、そんな姿を見せつけてくれた。


「・・夜近が、涼・・を?―――笑えない冗談だね」


なんとか振り絞って出した声も、何かを信じたくない気持ちの方が強かった。

否定してみせる事で自信を保ってみせるも、まだ彼女の内部は酷く揺れていた。

―――この都を背負って立つ都市主は、すでに月詠と云う最上級の大和撫子を婚約者に選んで12年が経っている。

最も、妾制度などはこの時代完全に削除されているのだ、そんな真似もしまい。

それと同時に、浮気相手が涼とも考えにくかった。

しかし、葛葉が誇る隠密の呉羽の事、そんな大層な嘘などもつくとも思えない。そんな嘘をついた所で、彼にとってのメリットなど何もないからだ。

「密羽ぁ、何動揺してんのさ?」

くすくすと小悪魔的な笑みで彼女の心中に入り込む仕草を見せれば、密羽はまだ継続していたその細く厳しい瞳で弟を睨む。

「不思議な話でもないと思うんだけどねぇ。だって涼って、最強の花嫁候補にまで選ばれてたじゃん?都市主様にしてみれば―――」

「だから何だっていうのさ!」

見透かしているような、自分の片割れの言動が神経を逆撫でしてくれる。

裏を返せば―――自分は決して、彼に選ばれる事がないという事実。

選ばれたのは親友の月詠であって、自分ではない。

いつも遠くから二人を見つめ見守り、時にはからかい、そしていつの頃からか淡い感情が芽生えてもおかしな話ではないだろう。それが思春期ともなれば、酷く当たり前の話とも言えるはずだ。



「アタシは、夜近と約束したんだ。夜近が必要である限り、アタシはこの力をあいつに貸すって」



―――遥か遠くに感じられる過去。

戦う事も返り血を浴びる事にも何の抵抗もなかった、小さな体と存在しなかった心。ただ戦闘兵器として扱われていた日々に、彼はその救いの手を差し出してくれた。

その時から密羽は、誓ったのだ。

自分は夜近の盾になると。

都市主としての夜近ではなく、一個人の彼を『必要』としたいと、彼の存在である限りはどんな言葉にも従おうと。

だから、隠密一族でありながらも前線に配置された彼女には最高の環境でもあった。

戦闘時には戦闘兵器として過ごした幼少時の名残が未だに残っているものの、彼はそれを一切否定したりはしない。

直せとも、改心しろとも、決して言ってはこないから彼にとってはそれが『必要』なのだろう。



「あいつが願うなら、アタシは何だってするさ」



月詠が都市主である夜近に命も体も捧げる花嫁であると同時に、密羽もその全てを彼に捧げる生き方を選んでいる。

それは、恩義故の誓いと―――彼女の中に眠る淡い恋心でもあった。









※ ※ ※






「白昼堂々、婚約者の目の前で見せ付ける真似がお前の遣り方か?」



数歩だけ前で佇むだけの妹が何も言えない様子を察し、彼が代わりに口を開けていた。

整備された芝生の上に、男と女。

下の彼女は赤い髪を地面の上に踊らせ、そのしなやかな肢体を妖艶に見せていた。

それに覆いかぶさる男は、どこか驚愕したような面持ちで乱入者の兄妹に目を奪われている。

「見たまま解釈してよくてよ」

「ち、違うんだ、これは―――っ」

「情けない男ですこと。押し倒しておいてキスの一つもできないだなんて」

「涼、これ以上誤解を招くような発言は慎めっ」

「・・・どういう、事・・・ですの・・・?」

低く木霊すような月詠の声は、酷く曇ってはいたが―――いつもの迫り来るかのような恐怖は感じなかった。逆に、男としては焦る要因を多大に含んだ色と云える。

この目の前の状況で日光が怒りを覚える必要はないのだろうが、彼もまた心中に怒りを溜めていた。

そんな日光を察したのか、立ち上がった夜近に涼が更に至近距離で迫る。


「よく見るといい男よねぇ」


その綺麗な指先で夜近の顎をなぞり、唇の距離も測るほど残ってはいない。背筋が粟立つ感覚とはこの事を云うのだろう、夜近は何も言えずにされるがままになっていく。

繊細に美しい瞳の中にはたじろぐ夜近の姿が映っているが、彼としては打開策を絞り込んでいる最中だろう。都市主とは違う、夜近個人の顔と云っていい。


「一回ぐらいなら、ヤらせてあげてもよくってよ?」

「な、何を、言ってるんだ・・っ」

「都市主様の命令は絶対ですもの。逆らう事など、できはしなくてよ。尤も、経験のない男を調教するのは嫌いではないの」


妖艶に演じる女王様は、その唇を魅力的に映した事だろう。

夜近の唇の形を人差し指でなぞり、欲求を示す。

本気か冗談か、それすらも判断できはしない。

そんな頃だろうか、外野の彼が徐に言葉を放っていた。



「いつの間にそういう関係になったのかは知らんが。お前らはTPOというものを少しは理解しろ」



未だ言葉の放てない月詠の後ろから、日光の影。

酷く冷めた表情が印象的で、いつの間にか手に抱えていた重い持ち物も地面に下ろしている。

どうやら月詠が作った重箱弁当らしいが―――この様子では持ってくるだけ無駄だったかもしれない。

「・・涼、ちゃん・・・本気で、仰ってますの・・・?」

「―――どうかしらね?女に生まれたからには、女の武器は最大限に発揮すべきとは思うわね」

ようやく声を出し始めた月詠だが、その表情に後ろ髪引かれる思いで涼は僅かにその視線を逸らした。純情ゆえに拍車のかかる無垢な少女を前に、彼女自身が自身を酷く汚れて見えてしまったからだ。

「最も、アタシは体の安売りはしない主義なの。この男に抱かれるなら、アタシの価値も高くなるのではなくて?」

「健全青少年の目の前で、何さらっと爆弾発言かましてるんだ・・・」

どうにも逃げ場がないと判断したらしい夜近は、少しずつ距離を作ってはいるものの完全に頭痛を感じている。

「つ、月詠、これはだな―――」

話のタイミングを見定めるのがこんなにも苦労する事だと感じた事はないだろう。様子を見ながらではあるが、その名前を口にするも―――彼女はただ悲しみと驚愕に襲われたような表情でただ婚約者の彼を見つめているだけだった。


「・・夜近様が、誰を求めようと・・・決して拒んだりしてはならぬ―――・・花嫁に在るべき姿として教わった言葉ですわ・・」

「・・・っ」

「拒んだ瞬間、ワタクシは花嫁の資格を剥奪されますの・・―――」


だからこそ、彼女は必死だったのだろう。

何気ない会話でも行動でも、夜近に少しでも振り向いてもらおうと並ならぬ努力を重ねている。

それでも決して叶ってはくれない願いが、日々の日常を築いていた。



「ワタクシは、夜近様のお側にいられるだけで充分ですわ・・・。何も、望みませんから・・だから、どうか、そんな姿をお見せにならないでくださいまし・・っ」



若干5歳で勝手な将来を定められ、家柄の為にと選ばされた道。

最初はただの義務だと思っていた。

この人に嫁ぐ事が、自分であるが故の理由なのだと。

これは体(てい)のいい犠牲者なのだと被害的な思想にまで発展はしなかったものの、月詠は幼いながらに都市としての務めを自分が担っているのだと、その小さな背中には酷く重すぎる責任を負わされていることを知っていた。

自分と同い年の彼にこの身に在る全てを捧げる事が、駿河をも守る事に繋がる。そうやってこの都市は遥か過去より紡がれ、年齢同等の夢見る幸せなどは捨てるべきなのだとも考えていた。

だが、花嫁としての自覚を積み重ねていく内に、それは大きな間違いだったと気づく。

そう、自分は本心でこの方を受け入れたいと願っているのだ、と。

その事実が、自覚と確信によって理解したのはいつの事だっただろうか。

そう大して時間もかからなかったと思う。

花嫁に選ばれてからというもの毎日を常に共に過ごしてきたのだ、子供だった故に心の領域にその存在が侵入してもおかしな話ではない。

そして互いに成長を繰り返していく度に、彼女の心は不安で押し潰されそうにもなっていた。

彼は、年齢同等に相応しくその容姿も成長していくのに、何故自分は未だにこんな体なのだろう、と。幼児体型と呼ぶのが相応しいこの小さすぎる体。

彼との身長差は年々ひらいていくばかりで、今年にはその差は22センチにまで達してしまっている。

これでは、年齢相応の関係になど決して見えはしないだろう。


―――そう、悔しかったのだ。

夜近が自分以外の女性を押し倒している事もショックと言えばショックなのだが、それ以上に。

夜近と涼が、お似合いのカップルという風貌に見えてしまったのだ。

互いに容姿端麗を極めている二人だ、並んでいるだけでも手の届かない存在にも思えた。




「す、涼っ、あとは頼んだ・・っ」



月詠のその手が真剣の柄に触れた途端、夜近は青ざめる表情に一変しては前方向かって駆け出していた。月詠はただ、真剣を挿し直しただけなのだが―――

しかし、背中を見せていく夜近を追う事もせずにその場で見送っているだけだった。


「・・月詠、追わんのか?」

「―――追った所で、何ができましょう?・・・夜近様が涼ちゃんを想うのは、至極当然ですもの」

「月詠ちゃん・・」


ここまでくれば、涼もギブアップ宣言を出すしかなかったのだろう。

涼にとって月詠は妹みたいな存在だ、そんな可愛がっている彼女の悲しい顔など、自分が作り出したくはない。

女王様に似つかわしくない溜息で赤い髪を一度掻き上げれば、その整った風貌は少しだけ反省していた。


「そこの角でぶつかっただけよ。慌てて走ってたみたいで、互いにバランス崩してああなってて。で、間の悪い事に月詠ちゃんが来ちゃった、ってだけよ。何も勘ぐるような事ではないわ」


―――要は。

月詠との鬼ごっこに必死に逃げていた夜近は、まさか角から人が出てくるとは思ってもいなかったのだろう。涼にしても考え事をしながら歩いており、互いに前方不注意の不始末だ。

しかしその途端、夜近の足は突然支柱をなくし―――あれだけ走ったのだ、足の神経も限界だったのだろう―――結局、ああいう格好でそれをたまたま月詠に目撃され、更に目撃者が一人増えてしまったのだ。

この時間にそれ以外の目撃者がいなかった事が唯一の幸いだろう。

無論、隠密家業の呉羽にも目撃されてはいるのだが―――

「ごめんね、月詠ちゃん。そこの馬鹿がいなければ、こんな展開にはしなかったのだけれど」

近寄っては月詠の髪を撫で、珍しく優しい笑みを投げかける。心底悪かったと思っているのだろう、涼は口調までもが優しく変化していた。

「でもね、月詠ちゃん。体育館倉庫はやめておいた方がよくてよ?あそこは埃だらけで黴(かび)臭いし、体も汚れるから。あぁ、拭くものもないし?」

何が―――とは聞くだけ無駄だろう。彼女にそういう経験があるのかはともかくとして、後ろに控えている日光がわざとらしく咳払いを放っている。

「兄様、風邪ですの?」

「い、いや・・。そ、それより、忘れ物を届けにきたのだよ」

地面に置いたまま放置していた物体――風呂敷に包まれた重箱だ――を再度抱えると、それを妹に渡す。


「これで、追えるか?」

「・・・っ、兄様―――」


日光にとって、先程の夜近の体たらくぶりに怒りは然程覚えなかった。

妹を悲しませたのは結局の所、涼の意地の悪い悪戯なのだし、逃げた彼を放っておいてもいいのだがそれでは月詠の嘆く表情を拝む羽目になる。

だからこそ、成り行きとはいえその理由を作ってやっていた。

いや、本心ではあのような男を追わせる義理などないとは思っているのだが―――彼にしてみれば、別の理由がある。


「あの、涼ちゃん。お弁当、一緒に食べません?間違えていつもの量で作ってしまいましたの。夜近様を呼んできますから、風ちゃんも御一緒に」

「あら、嬉しい。じゃぁお言葉に甘えようかしら。ここで待っていればいいかしらね?」


いつもの量とは、密羽と歌麿とを合わせた4人分、という意味だ。勿論、彼らは部活動の方に行っているので合流の約束はしていない。

ただでさえ小食派の夜近だ、この重箱を二人だけでは間食できはしないだろう。

涼のその返事に気を良くしたのか、月詠はまだ若干ながらも思い詰めた瞳を残しながら、去っていった婚約者を探しに駆けていくのだった。


「・・・さて涼。少しばかり話があるのだがね」

「爺臭い説教なら御免よ」

「待つ間の時間潰しとでも思ってくれればいいさ」


―――それが、日光にとって月詠を行かせた理由だった。

二人にならなければできない話なのだろう。





「体育館倉庫の情報を与えるとは思ってもいなかったな」

「名前を出さなかっただけ有難いと思いなさい」

壁を背もたれに苦笑を起こし、煙草を取り出しては呉服の袖口からジッポが取り出された。余程使い込んでいるのか、随分と傷が目立っている。

「学園敷地内で喫煙は遠慮しなさい」

口に咥えられた煙草を指先だけで奪ってみせるが、日光は相変わらず笑みを残したままだった。

「体は汚れたが、ムードは充分あったはずだがね」

「冗談。男の情事要望に付き合ってやっただけよ」

「スリルがあっただろう?」

「警備員に鍵かけられて、朝まで出られなくなったのは確かにスリルがあったわ」

「その時は真剣を持ち歩いていなかったものでね、内側から壊す事もできなかったねぇ」

日光の唱える『スリル』の意味が違うが、それでもその会話を楽しそうに過ごすのは彼だけだ。

「あれは丁度冬だったか、寒くて抱き合って寝ただろう?」

「人間の体温は毛布よりも暖かいからよ。凍死なんて御免だっただけ」

月詠が去ってから、途端に女王様態度が復活している。

睨むような眼光、それでも会話に参加する辺りは嫌というワケではないらしい。

そんな涼の様子を見つめながら、日光はまだ手の中に収めているジッポを開けたり閉めたりと、歪な金属音だけを鳴らしていた。

「そのジッポ、いい加減捨てたらどう?」

「大切な思い出なんでね。俺が20歳の誕生日に、君がくれたプレゼントだ」

「――覚えてなくてよ」

「それは残念だ」

皮肉めいた返答を受けるも、日光は至ってマイペースな態度を崩さない。この辺りは年齢が見せる余裕かもしれなかった。


「・・で?話って何よ?」

「さっきのアレは―― 一体何の真似だね?」


まったりした笑みとは打って変わり、途端に厳しい表情に変わっていた。


「見たまま、聞いたままで解釈してよくてよ」

「ほう?あいつに語った言葉は全て本心だと思っていいと?」

「嘘は嫌いなの。都市主が抱かせろと命令すれば、素直にくれてやるでしょうよ」

「そんなに安い女だとは知らなかったな」


鈍い音でジッポからは淡い炎が灯される。

ジジ と、奥の方からは小さい音が聞こえてき、その炎越しに涼を見やった。


「そんな程度の低い女なら、俺は愛さなかったよ」

「お生憎様。終わった事だわ」


か細く薄い瞳に、炎が映りこむ。彼女の赤い髪が綺麗に反映して、そこだけが異空間にすら見えた。

終わったのだと簡単に語る彼女から見て、彼はどう映っているのだろう。

「自身の価値の為に男を選ぶというのならば、俺もその程度の駒だったという訳かね?」

「・・何、怒ってるの?珍しい事もあるものだわ」

「まさか君が、今更俺を嫉妬させようなどという子供染みた真似もしまい、理由ぐらいは述べたまえ」

日光曰く、思い出の一品を掌の中に収めたまま見つめている。


「アンタはアタシを追ってくれなかったじゃない。・・だから、終わった。それだけだわ」


過去の追憶に耽るなど御免だとばかりに、涼は風に浚われるその髪を掻き上げては正面の彼を視界に納め続けていく。

いつかは恋人だった男。

いつかは幸せを共有していた男。

だがそれらの全ては、5年前のあの日に終わっている事実。



「追わせてくれなかったのは君の方だ。一方的にフッて終わりを告げて勝手に去って、選択肢すらもくれなかった」






※ ※ ※






「――女の敵」



上から降ってくるのは、聞きなれた密羽の声だった。

どうやら弓道場裏口まで辿り着いてしまったらしく、弓道着姿で地面よりも数段高い手すりに身を委ねて睨まれている。

いや、睨むというよりかは呆れている表情に近いだろう。

「呉羽から聞いたよ。涼を押し倒したんだってね?」

「誤解だ」

「知ってるさ。アンタにそんな器用な事できてたまるか」

誤解が解けているように思えて、意外にもけなされている。

どっちに転んでも今日は厄日らしい。

やれやれ、とばかりに密羽を支える手すり付近の壁に凭れれば、互いに表情を拝めない角度に立つ。声だけが交差する空間だろうか、傍から見れば会話している雰囲気には見えない。

「何だと言うんだ、今日は」

「月詠との鬼ごっこはいつもの事じゃないか」

「この学園内を全速力で走り回るのが鬼ごっこか?だとしたら、子供の遊ぶ鬼ごっこは平和すぎるな」

ついでに言うと、今回は一般女生徒の犠牲まで出しているのだが。

無論、夜近はそんな事を覚えていない。

「一度ぐらいは捕まってやったらどうなのさ?そしたら月詠も納得するんじゃないの?」

「加速が増すだけだ」


恐らくはもう鬼ごっこもなくなるのだろうが――先程の月詠の言葉が、未だに心の中で彷徨っている。

都市主と、最強の花嫁。

その重い肩書きを背負うならば、当然それなりの掟や規則があるのも当たり前の話だ。

それでも幸いしているのは、普通の学校生活を過ごせているぐらいだろうか。一市民でしかない身分の者達が集う、学園。

夜近と月詠の立場を思えば、そんな場所に通えるだけでも珍しいと云えなくはないのだ。

用があれば購買部にも行くし、同年齢の同性や異性と他愛ない話だってする。体育の時間にタイムを競争したり誰が勝つかを賭けたり、年齢相応の青春だろう。


「悪くはない、んだがな」

「満たされてんならいいんじゃないの?」

「月詠はそうではないんだろうさ」


果たして彼女は、この時間を楽しんでいるのだろうか。

いや、きっと違うだろう。

彼女は『花嫁』として育てられているからこそ、自分の事はいつだって後回しで夜近の事だけしか頭にない。

大概の男なら嬉しいと喜ぶのかもしれないが、この二人の場合は特殊なケースと云えるのだろう。

そう、月詠のあの行動からして特殊以外の何物でもないのだ。


「アンタの中にさ、月詠はどれぐらいいんのさ?」

「?」

ふいに降ってくる質問を見上げれば、密羽が相変わらず興味もなさそうな顔でそこにはいる。夜近のその表情に気づいたのか、密羽が更に促していた。

「だからさ、アンタは月詠の事好きなのかって事。都市主だとか仕事だとか、それ以外のスペースに月詠がアンタの中に住んでるのかって聞いてんの」

「考えた事もないな」

奥手以上に恐ろしい鈍感だ。

最も、恋愛毎に関しては得意ではないと自負するぐらいだ、そのあっけらかんとした即答は傍から聞けば冷酷にも思えるだろう。



「・・・やっぱアンタ、女の敵」



言葉数最小限に辛口を唱えられても、夜近にその意味は理解できたはずもない。

まぁいい意味ではないのだろう、という程度しか分かっておらず、自然と出てくる苦笑は雰囲気に合わせているだけでしかなかった。






※ ※ ※






「君の生き方を咎める権利は俺にはないよ。だがね、ああいう姿を見せて欲しくはなかったのだよ」

「未練がましい男はうざいだけだわ」

「結構」


自ずとその細い手首を掴めば、油断していたらしい涼は体勢の主導権を握られてしまう。

捕まえられた反対の手で突き返そうと試みれば、それも彼の繊細な動きでかわされ、逆に両腕そのものの自由を奪われた。

この辺りはさすが武道者、と褒めるべきだろうか。

力勝負で勝てるとは思っていないらしく、その体はいつの間にか壁に固定されていた。


「抵抗してくれると思ったが」

「無駄な事はしたくない主義なのはアンタが一番知っているのではなくて?」

「どうにも君は、矛盾しているようだ。気づいているのかわざとか、今一度聞いておきたいものだよ」


過去の関係を口では否定し、それでも追い込まれれば抵抗も見せずに視線を絡ませる。

これも演技か、それともどうでもいい産物なのか。

今の二人の関係性といえば『ただの腐れ縁』というものでしかなかったが、ただの腐れ縁ならば互いに思うこともなかったはずである。


「俺に愛された誇りは、君の中にはもうないのか?」


誰にも聞かせまいと囁くような口調で、笑みは優しく駆け引きを語る。

いや、聞きたい事など腐るほどあるのが今の彼だが、その口調は過去を巻き起こす材料にしているらしかった。

女と男の関係を過ごした数年間、何度この声を聞かせただろうか。

その度に溺れていく自分は嫌いではなかった。

いや寧ろ、溺れて溶けて彷徨い、時間という束縛すらも解放した瞬間は心地よかった。


「何度言わせる気?覚えてなくてよ」

「俺は覚えているのだよ。君の感覚もその全てを、昨日の事のように覚えている」


視線を逸らしたら負けだ――そんな意地の勝負みたいに、涼は一瞬たりとも気を抜けはしなかった。

少しでも逸らそうものなら、相手に心の隙間を与えてしまう。

眠らせたままの本心を見破られてしまう。

相手は無駄に歳食ってる分話術にも長けているのだ、自爆などという真似は御免だった。

「ヤリたいなら落としてみせてはどう?」

勝負を示す厳しい瞳と、愉快に笑う口元。

「最も、ムードが欲しいのが女としての要望だけれど」

「女の武器は最大限に発揮、か?目的は何か聞いておこう」

「目的はアンタの中にあるのではなくて?過去の女に未練タラタラ、おまけに嫉妬だなんて情けない感情に振り回されてるわ。これが駿河の当主だなんて、お笑い種にしかならなくてよ」

「ふむ、そうきたか」


壁に突きやっていたままの左腕を解放し、右腕で懐から煙草を取り出す。ついでにジッポも取り出せば目の前の女王様からは非難の声が当然上がるのだが、それすらも気にせず彼は煙草に火をつけた。

一つたっぷりと紫煙を堪能し、何かを考えてはもう一度紫煙を吸い込む。

――瞬間。



「ッッ!!」



またも油断していたのだろう。予測のつかない彼の行動に、さすがの涼も否定の色を見せた。

しかし、強引に合わせられた唇はそう簡単に離れてくれず、解放された左腕で押し返そうとしても彼の右腕が腰に回されている。


「ッッ・・!!」


もがけばもがく程、体を密着させられる。

酷く大量の煙草の紫煙が口内に入り込み、それだけで嫌悪感に満たされるというものだ。


「まだ煙草の味は嫌いのようだね」


ふいに解放されたと思えば、日光は余裕に笑みを浮かべている。

涼はといえば、咽ては咳を繰り返し、言葉もまだ紡げない。

彼女の両腕は既に解放されているが――何故かその体を両腕で抱きしめられる体勢になっている。咳き込んで体に力も入らない涼を支えているのか、それともただの自己満足かは定かではないのだが。


「これ以上俺を落胆させてくれるな。権力に成り下がって安い女になった君など、俺は愛すつもりはない」

「けほっ・・!・・っ、誰が、よ・・!」

「あぁ、すまないね。煙を少し入れすぎたようだ」

「少しは、加減しなさい・・っ・・」

「久々だったのかい?」

「――・・」


言葉に戸惑えば、それは肯定でしかなかった。

弾くようにその体を両腕で否定すれば、ようやく体は解放された。

最早、彼女には不利の状況しか残ってはいない。


「俺に勝てるとでも思ったかい?」


視線を逸らし、俯く。

口の中はまだ苦い後味が残っているものの、今更文句を言うつもりもなかった。

それを見ては日光は満足げに微笑み、先を催促する。

「・・・とことん卑怯な男ですこと」

「俺以外の男とは?」

「・・・なくてよ。アンタをフッた理由が、今のアタシよ。知っているはずでしょう?」

「そうか、久々だったのならばもう少し優しくすれば良かったな」

「キス一つで落ちる程、尻の軽い女じゃなくてよ」




過去の男は思う。

その理由がある限り、君は決して弱さに身を委ねる事はしまいと。

同時に、何かに依存する事もないのだろう、と。


過去の女は思う。

覚えてないなど、嘘なのだと。

今でも鮮明に覚えている日々の記憶は、今の自分を支えている。だが、自分の中の生き方に彼が絡み合わないと判断したからこそ、今の自分達がある。


彼は彼女のその意志を尊重しただけであって、彼に非は一つもない。




「涼、覚えておきたまえ。君がその生き方から解放された時、俺はきっと、君を手に入れようとするよ」





それまでは互いに自由の身だと。


彼は優しく笑っていた。











神門の屋敷は、その広大な敷地を塀で囲われた純正日本家屋と呼ぶが正しいだろう。

塀の一部に取り込まれている正面玄関には常時数人の兵士が立っており、それを抜ければ暫らくは長い石畳が続く。その間に周囲に広がる自然の新緑風景を眺めたりもできるのだが、それは訪問者の場合のみであろう。ここに住む者の意見としては『飽きた』との事。最も、日本の四季相応に季節ごとに景色も変わるのだが、それでも住む者と来客の者とでは意見が正反対するようだ。

そして石畳の道を歩けば一番最初に正面に見えてくるのが本殿だろうか。

その左右には西殿と東殿、その奥には寝殿も見えるし少し入り組んだ脇道を潜れば蔵や別館などにも遭遇できる。

―――ともかく、この広すぎる屋敷はさすが都の全てを担う一族だ、とい事実を証明するに充分だ。

そんな屋敷も女中や都爺、そして兵士や術師など、最低でも常時80名は常勤しているらしい。この都の中心核でもある事から、一年中警備は厳重体勢である。

―――そんな屋敷・神門に月詠はその日の夕刻頃からいたのであった。

婚約者である都市主はまだ帰宅していない所をみると一人でやって来たらしいが、学校の帰路に彼女が一人で神門にやって来るのは珍しい事でもあった。夜近が生徒会の仕事で遅くなろうとも彼女は共に帰ってくるのが普通となっていたので、それを迎えた女中達も些か驚きを覚えていた。



「少し調べ物がありますの。書籍保管庫に参っても宜しいでしょうか?」



その時、何の調べ物だと聞いていれば、その後に起こる悲劇は防げたかもしれない。

女中達を含んで仕えの者達にしてみれば、主の婚約者なのだからと警戒など全くなかったのだ。それどころか、彼女が口にする事は全て主の言葉と同語、とまでに無意識の内に解釈している。

だからこそ、簡単に書庫への道を案内してはその頑丈な鍵すらも簡単に解いていた。


「後は一人で大丈夫ですわ」


案内してくれた女中に短い言葉だけを放ち、下がらせる。

その足音も遠ざかったのを確認し、月詠は本の匂いが立ち込める室内をざっと見渡した。

―――室内の広さにしてどれくらいだろうか。

書籍保管庫といっても、ここだけではない。位置的には屋敷の北西に位置するだろう、西殿近くに建てられている蔵の一部だ。昔は武器や戦闘兵器の保管庫だったらしいが、それをさらに増築させて二階部分まで造り、大量の書簡・書籍の類を保管する場所となっている。

最も、過去の歴史を綴った重要な巻物や書簡などはもっと厳密に保管された場所にあるのだが、月詠が欲しがっているのはそこまで大層なものではない。

どちらかと云えば、夜近が趣味としている『薬草調合』の部類に入るだろう。



「どこから探したものでしょう~~?」



目的あってやってきたものの、途方に暮れるのは当然かもしれなかった。

何せ、この蔵だけでも数百単位で保管されているだろうだからだ。そんな蔵が4棟程並んでおり、それらから一つ一つ探していくのは利口ではないのだろう。

だが、初めから予想していたのだろう、月詠は気合を入れた瞳で蔵内部へと足を踏み入れていくのだった。





















夜近が屋敷に帰宅したのは18時を少し回った頃であった。

生徒会の仕事と剣道部の主将の掛け持ちである故に多忙な半日だったと疲労の溜息をつくものの、同じ剣道部に所属しているはずの月詠の姿は何故か見当たらなかった。

部員達に彼女の所在を聞けば、今日は出席せずに帰宅したとの事だった。

恐らくはあの後―――涼達との昼食後、そのまま帰ったのだろう。夜近が剣道部に顔を出したのは15時を少し回った頃からであったし、気づくには遅すぎたようだ。


「夜近と二人で帰るのも久しぶりじゃねぇ?」

「そうだな、いつもは月詠が待ってくれているから新鮮にも感じるな」

「お?どきっとした胸をぎゅっと鷲掴みってか?」

「もし本気の返答がそれなら、困るのはお前だろうが」


相変わらずの馬鹿な思考に苦笑すれば、赤髪の親友は墓穴を掘ったとばかりに眉を顰めていた。

―――そう、いつもの4人メンバーがいつもの風景ではあったが、夜近と歌麿が二人だけで帰宅の道を辿るのは珍しかったのである。

いつもの4人メンバーに欠けるとしてもそれは密羽か歌麿であって、月詠が欠ける事はまず有得なかったからだ。

いつでも夜近の後ろをついて回るように、



『女は男の3歩後ろを下がって歩け、ですわ』



と教え込まれた教訓をここぞとばかりに発揮してくるからだ。

だからこそ、夜近が学園から解放されるのがどんなに遅かろうとも、彼女は文句一つ言わずにただ一人待ち続けている。


「あいつが部活にも顔を出してないなんて珍しいな。それよりも、夜近にも何も告げずに勝手に帰ったって事の方が珍しいけどよ」

「・・ん、あぁ、そうだな」


夜近にしてみれば、思い当たる節があるだけに曖昧な返事しか返せない。

彼にしてみれば昼間のあの茶番のような展開の誤解が解けたのかすらも定かではなく、彼女の『花嫁』という自覚を知らされ、それでも弁当を誘いに来た時はいつもの彼女に戻ってもいた。

だからこそ、彼が困惑と戸惑いの心中に漂うのも無理はないだろう。

隣からは『なんだよ、歯切れが悪ぃな』・・などという声も降ってくるのだが、相変わらず親友に対しても多くを語らない夜近なのであった。


「それより、今日は泊まっていくんだろう?」

「あぁ、そうさせてくれ。久々にお前と手合わせもしてぇしな」

「そういえば久々だな。しかし歌麿、剣と槍では張り合う箇所が違うぞ」

「あの鬼姉貴達よりかは遥かにマシだ。涼姉貴は扇舞の他に鞭まで使いやがるし、風はタロットカードと双剣だ。卑怯だっつーの!2対1で、どう足掻いたって『いい勝負』にすらなんねぇよ!つーか、いぢめだろ!?」

「いぢめではなくて生甲斐なんだろう?」

「・・・・お前、時々残酷発言を自然にかましてくれるよな・・」

「ま、うちの兵士達もツワモノ揃いだからな、暇なら修行でもしていけ」

「あと、宿題見せろ」

「どうせそれが一番の目的なんだろう?」

優秀優等生の親友を持つ事の利点はこの辺りにある。

普段は頭の切れる秀才でも、これ以上はない程に馬鹿さ加減を豪快に切り裂かれても、歌麿にとって夜近が親友で良かったと実感できる一番の一時のようだ。





「都市主様、お帰りなさいませ。鳳来寺様も、いらっしゃいませ」


兵士の構える玄関を抜けて本殿に入れば、正面両脇にずらっと並ぶ女中達が一斉に頭を下げてくれる。その中の代表がその言葉を唱え、歌麿はそんな風景にどこか爽快感を覚えているようだ。都市主ともくればその待遇も違うのだろう、『完全に王様だな、こりゃ』などと呟きながら靴を脱いではその艶やかなお出迎えの通路を進んだ。

途中で数人の女中に鞄を手渡せば、それに習って歌麿も鞄と背中の武器を一緒に渡す。

「腹はまだ減ってねーしな、軽い手合わせでもしねぇか?」

「体術か、いいだろう」

そういい、夜近の足は庭に向かっていく。当然それに続く歌麿は、軽い鼻歌を織り交ぜながらその背中を追う。

だが、本殿と西殿を繋ぐ渡殿を進んでいる頃合だろうか、正面からはやってきた一人の女中が夜近の姿を確認するなり言葉をかけていた。

「あら、都市主様。おかえりなさいませ。月詠様は既にいらっしゃっておられますよ」

「・・?月詠が来ているのか?」

初めて知った情報を聞き返せば、女中も幾分か不思議そうな顔を浮かべては返す。

「はい、夕刻頃から蔵の方にこもっておられますが」

御存知ではなかったのですか?―――とでも言いたげな表情で戸惑っている。

「歌麿、先に中庭に行っててくれ」

「あぁ、わぁった」

慌てたような発言にも歌麿は理解しているとばかりに一言返事を済まし、それを最後まで聞くでもなく夜近の足は西殿付近の蔵に向かっていくのだった。









※ ※ ※









目的の書物はなかなか見つかってはくれなかった。

それでも懸命に探すのだが、中には背の低い月詠には手が届かない場所もあるので苦労は倍増だろう。近場に適当に置かれているダンボールを積んでは乗り、手を伸ばし、それでも外れ―――というのを何十回も繰り返す。

さすがに落胆してしまうのが普通なのだろうが、彼女はそれでも諦めなかった。

少し気分を変えようと二階に上れば、天窓からは外の風と暗く染まりかけている空が垣間見える。

―――ここにこもってから3時間は経っているのだろう。

体は埃で塗れているのだろうし、髪にも幾分か蜘蛛の巣が付着しているようにも思える。決して不潔という空間ではないのだが、古い書物の保管庫だけとあって独特の匂いが立ち込めている分仕方ないだろう。

そうこうしている内に、本棚の奥にとある一冊を見つけていた。

当然どの本も背表紙が破れていたり古すぎて読めなかったりしているので『たまたま』なのだが。


「これなんか、妖しいですわね~」


直感に従うままそれを引き抜けば、長い間触れられてもいなかったのか埃も共にごっそり姿を見せた。思わず咽るも、その表紙を見れば妖しさはますます倍増していく。

赤い筆体で大きく『禁』と書かれていたのだ。

早速中を拝見すれば、どれも薬草関係の資料のようにも思えたが―――半分ぐらい進んだ所で内容は変わっていた。



「・・っ、これですわっ」



とある薬の調合方法である。

時間が惜しいとばかりにざっと目を通すが、そういった知識には疎い月詠の事、簡単に理解などできたはずもない。

しかし、夜近が薬草調合を楽しそうに行っていたのをすぐ傍らで眺めていた事もあり、器具関係なんかは知った名前でいくつか記載されていたのが唯一の救いだろうか。

だが、薬草の名前だけはどうにも理解できないものが多すぎた。

舌を噛みそうになる程長く、おまけにカタカナなので一瞬では読みにくい。

更に、中にはたった一文字違うだけで全く別の薬草だったりと、とりあえず彼女の本音としては



「もっと分かりやすい名前にできませんでしたの?」



―――という、酷く簡単な文句だった。

それでもと、時間が経つのも忘れてその場に立ったまま『禁』の入った書物に対しての集中力は高まっていく。『禁』と示されているぐらいなのだから相当ヤバい部類の書物なのだとは思うが、彼女の『目的』の前ではそんな警告も無意味だったらしい。









※ ※ ※









西殿付近に建てられている蔵は、白い壁で覆われている。純日本をイメージさせるには充分のデザインで、それでも経つ年月には勝てないのか所々亀裂が入っているのが確認できる。

平行に並ぶ4つの棟の内、その一つの戸が開かれている蔵に足を進ませる。内部は僅かな電光も灯されており、多分彼女はここにいるらしかった。



「・・・・」



両手をズボンに突っ込みながら足を踏み入れ、古い本の匂いを満喫する。

この匂いは決して嫌いではなく、どちらかと言えば好きの部類に入るだけ安堵感すらも覚えるだろう。

そして一階部分からは何の気配を感じれず、彼の足は軋む板を踏み分けて2階に向かった。

天窓からは優しい風が迷子になり、月もあと僅かで拝める時間帯だ。



(・・・あそこか?)



2階の最奥箇所から何かの気配を感じれば、長いその足は迷うことなく進んでいく。

そして、見覚えのある後姿が本棚に隠れて徐々に見え始めた。

艶の美しい黒く長い髪。

狩衣を羽織った小柄な体。

髪には呪詛を描いたリボン。

―――しかし外界に対して完全に油断しているようで、彼の視線にも気配にも気づいていないようだ。

夜近にしてみても、気配を断っているワケでもない。至って普通に歩き、彼女の真後ろにまで移動するが、集中している書物の中身は彼女の背中に拒まれ拝見できなかった。



「・・月詠」

「ッッ、きゃぁっ!?」

「うぉっ!?」



必要以上に吃驚した声帯は酷く高音で、声をかけた夜近すらもが声を上げてしまう。

心臓音が高まり、聴診器が要らないと思える程だった。


「す、すまん、驚かせたか?」

「や、夜近様っ?あ、お帰りなさいませですわ・・っ」


慌てたように声を発し、いつものように頭を下げ、その瞬間に手に持っていた本を後ろに隠す。

当然、それに気づかない夜近ではない。

「何の本を読んでいたんだ?この辺りは薬草関連の書物だ、調べ物か?」

「は、はい、そうですの・・っ」

慌てて取り繕う月詠だが、その顔はどこか内心ヒヤヒヤしているようにも見受けられた。

しかし、月詠のその言葉を信じるならば。

彼女はこの手の知識は興味がなかったはずである。

書物とは個人の興味と関心故の完成品。その二つが成立しなければ、読む者にとっては価値のないものだ。

それを問えば、月詠は恥ずかしそうな上目遣いで声を返していた。

「夜近様の事をもっと理解したいと思いましたの。薬草とか漢方系とか、ワタクシが知れば夜近様との話題も増えますし、夜近様の好きな事をワタクシも好きになりたいと思いましたの」

「・・・そ、そう・・か・・」

直球で告白されて嬉しくないはずがなかった。

全ては自分の為なのだと微笑む少女が健気にも見えると同時に、どこかの馬鹿が言っていた『どきっとした胸をぎゅっと鷲掴み』だろう。

しかし、月詠にとっては。


―――嘘半分、本音半分。


いや、嘘の割合は8を占めている。



「で、何が知りたいんだ?聞けば教えてやるが」

「い、いえ、一人で大丈夫ですの~」

「?独学か?」

「は、はい。夜近様もお一人で得られた知識なのですし、ワタクシだって頑張りたいですもの~」

「・・・貸してやろうか?」

健気に加えてストレートに純情。

昼間の罪償いも混じっていたのだろう、夜近はそんな申し出を出していた。その瞬間、月詠の表情は一気に明るくなっていく。

「ただ、書物の確認はさせてくれ。中には持ち出し禁止もあるからな」

「?危険な書物がございますの~?」

「ああ、薬草は危険と紙一重の部分が多くてな。効能や複合作業、調合次第では殺傷能力を含む薬になるものだってある。素人が手を出せば只では済まんケースが多いだろうな」

「まぁ、怖いですわねぇ~」


のほほ~~んと日向ぼっこをしているかのような笑みは、果たして本当に理解しているのか。


「月詠、後ろに隠した本を見せてくれないか」

「・・、え」

「俺の存在にも気づかず外界への集中を断ってまで読み更けていただろう、気にならないと言ったら嘘になる」

それは、ちょっとした嫉妬心なのだろうか―――

少しの嬉しさを感じながら、月詠は両手を後ろに隠したままで本棚から別の本を探り当て、それを渡す。当然、『禁』の書かれた書物の存在を隠す為である。適当な本を渡すと同時に、欲しかった一冊を狩衣の袖口の中に入れていた。

動き的に不自然でもなかったのだろう、夜近は手渡された一冊を確認するだけで月詠のその行動には気づかなかった。


「・・・お前、こんな本が好きなのか?」

「え?あ、あの、何かおかしいでしょうか~?」

「いや・・。月詠の事だから、媚薬系だとばかり思っていたんだが―――」

「??」

「・・・プロテインを作りたいのか?」


プロテイナーゼ、つまりは蜜白質についての資料書物だった。



















案内された部屋は、月詠にとっても珍しい場所ではなかった。彼が趣味に興じる時にはいつだって一緒に過ごしてきた一室だったからだ。

間取りにして15畳程度だろうか、壁際には所狭しとばかりに小さな口がついた収容棚がずらっと並んでいた。

中身を提示する為だろう、その一つ一つに名前の記されたシールが小さくも貼ってある。

窓越しにはちょっとした調合スペースなんかもあり、色んな機材が机の上に置かれていた。


「季節的に手に入らないものを除けば、大概の薬草は揃ってる。勝手に使ってくれて構わんが、取り扱いには充分注意してくれ」

「はいっ、ありがとうございますですわ、夜近様」


偽りの書物を(マッチョになりたいと誤解されたままだが)大事そうに抱え、月詠は喜んだ。

夜近にとって大事な一室の使用許可を得られた事もそうだが、まさかこうも簡単に『目的』に近づけるとは思っていなかったのだ。構想としては、必要な薬草を自分の足で調達しようと思っていたぐらいだ、相当有難いらしい。


「その、それとだ、月詠―――」


なんでしょうか?と上目遣いの視線を絡ませれば、彼女は不思議そうな顔で見つめ返してきた。それを受ける夜近は、少しの照れすらも隠せなかったのか思わず視線を逸らしてしまった。


「その、なんだ―――・・・昼間の、事なんだが・・・」

「??」

「あれは、誤解だからな。悪者にしてくれるのは一向に構わんが、勝手な憶測で曲解だけはしてくれるな」

「あぁ、涼ちゃんを組み敷いていた事でしょうか?」

「だ、だから誤解だと!」

「ふふ、おかしな夜近様♥曲がり角でぶつかっただけだとお聞きしましたわ」

それを聞けば胸を撫で下ろす材料としては充分で、夜近としてもようやく安堵を覚えられた。ここにきてようやく、一日の頭痛から解放されたといった所だろう。

それに繋ぐようにして、月詠が更に訊ね返す。

「夜近様、もしワタクシが―――」

「?なんだ?」

「ワタクシが、涼ちゃんみたく綺麗な女性でしたら?」



あの瞬間の光景は今でも鮮明に覚えている。

歳相応にお似合いの恋人だと思えた二人の風貌。だからこそ、あの組み敷いた体勢も不自然ではないと思えた。

だからこそ、月詠の策略は今こうやって行動に出ている。



「お前が成長したら、物凄く美人になるんだろうな。俺には勿体無いさ」



あやす様に撫でるようにその小さな背丈の髪に触れ、夜近は優しく微笑んでいた。嫉妬心と執着心を含んだ心中は、月詠に伝わる事はないのだろう。

それでも先を促すような視線を投げかけられ、夜近は自分の声で繋いだ。


「ロリコンと囁かれようが女の敵と呼ばれようが、お前がお前らしくいてくれればそれでいい」

「夜近、様・・?」


繊細に逞しく大きな手は、彼女の頬に触れる。

まるでその線を描くように、ここにいる事を確かめるように、その視線すらも酷く綺麗だった。

「大和撫子は、自ら組み敷かれたいなどと白昼堂々叫ばんぞ?」

「ですけどっ、」

「少しは俺を信用してくれないか。俺はお前を花嫁に選んだんだ、お前以外の女を選ぶ気は毛頭ない」








―――きっとそれが。


夜近にできる唯一の言葉だった。



















「・・うっわ、赤い馬鹿が庭にいる」


突如として乱入してきた声に振り向けば、そこには黄色い髪を見せ付ける少年が立っていた。

隠密の格好をしている事から仕事関係でやって来たのだろうが、それでも開口一番のそのセリフは歌麿にとって腹正しいセリフ以外の何物でもなかっただろう。

「お前な、そういう名称はやめろっつってんだろ」

「馬鹿に馬鹿っつって何が悪いのさ。馬鹿は馬鹿らしく、社会の底辺で転がってなよ」

高飛車な言葉に傲慢な態度。

相変わらずのアイドル発言は結構だが、どうにも嫌われているようだと自覚したのは今更ではない。最も、嫌われようが好かれようが大して気にしない性格が幸いかもしれなかったが。

「呉羽、お前なぁっ!」

「ったく、アイドルのこの僕と会話できるだけでも幸せだと思いなよね」

庭で素振りでもしていたのだろう、そんな歌麿を縁側から見下す視線満載の呉羽である。

腰に両手をやり、その視線は突き刺すように冷たい。



「・・あぁ、呉羽。呼び出して悪いな」



そんな頃に、マイペースな主は姿を見せていた。

どこから見ていたのかは知らないが、その顔には笑いをかみ殺すような仕草も見える。

「このアイドルを呼び出すってんだから、それなりの理由なんだろうね?」

「あぁ、勿論だとも。ちょっとした偵察に向かってもらいたくてな」



―――日々増え続ける魔物の存在。

それらを完全に把握できていないのが現状だという事実は否めなかった。

その魔物がどこから現れるのか、と問えば、答えは複数に分裂するだろう。

まず一つは、この都を包み守護する要である四方結界から生じた亀裂。結界とは早い話、次元を支配した魔術だ―――その次元が何らかの形にせよ異常がみられるなら、そこから別の次元が生じて魔物はそこから出現する、という説得力も充分通じるだろう。

そして一つは、地脈の歪みが関係した現象。これは都そのものを証明する基盤だ。神社仏閣も結界も、この地脈あってこその象徴と呼んでもいい。要するに、森羅万象全ての源はこの地脈にある。

しかし、地脈そのものを修復するなどといった大規模な作業は現段階では不可能な話だ。何故かと問えば、地脈の上には既に都が存在し、陽と陰を均等に支える結界があり、更に守護結界で覆われているからだ。部分的な地脈の修復は可能だろうが、それでも都のバランスが崩れれば話は戻るだけである。



「ともかく、四方守護結界に異常がないか偵察してきてもらいたい」

「四方守護っつったら、四神の封印されてる祠に行けってコト?」

「ああ、異常がなければそれでいいんだ」


都を包む四方守護結界は、四神と呼ばれる未知の存在を封印する事でその効力を満たしている。

北に玄武。

南に朱雀。

西に青龍。

東に白虎。

それら四神を祠に封印し、祀っているのである。


「一人で4つも回れって言うつもりじゃないよね?」

「案ずるな、南は風が行っている」

「は?風姉貴がか?」

そこで会話に入る歌麿は、突然出てきた身内の名前に驚いているようだ。

「あぁ、人手が足りなくてな。風が追っかけしてる・・あ~、なんといったか、変な名前のバンドがあっただろう、その限定ライブチケットをやったら見たこともないような笑顔で承諾してくれたな」

「・・あのチケット、夜近からの手回し品だったのかよ・・・」

朝から頻りに機嫌のいい風は、傍から見ればただの紙切れでしかないライブチケットを大事そうに支えては踊ってすらいた。そんな蓬莱寺家・朝の風景が脳裏に思い起こされ、歌麿は少しげっそりしているようだ。

「じゃぁ何?南以外の場所は一人でやれってコトなわけ?」

どこか不満気の呉羽に向かう夜近は、怯むでもなく余裕の笑みで―――どちらかと言えば何かを企む笑みに近い―――呉羽を見やった。

「呉羽、世間のアイドルがいつでも輝いている理由を知っているか?」

「?なにさ、それ」

その単語に呉羽が食いつけば、あとは夜近の思うがままであろう。

「人並みならぬ努力を常にしているからこそ、アイドルは光り輝くものだ。優雅に見える白鳥も、水面下では想像以上の努力と苦労をしているのだ。―――だからこそ、努力を人に見せては価値などないだろう。ふ、美しい白鳥になりたいとは思わないか?」

「この僕にこそ相応しいよね!世界は美しい僕だけを見てればいいんだよ!―――じゃぁ都市主様っ、いい結果を待ってなよね!」


意気揚々と走り去っていく背中を視線だけで追う二人は、暫し沈黙があった。

夜近は縁側の柱に肩肘で頭を支えているし、歌麿は脱力感に塗れた姿勢で嵐の過ぎ去った感覚を味わっている。


「・・いいのかよ、夜近」

「あいつが強請ると言ったら『世界が欲しい』とか言いそうだからな。意欲を出してくれるなら嘘でもなんでもついてやるさ」























駿河の屋敷の門には神門からの兵士が警備にあたっているのだが、入門チェックというのは然程厳しくはない。

この門を潜るのは駿河の者―――月詠と日光だ―――ぐらいのもので、来客があっても大概が見知った者だからである。中には日光が剣道指南役を請け負っている生徒達の姿もあるのだが、彼らはそれなりの入門書というのを提示している。

だからこそ、平和な一角でもあった。

彼女もそんな一人で、神門家のように厳しいチェックを受けるでもなく顔パスだけであっさり中に入ることが出来た。



「日光、御飯食べに行かなくて?」



御門家と似たような構造の屋敷だが、敷地面積的には劣る。内部には神社も組み込まれているのだが、巫女や神主がいるわけでもなかった。

その辺りは駿河当主の方針だろう、昼行灯の姿勢を貫き通しているらしい。

やりたいようにやる、というのが彼のモットーらしく、それ以上に神門家に従うのが更々嫌なのだろう。

この時間、彼は別館修行道場で帰った生徒達の後片付けをしており、彼女が声をかけた背中は少し怠慢に満ちていた。

突然やって来た女王様に振り向くでもなく、竹刀の割れ目を確認しては壁に直していく。

「弟や妹を放っていいのかい?」

「二人とも、今夜は留守なの。このアタシがわざわざ誘いに来てやってるんだから、有難く受け取ってはどう?」

君は相変わらずだな―――そんな苦笑が見えるが、振り返って見つめた女王様は昼間の事も忘れているかのようにいつもの態度だ。

別館の戸から外の空気を吸えば、夜風の清清しさが迎えてくれる。空を見やれば月が出ており、時間的には20時すぎだろう。

「俺の驕りになるのかい?」

「当たり前。昼間のキスの支払いにしては安すぎるのではなくて?」

「そうだな、殴られなかっただけでも良しとするか」

微妙な関係性で成り立つ二人にとっては今更なのかもしれない。

通常ならば、余程の理由がない限りは進んで会おうなどとは思わないのだろうし、日光にしてみてもその可能性で考えていた。

「あぁ、月詠ちゃんがいるからアタシは邪魔かしら?」

「いや、そんな事はないがね。・・月詠は、帰ってから部屋に閉じこもっているのだ。何かの本を懸命に読んでたが」

「素敵な恋愛小説でも見つけたのかしら」

「いや、あれは―――」


ふと、遠くを見やる視線で考え込めば、少しの沈黙。

その先の言葉を迷っているのか、そのすぐ後に彼は『何でもない』といつもの顔に戻っていく。

あの分厚く古い冊子、手に抱えていた幾多もの薬草。

何をしようとしているのか知りたい所ではあるのだが、まだ踏み込む理由がない。


「読書に耽るのは時間が余っている証拠だ。いい事だと思ってな」

「夜近との接触がそこにはないから、って事かしら?」


その本の知識を得るのが夜近の為だとは考えないのだろうか―――涼は目の前の向上精神満載の男に呆れた視線を投げかけてやるのだった。

いや、日光はそれを否定したいからこそ、踏み込まないのだろう。どんな欠片にせよ、妹の些細な行動からでもあの男の面影を見つけてしまえば許せなくなる。

「相変わらずなのはアンタの方ではなくて?いい加減認めてあげたら月詠ちゃんも喜ぶと思うのだけれど」

「大事な妹を、はいそうですかと猫じゃあるまいし」

ゆっくりとした足取りで涼の正面まで移動すれば、その細い腕を掴んでいた。視線が絡むが、二人の背丈を中心に見れば結構お似合いの風貌だと誰もが賛美するに違いない。


「・・昼間の事は?」

「要らない事は忘れる主義でしてよ」

「だったら、キスの事も忘れてくれたまえ」


掴まれた腕を強引に弾けば、伏せ目がちに笑む彼の顔が見えた。



「・・そうやって、また逃がすのね」



望んだ展開と判断と、気に食わない苛立ち。

曖昧で中途半端で微妙。

どんな瀬戸際のラインを楽しめる程の余裕が、果たしてあるのだろうか。



「白川通に、美味しいパスタの店があってよ。造形美大の近くなんだけれど。それとも、宝ヶ池のフォルクスの方がいいかしら?」

「そうだな、今は何となく肉を食べたい気分だよ」

じゃぁフォルクスで決まりね、そんなアイコンタクトをかわせば涼は納得したように足を翻した。どちらの店にしても左京区の北部内にある、この駿河の管轄内でもある事からそう遠くない。

月詠に声をかけてくるから待っていてくれと、日光はその足を本殿内向かって足を進ませ、とりあえず涼もそれに続いていく。

軋む廊下は老朽しているワケでもなく、雅な雰囲気で満たされている。

視界をずらせば庭の景色が見事に映え、神門家とはまた違った空間が広がっていく。

池と池とを繋ぐ小さな小島にはささやかな花が小さな主張を語っているし、石燈篭なんかも風水に従って設置されている。

普段から呉服を私服として着用する日光の事だ、この辺りも彼の好みなのかもしれない。

最も、手入れなんかは女中達に任せているのだろうが。



「・・・何、この匂い?」



屋敷の構造は書院造となっており、その主要な建物が寝殿(南殿)だ。

中央にあって主人が居住し、主に儀式や行事を行う場所でもある。別名は正殿とも呼ぶのだが、ともかく日光や月詠の私室はそこに組み込まれている。

そこに一歩踏み入れるなり異様な匂いが僅かに感じ取られ、それを口にしたのは涼だった。

酷く臭い、というワケではないが、心地よい匂いでもない。

若干の酸っぱさを残した異臭とでも呼べばいいのだろうか。


「・・月詠の部屋からか?」


さすがの日光も眉をしかめ、心なしか足も速度を上げていた。

近づけば近づくほど、異臭は形を変えて甘ったるいものに変化していく。

嫌な予感とは大概が当たるものだ、日光が所在も確認せずにその襖を開ければ。




―――そこには、無残に脱ぎ散らかした妹の着物だけが畳の上で寝ているだけだった。















『それ』が現実的に存在しうる物なのか、実際の所は夢話でしかなかった。

だが現に彼女は、『それ』を信じていた。

きっとあるのだろうと、この世に存在するのだと、半信半疑ながらも信じていた。

そう、自分達が継いだ力ですら非現実的なのだから、『それ』があってもおかしくはないと確信すらしていた。

『それ』を本気で探そうと思ったのは、きっと昼間の光景のせいだろう事は否めない。今までも『それ』が欲しいと思った事はあったが、ここまで行動に出る事はなかったのだから。


それはただ、純粋が故の真っ直ぐな心が生んだのだ。

例え何かを歪ませようと、それは正しいのだと。

そして神門家にて『それ』に関する書物を見つけた時、運がいいと本気で神に感謝すらした。

最愛の婚約者に嘘がばれる事もなかったし、全ては彼女の展開どおりに動いている。

罪悪感など欠片もあったはずもなく、そして彼女は現実に『それ』を作ってしまった。




『成長促進薬』




極めて危険性の高い物質だとの記載もあったが、彼女の目にはそのようなものは必要なかった。

ただ、年齢相応の女性というスタイルが欲しかった。

この容姿が、彼との壁を作る。

その壁は決して壊れてはくれないから、だから禁呪に縋ってでも望んだ。



―――そして、手に入れた。




「・・これが、ワタクシですの・・?」




自室内に置かれている全身境を覗き込めば、自分ではない姿がそこにはあった。

凛と光る瞳は魅力的で、艶のある黒い髪が成長したその顔を飾る。

髪も幾分かは伸びたようで、その手足すらも細く綺麗に整った。

童顔には程遠く、誰もが美しい女性と囁くに違いないだろう風貌。

そこに大和撫子という要素があれば、それ以上に可憐で雅な花というイメージがついた。

一気に変身したせいか体中の痛みはあったものの、彼女にしてみれば目的完遂という充実感に満たされているようだ。

30センチという差も、きっと埋まった事だろう。

普段から着用している着物は結構大きめのサイズで着用していた為か、あまり違和感はなかった。しかし、それでも肩の関節なんかの着合わせなんかがズレたりすると体には悪い。だから、その雅な着物をさっさと脱いでは畳む事も忘れてこの体に合う着物で身を包んだ。

金色の蝶が描かれた刺繍は酷く艶やかで、いや、今の彼女の風貌にはこれ以上ない程に似合っている。まるで一昔前の高貴なお姫様のようで、それなりに化粧もすれば楊貴妃にすら並ぶ三大美女になるかもしれない。



「これで夜近様に認めてもらえますわ~」



そう思えば早いもので、即日実行という思考が彼女を占めていた。

脱ぎ散らかした服を気にするでもなく、ただそこに転がっている残骸にも似た着物に目をくれるでもなく。彼女の足は駿河の門を抜け―――門番の兵士に不審な顔をされたものの―――急く心を抑えるように、麗しい女性に変貌した月詠は顔中に広がる綻びを抑えることは出来なかった。

そう、これで最愛の方に近づく事ができると。

これでようやく、どこにいても婚約者として認めてもらえると。





ただ、この喜びを早く伝えたかった。












※ ※ ※













「・・・・やれやれ。おかしいとは思ったんだよ」



そう呟く日光は、鞘に収めた真剣を杖のように扱い座り込んでいた。

彼がベンチとして座っているのは一匹の大型の魔物で、不気味な血飛沫が一面に広がっている。

白川通りを北に抜け、途中の花園橋も過ぎれば目的の店が左手に見えてくるはずだった。

牛を模(かたど)った鉄板の上に、食欲をそそってくれる肉。サイドメニューとしてサラダバーやドリンクバーなんかも設置しており、少し高級なファミリー向けの店と呼んで支障はないだろう。

その『フォルクス』が視界に見え初めて間もない頃だろうか、彼の腰に挿された真剣はその鞘を抜いていたのである。


「涼、知っていたのかい?」

「何の事かしら?」

「これも、昼間の代金というワケか。体(てい)よく利用されてしまったな」

「安売りはしない主義でしてよ。今回はアタシの方が一枚上手だったわね」


満足そうに女王様スマイルをくべれば、日光は『逆らえない』とばかりに苦笑をもらしていた。間接的とはいえ、神門の仕事を手伝ってしまったのだ。

たまたま人通りが少なかったのが幸いか、被害は殆ど与えられずに退魔作業は終了したものの、日光はまだ魔物の上で寛いでいる。

喉の奥から唸り声が届くが、致命的ダメージは充分与えている。尚更襲う真似などはできまい。

北部に在勤している神門の兵士達が交通規制をしてくれているので、暴れてくれても問題はないが。

「とりあえず、こいつの情報を仕入れるのが先かしらね」

「魔物のDNAなんてどれも同じだろう」

「細胞の組織構成は違うのではなくて?こんなに大型ならば知能は低いだろうし、種族的な情報も欲しい所だわ」

「まさか、フォルクスはこいつらの肉を出してるんじゃないだろうね?」

「アンタ、訴えられてよ」

至って無関心な態度で呟けば、女王様からお怒りの声が届く。

―――当然だが。


「・・で、神門の連中はいつ着くんだい?」

「そうね、転移方陣使って来るとか言ってたから、もう少ししたら来るんじゃなくて?」

「どちらにせよ、報告に行かねばならんのか」

「当然でしてよ。アンタも少しは顔を出したらどうなの?」


煙草に火をつければ、それがきっと『知っているだろうに』とでも言いたげな返事だったのだろう。

神門家とは極力接触を避けている日光、当然夜近と会いたくないからだ。大事な妹を自分の懐から奪った略奪者、というレッテルはもう12年も維持しているのである。

普通ならば諦めて折れるものだが、日光の執着心は尋常ではない事を彼女も充分承知している。だからこそ、こうやって方便でも使わねば連れ出すことすら出来なかったのだろう。

無論、彼女の目的は『昼間の未納金』という口実なのだが。

だが、妹溺愛の兄はどこか呆けたような表情で煙草を吹かすだけだった。神門の仕事云々を後悔しているでもなく、思考に耽ているような目だ。

「月詠ちゃんなら、夜には帰ってくるのではなくて?」

「着物を脱ぎ散らかすなど、そんな教育を与えた覚えはないのだよ」


花嫁として、駿河の女として、大和撫子として。

その求め得る全ての躾(しつけ)を受け入れてきた月詠だ、日光が不審になるのも無理はなかった。当然、何かあったのだろうかと心配にもなるというものだ。

「黙って出て行くような子ではない。それに、あの匂いも―――」

「日光の事だから、大方察しがついているのでしょう?」

「・・・・」

「黙っているのが優しさとは思わなくてよ」



見て見ぬ振りも、察しがついていてもそれを言葉にするのは今更抵抗がある。

決定的な憶測は正しい判断だと知っていても、一度口に出してしまえば真実になってしまう。





「・・恐らく、禁呪に手を出したんだろう」















その晩、神門家は慌しかった。

魔物出現地の特定を急いでいたからだ。

無論、その中心を指揮取るのは都市主である。

昼間の情けなさなど欠片も見せず、透き通るような厳しさを見せ付けていた。


「第二部隊は出兵の準備を整えろ。術師は白川通りで捕獲した魔物の分析を急ぐと共に特定場所を絞り込め」


その身を戦闘衣装で包み、何処から見ても威厳ある指揮官である。

場所は謁見の間沿いの縁側付近、広大な庭には幾多もの部下達が命令を聞くなり各々行動に移していく。

都爺、術師、兵隊長。

今夜も行われるだろう仕置きの時間は、今夜も寝不足を確定させるに充分だ。

昼寝を好む夜近の事、それについては溜息が漏れるものの、都市主としての務めが当然優先である。

その腰に真剣を挿し、もう暫しすれば場所の特定を含んだ報告が聞けるはずだ。

具合のいい事に今夜は歌麿もこの屋敷にいるし、密羽に連絡を通せば戦士の合流は早く済むだろう。ただ、駿河家に向かった御者だけが未だに帰ってこず、先程受けた連絡では留守との事。

北白川にて出現した魔物討伐に涼と日光が居合わせている事は知っていたが、月詠と連絡が取れないとなると話も変わってくる。そう、力の覚醒にはまだ遠くても、戦士の一人として必要な戦力だからだ。


「心当たりねぇのかよ?」

「監視をつけてるワケじゃない。夕刻以降、てっきり自分の屋敷に戻ったものだと思っていたんだが」

同じく戦闘衣装で身を包む親友は、武器である槍を自在に操っては体操なんかをしている。

肩を半分出したような服装は『わんぱく』というイメージを固定させるが、間違ってはいないようだ。

「どうすんだよ?接近戦をお前一人で担えるってんなら別にいいんじゃねぇ?」

「相手の情報を聞いたか?大型種族に値する魔物だ、死角は多くとも力圧的にはこちらが不利だ。素早さと機動力で攻めるなら、月詠が必要だろう。魔物連中の数もまだ報告に出ていないしな、恐らくは現地で情報収集になる」

「行き当たりばったりじゃねぇか」

「仕方なかろう。初めから全てを知っていたら、戦士など必要ないだろう?」

現在の都戦士は夜近達4名、それに加えて呉羽・涼・風、ついでに日光の合計8名である。無論、日光は神門家に対する態度から『戦士』とは認められてはいないのだが。

ただ単に、その都度神門家が駿河当主に協力要請を願っているのである。

そして呉羽は隠密なので戦闘に加わる事はない。残るは涼と風の姉妹だが、風は現在別任務に就いており、呼び戻すにしても時間がかかりすぎるだろう。

「涼はいいとしても、日光殿が素直に頷いてくれるかどうか」

「得意の悪役でも演じりゃいいじゃねぇか」

「必要以上に株を下げる真似をしなくてもいいだろう。ただでさえ、嫌われてるんだからな」

「じゃぁよ、月詠との婚約関係をなくせばいいじゃねぇか。そしたら日光も協力関係を結んでくれるんじゃねぇ?」

「婚約解消だと?馬鹿な事を言うな。例え家柄の繋がりの為とはいえ、俺がそう簡単に月詠を手離すとでも」

「ま、できてたら苦労してないわな」

「・・・別の意味での苦労は盛り沢山だがな・・」


軽い眩暈を覚えれば、婚約者の姿が容易に思い浮かぶ。

大胆不敵に積極的過ぎる大和撫子―――と称するのが一番近い表現方法だと、今更確認してしまう夜近であった。



「・・・おい、夜近」

「あぁ」


庭の茂みの奥から感じた気配に一瞬緊張感を巡らせてしまうのは、戦士としての体質だろうか。

報告の御者ならば正門から屋敷に入ってくるだろうし、その可能性はない。

どこからか忍び込んだ猫かもしれないが、それにしては大きすぎる気配だ。

当然、その結果判断材料は『不審者』として切り替わっていた。

歌麿は夜近を守るようにしてその槍を構え、その奥から夜近の声が唱えられていく。



「・・・そこの者、出て来い」



簡素に必要最小限の言葉は、いかにも夜近らしかった。

その声に観念したらしい気配は、眠りに就きかけている茂みを起こし、ガサガサと音を鳴らしては二人にその姿を見せつける。

上空には月が見え、辺りは暗闇でも屋敷から漏れる光源で尚美しく映えた。

一歩ずつその輪郭を露にしていけば、顔の表情も徐々に確認できる。



「夜近様―――」



透き通るように美しい声帯が、彼の名前を唱えた。

距離的には数メートルか、縁側廊下から二人はその女性を暫し見つめていた。



「・・初対面の女性に名前で呼ばれる覚えはないのだがね」



一瞬、その美貌に魅了されてしまったのだろう。

夜近の反応が若干遅れた。

だがその次の瞬間にはいつもの都市主の表情に戻り、義務的発言で彼女に向かう。


「何処の何方(どなた)かは存知得ぬが、夜更けにこのような場所で迷子とも考えにくい話。曲者としてひっ捕らえられたくなければ、早々に立ち去るが宜しかろう」


艶の美しい黒い髪にはリボンが巻かれ、後頭部二箇所にお団子を結っている。

身長はどれぐらいだろう、夜近より数センチ低い程度で、美しく映える美貌の中にも幼さは残っており年齢的にも同年代だと思われる。

艶やかな着物が更に彼女を引き立てているのか、どこの貴族だろうかと頭の中だけで探してみるが検討もつかないのが本音だ。


「夜近様、ワタクシですわ~」

「申し訳ないが、俺には初面識としか思えないのですがね。・・・俺の婚約者に似せた風貌には少々驚きましたが」


何処の誰かも知らない女性に一瞬でも魅了されたと、あの『彼女』が知ればただ事では済まされないだろう。勝手に自己弁明をしては保身に走ってしまう辺り、夜近も弱いと見える。


「ですから、ワタクシは月詠ですわ~」

「・・・・あいつの名前を語るだけの覚悟がおありか?」


凛とした殺気。

いくら可憐で美しい女性といえども、その発言は夜近にとって許せるものではない。

自分の婚約者を語る不届き者という認識に変わった今、彼の表情すら険しく変化していく。だがそれでも、目の前の女性は頑固として譲らず、その距離も徐々に近づいてくる。

猫のように丸く穢れのない瞳に、蒼い髪を結った都市主が厳しい表情で映りこむ。

金色の蝶がそこで舞っているかのような刺繍の着物は、確かに雅で艶やかだ。月詠もこの系統の着物をよく着用しているのを知っている。

暗闇ではよく見えなかったが、髪に結ったリボンも呪詛が描かれているように見える。

口調も然り、ここまで真似する事に何の意味があるのかなど、夜近にその真相が知れたはずもないだろう。


「夜近様、ワタクシですの。薬で成長しましたの」

「くす・・・・・・、何・・?」

「夕刻頃お会いしましたでしょう?その時、この薬の調合方法を探してましたの」

「・・馬鹿な事を言うものではない。その手の薬は禁呪として指定されている。俺の許可もなしにそう易々と知れるなど―――」


―――否定できたはずだった。

夕刻頃、あの蔵の中で見た不自然な動きが、脳裏に思い出されていたのだ。

何かを隠すように、忍ぶように、まるで自分に知られたくないとばかりに一人で勝手な行動に出ていた。


「ワタクシが本物という証拠なら、このリボンでは駄目でしょうか~?」


しゅるっ と右側のお団子からリボンを解けば、少しだけ黒髪が淫らに揺れた。

不審な面持ちでそれを受け取り、眺め、確認すれば。

「覚えておられます?昔、夜近様に頂いたプレゼントですの。毎日つけてますし、これが一番のトレードマークと思うのですけれど~」

喜びを押し殺しているのか、急く気持ちを必死で止めているらしい『彼女』。

ただ早く、正体を理解してこの姿を認めてもらいたい、その展開に心が躍っている。



喜んでくれる。

笑ってくれる。

そう、信じていた。



―――だが。



「・・・帰れ」



厳しい冷気を含む殺気が彼女を突き刺していた。

一瞬たじろぎ怯えてしまうのも無理はなかったかもしれないが、月詠の中の『希望』という展開が一瞬にして崩れた瞬間でもあった。

その瞳は確かに都市主としての無機質なもので、決して『花嫁』に向けられたものではない。いや、都市主を通して花嫁を見ている夜近という姿なのかもしれないが、いつも見てきた瞳ではない。

「やこ―――」

「聞こえなかったのか。殴られたくなければ帰れ」

「おい夜近っ、こいつ、本当に月詠なのかっ!?」

「話は後だ、歌麿。―――元の姿に戻るまで、俺の前に現れるな」

隣で驚愕の渦中を彷徨う親友を制し、夜近はその瞳を維持し続けている。汚物を見るような、ではないが、気に食わない要素が酷く現れている。当然、月詠に理解できたはずもない。

「夜近様、どうして―――」

「薬の効果の持続時間は」

「わ、わかりません・・」

「俺を騙したのか」

「や、夜近様・・?」

「ふ、蔵の中で喜んでいたのは俺だけか」


自分との接点を増やしたいと、同じ知識が欲しいと、あの蔵の中で聞いた可愛い我侭。

だが結局は、そんなものは嘘だった。

自己欲の為だけに彼女は禁呪に手を出し、嬉しそうにそれを都市主に見せ、それでも許されると思っている。



「何故、喜んで下さらないのですか?」



夜近は答えない。

ただその眼光を酷く曇らせては厳しく変化するばかりで、彼女の求める言葉などは持っていない。

嘘と偽りと私欲と願望と真実。


静かに重い空気が流れる中、視界の外から多数の足音が届いてくる。

恐らくは報告に来た兵士や都爺達だろう。

視線だけをずらしては、目の前の彼女にもそれがアイコンタクトと知れたはずだ。

そう、今ならまだ夜近と月詠間だけの遣り取りで済む話なのだ。神門の者達にこれの真相が知られては、重大な問題として発展するのは明白だろう。

最悪の場合、花嫁資格の剥奪は免れない。


「あの、これから仕置きに参られるのでしたら、ワタクシも―――」

「要らん。邪魔になるだけだ」


都の戦士としての必要性。

それは仕置きに対して絶対に参戦するべきだという提言はないが、夜近はいつでも結果を残せる体制を整えている。魔物との戦いは決して楽なものではなく、だからこそ犠牲者を出すぐらいならば増員でフォローするというものだ。

前線に配置されるのは『都の戦士』であり、兵士や術師はその援護と称した方が正しい。

だが、それでも夜近が月詠を拒絶した理由がそこにはある。

言葉数の少ない彼の事、麗しい美女に変貌した彼女にその気遣いが知れた筈もなかった。


「―――都市主様、報告を・・・・・・、?御客人でございましたか、申し訳ありませぬ」

「いや、駿河からの御者だ。今夜は月詠の都合が悪いらしい」

都爺を先頭に、その後ろを数人の兵士と術師が続いている。

夜近と向き合うようにして庭に佇んでいる女性を目にすれば、すかさず夜近が平然とその言葉を語った。

無論、その嘘は信憑性が非常に強く、信じるに容易い。逆を言えば、この女性があの月詠などと誰が信じようか。 あの童顔の彼女に仕える駿河の者、と語られても誰もがきっとそれを信じに違いない。

その客観的材料と事実を利用した言動は一番効果的な判断だった事だろう。

例え、目の前の月詠本人を傷つけたとしても。


「左様で御座いますか。月詠様が来られないとなると、少々厳しくなるかもしれませぬな」

「場所は掴めたのか?」

「御意。左京区宝ヶ池にて魔物の出現瘴気を感知致しました」

都爺の後から術師が言葉を繋げれば、夜近は少し考え込むような仕草を見せた。

きっと、今夜の戦略について思考を巡らせているのだろう。

同時に、それは月詠の一件について完全に手放した態度という証明でもある。

「白川にて捕獲した魔物の分析は済んだか?」

「御意に御座います。風属性の大型獣、これまでに見た事のないタイプですので新手の出現かと思われます」

「これまでのデータを照合して判明できた事は?」

「低知能の大型獣、しかし力技には優れた魔物でしょうな。獰猛の類かと」

「ならば、同じ土俵での勝負は不利だな。術師を編成、直ちに出兵させろ」

「仰せのままに」


一礼だけして去っていく仕え達の後ろ姿を眺め、思い出したかのように庭を振り返ってみれば。

―――そこにはもう、彼女の姿はどこにもなかった。

そして何故か、赤い親友の姿も。



「・・・何故、こんな事をした・・・」



顔中の筋肉が引きつり、苦渋の表情が自分でも分かった。

それでも、吐いてしまった呟きは苦悩に満ちている。

怒りで頭に血が上っているワケではない。

豹変した姿が気入らないワケではない。

禁呪に手を出してまで、彼女は自分に縋っている。


ただの成長促進薬ならば、ここまで嫌悪になどなったりはしなかっただろう。

―――禁呪の恐ろしさを、彼女は知らないのだ。






※ ※ ※





誰もが美しいと賛美し、きっとそれは『美女』の類に相当するだろう風貌は、街中の男ならず同性までもを振りかえらせていた。

だが、今の彼女にとっては邪魔なのだろう、どうにか早く誰の目にも触れない場所に辿り着きたかった。


「おいっ、月詠!」


そんな彼女を追ってきたのは、歌麿だった。

召集命令が発令されている今、神門家から離れていいのかと問うべきなのだろうが月詠は足を立ち止まらせていく。

「・・・・麿、ちゃん・・」

「お前、本当に月詠なんだな?」

やはり俄かには信じられないのだろう、彼はまだ戸惑っている。まぁ無理もないだろう、あの小さな童顔を見せていた月詠がいきなり成長した姿を見せたのだ。

「夜近様は・・・」

もしかしたら、夜近も追ってきてくれているのかもしれないという期待があった。いや、追ってきてくれなくとも、彼に何かしら伝言でも伝えているのかもしれないと。

無論、そのような淡い期待は一瞬で消えていく。

「夜近の奴、不器用だからさ。そんな落ち込むなよ」

「そんな事を言う為に追ってきましたの?・・落ち込んでなど、いませんわ」

まるでムキに意地を張る子供のようで、口が言葉を放ってから自己嫌悪に陥っていく。

しかし歌麿にしてみればいつもの月詠の態度にしか見えず、彼にとっては充分な証拠になったらしい。

「本当に月詠なんだな。しっかしまぁ、ここまで化けるかよ」

「・・・・何が言いたいんですの」

「お前、元から素質あるんだしよ、化ける必要なんざなかったと思うんだよなぁ」

腐れ縁の相手を目の前にしては素直に『綺麗』だと褒める事はできないのだろう、それでも、世間一般の反応も歌麿の反応も同等のものだ。

ただ違ったのは、一人だけである。

一番認めて欲しかった者だけがこの姿を拒絶した事実が、今の彼女を覆う悲しみだ。

「とにかくさ、今夜は屋敷に戻っておけよ。夜近の言う事には何かしら理由があるんだろうしさ。それに、禁呪とかいうのに手を出した事が都爺達に知られでもしたら、只事では済まされねぇんだろ?」

「・・・・・それが・・何だと言うんですの・・・・ワタクシの気持ちがっ、麿ちゃんなんかに分かる筈がありませんわ!禁呪における厳しい制約や規則、果てにはその処罰など、花嫁であるワタクシは知り尽くしてますのよ!!」

―――だったら、何故―――そう問う前に、声は繋がれる。

「認めてくださると思ってましたのに・・っ!どれだけ尽くせば、あの方はワタクシを受け入れてくだりますの!?」



何が足りないのだろう。

何が必要なのだろう。

努力は日々重ねている。

それでも報われない数の方が多すぎて、積み重ねていく過程よりも先を急ぎ、最終的見解を実行した。

切羽詰っていたのかもしれない。

窮地にも似た心境だったのかもしれない。

そんな状況や環境に甘えたくはなく、だからこそ―――禁呪に頼った。

彼が、禁呪を管理する最高権威統治者だと知っていても、だ。



「・・・・・あいつがさ、なんでお前を手放さないのか、知ってるかよ?」



月詠の悲痛が暫し木霊した後、珍しく静かに落ち着いた歌麿の姿がそこにはあった。

慰めるのも相手の心境に合わせるのも不器用な彼だ、恐らくは夜近の真意を月詠に知らせてやりたかったのかもしれない。

無論、今の彼女にそれを聞くだけの余裕があれば良かったのだが。

「何を、言ってますの・・?ワタクシが、花嫁だからですわ。幼き頃に契約を交わしたから、この都の後継者として強い力を後世に残す為だけに――――」

「・・・・本気で、言ってんのか?」

赤い髪が少しざわついた。

周囲の木の葉の鳴らす音色に混じって、月下で彼の髪が暗く赤く光る。

さすがの月詠も少し言葉を詰まらせてしまうが、それでもその意思を更に強調していく。

「あ、当たり前ですわっ、そうやって教えられて育てられて生きてきましたのよ!!間違ってるはずがありませんわ!!」

「誰も間違ってるなんて言ってねぇ。俺が分かったのは、お前が夜近の事を知ってなかったって事だ」

「・・何・・・ですの・・・?」

彼女が知らない事を、彼は知っている。

だが、もう知らせてやる事が馬鹿馬鹿しくなっていた。

「都市主に選ばれた花嫁は、その命を彼に捧げる為の存在ですのよっ。ワタクシが夜近様を求めても、振り向いてくださらないのがその証拠ですわ!」

「―――・・・殴るぞ、タコ」

振り下ろす場所に困ったその拳を振り翳せば、すぐ傍らの幹が酷く唸る。

その一瞬で大きな木は揺れ、茂る葉はざわめき、幾ばか振動すら目で確認できた。

「お前は夜近の事を見てきたんじゃねぇのか!一個人のあいつだけを追ってきたんじゃねぇのか!お前はあいつの容姿に惹かれたんじゃねぇだろッ!!」



―――幼き頃に交した契約。

―――命も体も捧げた契約。

―――全てはこの都の為だと、教えの全てを受け入れて優秀な花嫁を目指してきた。

―――それは花嫁も都市主も、互いが互いにとって道具でしかないのだと。

だからこそ、日光は真っ向から反対したのだろう。

例え家柄同士の縁を断ち切る真似をしても、許せるはずがないとまで『花嫁選出儀式』であるあの時に言い切った。


『苦しむのは、悲しむのはお前なんだ月詠!』

『何故喜んで下さりませんの~?名誉誉れな事なのでしょう~?それに駿河家は兄様がおられますから跡継ぎも問題ありませんし~』

『月詠、そういう事を言っているのではない!たった一人の大事な妹を、都の犠牲者にしたくないと言っているんだ!』

『ワタクシの事はワタクシが決めますの!ワタクシは兄様の人形じゃありませんの!』

『な、この馬鹿者―――ッ・・!』


―――それが、日光が月詠に手を出した最初で最後の喧嘩だった。

今でも納得できていない事は明らかだが、その件に関してはそれ以来月詠に牙を剥く事はなくなったのである。逆に、夜近を敵対視しては花嫁資格剥奪のチャンスを掴もうとしているらしいが。



「・・分かりませんわ。ワタクシの存在は、ただ都の為だけに在るだけで・・ワタクシはそこに少し意味を求めたかっただけですわ・・・」



応えてくれないから何かに縋りたかったこの気持ちを、彼が知り得るはずもない。

知っていたら、放ったらかしにされるはずがない。

冷酷な口調で目の前に現れるなと言うはずがない。


「ワタクシでなくても、花嫁の代わりはいますものね・・」





『要らん。邪魔になるだけだ』





必要ないと拒絶される事が、何よりの恐怖だった。

今回の事に限らず、いつでも月詠の心は彼に囚われているからだ。



「・・夜近様―――・・少し、苦しいですの・・」



答えも与えず不機嫌なまま去って行った歌麿を追うでもなく、寂しい林道に一人取り残された月詠はそんな事を呟いた。

月は頭上で輝き、星も綺麗に拝める夜。



―――涙が、溢れていた。











「あらやだ、日光。今日はもう営業終わってるわよ」

「誰がこんな不気味な人形を好き好んで買いに来るものか」

「んもぅ。久々に会いに来てくれたんだから、もう少し優しくしてくれてもいいじゃない」

「鈴零、その気持ち悪い口調をいい加減改めろ。それに、今日は裏の客として来ただけだ」


背丈は日光と同じぐらいだろうか、両肩を露にした中華を思わせる衣装に身を包んでいる彼女―――いや、鈴零と呼ばれた彼は、女の子が飛びつくような可愛いぬいぐるみを手にしながら日光に擦り寄っている。

整った顔立ち、長身の身丈に悪くない体つき。

だが日光も慣れたもので、片手でそれを制しては店と家屋を繋ぐ敷居に座り、勝手知ったる他人の家とばかりに寛ぎ始めた。

「お前は片づけをしたままでいい、作業をしながらでも口は動くはずだ」

「・・あら、随分と余裕がないのね?珍しいじゃない」


いつものマイペースが感じられないと言いたいのだろう、店内を埋め尽くす人形一つ一つを大事そうに撫でては目つきの悪い犬の人形を選び、「今日はこの子ね」と、日光にしてみれば不気味な呪文である。

―――ここ千年坂に店を構えているファンシーショップ、店内は女の子が好きそうなグッズで盛りだくさんである。壁の色もピンク一色に染まっていて、男一人で来るには些か勇気を必要とする場所だ。だが、この店の隣には歴史と格調ある骨董品屋だったり、どうにも立地条件を間違えたとしか思えない並びだ。だがその答えは至って簡単、この女子高生に人気が高いファンシーショップも、独特な雰囲気が漂う隣の骨董品屋も、両店の責任者が目の前でぬいぐるみを愛でる彼だからだ。

口調から分かるように、男であって男でない性格である。


「日光がそんな顔をする時は、過去にあの女にフラれた時だっけね?」

「涼は関係ない」

「そう。なら月詠ちゃん関連かしら?」

呉服の袖から煙草を取り出し吹かし始めれば、それが肯定の合図となるのだろう。

店内は禁煙だと何度言えば分かってくれるのか―――付き合いの長い関係だけに、もう諦めているらしかった。

「ふぅん?喧嘩ってワケでもなさそうだけど?」

「・・・馬鹿な妹を、探してくれ」

「―――・・っ・・??」

ふいに顔を埋めたかと思うと、弱弱しく苛立った声が目立つ。

こんなに落ち込む姿は何年ぶりだろう、いや、日光をよく知る彼だからこそ、最後の手段として自分を頼ってきただろう事は明白だ。

だが、この日光があの溺愛している月詠に『馬鹿』などという単語を使うはずがない、きっと聞き間違えたのだ―――と、店の電気を消しては屋内に続く間取りの電光だけが明るさを保つ。

そして慌てるでもなく日光の正面に近づけば、続けて衝撃的な言葉が届いた。



「あいつの身に何かあれば、俺は・・・夜近に会わせる顔がない・・・」



煙草の先端で燃え尽きていく灰だけが、地味に時間を刻んでいく。

重さに耐え切れなくなった灰が地面を汚し、その僅かに小さな音で鈴零が我に返っていた。そして店の奥から灰皿を持って日光の指からそれを抜く。

もう吸えるほどの長さも保っていない煙草、実際に吸ったのは最初の一口だけだろう。


「・・神門家から禁呪の資料を持ち出し、妹はそれを実行した」

「っ、なんですって・・!?」

「知っていて、俺は止めなかった。分かっていて、見ぬフリをした。・・・止めるべきだったのだと、今更気づいた愚かな男だ・・」


妹の着用していた着物が脱ぎ散らかされた室内で見た物は、妹らしからぬ部屋だった。

涼と一緒にみたあの部屋にはあの異臭が立ち込めていたし、さすがの涼も鼻を押さえるほど酷かったのだ。

だが、日光が一番驚いたのはそれではない。部屋の片隅に放置されていた分厚く古い書籍、それが彼の目に止まった時には既に遅かったのだ。

匂いが酷かった為か、涼は彼の行動に意識していなかったようだが―――


「証拠を見つけてまで現実を否定するほど、俺は愚かじゃない」


そうではありませんように―――

推測はただの可能性なのだから―――


そう言い聞かせ、何度も自分に言い聞かせ、必死にしがみつこうともがく自分を自覚した時に言葉を聞いた。




『黙っているのが優しさとは思わくてよ』




弾かれた気分だった。

地上に上る為に手にした一筋の蜘蛛の糸が断ち切られるような、それはあっけなく簡単に、信じようとしていた目の前の風景があっという間に遠ざかっていく。


―――涼の言うように、俺は未練がましい男なのだろう。


永年思い続ける相手だけじゃない、それは妹に対しても。

手の中にないからこそ欲しがる、ないものねだりの子供のように、自分でも嫌気がさす。

―――欲しいものは、いつも自分の知らない所で消えていくのだ。

―――本当は自分が自ら見逃した事も気づかずに。


「・・扱ったと思われる禁呪の内容は、成長を一気に早める効力を伴った促進作用を重視した薬物だ」

「っ!それって、1級指定じゃない!!下手したら命に危険があるのよ!?」

「そんな事は分かっているっ!百も承知だッ!だからお前の元に頭を下げに来ている!!」

「・・っ、・・日、光・・・・」


禁呪と指定されるからには相応の危険が伴うと判断されている。

そしてその中でもランクが分かれており、1級とは上から2番目に危険なレベルである。神門がそこまでして危険だと指定している1級レベルの存在、ただの薬物ならここまで過敏にもならないだろう。

禁呪、つまりは―――


「月詠ちゃんは駿河の血を継いでいるからこそ、術を扱う事にも長けているものね。でも、だからこそ・・禁呪が完成した」


―――そう、目に見えて分量が確認できないだろう『術』というが存在が含まれているのだ。こうなれば中和剤など作った所で何の役に立つだろうか。

・・それが、禁呪と呼ばれる由縁である。


「夜近に知らせる必要はない。あいつが知るまでに月詠を見つけ、禁呪から解放させればいい」


―――言うのは簡単だ。


「・・それが、日光の選択ね?それでいいのね?」

「―――・・ああ。月詠に何かあれば、あいつは正常な判断を欠如させる。そうなれば都に大きく響き、結果的に見れば経済ダメージは免れん。・・都の存続の危機とまでは言わんが、・・・口喧しい都爺らが知れば、駿河家もただでは済まされまい」

「ほんと、よく口が回る男だこと。そこまで見事な建前と口実、尊敬しちゃうわ」

「鈴零」

「高くつくわよ?」

「店のビラまきでも客寄せでも、何でもやってやる」


他人を頼る真似を嫌う日光がここまで縋っているのだ、相当必死な決断だったことだろう。

それでも誰よりも現実を直視しているからこそ、頭を下げてまで苦渋を味わう選択肢を選んだのだ。

長年の付き合いなだけに鈴零はその心中が痛いほど分かるらしく、からかう事すらできはしない。


「じゃ、髪の毛を一本お出し」


言われるまま黒く艶の光った髪の毛を一本抜き、小さな痛みが頭皮に走った。

それを正面で立ち構える彼に渡せば、肩に抱いた犬の人形がそれを食べる。そう、それは本物の生き物の如く、活発に動く生き物になっていたのだ。

「何度見ても不気味な光景だな」

「お黙り。人形師の私にかかれば、居場所なんてすぐに知れるわ」

「俺の髪の毛から月詠の居場所を感知するのだったか?何とも便利な人形だ」

犬――の人形――は尚も味わうように日光の髪の毛を堪能しており、暫らくはその場で大人しくしていたのも束の間、一瞬何かを感じ取ったのかふいに天を仰いでは外に出ようと駆けた。

だが、外への扉は鈴零が店締めの為鍵をかけた後だ、開けられなくてガリガリと催促する。

躊躇う事もなく鈴零は幾つかの人形を肩や腕に巻き、その足で店の扉を開けた。

「日光、行くわよ。この子のこの様子だとちょっと遠いみたい、走るわよ」

「三十路前の体にはきついな」

「噛まれたいのかしら?」

―――人形達にとっては鈴零が主なのだろう、外への入り口が開くのを待っていた犬は、いつの間にやら日光の頭に噛み付いていた。そして店内の人形達が一斉に日光を睨んでるようにすら見える。

「ほら、馬鹿やってないで行くわよ」

そう言った頃には鍵も解除されたようで、一人先に外へ出ていた。そして人形に噛まれている日光も店から外へ出ると、鈴零は再び店の扉を閉めて念入りに鍵をかける。

―――頭上を見上げれば満天の星空と月が浮かんでおり、よもや今が緊急事態などと思えない平和な夜空だ。

そして、この星空の下で妹はどこで何をしているのか。

一番最初に、恐らく神門家に夜近に会いに行ったのでは―――と考えたが、今夜は仕事の為出兵準備に追われていると涼が言っていた。戦士の姿として認識されない風貌に変身しただろうと思われる恰好では、どうせ門前払いが関の山だろう。

禁呪に指定されている薬物の副作用効果はどれ程のものかも分からず、かといって解呪法を知っているわけでもない。

だが、まずは身柄の保護が優先事項だろう。



「・・・時間が経ちすぎたかもしれんな」



どうか無事でいますようにと、珍しく祈りにすら縋る日光だった。




12






「どう?揃ったかしら?」


この場所には不似合いな程の透き通った女性の声。しかし、夜近達を見つめるその視線は変わらず、神出鬼没とばかりに突然現れた女性への対応も無視したまま、彼は始終その視界に都市主である夜近を映し続けていた。

遊歩道に沿った森林の中―――『彼』は夜近達と同じぐらいの年齢だろう、頬には何かの紋章が描かれ、額に赤いバンダナを巻いた風貌だ。

一方、若い女を思わせるもう一人の人物は、頭から長い布で顔の半分を隠している為に表情はその口元からしか窺えない。勿論、漂うその雰囲気からして『妖艶』の部類に入る事は間違いないだろう。

そして『彼』に至っては一見『寡黙』なイメージを持ちやすいが、口調を聞けばそれもあっという間に崩れるに違いない。

「一人足りねぇな」

「足りない?鎌衣、どういう事?」

習うようにして仲間と思われし女性も覗き込んで見るが、兵士や都爺や、酷く混雑しすぎていて確認し難いらしく、麗しく繊細な表情の中で眉を変形させた。そして『鎌衣』と呼ばれた彼は、見て分からないのかと言いたげに顎で示してやる。

「都市主の女だ。駿河の娘さ」

「小さいから見えないのではないの?」

「これでも視力はいい方でな。第一、駿河の力を近くに感じるのにあの小娘だけがいねぇ」

「別場所に配置されているのではない?」

「名家戦士が3人も一箇所に集ってるってのに、駿河だけ別場所か?」

「都市主の考えは私には分からないもの」

「・・・・・は」

これだけの兵士を動員しておきながら、それはないだろう―――と彼は嘲笑う。藤棚に戦力を集中させているのが全てを物語っている、つまりは標的としている魔物は既に感知済みだという事だ。

それを踏まえれば、駿河の戦士を別隊にする必要はない。



「・・・待ってろよ、都市主。てめぇの地位は俺が奪ってやる。てめぇの大事な婚約者もな」



意気高揚とばかりに鼻を鳴らし、抑え切れない躍動感が鎌衣の心を急かす。



「さぁ、始めようか?都に眠る怨念とのパーティーを」






13






「ッ!!ここは宝ヶ池ではないか!」

「でもこの子は確実に、ここから月詠ちゃんを捉えてるわよ」

「夜近が、今夜の戦にあいつを加えているという事か!?」

「さぁ、どうかしらね」


巨大化した人形を移動手段に起用してここまで来たらしい二人は、目の前に広がる戦場を確認してはそんな会話が成される。

兵士の士気高まる幾多もの声、武器を揮う覇気、怨霊から発生される地の底から木霊すような地響き。

そしてその向こうには―――『都の戦士』が戦っているだろう音が確認できる。


「今夜は随分と賑やかね。結界も施してないようだし、兵士も随分な数だわ」


宝ヶ池の周囲を兵士の数で完全包囲するともなれば想像以上に相当の人数が予想される。勿論それは街や一般人に被害が出ない為の処置である事は明白で、それと同時に必要以上に戦力を増員している証でもあるだろう。

だが、それは何故か―――月詠が不在だという何よりもの証明だと、唯一人日光だけは推測する。

「戦力にしていないというのに、月詠がここにいるだと?どういう事だ」

「ちょっと、このまま戦場に突入するつもりじゃないでしょうね」

「それ以外にあるか?」

「冗談じゃないわ!この子達が怪我でもしたらどうするのよ!」

「所詮は人形だろう。生身と人間と違い、治せる命ではないか」

「随分な言い方ね。安っぽい価値とでも言いたいのかしら?」

「は、まさか。戦場で大いに暴れる、魔物よりも厄介な存在だろう?」

巨大化した『犬』の背に優雅に座る鈴零と、『蛇』の上で剣を抜く日光。

だが主の許しがない以上は動く事が許されないとばかりに、命を宿す人形は微塵も動きはしない。

「ここまで足を伸ばしたのなら、観賞でもしていけ」

「桜はとっくに散ってるじゃない」

「散るのは花弁だけではなかろう」

「美しく散る命以外に興味はないの」

「ならば、模範演技でも示してみせてはどうだ?ご無沙汰なのだろう?」

「客寄せに加えて店内の掃除と接客作業の追加ね」

「店の評価が下がってもいいなら勝手にしろ」


女性以上に美しい表情が眉を変形させるも、メリットがある分頑固に断る理由もない。蛇の人形から降りた日光は彼からの返事に納得してみせると、その足を早々とばかりに宝ヶ池敷地内に向けて駆けていく。

その後ろを犬に乗った鈴零が続くのだが―――それを目撃する兵士達は動揺を隠せないらしく、どよめきが沸き起こる。無論、そんなものを相手にする日光ではない、さっさと敷地内に侵入しては進行方向を邪魔する怨霊を剣で切り裂き、その足を藤棚へ向かわせていくのだった。



「下鴨神社に続いてタダ働きか、不快な事この上ない展開だ」






※※※






一方、国際会議場側に隣接する宝ヶ池入り口付近―――日光が敷地内に侵入した頃、その対角線上にあるこの場所でも二人の戦士が姿を見せていた。

相変わらずの女王様スタイルを見せ付けるような衣装に身をまとう涼、そして一方、風の流れすらも味方につけるように身軽で活発なイメージを受ける衣装の風。風のその背中には二本の大きな特殊に属する刀が背負われている。

その門付近には2人の都爺が立っているが、大方は魔物が逃げ出す道をシュミレートした結果の対策なのだろう。

戦士のような圧倒的な力はなくとも、その『力』は術者部隊を遥かに上回る。唯一の弱点は、老いぼれ故に体力がないぐらいのものか。


「随分と大掛かりなのね、今回は」

「今夜も遅刻かの?涼、風」

「白川通りで捕獲した魔物の後処理までさせたのは何処の何方(どなた)だったかしら?」

「こっちは南方結界の調査させられてる上でいきなり呼びつけ受けてんの!文句言われる筋合いなんかないっつーの!」

「ふぉっふぉっふぉ。まぁよいて、都市主様達は既に戦況の最中。戦力が加われば都市主様も喜ばれようて。それが鳳来寺家の当主代理姉妹ともなれば、大いに有利に動くじゃろう」

長い髭を揺らしながら軽快に笑う都爺達だが、前線に身を置く心境を理解しているのか―――そう問い詰めたくとも、どうせ相変わらずの古い知識と爺特有の説教を受けるだけだ。風は酷く不機嫌そうに睨むが、南方の調査に向かっていたというのにその有り余る元気は一体どこから来るのか。

そんな隣の妹に都爺への威嚇を諦めろと注意しても無駄だろう、涼は溜息をつきながらもう一人の都爺に向き直る。

「月詠ちゃんは?」

「花嫁様は御不在じゃ。出現した魔物の体格から考えて月詠様の力がどうしても必要なのじゃが―――連絡が取れぬでは仕方あるまい、都市主様は月詠様を抜きにした戦策で対応しておるよ」


あぁ、やはりあれから何かあったのだ―――禁呪に手を出したのだと日光は訳の分からない事を呟いていたが、あれは独り言だったのだろうか。

それとも、口にする事で真実を悟ろうとしたのか。

あの日光の事だ、真実を知るのが怖いのではなく認めたくなかったのだろう―――それが月詠に関する事なら尚更、だ。

あれから白川通で別れた彼は何処へ行ったかは知らないが、月詠の身に何かあった以上は一箇所に留まっている彼ではない事ぐらい知っている。


「戦士としての立場にも影響が出ては、都市主も黙っていないでしょうね」


その元凶が、昼間に起きた夜近との衝突事故だとは思いもよらない涼だ。

だが、戦士が足りなくとも出兵命令は容赦なく下される。


「で?今夜の敵はどんなヤツなワケ?強かったりすんの?」

「たかが雑魚相手に私達が呼ばれるとでも思う?」

都爺の間を通り抜け、暫らくは一本道が続く。だが静寂とは呼べない音が四方八方から轟き、そんな音をBGMに姉妹は会話を続けた。

「歌麿は来てんの?」

どこか嬉しそうにその名前を呼ぶ風は、戦況など二の次なのだろう。それに微笑みながら肯定すれば、風の表情は酷く綻び始めていく。

「嬉しそうね?」

「涼もっしょ?」

「そうね。歌麿が成長してくれないと、日光に申し訳ないわ」

「何何?進展あったワケ?」

「馬鹿ね、ある筈ないでしょう?5年も前に別れてるのよ、ヨリを戻すにしても時間が経ちすぎていてよ」

「まぁた意地張っちゃって?」

「向こうが勝手に言い寄ってくるだけだわ」

「嬉しいくせに。もー、くっついちゃいなってば」

「からかうのはよしなさい。日光と別れた理由はアンタも知っているでしょう?」

口では強く否定しているものの、その頬はどこか赤みが差している。それこそが涼の本心なのだろう、それを察する風は強引にでも背中を押す真似を何度も繰り返す。

「別にいいじゃん、別れた理由が何だってさ?現に、日光の奴は未だに求めてくんでしょ?」

「さぁ、どうかしらね」

「身近な場所で距離を一切変えずに、そこにいる事に絶対の信頼を持ってるワケでもないでしょーに」

「・・・え?」

姉の恋愛事情の延長線上にふいに唱えられた言葉が、何故か涼の思考を支配していた。



(そこにいる事が当たり前?つかず離れず、今の微妙な距離に変化がないと信じてる?)



「日光はいい齢した大人じゃん。そんな綱渡りみたいな状態でいる事に満足してるワケないって」

「・・・・互いに了承した事よ」



一定の距離を保ったまま、時に駆け引きの試される関係。

その距離に変動がないと信じているのは自分で、それを信じているのは『別れた理由』を日光も理解しているからだ。


だが、なんと我儘な自分なのだろう。

これでは、振り回しているのは自分ではないのか。




『涼、覚えておきたまえ。君がその生き方から解放された時、俺はきっと、君を手に入れようとするよ』




―――その言葉に一切偽りがなく、永遠に囁かれる約束だと信じている。



自分から離れる事は有得ないのだと。



「涼?どしたの?」

ふいに姉の表情が固まっていく事を不思議に思うのか、その顔を下から覗きこむ。そのあどけない表情が視界に入り、涼は慌てて首を振った。

「な、なんでもなくてよ。ちょっとこの瘴気に気が滅入っただけ」

「結構な数みたいだしねー?メシア様のライブに向けて体力つけるいい機会って感じ?」

どんなにハードなライブなのだろう―――そうツッコミを入れてやりたかったが、残念な事に目の前に二股の道が見えてくる。

ここから左右に別れ、半周を描くように進みながら魔物殲滅作業、そしてそのまま合流する作戦だ。対角線上には出店などが並ぶ正面入口付近、そのすぐ近くに夜近達のいる藤棚がある。勿論、今いるこの場所からも池を挟んで藤棚付近がよく見えるのだ、ここから一本道なだけに道に迷う事もない。


「・・池が随分と濁ってるわね」

「夜だからじゃないの?んじゃ、アタシは左側行くから」

「ええ、後で会いましょう」


楽しそうに駆けていく妹の背中を見送り、涼は髪の中から使い慣れた鞭を優雅に取り出す。腰にも戦闘用の武器は装備されているが、こちらの方が使いやすいのだろう。女王様魂といった所か、その鞭には魔物や怨霊に対応できるよう、何かの魔術文字がびっしりと書き込まれている。

『物質』ではない怨霊相手に武器は通用しない事は当然で、神門が主に術者部隊を怨霊と対峙させるよう配置させているのもその為だ。兵士の剣では不毛な体力消耗にしかならない。

しかし、そこに『魔力』といった力が加われば話は別である。だが魔術文字を武具に乗せるのは簡単な話ではなく、所持しているのは涼のような名家の者ぐらいだろう。

兵士は物体化した魔物を、術者は不浄な怨霊を―――その配置は間違ってはいないのだろうが、涼に言わせれば『面倒』な部類なのだろう。

風と別れて数秒その光景はすぐ視界に入り、気合を入れ直すようにして鞭で地面を荒く叩いた。その音で神門の兵士を始め術者一同が涼の存在に気づいたらしく、大きな戦力が加わるのを実感した為か士気が異様に高まりを見せていく。



「今宵の鞭の味は一味違ってよ?たっぷり可愛がってあげるわ」



妖艶な笑みにくべられる真紅のルージュが妖しく光る。

赤い瞳の中には激情を、美しいその肢体は月の下で踊り始めていく。





14





「やっぱり駿河の娘がいねぇな。欠席か?」


眼下では戦場の広がる大地。先程の場所から同じようにしてその様子を見守る鎌衣は、肌で感じる高揚も無視したように呟いた。

その隣では、必要以上に肌を露出した恰好の美しい風貌を見せ付ける女性も変わらず同席しており、自分達が作り出した存在が消え行く場面を観察しながらも傍観態度を維持している。

「そんなに気になるの?」

「茶化すんじゃねぇよ。確認できる事は一度に見ておきたいだけだ」

合理主義、とはまた違うだろう。求める事柄に対し誤差が生じるのが嫌なだけだ。

「どこにいやがる、駿河の娘は」

「私達の作り出した瘴気と戦士達の気がごちゃ混ぜになって、駿河の力なんて特定できないわよ」

「俺には分かるさ。神楽、てめぇと違って俺は、あの二人への思いは一味違うからよ」

「あら、残念」

神楽と呼ばれる女性はからかうようにそう肩を竦めて見せ、その豊満な胸が動作に合わせて揺れる。そして鎌衣は、じっとしているのが我慢ならなかったのか、数回の屈伸運動をしてから目の前に聳え立つ木へと飛び移っていた。

「ちょっと、私達の存在がバレたら元も子もないのよ?」

「観察してくるだけだ、接触なんかしねーよ」

「目撃されないよう気をつけなさい」

「そん時ゃ、殺すだけだ」

「単純明快な回答、痛み入るわね」

「ふん。言ってろ」

そして木々から木々へ駆け、木の葉のざわめきこそが彼の道順を夜空に奏でる。

だが、誰一人として彼の存在に気づく者などいないだろう。唯一近い場所で戦っている神門の兵士とて、空を見上げる余裕などなかったからだ。



「ご苦労な事だ、本体を叩かない限りは増え続けるそいつらと永遠に遊んでろ」



嘲笑にも似た笑みで一蹴すれば、もう興味がなくなったとばかりに次の方向へ目を向ける。

普段でもあまり人気の感じられない道で、宝ヶ池公園内部に間違いはないのだが少し反れた脇道だ。そのまま直進すれば山道に入る。

だがそこで、鎌衣の足は止まった。いや、木々から木々に移ろうとした瞬間、眼下に見つけたものに目を奪われたのだろう。


「なんだ?一般人の侵入を神門が許したのか?」


この宝ヶ池の敷地は、戦況を予測して神門の兵士が完全包囲したのだ。警戒態勢も敷かれている事から、一般人の侵入は許可されていない。だが、その網目をくぐって侵入できたとも思えない。彼は、神門の警備が『完璧』である事を知っているからである。

しかし、眼下には雅な着物を着用した若く美しい女性。

その背後には数匹の魔物と怨霊。

―――どうやら、追われているらしい。それとも、追い詰められる真似を演じて戦場の中心から離れたこんな場所まで来ているのか。

だが、彼女が一般人ならば助かる確率は0に違いない。

彼も事実、眺めながらそう思っていた。

だが。



「・・・・あいつ、剣士か?」



走る動作の最中で仮衣が捲られ、その奥に2本の日本刀を確認したのである。

視力がいいと自負するだけあり、そこに描かれる家紋も確認した。


「・・・・駿河だな。都市主の婚約者ではないようだが・・・・だが、駿河本家の家紋を持てる者など、他にいるのか?」



―――勿論、禁呪で成長した月詠である事は知る筈もない。



面白い映画を見つけたとばかりに枝の上に腰を落とし、暫し観賞していく鎌衣である。





「はぁっ、はぁっ・・!!」


どれぐらい走ったのか、覚えてもいない。

禁呪が全身に回る手助けをしている以外の何物でもない自殺行為ではあるものの、戦うには場所を変えなければならなかった。

夜近達の近くで剣を抜けば、この体から剣から発せられる『力』に気づかれてしまう。神門の屋敷で『邪魔だ』と強く拒絶されたというのに、のこのこ着いて来たなど知られては。


戦う力はある。気力もある。

だが、彼の邪魔だけは許せない。

それが自分の事だったから尚更の事。


「こ、この辺でいいでしょうか~・・?」


走った距離はどれぐらいのものだろう、しかし体が小さかった時はいくら走っても荒い息に変化する事などなかった。

肺呼吸活動が苦しくなる事なんてもなかった。

これも成長したからだろうか―――背後を振り向き様に呼吸を整える準備を始め、その腰から剣を抜く。

しゃらり と独特の、刃が鞘に触れながら抜けていく音が、どうにも懐かしくすら感じる。

目の前には2体の中型獣魔物、空中を浮遊する4体の形なき怨霊。


「ワタクシを傷つける事なんてできはしません事よ」


そう、自分には。

この体を守る結界が張られているのだから―――そう勢いよく豪語しようとした瞬間、月詠の麗しくも大きな目が更に見開く。



―――そうだ、片方のリボンは。

―――あの時、屋敷で夜近に手渡したのではなかったか?



既に二刀流を構えているせいもあり、確認する事はできなかったが。

―――いや、結界などなくても同じ事だと、戦士独特の鋭い眼光を取り戻し、構える。




―――だが、この違和感は何だろう。

―――何かが、違う。

―――いつもと、何かが。



いや、そんな場合ではない―――と首を振り、雑念を追い払う事に専念する。

一度鞘から剣を抜けば、雑念を持ってはならない。

その雑念こそが命取りとなる。

剣士たる者、その剣に命を委ねる者。

剣に迷いがあっては剣士として不成立。

―――常日頃から兄に口煩い程に教えられてきた説教の言葉だ。


「剣は己の分身、ですわ」


舞うように華麗な剣さばきも、優雅な切り口も、その全てが己であるのだと。

だがそこに雑念が入り混じれば迷いを齎(もたら)す剣となり、己の命は容易に取られるだろうと。

一点の曇りも許さない心で臨む事こそが、剣士への道―――頭の中だけで尊敬する剣士としての兄の言葉を何度も何度も反芻した。



(大丈夫、大丈夫ですわ。ワタクシの体が成長しただけですもの。技も力も、いつもと変わりなく使えますわ)



正体の掴めない不安材料に目を瞑り、何度も自分を納得させる。

そして柄を鳴らし小さな金属音が二つ重なった時―――月詠は動いた。

いつもの小柄な体格こそ機動力には優れたが、この際そんな文句も言っていられない。


「は、ああああぁぁぁッッッ!!!」


両手に剣を構え、その足で魔物向かって一直線に駆け走る。

草木がその動きに合わせて軽快なリズムを刻むように揺れ、自らの動きが生み出す風と同化していく。



―――そう、自分の体が少し大きくなっただけ。



「・・・・っ!?」



右手の剣を振り翳しては、隙を与えないとばかりに左手の剣で追い討ちをかける。

まるで円舞のように、まるで優雅な蝶のように華麗に踊るその姿―――近くの木の上で眺める鎌衣ですら魅了していく。


「ほぅ。こりゃ見事なモンだな」


賛辞の拍手すら送りたい気分―――しかし、月詠本人にとっては異常事態を自覚していた。

剣で風を切っては魔物の肉を裂く。

剣で身を守る盾を作っては重圧感に満ちた攻撃を防ぐ。



(なに・・・なんですの、これ・・・っ)



動きが、違う。

使い慣れた自分の体なのに、今まで戦ってきた戦士の体だというのに。

その違和感は月詠に多大な不安感と焦燥を与えるには充分で、しかし殺るか殺られるかの場面だからこそ動きを止めないだけなのだろう。



(違う・・っ、何が違いますの・・・!?)



いつもと何かが違う。

一体何が違うのか―――そう考えるも、自分の動くその全てがそれに当てはまるのだから、特定できない。

動きも、視界も、その剣を扱う力配分ですら。



「何、ですの・・っ?なんでこんなにも、全てが何もかもが狂ってますの・・っ!?」



動揺するのも無理はないのかもしれない。

あの小柄で小さな体で戦士を務めてきたのだ、それがいきなり視点や視界の高さが変化すればそれに伴う力に誤差が生じるのも当然の話である。

そして一番の問題は、命を委ねるその剣の長さだろう。

剣士とは、自分の身長に合わせて剣を拵(こしら)えるのが普通なのだ。それが今の月詠の場合、体と剣が合わないのである。そうなれば当然、長年の経験で積み重ねてきた距離感や直感、武器と敵との間に発生するリーチも全てが狂ってくる。

機動力に優れた動きは発揮できないと理解はしていても、こちらはそれ以上に重要な問題だ。


「・・っ、あ・・」


息を整えようと数歩飛びながら後退した時、月詠が何かに気づいたらしく大きな目を更に大きく見開かせた。

脳裏に蘇ってくるのは、二度と聞きたくはないと耳を塞ぎたくなった、あの言葉。






『邪魔だ』






―――夜近は、この事を指していたのではないか?

体に変化が起これば、その視界から腕の長さから全てが狂ってくる。そうなれば当然、前線に配置される戦士としての活躍は期待できない。

これが密羽のような遠距離支援的な存在ならばまだいい、剣士ともなれば―――。



「夜近、様・・・・この事を、仰ってたのですわね・・・」



言葉が少ないからこそ誤解を生みやすい彼の事だ。きっと彼にとってはあの言葉が『最善』の言葉だったのだろう。

ただ無意味に月詠を傷つけたのではなく、月詠を思っての言葉だったのだ。



「・・ふふ・・・おかしいですわね・・・どうして今頃、こんなに嬉しくなるのでしょう・・」



―――涙が溢れ出す。

―――もう、止まらない。

―――視界が揺れて、威嚇を発し続ける敵の姿すら朦朧としている。



―――でも、もういいですわ

―――最後に、夜近様の本心を理解できたのですから思い残す事などありませんもの


―――助けてくださいとは申しませんわ

―――自分が犯した罪の後始末、とまで綺麗ではありませんけれど

―――でも、もう体が動きませんの、夜近様・・

―――全身が痛くて痛くて、でもそれ以前に剣士としての動きもできないと分かった以上、抵抗など無意味ですもの


―――けれど、騙したつもりはありませんの

―――夜近様と同じ知識が欲しいと思ったのは真本心ですもの

―――夜近様はとても遠いから、近づきたかっただけですの・・・





視界が揺れる。

何も見えなくなる。

自分が地面の上に落ちていく音すら、その感覚すら分からなかった。

それはまるで、彼方の幻が見せる夢のように。





―――・・・いつまでもお慕いしております、夜近様・・・・・





15






この宝ヶ池に出現する邪に値する存在、その数を数えた所で何になるだろうか―――これだけ兵士を投入しているというのに、キリのない作業にも思われた。

無論、夜近にも策はある。

怨霊から魔物に進化するのは、この場所に『闇』に属する存在があるからだ。近ければ近いほど、それは成長の手助けを担う役割となる。それと同時に、その『闇』を討伐すればこれ以上増える必要もない―――つまりは、その成長促進する闇の存在こそが、親玉だという話だ。



(成長促進―――・・・馬鹿な、月詠の事は忘れろ)



似たキーワードが、頭の中で重なる。

しかし、首を振ってはその雑念を追い払い、今対峙している魔物へ向けて剣の先を宛がった。無論、知能に優れているとは思えない中型の魔物。しかし成長してこの姿なのだから、親玉は更に大きな姿を見せつけるのだろう。

だが、その魔力を感知しているというのに姿だけが確認できない。


「夜近っ!いつまで続けりゃいいんだよッ!?」

「やはり簡単には姿を現さんか。囮が必要といった所だな」

自前の槍で一度に数体の魔物を薙ぎ倒し、その動作のついでに怨霊を切り裂く。

歌麿が文句を言うのも当然だろうか、延々と同じ作業の繰り返しにしか思えないからだ。定められた配置内にて、魔物と怨霊の討伐。―――ただ、それだけなのだ。だが、もう30分以上も経過している。

「瘴気が混雑しすぎて、こいつらの成長を手助けしてる奴から送られている魔力を感知できん」

剣が綺麗にその獰猛な肉の塊を突き刺し、息が絶えた事を知ると片足で蹴飛ばす。そして次の魔物向かって剣を構える―――さすがの夜近といえども、疲労を感じるに充分だ。

いや、それに加えて今の夜近には気がかりな一件を抱えているせいでもあるだろう。

だが、自分がどうこうできる訳でもない、と至って現実的な回答を手にすればそこに夜近の意思が募る。



都市主、指揮官、責任者。

それらの権限を放棄すれば、後々問題となるのは明白だ。

正当な理由を述べた所で、月詠が禁呪に手を出した一件を公にしてはいないのだから、その全ては夜近の責任問題に繋がってくる。

今まで優秀な都市主として生きてきた彼が、そんな器用な真似ができた筈もない。



「都市主様!!どちらで御座いますか!都爺様より報告を承っております!都市主様!」



戦場の轟音と騒音の入れ混じる中、一人の兵士がその名前を何度も何度も呼び続けている事に気付いた時、夜近の意識が現実に戻ってくる。

剣で優雅に魔物を切り倒しながら、神門の衣装を身に纏う兵士を呼びつけた。

「報告か?」

「御意に御座います!本来の『敵』と定める大型獣魔物の所在地が割れましたとの事です」

「マジかよ!早くしてくれ、夜近!」

聞き耳でも立てていたのだろう、すぐ近くで槍を振り回す親友の士気が少し高まった様子が窺える。

「どこだ?」

「は、こちらに―――」


走り書きのように、ただ数字と方角だけが並ぶ紙切れ。

だが、それは。


「緯度、経度―――これは・・・」

「夜近!どこだ!」

「ここだ」

「・・ぁ?」

読み終えた紙切れを兵士に渡せば、軽い会釈の後足早に去っていく。

そして夜近は、正面に広がる池を見つめた。

この藤棚、そして池のほとりから繋がる左の道を進んだ遊歩道沿いには、いくつかの貸しボートが無人で揺れている。そこにはスワンボートも確認できるが、大方昼間は恋人達の時間を共有しているのだろう。


「この池だ」

「池、って―――」

その言葉に習うようにして、歌麿も池を視界に収めてみる。

暗闇が酷く不気味な静寂を演出している以外には普通の池でしかないが―――そんな怪訝そうに正面の池を見つめる歌麿に向き直る夜近は、その彼の頭から爪の先まで舐め回すように見つめる。


「さて、魔物は赤色をお気に召すかどうか」

「あん?・・って、おい!まさか」

「囮になれ、歌麿」

「なんじゃそりゃあぁぁぁぁ!!!」

「如何せん、敵が池の下では戦おうにも戦えんしな」

「そういう事は兵士にやらせろよ!!なんで俺が!!」

「いや、生憎とお前の姉君もそれを希望してるらしいが」

「はぁ!?・・っ、ちょ、と・・・待て・・・・!」


その背後から独特の気迫でも感じるのか、さすがは姉弟か―――

歌麿が恐る恐る後ろを振り返れば、そこには大きな刀を肩で担ぎながらも満足気に不敵に笑う風がいた。



「鳳来寺家に泥塗るんじゃないよ、歌麿。さっさと行けっつーの」



顎でその先を命じる風は、それから周囲を見渡し涼の姿がない事を確認する。どうやら自分の方が早かったらしい。

そして歌麿は逆らえない恐怖に渋々従うしかないと、脱力たっぷりの表情を夜近に見せつける。

「歌麿。スワンボートで頼むぞ」

「何いいぃぃ!?なんでスワン!?」

「その方が見た目面白いからな」

「戦術関係ねぇ―――ッ!!」

「アンタの馬鹿っぷり、余興に見せてやりな。涼がいればもっと良かったけど」

「さ、最悪だ・・・!なんで高校生にもなってスワンボート・・!しかも一人で・・!!」

「まぁお前のマヌケな姿はさておき、少しでも目立つ姿が適任だからだ。魔物に認識能力があるかも皆無だからな」

「要するに、成功するとも限らねーんだろ・・」

その行為に意味があるのか―――と、誰よりも目立つ赤髪の彼はぼやく。

「それに加えて鳳来寺の力を振り撒けば、大概は目立つだろうさ」

「術者の連中が池の水をとっぱらって戦場を作り出した方が早いじゃねぇか・・」

「それも考えたが、却下だな。明日も変わらずこの公園は運営されるんだ、いきなり池の水がなくなっていれば、メディアが食いつく材料になってしまうだろう?」

「俺達の存在は極秘に秘密裏に、ってかよ?・・・ったく、それもいい加減聞き飽きたぜ」


やれやれ、とばかりに肩を鳴らし、無気力な態度で遊歩道向かう歌麿だ。


いつもと何が違うわけでもない、自分達の存在が気づかれないよう極秘裏に包まれる都の真実。

平凡な日々という仮初を守るのが、自分達戦士の仕事。


ここで不満を愚痴った所で、都市主である彼の口に勝てるとも思えない。それ以前に、都市主の抱える思想論すら理解できた筈もないだろう。

ただ、従うだけなのだ。

真実を知るより先に武器を奮い、任務を遂行するより先に葛藤と戦う。


―――もう、慣れている。


「こっち側におびき出しゃいいんだろ?」

「ああ、頼む」

「ったく、なんで俺がンな真似」

「・・・・すまんな」


ふいに、聞こえるか聞こえないぐらいの声が歌麿の耳を掠める。

振り向けば、切なそうな表情の夜近が彼の姿だけを捉えていた。

それには歌麿も愚痴をこぼしすぎたかと反省したらしく。


「だぁほ、都市主が謝るんじゃねぇよ。オマエ偉い奴なんだろーが。堂々と突っ立ってろよ」

「・・ああ、そうだったな」

「そんで、さっさと終わらせて迎えに行ってやれよ」


返事は聞こえなかったが、言葉は届いた筈だ。

それに満足すると、歌麿は先程の態度も忘れ軽快な駆け足で貸しボートへと向かっていく。




「・・迎えに、か。行けるものならとっくに行っているさ」




武装した衣装の懐から、もう一度月詠のリボンを取り出しては掌に軽く乗せて見つめる。少しでも油断すれば風で飛ばされてしまう程に軽く、しかしこのリボンの存在は何よりも重い。

自傷気味な笑みが零れてしまえば、ただ無残な心だけが浮き彫りとなっていく。


「ほんで?アタシはここで戦えばいいワケ?」


夜近の様子を気にするでもなく、大刀を担ぐ風はぶっきら棒に尋ねてくる。

それに顔を上げて返事をしようとした頃だろうか、彼の姿を確認したのは。

勿論、その怒っているでも笑っているでもない表情で足早に寄ってくる彼の姿に、風も不思議そうな表情をするしかないようだ。

「なんで日光が来てんのさ?アンタ、呼んだ?」

都市主に向かってその名称はないだろう―――しかし、今更訂正を求めた所で無駄に終わるがオチだ。

「月詠の代わりにと提案はしたが、本当に来られるとは思っていなかったな」

実際は、連絡しようにも居所が不明だったので連絡は取れていない。だというのに、何故彼はここに来たのか―――個人的理由、というのが真っ先に該当するも、戦場にまで邪魔をしかける彼ではない。

だとしたらば、余程重要な理由があってここに参じたのだろう。

「日光殿、どうされました」

周囲の敵は粗方減ったのか、会話の余裕が見れる。それは風も同じ事で、ここまでの道程を思えば敵が余程少ないらしく、周りの兵士達で事足りると判断したのか背中の武器を構える素振りすら見せない。

「日光殿?」

夜近に目を合わせるでもなく、ただしきりに周囲を見渡すのは日光である。その様子を意味するものが分からないらしく、夜近はもう一度名前を呼んでいた。

そして二度目に名前を呼んだ後、彼の黒い髪がゆっくりと揺れては夜近に向き直り、ただ一言訊ねる。

「・・・月詠はいないのだな?」

「ええ、連絡が取れなかったものですから」

「連絡、か」

ふん、と忌々しそうに目を細め―――しかしその視線が何かを捉えた時、日光の表情は一変しては夜近の胸倉を荒々しく掴んでいた。

「貴様!!」

「何ですかいきなり―――」

若干日光の身長に合わせるようにして掴み上げられるが、少し背伸びする程度のものだ。

だが日光の豹変するその態度、それこそ理解が追いつかない。

これが普段ならば月詠との関係に対しての文句や、細かい粗探しを武器にした口論になるのだが―――どうにもそれらに当てはまらない。

「今は戦闘中です、態度を改めて頂けませんか」

「改めるのは貴様だ!月詠を放ったらかしにしている貴様だ!それは月詠の装備していたリボンだろう!」

「・・っ」

夜近の右手には、先程懐から出した月詠のリボンが握られている。

風に揺れ、日光から与えられる振動に揺れ、それでも夜近の手はそれを離しはしなかった。

そして日光は胸倉を掴む姿勢をそのままに、声のトーンを落としては落ち着いた声帯で態度で夜近を真正面から見つめる。

随分と至近距離に思えるが、夜近を逃がさない為だろう。


「月詠に会ったのだな・・・?」


だが、夜近は視線を逸らす。

答えたくないとばかりに。

無論、その態度が何よりもの肯定になるのだが。


「会ったのかと聞いている」

「・・・・」

「何故答えない」

「この戦闘が終わったら、日光殿にとって朗報になりますよ」



―――婚約破棄になるのですから。



だが、言葉は続かない。

まるで恐れているかのように、認めたくないとばかりに。



「朗報、だと?あんな状態の月詠を放棄され、その後の処置が俺にとって朗報になるだと?馬鹿馬鹿しいッ!」

「・・っ!日光殿、知って―――?」

「貴様と月詠の関係よりも月詠の命が劣るとでも言わせたいか!都市主と花嫁の関係抜きで人命を優先するのは当然だろうッ!!それとも貴様は!この期に及んで、あの月詠を確認していながらも関係性を選んだのかッッ!!!肩書きがそんなに大事かッ!!」


捲くし立てるように、日光の激昂は続く。

夜近はただその剣幕に体を揺さぶられるだけで、これといった声も出さなかった。


冷酷を徹底している―――のではなく。

言葉が見つからないでいる。


人として当然のその考えが、自分になかったからだ。

人命優先という点で云えば、充分戦士の役目でもあるというのに。

人命よりも魔物討伐が大事だったのだろうか。

戦士の役目は、本来都に生きる人々を守る事にこそ真意がある。



(違う、俺は―――)



肩書きでしか量らなかった。

月詠の存在を。


禁呪を保管する、その責任者。

勝手に持ち出され、実行し、それを嬉しそうに伝えてこられ、だから傷つけた。

腹が立ったのは事実であるし、戦士としての役割を松任できない『体』では邪魔だからと気遣ったのも事実。


それでも、最初から最後まで―――その肩書きで扱った。

禁呪の存在を誰よりも知り尽くしているというのに、その結末も知っているというのに。


いや、自分が月詠を選べば、その真実を都爺たちに伝える事になる。

そうなれば、駿河は責任を逃れられない。

婚約破棄も当然の処置だろう。花嫁という肩書きを持つのだから、最悪処刑という処置も充分考えられる。

月詠を守るつもりで―――違う、月詠が持つ肩書きを守っていたのだ。



(婚約破棄が嫌で、俺は肩書きだけを守ろうとしたのか・・・危険な状態の月詠の命を、俺は肩書きよりも下に見た―――)



命と云う最上級の価値を、見ていなかった。

見ていたのはその命が装備する肩書きだけだった。

その装備が外される事を恐れていた。



―――だが、それが分かった所で何ができようか。

指揮官である自分が、この戦場を離脱できる筈もない。

都市主が役目を放棄するなど、許される筈がない。



「俺は、都市主という名前にしか価値がないのですよ。都の為だけに生きるからこそ存在理由が生まれ、都市主という肩書きにこそ俺の価値がある」

「そんな下らんモノにしがみついて、一体何の得がある」

「得・・・なんでしょう、分かりません。・・・ああ、都を守れますね。それから、神門家の歴史も守れる」

「下らん。花嫁一人も守れず、これからもいい面だけを強調した都市主を演じるつもりか」



―――演じる?



何かが抜け落ちたように虚ろな表情で、夜近はその単語に反応した。


「それが都市主の顔か?それが立派な理想を受け継いだ最高権威者の表情か?」

「貴方がさせたんでしょう?」

「月詠がいないからだ」

「・・・?」

「貴様は昔からそうだ。月詠に関する事になると平静を見失う。そのくせ、口と態度だけは残酷に変化する。それが都市主としてあるべき姿なのだとばかりにな」

「平静を見失ってなどいませんよ。指揮官が冷静でなくて戦況を有利に運べはしません」

「その言葉こそが平静を失くした言動だ。指揮官、責任者、その立場だけに重要な意味を重ね、月詠の存在も現状も必死に忘れようとしている。そんなに楽になりたいか、そんなに苦しむのが貴様のやり方か」

「苦しむ?」

「言ったろう、貴様は月詠に関する事に関しては敏感以上の反応で普段のらしさを失くすのだとな」

「説教は後にしてください。ここは戦場です」


掴まれるその逞しい腕を離そうと手をかけた時だろうか、日光が更に追い討ちをかけるように囁いた。

それは、確かすぎるほどに確信を持った言葉で。



「月詠がこの宝ヶ池にいる。捜せ」



―――時が止まるかのような錯覚と共に、夜近の内部が一気に唐突に荒れる。


ここは戦場で、魔物が溢れかえっている場所で、そして月詠は剣士としての全てを失っているという事実。

思わず口をあけたが、何を問えばいいのかすら分からない。

ただ繊細な青い髪が迷うように揺れた程度で、その胸倉が離されると同時に日光は剣を抜いており、いきなりとばかりに夜近を突き飛ばした。その判断が一瞬でも遅ければ魔物からの致命傷は免れなかっただろう―――そう、二人がいた場所は既に魔物によって占拠されており、日光の剣はその存在に対して抜かれたものである。

「日光殿!!」

「さっさと行かんか、ノロマめ!」

「違う、俺は!!」

「あらぁ、いいモノ持ってるじゃない?」


新たな第三者の声―――突き飛ばされた体勢を整え始める夜近の背後から、女性のように怪しくも確かな男性の色気を醸し出す声帯が届く。

振り返ればそこには見知った『彼』がおり、人形から生成した大型の犬に乗っている。説明するまでもない、鈴零である。

だが鈴零は、夜近の片手に握られている月詠のリボンを指した。

「駿河の血を感知できる日光の髪の毛よりも、そのリボンの方が確実ね」

「鈴零!?何故貴方が」

「夜近ちゃんってば、全然お店に来てくれないんだもの」

台詞だけ聞けば妖しい遣り取りである。

「この子貸してあげるから、早く行きなさいな」

「日光殿にも何度も申し上げたばかりです、俺はここを離れるワケにはいきません」

「指揮官だとか何だとか、ちゃんと聞いてたわよ?けれど、特例で委任権っていうものがあった筈でしょう?」

「・・・その特例に関する事実を公にできません」


月詠の一件を公にすればどうなる事か―――その結末を、都市主であるからこそ理解しているのだ。口になどできる筈もない。

しかし鈴零は、違和感溢れる空気で軽快に疑問を投げかける。

「あら?日光ったら言ってないの?」

何を―――と、表情に疑問を乗せれば。


「この宝ヶ池の管轄は駿河家よ?指揮権委任措置として、駿河当主にその全てを渡せるのよ?」


そう、何らかの理由により都市主が指揮権を松任できないと判断した場合において、それは正当な理由として成立する規則の一つなのである。

戦士として立ち向かう戦場にて如何なる場合であっても何事にも対応できるよう、委任措置という処置が定められている。


「人命優先の為に一時離脱、ってトコでどうかしらね?」


間違いではない。

しかし、割り切れないのが夜近である。

どうしても、月詠の姿に肩書きがついて回るのだ。

それを見兼ねるのか、鈴零が笑う。

「少しは周りの大人をアテにしなさいな。中身は腐ってても、夜近ちゃんより多くの年月を経験してるんだから。それに」

「それに?何ですか?」

「都市に対しての責任は大人が作り出したモノよ。それをアンタ達若者に全てを担わせてるの。日光も罪悪感ぐらいは感じてるんだから」

いや、それはない―――しかし、言い切れる自信もない。

全てに傍観気味で神門家に一人敵対し、そのクセ夜近に対しては身内以上の厳しさを見せる彼が、そのような内面を隠しているとは想像もできないのが事実だろう。

「一人で何もかも背負う都市主様もいいけれど、少しは自我を見せなさいってお話よ。あらやだ、説教臭くなっちゃって♥」

「・・・月詠が、この宝ヶ池にいるという情報は確実なのですか」

「あーら、私の情報に何か不足してるかしらね?」

情報屋として人形師として神門家に仕える鈴零は、試すような笑みで応える。

情報屋とは『確実』と『正確』が備わってこそ成立する存在であり、そこで初めて『識』は『情報』に変化する。即ち、情報として成立したからこそ、ここに来たという事でしかない。


「いえ、愚問でした」

そして再度リボンを見つめ、今度は力強く拳の中で握り締める。

「俺は大人に責任を求めたりは致しません。務めも使命も、都市主に就いた時から理解していますから。俺にしかできない事だと自惚れていますのでね」

「これ以上はないくらいに素敵な模範解答ね。問題なのは、それが夜近ちゃんの本心ってトコロだけれど」

「優秀な都市主なくしては都市は機能しませんよ、鈴零。仕える者にしても有能でなければ使い捨て駒でしかありませんから。勿論、日光殿も含めてですが」

「不器用なのよ、分かってあげて頂戴」

「いえ、日光殿はあのままが一番いいですよ」

鈴零に促され巨大化した狗の人形に乗り、夜近はそのリボンを人形の口に挟ませる。

「良くも悪くも、日光殿だけは俺を都市主として見ていないのですから」


大人の優しさとは違う、日光なりの扱い方なのだろうか。

尤も、本質は月詠との関係を壊す為に、故に夜近を敵と見ているからこそ最高権威に座るその地位を認めていないのだとは思うが。

どちらにせよ、日光に言わせれば『下らん』と一蹴されるでしかない話題だ。


「これを日光殿に渡して頂けますか」


紐で固定された左手の手甲を手早く解き、投げるようにして鈴零に渡す。

「生憎と委任状を用意してないものですから。神門の紋様が入っていますので充分代用品として通用するでしょう。都爺達に問われましたら、それを提示するよう伝えてください」

「分かったわ、早く行きなさいな」

見渡せど剣のぶつかり合う歪な金属音、何かの断末魔、獰猛な肉が切り裂かれる重い音―――その中に魔物と対峙する日光と風の姿を見つけるも、夜近は苦渋の思いで振り切るように背中を見せていく。

巨大化した犬の人形に跨り駆けていくその姿、それを目撃する兵士達は何を思っただろう。



「さぁて、と」



夜近から渡された手甲を掌に、鈴零は邪悪な気配を全身で感じ取っている。その中でも背後からの夥(おびただ)しい程に迫ってくる気配―――しかしその麗しい姿を振り向かせるでもなく、首に巻いた蛇の人形に指を触れさせ、瞳に鋭利な鋭さを光らせては不敵に美しく笑む。



「人形師もなめられたものね。私だけのガーディアンは、少しばかり乱暴よ?」



16






怨霊4体に中型に値する獰猛な魔物2体。

まさかこの自分の手で始末する羽目になるとは思っていなかった。

その作業が終われば酷く残酷な光景が目の前に広がり、その中央では一人の美女が芝生の上で転がっている。

駿河の剣を装備した美しい女性―――しかし、鎌衣は返り血を気にするでもなく月詠に近寄っては膝を折ってその体を眺めていく。


「こいつだったのか、こいつから駿河の力を感じてたのか」


目覚める様子はない。

それどころか、どこか苦しそうな呼吸が耳に届いてくる。しかし見た感じでは怪我などしていないしどうしたのだろうかと手を伸ばした時―――その手は見えない壁によって弾かれた。


「・・・結界?・・っ、このリボン―――ッ・・!」


御団子に結われているリボンの紋様を確認した時、彼の中で何かが繋がった。

そして、目の前で無防備な姿を曝しながらも眠りに落ちている美女から発せられる特殊な力の波動―――無論、それは駿河の力が湧き出ているのだろうが、それ以外に『自分達寄り』の何かを感じたのだ。

だが、それらの材料はこの際関係ない。彼女の正体はこのリボンだけで証明できる。


「こいつ、都市主の・・!駿河月詠か・・・ッ!?」


都市主の婚約者という座を手に入れた少女は、子供のように幼い風貌だった筈。しかし、否定できる材料はない。

そう、そのリボンが何よりもの証拠なのだと彼は『知っている』からだ。

「都市主自らが作り上げた簡易結界陣、花嫁に渡した誓いの証明―――・・はっ、面白い光景だ」

口元は愉悦に歪み、偶然が重なり合う光景に笑いが止まらない。

だが、リボンが一本足りないのならば破るのは容易だ。もう一度手を伸ばし、弾かれるその力を感じた瞬間に己の力を増幅させては相殺させる。

すると、面白い程に月詠を覆っていた結界は消えていく。穢れぬ為の、常に己に浄化を施している結界がいとも簡単に。

無論、それはリボンの数が足りなかったからこそできた事だ。

「さてと、次はこの異様な力の源か」

何故こんなにも麗しい美貌を曝す姿になったのかはさておき、鎌衣は月詠のその身を抱き起こしては至近距離でその顔を眺めていく。

鼻でその爽やかな香りを堪能し、耳で可愛い呼吸を聞き、目で美しい姿を満喫し、そして。


「戦士たちの間で何があったかは知らねぇが、これは禁呪の力だな。取り憑かれたか」


額には酷い汗を確認できる。

顔色は徐々に蒼ざめていく一方で、このまま放っておけば色素すら手離すのも時間の問題だろう。

―――それでは面白くない。

助けてやる義理も道理もないが、こんな所で死なれては困るのが鎌衣の本音なのかもしれない。


「アンタに死なれちゃ、夜近の野郎をじわじわと殺す楽しみがなくなっちまうだろ?」


賛同を求めているでもなく、返事が返ってくるでもない。独り言にしては確かな動機と確信めいた発言だ。

そして一寸舌なめずりをしてみせ、もう一度愉悦な笑みを見せていく。



―――そして。



「・・・・」



触れる唇同士の体温を共有し、少し呼吸を整えてはもう一度重ね合わせる。

だが次の接吻は一度目に比べると少し乱暴気味で、呼吸の求められない状況だからこそ月詠の意識も戻りつつあったのだろう。


「・・・や、こん・・・・・さ、ま・・・・?」

「目ぇ瞑ってろ。楽にしてやる」


意識の朦朧とする中、夜近らしからぬ口調だというのに―――それが『夜近』なのだと確信してしまうのは、きっと寂しかったからだろう。

夢が現実でありますようにと願うのと同様に、月詠のその錯覚は夢の続きを見ている感覚に似ているに違いない。

夜近以外の男に唇を奪われているとも知らずに、その体はゆるりと抜けていく力に委ねられていくのだ。

その相手が、夜近なのだと誤解したままで。

目尻から頬を伝う涙が、それを証明するのだろう。



―――嫌われていない、のだと。



戦場に似合わない風だけが二人の髪を衣を揺らし、それでも接吻は終わらない。

何度も何度も角度を変えては貪りつく獣のように、けれども意識の定まらない少女を気遣うのかその行為は甘く優しい。

目を閉じたまま委ねる月詠の表情を、時折確認しながらまた行為に続く。


深く、もっと奥へ。

足りないとばかりに呼吸すらも忘れる。

最奥の何かを奪ってやるとばかりに、激しい吐息だけが夜風に知らされる。



―――そんな時間がどれ程過ぎただろうか。



幸いな事に、告げた言葉に従うかのように月詠は彼の姿を捉える事はなかった。そのまま意識が遠く離れていくのも、鎌衣にとっては幸運だった事だろう。

そして今、鎌衣の口の中には少し大きめの飴のような丸い物体が舌の上に存在していた。


「・・・コレか」


月詠を抱きしめた姿勢のまま、左手でそれを取る。

月にかざすようにして眺めれば、随分と毒気を含んだ色で輝いている物体。

―――月詠の中を汚染していた、禁呪の瘴気が凝固したものである。


「神門が守る禁呪の一つってワケか。利用価値がありそうじゃねぇか、なぁ?」


一体誰に向かって言っているのか―――しかし鎌衣は気にするでもなく、まるで魅せられたとばかりにその物体を見つめるだけだ。

一方、月詠の体にも異変は見られた。

気づかないぐらいに徐々にではあるが、その呼吸が正常に戻りつつある。青ざめていた顔色も体温を取り戻したのか――接吻による一時的なものかもしれないが――先程に比べると随分と血色もいい。

大量の汗は発汗作用現象だ、毒気を抜こうと体の機能が活動しているだけにすぎない。


「都市主の野郎が知ったら、どう思うだろうな?」


自らの意思で選んだ花嫁の存在を、今穢したのだ。

愉快で堪らないらしく、鎌衣は楽しそうにもう一度奪ってやるかと試みる。しかし、唇が合わさるか合わさらないかの距離で、急に彼の体は急停止していた。だがその鋭い視線は背後からの気配に敏感に、そして『現状』を察知しては月詠を再び芝生の上にゆっくりと寝転がせては御得意の跳躍力で木の上に跳ぶ。

同時に木の葉が必要以上の音で舞い散るが、大方風が鳴らしたざわめきぐらいにしか思われないだろう。

―――この存在を知らない限りは。






「月詠・・ッ!!どこだ、月詠ッッ!!」



己の務めを放棄した彼は、ただ焦燥と安堵を求め叫び続けている。

鈴零に借りた獣に跨り、リボンに含まれる力が指し示す方向に来たはいいが、光源は月の光だけだ。視界も狭くては遠めで確認できた筈もない。

だが、そこで違和感を感じるものを耳にしたのが幸運だったのだろう。

―――そう、鎌衣の鳴らした木の葉のざわめきだ。


「ッ、月詠ッ!!」


放棄されたかのように、捨てられてるかのように、暗き密林のその芝生の上で寝転がっていた彼女を発見したのだ。

だが、安堵とはまた違う、言い表しようのない鼓動が夜近に酷く痛みを与えていく。




―――死んだ、のか?




「俺は許した覚えはない・・・ッ!!」



その背から慌てて飛び降り、夜近の足はただ月詠の存在向かって走り出す。

心が急いて何度か転げたが、その度に無駄な時間を憎んだ。


「月詠ッ!!返事をしろ、月詠ッッ!!」


数刻前に見たのと変わらない、蝶の刺繍で描かれた雅な和服。髪は芝生の上で無造作に踊り、リボンは片方が欠けたままだ。勿論、その片方は夜近が手にしている。

「月詠ッ!!」


―――背後からの視線、とでも云うのか。月詠を腕に抱いた夜近は少女の容態を確認するに到らず、ただ背後から襲ってくる気配に威圧感を増していく。

少女の名前を口にする声も閉ざし、瞳は戦士の表情の如く細く鋭く尖り、そして片腕は腰に装備した剣の鞘に手をかける。

親指で柄を持ち上げれば、小さな金属音が必要以上に響いた。


―――背後に聞こえるのは木の葉の音色だけだ。

だが、その中に自分を観察している視線がいる。



(・・・魔物か?)



いや、獰猛な魔物に知性などあるはずがない。

その見解を示したのは夜近自身であるし、勿論外れているとも思っていない。だとすれば、魔物以外の知性を得ている存在、という答えに導かれるが―――該当する見解までは遠い。

月詠の倒れている場所に一番近い大きな木―――そう、そこには都市主である夜近に何らかの私怨を抱いている存在が、まだいたのである。

その場所から見下ろす夜近の背中は決して無防備ではあらず、勿論自分が発する殺気に気づいている。

ただ、こちらからの接触を待っている。


(・・・誰が、姿を見せてやるかよ)


神楽に言われた事を守っているのではない。

祭りはもう終わったのだと言わんばかりに鎌衣は都市主とその花嫁を見つめ直し、そしてもう一度木の葉の中を駆けていく。

その手に、禁呪が詰まった物体を包みながら。



(・・・行ったか)



気配が薄れたのを確認してから、夜近は剣から手を離す。

追いたいのは山々だが、そうできない理由こそ明確だろう。


「・・・月詠、目を開けろ」


返事など返ってこない。

目をあける様子もない。


「・・・俺の命令は絶対だと、教わった筈だ」


静かすぎる声帯。

落ち着きすぎるその声。

感情の起伏など一切感じられず、だがそれこそが夜近の動揺を示している。

だが答えを確認するなら酷く簡単だろう。その小さな腕をとって脈を測ればいいだけなのだから。

しかし、夜近は明確な現実を選ぼうとはしない。


―――怖いからだ。


死んだように眠っている月詠は、安らかな表情で夜近の腕に抱かれている。

可哀相に、冬ではないとはいえこのような場所で眠れば体は酷く冷える。まるでそれを温めるように、夜近はただ、成長した姿の彼女を両腕で包み込む。痛いと文句を言われても仕方がない、その力で。



(・・・戦場に、戻らなければ)



一度は放棄した任務への心残りが、彼を現実に戻す手段だったのだろう。

認めたくない様々なものが、彼を冷酷に残酷に育てていく。



(花嫁の選出・・・月詠以外の女性を選ぶのか・・・?)



花嫁がいなくいなれば、これこそ公に募集が始まるだろう。勿論、名家の中から新たに選び出される事は当然だが―――何故か、納得がいかない。



(月詠以外を・・・?月詠ではない女性を・・・?)



―――考えた事もない。

―――馬鹿馬鹿しい。


数回首を振り、しかし夜近のその表情は苦しそうに歪んでいる。

しかし、その考えこそ現実主義だ。現状を深く追求するより先に、その先に待つ現実を知っている。




『朗報、だと?あんな状態の月詠を放棄され、その後の処置が俺にとって朗報になるだと?馬鹿馬鹿しいッ!』




確かに、これは朗報ではない。

寧ろ、その真逆、訃報だ。

―――人の死を、誰が喜ぶと云うのか。

婚約者の死を喜べる筈がない。




『この期に及んで、あの月詠を確認していながらも関係性を選んだのかッッ!!!肩書きがそんなに大事かッ!!』




(・・・関係性・・・それ以上でもそれ以下でもない、それが都市主と花嫁だ。肩書きを守るのは当然だろう・・?)


そう割り切っているというのに、月詠はいつでも全力で心の中に入ってきた。

花嫁選出したあの日から常に同じ時間を過ごしてきたのだ、それは幼かったからこそ自然な感情の流れだと思ってきたが、それでも月詠はいつも隣で笑っていた。

学校内で剣を振り回し、それを咎めるのは最早生徒会長の務めではなくなっていた。

女性と些細な会話をするだけで悲しい表情をしていた。

その度に、お気に入りの団子屋に立ち寄って機嫌を窺っていた。




『お慕いしておりますの、夜近様』




聞きなれた台詞は、いつも意表をついて届けられた。



(知っていた筈だ、月詠が自分の体型を不満に思っている事ぐらい)



止められたはずの悲劇だ。

何故止めなかった、ではなく、何故気づかなかったのか。



(きっかけは―――・・・涼との一件か)



校舎内でタイミングの悪い事故を起こした、アレだろう。

確かにあの後、月詠の態度は静かすぎた。いつもならば二刀流を振り翳して問い詰めてくるというのに、しおらしすぎて不気味だったぐらいだ。

夜近はそれを都合の言いように考えたが、実際はあの時にこの計画は始まっていたのだろう。




『ワタクシが、涼ちゃんみたく綺麗な女性でしたら?』




―――月詠は。

―――都市主と花嫁という絶対の関係以上に、夜近だけを想っていた。

その肩書きに安堵を覚えた筈がない、だからこそいつでも必死だった。それでも夜近はいつも逃げるだけで、一度でも答えを示した試しがない。

だからこそ、彼女は禁呪に縋った。

その理由を、自分の体型のせいにして。



「俺が、そうしたのか・・・・俺が・・・応えなかったからか・・・」



禁呪に手を出した事は、確かに許されるべき罪ではない。都市主の地位や神門における鉄則を知り尽くしている花嫁ならば尚更だ。

だが、禁呪に魅了されたのは他の誰でもない、自分のせいである。


しかし、婚約関係は絶対なのだ、なにを不安に思う必要があるのだろう。



「・・不安?・・・・違う、月詠は―――」



―――違う、月詠は肩書きで見ていないのだ。

都市主と云う重い鎖で絡められた彼を、彼個人として『想っている』からこそ、だろう。



―――知っていた筈だ。

―――少女はいつでも必死に自分を追いかけている事ぐらい。




季節外れの枯葉が、その指先に触れる。

まだ青い葉を一枚拾っては少女の顔に近づけた。


―――僅かだが、揺れる。

微かだが、呼吸をしている証だ。

だが、その容態を確認したというのに夜近は動けずにいた。



(どこに行けばいい?神門家で保護するのならば、事情を説明しなければならない。都爺の判断は容易に知れる。・・・日光殿に預けるか?いや、今夜は俺が権利を委任したんだ、彼は神門家で報告義務をこなさなければならない)



この事情を知っているのは、彼を含めて日光、歌麿、鈴零の4名だ。

先程も述べたように駿河での保護は無理である。嘘の苦手な歌麿に任せるのは得策とは思えないし、かといって鈴零に預けるとしても不都合が目立つ。


――― 一刻を争う事態と頭では理解しているのに、冷酷な現実主義と云う自我だけが思考を駆け巡る。


疲れた表情で先の現実を切り離せば、ただ眠っているだけの少女が視界に入った。

いつもより成長したその姿は、何よりも誰よりも美しい。

儚い肖像画のように、耐え難く美しい麗しさで輝いている。



「月詠―――・・お前は、どうしたい?」




問いかけど、返事など期待していない。

意識があった所で、彼女の返事は分かりきったものだろうが。




『夜近様の意思はワタクシの意思ですわ』




「そうだな、俺は―――」

「約束を破る気」


意識すらしていなかった外界から届く声に気づけば、そこには夜風で舞う葉の向こうに密羽の姿がある。

いつからそこにいたのか、しかし無機質な殺気を覆っているのはいつもの事だ。

幹を背に美女を抱きしめている夜近―――にしか見えないその光景。だが密羽は彼女の正体を問い質すでもなく、一歩ずつ確実に近づいては芝生がその度に音を鳴らしていく。

「密羽?」

「・・・約束」

もう一度声が降ってくる頃には、機械人形の彼女は月を背に夜近を間近から見下ろしていた。口布で隠された口元、見えるのは感情の感じられない無機質な鋭利に尖るその瞳。衣装の到る所に返り血が確認でき、激しい戦闘だった事を表している。

「終わったのか?」

「・・・・・」

戦況の報告を求めようとも、彼女は一言も答えはしない。自分に対する回答だけが『必要』なのだと言いたいのだろう。

彼女が相手では誤魔化す事は無意味だ、そう悟れば夜近は視線を逸らして苦笑する。

「俺が死ねば契約も約束も無効だ。そうすれば、名家の絆は崩れ都の均衡も」

「無効にさせない事がアンタとの契約。あの日の約束、忘れたとは言わせない」

夜近の言葉を最後まで待たず、しかし焦っているでもなく機械を思わせる表情のまま密羽は続けた。

「アンタはアタシを死なせてくれなかった。だから月詠を殺そうとした。それでもアンタも月詠も笑ってた」

「有能な人材が欲しいと思うのは当然だ」





―――あれは今から何年前の話になるだろう。

見た目からして子供で間違いない、幼かった少年少女。

とある一件による処罰を受ける為に密羽は神門に送られ、そこで初めて出会ったのである。まだ幼かった都市主と花嫁に。



都市主は気だるそうな態度で、一方の花嫁に至っては鈍感そうだったし、興味すら湧かない二人だった―――と、思い出せるからこそ言える感想でもある。

感情もなく人としての概念も存在せず、ただそこに在るだけの器―――それが密羽という名前を得た自分だった。





「お前が葛葉の隠密にして一族跡取りの密羽か?」



広大な庭が広がる縁側で、歴史ある柱を背に幼い少年は視線を合わせるでもなくそう問いかけてきた。

その手には幾枚かの書類―――恐らくは密羽に関する資料だろう。

だが両腕を拘束されて連れてこられた少女は何も答えず、その前後左右で護衛を行っている兵士が返事をした程度のものだった。

「都市主様」

「お前たちは下がれ。拘束も解いてやれ」

「ッ!!危険すぎますぞ、都市主様!」

「都爺もさがれ」

「都市主様!!」

「命令だ」

「ッ!!・・・・・・都市主様の御判断、決して得策とは思えませぬ」

「得策だろうが失策だろうが、俺が決める事だ。不服なら去って構わん」

冷淡に淡々と語るその口調に、誰もが言葉を失くす。

そして兵士は徐に密羽の拘束を解き、一礼してから都爺と共に来た道を戻っていった。

それらの気配が感じられなくなってから、夜近は再び口を開けていく。


「随分と派手な真似をしたらしいな。部隊は全滅、この試験的草案も白紙に戻ったらしい」

「・・・・・」

返事を返すでもなく庭に視線を向ければ、そこにも幼い少女が蝶々を追いかけては遊んでいた。

自分には存在しない表情で、笑顔で、楽しそうなその声で。

「ああ、月詠だ。お前も噂ぐらい耳にしているだろう、候補の中から選ばれた最強の花嫁だ」

「・・・・・」


興味があるかどうかすら分からない鋼鉄の瞳。

冷酷に尖る瞳は何を『見て』いるのか、己の意思一つすら口にはしない。

そう、一つ語った言葉があるとすれば。


「・・・・・処刑」

「うん?」

「・・・・・死に場所」

「お前を処刑はしない。残念か?」

試すような笑みと中身を探るかのような表情―――夜近の計算高い話術はこの頃から健在だったのだろう、だが密羽は眉一つ動かすことはなく、しかし受け入れるでもない。

「・・・・・意図が理解できない。頂点に君臨する奴が護衛すらも退かせて」

「そうだな、資料にはS級危険人物につき自由を拘束すべし、と書かれているな。戦果の内容は置くとしても、お前の実力は確かなものだ。欲しいと思うのは当然だな。だが甘く見てくれるなよ、密羽とやら。俺も月詠も、自分の身は自分で守れる。例えお前がここで俺に何を仕掛けてこようとな」

「・・・・だったら。・・・・・見せてもらう。そしたら、アタシは処刑される。・・・理由はそれで充分」



そこで、密羽は腰の短剣を抜いて花嫁の首を狙ったのだ。



―――ただ一言―――早く自分を殺せ、と。






「現に、お前は月詠を殺せなかった。それ以外の結末はない」

「だから約束した。生きる意味を受け入れる代わりにアンタを守るって」

密羽の右手が、紐で何十にも縛られたまま固く封印されている小刀に触れる。

「それを違えた場合は俺を殺す、だったか」

「・・・・」

それ以上の言葉を必要としないのか、密羽の声は閉ざされる。

しかし夜近は突如として名案でも思いついたのか、その場の雰囲気も無視しては密羽を視界に入れていた。

「密羽。少し協力しろ」

「?・・・・協、力?」







17





夜が明けるまであと3~4時間といった所だろうか。

戦場から戻った兵士達は治療を受け、戦士達は一連の報告を行い、それらが全て終わった頃には深夜の3時を回っていた。

そして月詠は、変わらぬ姿のまま神門家の一室に寝かされている。

意識は戻らず、ただ平穏な呼吸で現実に戻ってはこない少女。


「民間人の保護、か。そんな嘘がよく通用したものだな」


月詠の寝かされている一室から出て襖を閉めれば、その縁側にはよく見知った彼が庭に視線を向けながら煙草を吸っていた。その足元には吸殻が数え切れないほど落ちており、余程妹の身が心配なのだろう。

だが、神門家で保護されたのは彼にとっても喜ばしい事である事は間違いない。身近な場所で妹の安否を確認できるのだから。

「密羽に協力してもらいました。警備の薄かった大黒山付近にて民間人を保護、現にその姿が確認されたのですから信じない奴もいないでしょう」

「誰もアレを月詠とは思うまい」

「意識が戻ればの話ですが、あと一時間もすれば声を失うでしょう。自我すら失うのも時間の問題です」

「解決策はないのか」

「ご存知の通り、禁呪の治療薬は非常にデリケートなものです。1日や2日で完成するものではありません。作っている間に禁呪の力が全身を襲うのは目に見えています。せいぜいできるのは、神門の力で中和させるぐらいのものですね」

「気休めにすぎんな」

「力不足で申し訳ありません」

「謝るな。貴様が謝ってどうなる問題でもない。俺の立場すらない」

不服そうに眉をしかめ、日光は吸っていた煙草を地面に潰す。

「日光殿の健康状態も非常に心配ですが」

「妹がこんな状態の時に、落ち着いていられるものか。―――夜近」

「?はい、何でしょう?」

「・・・隣に座れ」

「え?あ、はい」


日光から隣に座れなど、珍しい誘いだ。断る理由などあったはずもない、夜近はゆっくりとその隣に腰を下ろし、月夜と見慣れた庭を見渡していく。

日光の声が届くのは、その後だった。


「―――・・・すまん、夜近。兄として、謝らせてくれ」

「っ!ど、どうしたのですか、日光殿らしくもない―――」

「俺はな、隠蔽しようとした。貴様に知られる前に何とかしようとした。月詠が行った事実を認めた時、貴様に合わせる顔がないとまで本気で思った。だが、分かってやってくれ。妹は、月詠は、生半可な気持ちであんな馬鹿な真似をしたとは到底思えない」

「・・・ええ、存じてます。全ては俺のせいなのでしょうから」

「不器用な所は俺にそっくりだな」

「はは。俺は昔から、日光殿を模範にしてきましたからね」

「俺は、命を下に見たりはせん」

「・・ええ、でしょうね。ですが俺は」

「都市主、総指揮官、総合責任者、頂点に座る者の重圧。分かっている、お前の言い分は。駿河との関係も視野にいれた上での判断だという事もな」

「・・・・はい。どうするのが最適だったのか、今でも分かりません。貴方と鈴零が月詠の所在を知らせてくれるまで、俺は放棄していたのが事実です。それが月詠を守る最適の手段だと思った、これも事実です」


日光からの返事はなかった。

代わりに、何本目かの煙草の先端に年季を感じさせるジッポが灯され、紫煙が月夜に舞う。


「覚悟、されてますか」

「これでも現実主義だ。だが、受け入れられない事もある。お前はどうなんだ?」

「・・・・・都市主として、ならば」

「覚悟など、現実を見送ってからでも遅くはない。人間とは所詮そんなものだ」

「・・・・・・日光殿」

「最終的決断を公表するつもりか?」

婚約破棄―――いや、月詠の死がほぼ確定している以上、するもしないもないだろう。花嫁という地位にいたのだ、それに到るまでの経緯は嫌でも公表するのが筋というものである。そうなれば当然、駿河家に責任を求めなければならない、というのが常識だ。

「俺がどうかする事で責任を取れるならば幾らでも取ってやる。妹の尻拭いなど安いものだ。だが、命の責任など取りようがない」

軽率な行動が生んだ後始末。

だが、話はそれだけでは済まないのが月詠の地位と家柄だ。そして当然、花嫁一人の命と対等な価値の責任など存在するはずもない。

「・・・月詠の意識が戻ることを願っています」

「一時的なものにすぎん」

「充分存じております。ですが」

「無理をするな、夜近」

いつになく優しい口調を耳にすれば、その蒼い髪に大きな掌が乗っていた。まるで子供をあやすかのような仕草が、夜近を留まらせていく。

「お前は肩書きでしか測れない。月詠は肩書き抜きでお前を見るしかできない。ただ、それだけの事だった。他に事実はない。そして、俺の教育不足が引き金を引いた。それだけの事だ。お前が責められる要因はない」

「日光殿」

「面倒な事はこちらに回せ。大人の使い道など、それぐらいしかないのだからな」

まだ半分も吸っていない煙草を足で潰せば、日光はゆっくりと立ち上がっていく。

「もし意識が戻れば、あいつを殴ってやれ。・・・・俺は少し仮眠してくる。眠れそうもないがな」

「はい、部屋は女中達に用意させていますので場所は仕えの者に聞いてください」

「お前も適当に休め。その内胃に穴が空くぞ」


夜近の返事を聞かぬまま、日光は縁側向こうにゆっくりとした足取りで消えて行く。意気消沈したその背中を見送るのは辛かったが、月詠を誰よりも溺愛していた日光なのだ、その心中は計り知れない。だが彼は、日光は、大人としての姿勢を優先した。

夜近が幼き頃より模範としてきた日光―――嫌われていようが憎まれていようが、それでも夜近は日光を好意に思っている。

日光だけは自分を都市主として扱わず、一個人の『夜近』として扱うからこそ。だからこそ、日光と夜近の間には肩書きと云う障害がないのだろう。



「誰よりも日光殿が一番辛いでしょうに」




月詠のあの声がもう聞けないのだ、と思うと胸が痛む。

月詠と必死の鬼ごっこが酷く懐かしい。

隣でもう笑ってくれないのかと思うと、いつもいたはずの当たり前の光景が消えるのかと思うと、心が引き裂かれそうに辛く痛い。


辛さなど比べるものではなかろうが、それでも、彼女の存在感は何よりも大きいものだったと知らされる。



「っ、いた、夜近ッ!!」


どたばたと慌てて駆けてくる足音に目を向ければ、密羽と歌麿の落ち着きのない表情が目に入った。二人とも普段着に着替えていることから、報告後の風呂上りなのだろう。

勿論、戦場では冷徹だった彼女も今では普段の密羽に戻っている。

「夜近、月詠は!?」

「話したのか」

「それ以外にどう説明しろっつーんだよ?風呂場で問い詰められてよ、そん時ゃいつもの密羽に戻ってたしさ」

「お前ら、一緒に入ったのか?」

「アホか!ンなワケねーだろ!」

「浴場は繋がってるけど、脱衣所は別だろ。隣で歌麿が入ってるの分かってたから、待ち伏せして聞いただけ」

夜近からの協力要請を命令として受け取ったが、その『民間人』の詳細など何も聞かされていなかったのだろう。不思議に思うも当然だ、普段の彼女に戻ればその内容を歌麿に求めたらしかった。

「意識はまだ戻っていない。・・・・戻るとも思えんが」

「ッッ、ちょっと夜近!!どういう事さ!?」

「そのままだ。神門家が禁呪を管理しているのはお前たちも知っているだろう。その理由は、その力を畏怖恐れるが故に神門家内にて封じているのと同語だ」

「世に出てはならない存在、それは知ってる!けど、なんで月詠が!」

「お前達も知っている筈だ。月詠が自分の体型をどう思っているかをな」

「・・・ッ」


事ある度に自分の体型を悔やんでいた、自分の体型を憎んですらいた月詠の姿など容易に思い出せる。その姿は彼らにとって頻繁に見られたものであるからこそ、誰もが熟知している彼女の悩みだ。


「けどっ!今まではここまでの事しなかったじゃないのさ!なんで今更そんな強引手法に出たわけ!?禁呪における厳しい処罰とか、月詠が知らない筈ないのに!月詠の立場からすれば、最悪処刑なんだろ!?」

「その処罰以上に、月詠にとっては必要なものだった―――と考えるべきだろうな」

「自分の命を引き換えにしても、体型を変えたかったって事?なんで!!」

「夜近。今頃、口下手のお釣がきたって所かよ?」

「言葉がなかっただけさ、俺にはな」

至って冷静に言葉を返してくる夜近が気に食わないのだろう、密羽は無理矢理その胸倉を掴んでは迫る。

「アンタ!!なんでそんな落ち着いてんのさ!?月詠がこんな状態だってのに、心配の欠片も見せないってどういう事!」

「声を落とせ、密羽」

「周りが気になるから!?この期に及んで都市主の立場が大事なワケ!?」

「都爺に聞かれると困る。この事については公表するつもりはないんだ」

「・・・最っ低。今の現状よりも先の後始末を真っ先に考えてんの?月詠の事、どうとも思ってないって事?」


殴りたくとも、殴った所でこの苛立ちは解消されない―――不快感だけを際立たせたまま、密羽はその胸倉を突き飛ばすように解放する。

そして夜近は襟元を正しながらも、懐から誰もが見慣れたモノを取り出していた。静かな夜風に揺れ、数時間前にはこの同じ場所で手渡された、それを。

―――数時間前に会った時と違うのは、それが2枚揃っている事だろう。


「それ、月詠のリボンか?」

「ああ。一つは手渡されたが、もう一枚はすぐ後ろで寝ている月詠から外した」

「・・・・どういう事さ」

「勘ぐるな、密羽。単に、結界作用が働いてなかっただけだ」



リボン一枚では効果も半減。しかし、それでも魔物相手には充分な効果を発揮するだろう特殊な簡易結界の施されたリボン。

宝ヶ池で発見した時には既に結界は何らかの力により解除されており、勿論その理由こそ不明だが。

「このリボンはな、花嫁の証明であると同時に悪しき力から常に守護を受けるよう、特殊な結界陣が施されている」

リボンの表面に描かれた紋様のような文字、決して読めはしないその字が『結界』を作り出しているのだろう。


「月詠を選んだ時、俺がこの手で作った。この世に一つしか存りはしない絶対的存在だ」






18






体全ての感覚が放棄されたかのような、例えようのない解放感の中。

五感ですら奪われたかのように、ただ目に入る景色だけしか捉えられない感覚。いや、これを視界と呼ぶのか、脳裏に入り込んでくるだけなのか、誰かに見せられているだけなのか。それすらも分からない。


―――地平線すらも隠す一面の花畑。


だが、そこに立っている自分はどんな姿をしているのか分からなかった。



「―――こっちだ、月詠」



声のした方に反応すれば、そこにはいつもの呉服を着用した夜近がいつの間にか立っていた。風になぜられ、蒼い髪が揺れている。

だが、この『自分』は声すらも返せず彼の姿を見るしかできないでいた。

嫌われた、会うのが怖かった。

理由としてはそんな所か。

しかし、目の前の彼は怒るでもない表情で、それどころかいつも以上に穏やかな表情を見せてくれている。


「疲れたろう、月詠」

「・・・?夜近様・・?」

「ほら、こっちに来い」


差し伸べられる手。

自分を求め差し出されるその手。

花嫁に選ばれた瞬間から、彼に求められる事を望んでいた自分。

自分だけを見て、自分だけを想って欲しいとまで願った浅はかな自分。

だが、望んだ光景が目の前に用意されても、何故かその手に向かって歩き出せない。誰よりも頼りになるその逞しい手を求め返そうと思えない。

「どうした、月詠?」

「あ、あの・・・・」

「俺が嫌いになったか?」

「ち、違いますわっ!あ、その・・・」

「だったら、こっちに来い。お前は俺が選んだ女だ、何を躊躇う事がある?」




『俺が選んだ女はお前だけなんだ、月詠。少しは信用してくれないか』




フラッシュバックだろうか、何かが頭の中で蘇った。そう、感覚の放棄されたこの世界で思い出されていく記憶が何かを与えてくる。


「もう戦わなくていいんだ、月詠。酷く疲れただろう?」

「っ?戦わなくて、いい、・・・?」

「そうだ。理不尽だと思った事はないか?何故自分達だけが戦わなくてはならないのだと。誰かに認められるワケでもない、功績をあげても英雄と崇められるワケでもない」




『俺たち戦士の存在価値は、都に生きる人々の安息を守る為に在る』




目の前で優しい言葉を語りかけてくる夜近と、記憶に蘇る夜近の姿が一致しない。

だからこそ、月詠の言葉はどこから問えばいいのか戸惑ってしまうのだろう。


「・・・それが、都市主としての生き方を選んだ夜近様の御言葉ですの?」

「月詠?」

怪訝そうな表情で、『夜近』がただ名前だけを唱える。

「ワタクシの存じている夜近様は、決して己の存在に利益など求めたり致しませんわ」

「お前の為を思って言っているんだ、月詠。花嫁と云う肩書きが窮屈なのだろう?選ばれたが故に、その立場を重んじた行動に心がけなければならない。花嫁の枠からはみ出た行動は許されない。全ては都市主という立場の男の為に存在を確立させなければならない。辛いと思った事は一度もないとでも言うのか?」

「ワタクシが辛かったのは、夜近様に振り向いてもらえなかった事ですわ。花嫁の地位を重荷に感じた事など・・!」

「ならば何故、禁呪に手を出した?」

「―――ッッ!!」

「花嫁としての立場に不満を感じていないのならば、処刑覚悟の行為に出る必要もあるまい」

「それ、は・・っ」



肩書きを越えた関係が欲しかった。

肩書き以上に想っていた。

だからこそ、夜近にも応えて欲しかった。

最低限の言葉でもいい、たったの一言でもいい、何らかの形で示して欲しかった。


「こっちに来るんだ、月詠」

「ワタクシ、は・・・」

「もう戦う理由などない。命を懸けて守る必要もない。自分の命は自分の為にある、それが世の道理だ」




『俺の存在意義は、この都の為だけにしかない。この世に生を受けたその瞬間から、俺の命は俺のものではなかった』




己に課せられた重い荷物を背負わされた婚約者は、その話題になるといつも諦めたとばかりに無心で切ない表情を見せていた。

どれほど苦しんだのか、想像すら追いつかない。

どれほど己の意思を切り裂かれたのか、どれほど自分を殺してきたのか。



「・・・違いますわ」

「月詠?」

「違いますわ、貴方は夜近様ではありませんわ!貴方は誰ですの!!」

「何を言う、俺は」

「夜近様は、何よりも御自身の立場を理解し優先されますわ!都市主として生きている夜近様が、戦う理由を捨てたなどと発言される筈がありませんわ!誰かに認められたくて生きている方ではありませんの!!」

「・・・・・」

「ワタクシがお慕いしている夜近様は、そんな情けない方ではありませんわ!!そんな夜近様なら、ワタクシは好きになったりなど致しませんわ!」

「・・・・・」

差し出されていた逞しい掌が、ゆっくりとした動きで下されていく。

どこからか迷い込んでくる風は二人の髪を揺らし、夜近の蒼い髪が切なくその表情を隠した。

「現実世界にお前の求める理想がなくとも、か?」

「貴方はワタクシの我儘が生んだ姿ですわ。ワタクシが求めるのはただ一人、辛い現実を一人で生きようとする本物の夜近様だけですわ」

「応えられる事がなくともか?」

「応えられたいが為に夜近様の傍にいるワタクシではありませんわ。ワタクシは、夜近様を御守りするのが本来の務め。後世に強き命を残すのが花嫁の務め。そしてそれ以上に、夜近様を慕っているのはワタクシの本当の心。・・・それだけですわ。そこに夜近様の御意思を求めるのはただの我侭にしか過ぎませんわ」

「目の前の甘い理想はいらない、という事か?」

「貴方が本物の夜近様でしたら躊躇したでしょう。けれど、戦いの理由を放棄した夜近様に従おうとは思えませんわ。都市主の思想を捨てた夜近様は、夜近様ではありませんわ」

「・・・・」

「夜近様に選ばれて10年、ずっとあの方だけを見てきましたの。ワタクシの存じている夜近様は誰よりも強くて誰よりも悲しい方ですわ。辛い時にも辛いと言えず、悲しい時にも涙の欠片も流せず、徹底されたその肩書きに束縛された方ですの。だから、ワタクシはそんな夜近様だからこそ」

「もういい」

月詠から目を逸らすように、目の前の男は溜息をつく。

その表情はどこか照れているような、それ以上は聞きがたいとでも思っているかのような顔だ。

「そこから先は、本物の俺に言ってやれ。この俺に聞く権利はなさそうだ」

「・・・・戻れ、ますの?いえ、戻ってもワタクシの体はもう―――」

「この世は何事も平等にできているものだ。いくつもの因果が重なれば奇跡が起こる事もあるだろう」

「?何を仰って―――」

「俺はお前の心が生んだ存在だ。そして同様、誰の心にも俺のような存在はいる。お前の求める男にもな」


風が揺れ、その髪の奥から優しい表情が見えた気がした。

それは本物の夜近に近い優しい笑みにも似ており、それを目にした瞬間―――月詠の体は消えようとしていく。

全身が半透明になり、自分の手を見つめればその下の花畑が手と同化し―――そして最後に見たのは、そんな月詠を見送る夜近の姿だった。



19





朝方に近い風が、その美しい風を優雅に舞わせている。

誰もいない広大な庭の一角で、表情が窺えるでもないその姿勢正しい後姿。

そんな彼女を見つけたのは偶然かもしれなかった。

東殿の縁側を歩きながらその姿を見つける日光は、不思議そうにそれを見つめる。だが相手の方は自分の気配にすら気づいていないようで、それを悟るや否や、用意されている草履を拝借して彼女に近づいていた。


「涼」


だが、返事はなかった。

振り向きもせず、自分の声など届かない場所にいるかのように、彼女はただ赤い髪を風に委ねているだけでその場に立ち尽くしている。

それを不審に思うのか、もう一度声をかければ彼女の肩は僅かに反応し、だがそれでも振り向いてはくれなかった。

「どうした、涼。背後が疎かになるなど珍しい」

「・・・・一人にして頂戴」

まるで去ってくれと云わんばかりの、なのにそれでいて寂しそうなその声帯。

「涼」

「一人にしてと言っていてよ」

「ならば、顔ぐらい見せるのが礼儀ではないのかね?」

「見飽きた顔なんて見たくもないわ」

口調こそ普段の涼だが、何か様子がおかしい―――それに気づかない日光ではない。

「俺の顔がお気に召さないのは君の勝手だが、ならば何故―――震えているのだね」

「・・・ッ」

自分で自分を抱きしめるような、涼のその両腕は力強く自分を支えている。

いや、両腕の力で自分を抱きしめでもしなければならない程の考え事など、余程の事だ。

「・・・アンタはいつもそうだわ。見逃さないクセに簡単に逃がす」

「君への執着心は自覚しているさ。だが、今ここで問いたいのはそれではない」

「アンタには関係なくてよ」

「一人悩み苦しむ女性を前に見て見ぬフリしろとでも?申し訳ないがね、そんな騎士道精神は持ち合わせていないのだよ」

「・・・・・」

頑なに拒絶するのも疲れるだけだ―――涼の心中はそんな所かもしれない。

戦闘後の疲労も手伝ってか、ただ今は体よりも心を休ませたかった。だからこそ、誰もこないだろう庭の一角で涼んでいたというのに、それでもこの男は簡単に見つけてしまうのだ。


「・・・10年前の事、まだ覚えていて?」

「10年前?夜近が都市主を継承した一件か?」

「いえ、それよりもう少し前の―――・・・」

「・・・・・」


主語がなくとも、意思疎通しあえる。

それは難しい事ではなく、今では誰もが忘れたがっている事実の一つだからだろう。


「・・・鳳来寺継承儀式事件。神門家にはそんな陳腐な名前で残されているわ」

「当時の都市主であった夜近の両親と、君の両親が亡くなった事件だな。今頃どうかしたのかね」

「当時、ワタクシは12歳の子供だったわ。歌麿はもっと子供だった」

「当時の鳳来寺当主、つまりは君の父上が強引に歌麿の継承儀式を実行させた事件だったな」

「強引?違うわ、無理矢理にも程がある事を知らない強制的なものだったわ、あれは。御父様は口では弟を立派な戦士にするのだと仰っていたけれど、本当の所はただ神門家に自慢したかっただけだわ。同い年の子供同士だっただけに、自分の子供も凄いという事を知らしめたかっただけよ」


神門家に生まれた次期当主の夜近と、鳳来寺家に生まれた末っ子の歌麿。

親の立場からしても、常日頃から比べられる対象だったのだろう。

神門の子供は日に日に力をつけていくのに対し、何故自分の息子は―――と。だからこそ、無理矢理継承儀式を行った。

無論、今となっては真意を知る術もないのだが。


「だが、儀式は失敗。都市主達神門家の者達が見守る中、歌麿の力は暴走し、辺り一面を煉獄の炎と変えた」


―――あの時、子供の自分に何ができただろう。

ただ、妹の風と一緒に歌麿を捜す事しかできなかった。


「都を司る都市主と鳳来寺家当主の力もってしても、歌麿の暴走は止められなかった。それでも君と風は、全てを焼き尽くす炎の中に飛び込んだ」

「あの子の声が聞こえた気がしたのよ。・・・助けて、って、掠れたように小さな声が」


煉獄を思わせるような業火の中心部に、まだ幼き少年がいた。

蹲る体勢で、全てのものを拒絶するように顔を伏せた幼き弟が。

しかし、涼と風が少年を見つけた時、彼―――歌麿の意識は既になかった。


「自我を失くし力の暴走。あの子に膨大な力が眠っていた事は確かだけれど、継承儀式は早すぎた証明だわ」

「そのせいで都に必要な主要人物4名が死亡、だったな。遺体もあがったと聞いているがね。・・・それで、何が言いたい?鳳来寺の汚点を今頃悔やんでいるとでも?」

「4名じゃなくてよ」

「・・・ああ、確か―――」

「御母様の遺体だけが見つからなかった。どこを捜しても、骨の残骸すら見つかってはくれなかった。おかしいとは思わなくて?他の3人の遺体ははっきり残されたのよ?御母様の遺体だけが出てこなかったのよ?」

「彼女だけ骨まで焼き尽くされた―――と、まとめられたらしいな」

「そんなの嘘だわ。神門は手っ取り早く事件を収拾させたかっただけ」

確信とまでいかないが、涼には思い当たる節があるからこそ断言できるのだろう。

未だ背中しか見せてくれない彼女の肩は先程よりも若干震えており、そして意を決したようにその華奢な腕に力が込められていく。

「あの炎の中で・・・御母様に似た人が周囲の人ごみに紛れて去っていく姿を見たのよ」

あの惨事の最中だ、誰も気に留めなかったに違いない。そこに募った殆どの人間が燃え盛る業火に圧倒され、鎮火作業と都市主の救出に必死だったのだ。

その中で一人ぐらいが背中を見せても気にも留めなかった筈である。

「その事は?」

「言ったわよ!!!けれど、12歳の子供の言葉なんて誰も耳を貸さなかったわ!!母親の死を認めたくない子供が語る幻想だとまで言われたわ!!」

「だろうな。だが、今になって何故そんな事を思い出して―――」

「見たからよ!」


夜風が二人の間を去っていく。

風になぜられ、赤い髪が蒼い髪が不規則な動きで揺れる。


「だが、今更10年前の事実を証明しようにも、君の記憶だけでは証拠にはなるまい」

日光の否定的な言葉を受けたからだろうか、突如、彼女が勢いを持て余すように振り向いた。その表情はどこか強張っており、必死で何かを我慢しているように見える。

「見たのよ!あの日と同じ人を!」

「あの日・・?まさか、先程の宝ヶ池でか?」

「それ以外に何があって!?でなければ、こんなにもあの日の事を思い出したりなどしなくてよ!」


宝ヶ池での戦場にて一人合流の遅れた涼は、その時に目撃したのだろう。

勿論、彼女自身にも確信めいたものはないのだろうが、10年前の光景と重なって見えたに違いない。


「あの夜去った姿と同じ恰好だったわ。・・・ヴェールで顔を隠して、口元しか見えなかった」

「君にとっては証拠はそれで充分、といった所か」

「あの日もそう、私だけが見たわ。そして今日も同じ。・・・一体、どうして」

自分の体を自分で抱きしめる。

俯き加減にらしくない気弱な声が届くも、強気な彼女が動揺を見せるのも仕方のない話だろう。

全ては、10年前のあの日から始まっている。


―――彼女を苦しめる呪縛が。

―――かつての恋人を拒絶し続ける理由がそこにある。





20





嵐が過ぎ去った後の静寂に包まれ、彼らは暗闇と同化するかのように夜風を楽しんでいた。

魔物の姿も気配も全てが一掃された今、彼らの『遊戯』は終了している。

それでも、鎌衣は楽しそうな瞳を隠せず愉悦に笑んでいた。


「ま、悪くねーんじゃねぇか?」


掌の中に収まった玉を月に翳し、その光り輝く輪郭を視線で追う。

「花嫁の体内から禁呪の力を取り出すだなんて、無茶もいい所だわ」

「顔は見られちゃいねーよ。第一、感謝してもらいてーぐらいだぜ?あのままだったらあの小娘は完全に死んでただろうからな」

「手法が強引すぎると言っているのよ」

「神楽、てめーだって見られたらしいじゃねぇか」

「あら、もう知っているのね。報告した覚えはないのだけれど?」

「アタシが教えたんだもん」

場に不似合いとも云える軽快な声が届き、その正体を確認すると神楽は少しだけ肩を竦めて見せた。

歳にしてどれくらいだろう、子供の風貌ながらも猫を思わせる耳を装着させている少女、そしてその手を繋ぐのは忍装束に身を包んだ恰幅のいい男。どうにもアンバランスな二人組みだ。

「アナタ達は、今夜は待機ではなかったかしらね?」

「暇だったからひーちゃんが連れてくきてくれたんだもん」

「またてめーは変な愛称で呼びやがって」

「ふーんだ。壬華ちゃんには関係ないもん」

「だーかーらー、下の名前で呼ぶんじゃねぇっつってるだろうが!」

「きゃはは!壬華ちゃんってばおっかしー!」

「・・・・華槻、それぐらいにしておけ」

「は~い、ひーちゃん」

保護者のようなものだろうか、顔半分を隠した陰気な印象を受ける彼に対しては、素直に応じている華槻と呼ばれた少女。だが、時折猫耳を動かしている時点で『普通』の者ではないのだろう。

「偵察は御得意分野だもんなぁ?卑埜(ひの)よぉ?」

「・・・・・・」

「けっ、相変わらず無口野郎め」

不満そうに唾を吐き、鎌衣は禁呪の玉を懐にしまう。

「さてと、今夜はもう終わりだ。思ったよりも楽しめたしな」

「次の魔物の製造場所はどこになりそうかしらね?」

「さあな。とりあえず、明日からまたくだらん学校生活に戻るだけだ」

心底面倒臭い面持ちで溜息をつき、緑色の髪を掻きあげる。鎌衣の頬に刻まれる何かの紋章が月の光を浴びて鮮明に浮かび上がり、毒々しい何かを思わせた。

「壬華ちゃんもかぐちゃんもいーなー。アタシも学校行きたい~」

「・・・・・華槻」

「だってひーちゃん、学校行ったら夜近様に会えるんだもん。駿河だかなんだか知らないけど、あんな女」

「面倒なだけだぜ、学校ってのはよ」

「貴方は寡黙な優等生を演じているものね、鎌衣?」

「フェロモン出しまくりの保険医には言われたくねーよ」

「大人しくしていればバレやしなくてよ。尤も、私よりも貴方の方が危険な環境だけれど」

「ほら~!壬華ちゃんってば夜近様と同じクラスだもん!むかつく~!」

「木を隠すには森の中っつーだろ。あいつの生活態度を観察してるだけさ。それに、真昼間から正体バラすような馬鹿な真似はしねーよ」

「・・・・・・・葛葉は」

「ぁあ?あの双子とはあんま接点ねーな。クラスが違うしよ」

「・・・・・・そうか」

感情の読み取れない瞳で卑埜の起伏のない声だけが響く。

何を思うのか、そこに何があるのか。

遊戯の終了した彼らは、バラバラに帰路についていく。






21






馴染みのない天井。

広い和室。

見覚えのあるようなないような掛け軸。

高価な壺と季節を彩る花。

飾られた二刀の真剣。

そして、視線をずらした先の全身鏡には『今』の自分の姿が映りこんでいる。



(・・・生きて、ますの・・・?)



けれども、その姿は今の彼女が望む自分ではなかった。

麗しく咲く一輪の花、それはこの世の男性の誰もを魅了するに違いない風貌。幼い顔立ちから成長した『大人の女性』。

夢で会った彼はああは言っていたものの、目に見える現実に危機は去っていないように思えてならない。


「・・・・起きたか」


布団からゆっくりと体を起こせば、無機質で平坦な声が背後から届く。

聞き慣れた声に振り返れば、縁側に繋がる障子を背に寛いでいる夜近がいる。

月詠にとっては心の準備などできている筈もない、突然の事だけにどう反応すればいいのか分からず、ただ胸の前で布団を握り締めるしかできなかった。


(夜近、様・・・)


暫らく視線が絡み合う。

だが、彼のその瞳からは何も感じ取る事ができない。

先程感じた声同様に無機質で平淡、それでいて無感情。いや、その表情こそが彼の中で動揺が生まれている証拠なのだが、今の月詠にそれを察せれた筈もないだろう。

「具合はどうだ」

「・・・え、あ、あの・・」

「見た所、特に異常はないようだな」

そう言って全体重を障子に委ね、どこか安堵したような体勢に崩れた。

「その姿で外は歩けんだろう、暫らくここで休んでいけ」

「あ、あの・・・」

「お前は宝ヶ池で保護した民間人という事になっている。禁呪の件も公表するつもりはない」

「で、ですが・・」

「お前は『特別』だ。これが俺の意思だ。都市主としての俺も同じ意思だ」

「―――!」


それは。

勘違いしてもいいという事なのだろうか?

寄せてくる淡い期待を裏切りたい、けれどもどこか甘えそうになる自分を必死に抑え、彼女はただ耐える。


「・・・本来ならば、取り込んだ禁呪の力を分解させるべく医療班に処置を頼む所なんだが、お前の正体を明かせない以上はこれが最適の処置だ。悪く思わないでくれ」

「ワタクシは・・・どう、なるのでしょうか・・?」

「・・・・」

瞬間、バツが悪そうな表情で夜近の沈黙が空間を覆う。

最悪の事態を彼は熟知している。禁呪の最高権威統治者として、それはごく当然の知識なのだろう。そして月詠もまた、そんな彼の表情だけで察する。

「死に、ますの?」

「お前の扱った術の量が知れない以上は断言できん」

どうせ死ぬのだから、名家の名を汚すぐらいなら―――だからこそ、現実的な処置を手離したのだろうか。

いや、そうではあるまい。

目の前の彼からは、苦渋の選択をした表情が見て取れる。

だが、月詠は脳裏の片隅で思い出す。

夢の中で、我侭な自分が作り出した愛しい彼から聞いた言葉を。




『この世は何事も平等にできているものだ。いくつもの因果が重なれば奇跡が起こる事もあるだろう』




あの言葉もまた、自分が作り出した都合のいい存在なのだろうか。

だがそれでも、体が変化した以外に不都合はない今の体で、これから死ぬなど想像できないのが事実だ。

禁呪を取り込んだとはいえ、宝ヶ池で襲われたような肉体的苦しみや痛みが欠片も感じられないからである。

「禁呪を体内に取り込めば、それは体全体に霧のように散布され有害的物質となる。だが潔白な身体を保ってきたお前が被験者ともなれば、データ以上に凄まじく早いスピードで広がっているだろう」

「・・・・そう、ですか・・夜近様の事ですもの、ワタクシの寿命も推測してらっしゃるのでしょう・・?」

「・・・・」

「構いませんわ、仰ってくださいまし」

「・・・朝までもつかどうか、正直な所あと2時間程度だろう」

「2時間では何もできませんわね~」

「月詠」

「あまり実感がありませんの。でも、夜近様に看取って頂けるのなら本望ですわ~」

「月詠」

「あ、花嫁としては不適切な言葉ですわね~。今の言葉、婆や達には内緒でお願いしますわ~~」

「月詠ッ!!」


夜近の怒声が響き渡る。

明るく務めていた彼女の言葉は封じられ、視線が彼方を泳いだ。


「死を覚悟した言葉など、聞きたくはない・・ッ!お前が俺の傍からいなくなるなど!」

「夜近、様・・?」

「お前は何故平気でいられる!侮辱し、傷つけ、拒絶し、果てには現実的処置すらも見離されたというのに!元々は俺が原因なのだろう!」

「夜近様を・・・憎めと仰るのですか・・?」

夜近にとっては、その方が救われただろう。

だが、夜近一筋の月詠にそんな真似などできた筈もない。

「憎んでいるのは、ワタクシ自身。こんなにも醜い心のまま花嫁の肩書きに胡坐をかいていた自分自身。ですのに、それすらも信じる事ができなかったワタクシ自身。・・・禁呪における罰則も承知の上で、夜近様を苦しめたワタクシですわ」

「・・・だが現にお前は、自分の風貌を何年も悔やんでいた。10年前は互いに子供だったから良かったのだろうが、徐々に焦っていたのも知っている」

「夜近様に相応しい女性になりたかったのですわ~。せめて、並んで歩いて恋人だと思われるような風貌が欲しかっただけですの~・・」


いつからだろう、月詠が子ども扱いされる事を嫌うようになったのは。

年齢に反して幼すぎる風貌を自覚したのは、いつの頃だろう。

夜近にそこまでは知れないものの、月詠の抱えている悩みは今回の事が起こるまで、ここまで根の深いものだとは思っていなかったのも事実である。


「・・・せめて、一言だけでも・・・仰って欲しかっただけですの・・」


なのに、冷たい鋭利の刃物のような視線で拒絶された。

自分の前に現れるなと、期待も希望も全てを裏切られた。

無論、彼女も今では反省しているが、今の現実が己の結果だ。

謝って済む事ではない、かといって償おうにも2時間では何もできない。それが沈黙を招くのか、月詠は夜近から視線を逸らし、成長した自分の姿が映り込む全身鏡を見やる。

自分が映るその背後に、辛そうな夜近の姿。



「・・・相応しい女性、など・・・それは、俺が決める事だろう・・・」


そして何を思うのか、夜近は重い体をゆっくりと動かし、華奢な月詠の腕をとった。

「夜近様・・?」

視線が絡み合う。

互いの意思すら絡み合わない視線が。

「どこまで効果があるかは分からんが、神門に伝わる禁呪中和術は施した。だが、お前の中に禁呪の力を感じられないほど穏やかすぎる」

古い書物や書簡から得てきた知識と月詠の現状が一致しないと言いたいのだろう。無論、宝ヶ池にて鎌衣の行った事を知らないのだから当然ではあるが。

「それは、体内に定着してしまったという事でしょうか~・・?」

「分からない事だらけだ。この苛立ちをどこに向ければいいのかすら分からない」



22





―――彼は走っていた。

―――それは条件反射のように、ただ走る事しかできなかった。

全速力で、背後に迫る恐怖から逃れる為に。



「はぁっ、はぁっ・・・!!」



息遣いも荒く、夜近は屋敷の中を走り抜けている。

道筋など考える時間もなく、ただ闇雲に。

東殿に入ったあたりだろうか、背後から自分を追う声が遠くなっていたのは。


「はぁっ、はぁッ・・・!捲いた、か?」


しかし、そんな安堵も束の間、背後で轟音がけたたましく鳴り響く。

爆発音のような、それでいて衝撃波にも似た何か。

「あの、馬鹿・・!屋敷を破壊する気か!?」

思考の一部では『アレ』を止めねばと思うも、アレの標的は自分で間違いないのだから、自ら喰われるのも面倒だ―――夜近の本音はそれに違いない。


「はぁ、はぁ・・っ、大分走ったな。いくら神門家が広いといえども、俺の走行ルートはあいつの中に完全にシミュレートされてる、ここに長居も禁物か」

体中から湧き出てくる汗は、若干前のめりになる姿勢から床に落ち行く。戦闘後の仮眠すら取っていないというのに、この激しい体力消費を恨む。

「とにかく、あいつの暴走は兵士達に任せるとして―――」

戦闘時の如く鋭い視線で周囲を見渡し、客間の一室が夜近の目にとまった。静まり返ったこの場所に、一室だけ明かりが灯されているのだ。

誰が滞在しているかは知れないが、犠牲者は一人よりも誰かを巻き込んだ方が簡単に事は済む―――学園内でも頻繁に使用している手段である。尤も、学園内では十を超える数の女生徒が犠牲になっているのだが。


「どなたかは存ぜぬが、失礼させて頂く!!」


一刻を争うように華麗な音色で襖を開ければ、そこには見知った顔が二つ。

涼と日光―――夜近の登場に視線がそちらに向くも、誰も声を発そうとはしない。

それどころか、日光の顔は無数の何かに叩かれたかのように酷く腫れている。


「・・・・・・」


向かい合って座る二人の間には、ピコピコハンマーと作業用ヘルメット。

そしてその手は明らかにじゃんけんをしている。

「・・・あの、涼?日光殿?」

「この男がムカついているだけでしてよ」

「眠れんだけだ」

「いや、あの、その顔はどう見ても」

「最初はグー!!叩いて被ってじゃんけん、!!」

涼の両目が般若の如く光輝いたその瞬間。日光は目の前のヘルメットを瞬時に被るも―――

「とったあああぁぁぁぁぁぁッッ!!!」

涼の鞭によって襖ごと遠くへ飛ばされていく。

「ピコピコハンマーの存在意義は!!??鞭って殺すつもり!!??」

「あらやだ。また間違えたわ」

「ぐ、ぬぬ・・・・げぼっ。こ、これぐらいで眠る俺だとでも・・・」

「やめてください日光殿!!このままじゃアンタ永遠の眠りに就かされますよ!?」

「眠らん、俺は決して眠らん・・!!あの世で月詠が待っている・・!!月詠とあの世で幸せに暮らすまでは眠らん・・!!」

「既に自分の発言矛盾してますよ!?というより、なんでこんな場所でこんな地味なゲームやってるのかお聞きしたいんですけど!?」

だが、二人の競争心(?)に夜近のツッコミが届く筈もなく。

「じゃん、けん!!」

涼の鞭が飛ぶ!

「後だしは反則だっつってんでしょーーが!!!」

「ぐはぁぁっっ!!」

背後の箪笥に体ごと見事クリーンヒットし、血飛沫が舞う。

いや、よくよく見れば日光の陣地にのみ哀れとしか言いようのない血痕の跡が散乱していた。

「あの、涼、少しは手加減を・・・」

「言った筈でしてよ。この男がムカつくだけだと」

「ムカつくだけで瀕死状態!?ゲームすら成立してないじゃないか!」

「それよりアンタ、なんでこんな所に来たのよ?女王様ゲームに参加しに来たのかしら?」

「ゲーム名変わってるから!!・・っ、そうじゃない、月詠が―――」




どごおおぉぉん




「や~~こ~~ん~~さ~~ま~~~!!!」



「ひぃっ!もう来た!」

「あら、月詠ちゃんの声ね」

涼は月詠の身に起きた一件を知らない。もちろん、その発端が自分と涼にある事を知れば、例え涼であろうとも責任を感じるだろう。

となれば、頼みの綱は日光しか残っていない。だが、その日光すらも現在は瀕死状態だ。

「日光殿!起きてください、日光殿!!」

血だるまになった日光の襟元を掴み揺らせど、言語解釈不能な声しか聞こえてこない。

「●▽ΠΣ£@*・・・」

「異人惑星と交信している場合ではないんです!」

掴んだ襟に力を込め何度もその体を揺さぶる。

「・・・揺らすな、今の俺は赤十字を必要としている・・・・提供者にはヤクルトが手渡されるアレだ・・・・」

「それは土日に駅前とかでやってますから!そうじゃなくて、朗報ですけど朗報でもない状況が―――!!」



「み~つ~け~ま~し~た~わ~よ~~~や~こ~ん~さ~ま~~~」



背後に感じる夜叉の如き気配。

その両手には愛用の駿河真剣を、その眼には何か得体のしれない何かが渦巻いている。

だが、その体はいつの間にか元の幼児体型(?)に戻っていた。しかし、大人用の着物を着用したままの状態なので、花魁にも似た着こなしだ。角度によっては青少年にはまだ早いものを見ることになる。

「あら月詠ちゃん。月詠ちゃんにはその着こなし方はまだ早くてよ?勝負時は時と場所をちゃんと選ばなくては、意中の男を我が物にはできないとワタクシは思うわ」

「涼、卑猥な解説はやめろ・・!」

「うん?月詠、元の姿に戻っているではないか」

逃げ続けた自分の退路すらも遮断され、日光の襟を掴んでいた力が弱まっていく。そのせいか、顔中血だらけになりながら日光も正常に戻りつつある。

「夜近、説明しろ。あれから2時間は経っていよう」

「神門家の中和術で効果があったとは思えません。あれは精々進行を遅める程度のものですし、それに意識が戻った時の月詠の体からは禁呪の力が欠片として感じられませんでした」

「既に月詠の体内に吸収され同化してしまったのか?」

「それならば、元の姿に戻ること自体がおかしいでしょう」

「という事は」

「禁呪は既に月詠の中になかった事になります」

「しかし禁呪を使用したのは事実だ」

「ええ、そうです。しかし考えてみてください。俺達の知る月詠の行動は、成長した姿で俺の前に姿を現した時から宝ヶ池で発見されるまでの間の事を誰も知りません」

「その短時間に何者かの接触があったとでも?」

「確証はありませんが、あの時確かに何者かの気配を感じました。もしその者が、俺達名家と同じく何かしら力の使い手だったとするならば。そして月詠の体は正常な機能を取り戻そうと幼い風貌になる為に時間がかかったのならば」

「禁呪を取り出す術など、名家の者にすらできん荒業だ。確証など」

「月詠のリボンは一つしか装着されていませんでした。清楚を保ち続けてきた月詠の体を魔物によって分布されたのならば何の問題もないでしょう。しかし、俺達以外に何らかの力の使い手がいたと推測するならば。禁呪を何らかの形に留めて奴らの手に渡ってしまったと考えるならば」

涼も言っていた。

神門戦闘員でもなければ一般人でもない、過去の姿を模した人物に出会ったと。

「ただの可能性でしかないが、説得力は十分にある、か」

揃って背後の月詠を見やる。

「・・・・・で、だ。夜近。何故あのようになっているか説明しろ」

「いや、それがですね?まぁあの個室で会話をしてましたら急に月詠の体に変化が見られまして。俺もその時はこれが最後なんだと悟ったんですが」






※※※






みるみる内に縮んでいくその姿は、光輝く天使のように思えた。

夜近はただ、その縮みいく華奢な体を力の限り抱きしめる。いや、抱きしめ祈る事しかできなかった。

「逝くな、逝くな月詠ッ!!」

「やこ、・・・・さ、ま・・」

「お前以外に、誰がこの俺の隣を歩けると思っている!!お前以外に、誰が最強の花嫁になれると思っている!!」

「ワタ、ク・・・シ、は・・・・」

「お前は俺が選んだ!!選ばれたんじゃない、この手で選んだんだ!!!」

「や、こ・・・・・」

「神門家など関係ない!駿河家などどうでもいい!」

「・・こ、さ・・・ま・・・」

「己の名を名乗れ!顔をあげて声を聞かせろ!!その口でお前の名を教えろ!!」

「ワタクシ、は・・・・・駿河、家、から・・・・」






『お前、名前は?顔をあげろ。そして声を聞かせろ。その口で、名前を教えてくれ』


『駿河家より参りました。――――駿河月詠と申します』




あの日。

花嫁の選出が、己の意思で選べる最初で最後の儀式だった。

最強の花嫁とは名家出身を基本とし、数年間に及んで技量器量、神門の歴史に都の意味は当然の事、戦闘能力殻から性格に至るまで徹底的に鍛え上げられた女性たちの事。

―――選択肢は1/5だった。

体つきから骨格まで異なる5人の女性を前に、夜近は選ばされた。

ヴェールで顔を隠されているので素顔は分からない。それは、選ばれなかった者への配慮だと云う。

そして5人を適当に見渡し、他の誰よりも小さな体をした少女に声をかけた。一瞬驚いた時の振動によるものか、ヴェールの下から黒い髪が映えて見える。

凛と美しく輝くその漆黒の髪の色。



―――この先に待ち受ける自分の運命は闇だ。闇を進むのならば、同じ色がいい。

―――その闇の色で、前すら見えない黒き円を延々と周り続ける道を進むのだろう。



「月、よ・・み・・・?」

ぐったりと項垂れるその体を支え、夜近は何度もその名を呼び続ける。

その両腕に抱えられる少女は、漆黒の髪を更に美しく布団の上で乱す。



(まただ、禁呪の力など欠片として感じられん。全て消滅し、月詠自身すらも連れ去ったとでも云うのか!)


「月よ―――」


今にも流れそうな涙を堪え、最後の名前を呼ぼうとした瞬間。呉服の裾を小さく引っ張る微弱な力が夜近の言葉を封印させる。

「やこ・・・・さ、ま・・」

「つ・・・っ、月詠!」

「生きて・・・ますわ・・・・花嫁が夜近様を・・お守りするのは当然、ですもの・・・ワタクシ以外の女性を選ぶなど・・・・決して、・・・許し・・ませんわ・・・」

夜近の為に必死に笑おうと懸命な少女は、覚悟を過ぎ去った後の責務に涙を流す。


どうしてだろう、夜近の為に笑いたいのに涙だけが留まる事を知らない。

どうしてだろう、月詠の為に声をかけたいのに涙だけが懸命に生きる少女の頬を汚す。



「月詠、体に異常はあるか・・・?」

眉に皺を寄せ、涙を落し、それでも口元は喜びに満ちていた。

ただ、その両手に捕まえた儚くも美しい蝶を抱きしめて。

「関節が、少し痛みますけれど・・・生きて、ますのね、ワタクシは・・・」

夜近の背に手を回し、その小さな両手で彼の鼓動を知る。夜近の温もりを知る。

「ワタクシは、ただ・・・夜近様にお会いしたかった・・・・・いつものように夜近様と共にありたかった・・・・なのに、ワタクシは―――」

「それ以上言うな、禁呪は消えた。お前は生きている。それだけで十分だ・・・っ」

「やこ、・・さま・・・ワタクシを・・許してくださりますの・・?禁呪に縋ってまで夜近様を求めたワタクシを・・・」

「許すも何も、お前は俺の花嫁だろう!!それがお前の誇りだろう!!胸を張ってその誇りにしがみついただけだろう!!・・・何が悪い事がある・・・・」

「やこっ、・・・さま・・・ッ!」


涙が止まらない。

必死に食いしばってきた全てが、情けなくも無限に流れていく。

唇は必死に震えに耐え、涙がその顔を汚し、己が誇りの価値を知る。

夜近はちゃんと、自分を見てくれていた事。

夜近が、自分を守ってくれた事。

これ以上彼に求める事があるだろうか。



「・・ッ、うあああぁぁぁぁぁぁッッ・・!!!」



ただ、月詠の号泣だけが背後の月夜に響いた。






※※※






「で?俺的には気に食わんノロケ話を延々聞かせる気か?」

「いえ、そうではなくてですね」

今にも血管がブチ切れそうな日光、それを慌てて制止して続けた。

「少し落ち着いた頃合いにですね?その・・・今宵こそ既成事実実行ですわ~~・・と」



ぶちっ。



「貴様は18禁指定の意味を知らぬのかああぁぁぁッッ!!!18歳未満は閲覧お断り!!19歳からOK!!マニアックジャンルの閲覧は20以上から!!」

「俺じゃないって言っているでしょうっ!!というより、完全にレンタル話ですよねそれ!?」

「ムードの一つも作れない男にできるとも思わないわね」

「涼!傍観してないで止めろ!」

「あ~ら。ワタクシのような売れ残りには、涙の一つも流してくれる恋い焦がれし異性なんていなくてよ」

「さぁ!宝ヶ池でのキスをもう一度してくださいまし~~!!」

「なんだその捏造は!?ああっ、話がズレてる!一回元に戻そう!ですよね!?日光殿!?」

「表向きは高校生の分際でそっちの世界に行こうなどとおこがましいにも程がある・・・」

すらりと抜かれた剣は夜近を追い詰めるには効果的だったらしく、その晩その部屋は世界中のどこよりも騒がしい夜になったのだった。





23





6月の夜風は少し生ぬるい。

肌にじっとりするでもなく、かといって冷気に近いという感じでもない。

生茂る庭の木々たちの鳴き声、池で泳ぐ鯉たちの舞。

既に朝日は昇っていたが、まだ学校に行く気分にもなれず、夜近はただ一人で縁側に座っては庭を眺めていた。

後ろを通り過ぎていく腰元達は朝の挨拶をしてくれるが、それに返事をする気もおきない。


ただただ、静かな時間。

蒼い髪が時折風で揺れ、呉服の袖がひらりと浮く。


「魔物以外の生命反応は4つを確認」


いつの間にか夜近のその後ろに、腕組みをしながらも退屈そうな密羽の姿があった。

「内一つは涼と接触。内一つは月詠と接触したよ」

「何を見た?」

「月詠の方に至っては全部さ。リボンは一つしかなかったから簡易結界陣も効力は半減、懸命に闘ってたけど剣の扱い方がらしくなかった」

「視点距離が変われば太刀筋も困惑されるさ」

それこそが、今回月詠を戦力に入れなかった最大の理由だ。

「・・・緑髪の男。年齢はアタシらとそう変わらないかも」

「うん?」

何の事だろう―――夜近が密羽を振り返れば、そこには複雑そうな表情。

「緑色の髪にバンダナ、右頬に黒い紋章。そいつが、月詠を助けた。けど」

「けど、何だ?」

「月詠の話、捏造なんかじゃないんだ。武器も使わずに3体の魔物を粉砕した後、意識の落ちた月詠に接吻してた」

「―――ッッ!!」

「面倒事が苦手なら、話合わせておきな。ま、多分だけどさ、禁呪を持ち去った奴はそいつだよ。キャンディみたいなそいつを嬉しそうに月にかざしてたからね。その時のアタシは禁呪なんて情報貰ってなかったから行動には出なかっただけさ」

「分かった、御苦労だったな。禁呪の件については都爺8名に8陣結界を行うよう指示しておく」

「儀式室にこもるっていうアレ?都爺達の年齢も考えてやんなよ、前は一睡もさせず一週間働かせてさ」

「事は一刻を争う事態になってきている。月詠から禁呪を出してくれた事には感謝するが、それを悪用するならば是が非にでも崩壊させる」

「まだ対面すらしてない相手にかい?」

「その緑の男の狙いが月詠であった以上、俺にとっては十分敵であることに違いはない」

「へぇ、アンタでも嫉妬するんだ?珍しいね」

「馬鹿な事を」

一つ溜息をついて重い腰を持ち上げ、ゆっくりと後ろを振り返る。

「まだ、お前は俺を殺さないんだな。安心した」

「あの日交わした約束も契約も違反してないだろ。短剣はそれまで、ただのお守りみたいなモノさ」

「そうか」

「さっさと用意しな。この時間じゃ遅刻決定だけど」

「月詠と歌麿は?」

「皆もうとっくに準備できてる。歌麿は夜近が動くまで仮眠摂ってるよ」





※※※





いつもより少し遅めの登校。

学園の生徒の姿など見かける筈もなく、時間はすでに10時を回っていた。

何事もなかったかのように密羽と楽しく騒ぐ月詠と、欠伸の度に後頭部を殴られる歌麿。

「労働基準法作ってくれよ、夜近~~~」

「戦士は会社員じゃない、いい加減慣れろ」

「ンな事言ったってよ~~。スワンボート漕ぐのも楽じゃなかったんだぜ~?」

「ああ、そういえばその姿を見るの忘れていたな」

「・・・・・てめぇ、ノリだけで命令しやがったクセに見てなかったのかよ・・・」

「結果が全てだ。宝ヶ池の浄化作業も終了したと先ほど連絡が入ったしな、今日は十分学生生活を満喫してくれ」


いつもと変わらない登校風景。

いつもと変わらない仲間との会話。

誰も何も失くしていない光景。

それだけで、たったそれだけで満たされている。


「ん?仲間か?」

何かを見つけたのだろう、歌麿が急に怪訝な声で正面を指す。

オールバックにした緑色の髪に眼鏡を装着した、どこからどう見ても優等生的なイメージの男子高校生だ。勿論、制服が同じなので行先は同じだろう。

「あら~~鎌衣君ですわね~~遅刻なんて珍しいですわ~~」

「鎌衣?ああ、確か夜近と歌麿と同じクラスだっけ?」

「あ?そんな奴いたか?」

「あんまり目立つやつではないからな、クラスにいても存在感が薄い男だ。というより歌麿、自分のクラスの顔と名前ぐらいは覚えておけ」

「だって話した事ねーもんよ、知るかっつーんだ」



―――鎌衣壬華(かまいみか)。

背後から聞こえる夜近たちの会話にほくそ笑みながら、眼鏡のふちを整え直す。

そしてもう一人の仲間、神楽は今頃美人保険医として職に就いているだろう事を思い出し、どこまで遊んでやろうか―――気分は最高潮に愉悦を感じていた。





































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月満つる闇・彼方の剣 なづき海雲 @kaiun

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