月満つる闇・彼方の剣
なづき海雲
第1話 『月に遊ぶ都・それは巣窟の都』
■プロローグ■
聞こえるのは、風の歌。
届けられるのは、紅葉苺が実った香り。
見えるのは、優しく染められていく景色の色。
足を止めれば、必要以上に視点を留める自分がいた。
「・・・黄色い果実が成っている」
「ええ、もう夏で御座いますから。甘くて美味しゅう御座いますよ」
道を導くようにして先導を歩く女性が、好意的な返事を返してくる。
自分の後ろには二人の武士の姿。腰には刀剣を携えており、護衛の役割を担っているらしい。
「ささ、お急ぎくださいませ。候補生達がお待ちですよ」
「・・・分かった」
着物の裾が板の床で踊る。
長い廊下を渡る途中にも一面の庭が拝められ、そんな美しい景色を視界で楽しみながらも女性の後を続いた。
季節は夏。
紅葉苺の実は甘くて美味しいらしい。
美しい蒼で染められた儀服の衣装に身を包みながら、少年は好奇心への期待に胸が躍っていく。
どんな味なのだろう。
どんな香りで満たされているのだろう。
――――それはきっと、年齢相応の期待だ。
けれど、それはただの幻にしかすぎない。
生まれたその瞬間から運命を担わされ、未来を引き裂かれ、誰かの作り上げた道を歩む人生。
そしてこの日もまた、そんな人生の中の一部であった。
「都司主様。上座へ――――」
連れてこられたのは、俗に『謁見の間』と呼ばれる広い一室だった。
縁側沿いから入れば、そこには既に数名の客人が静かに待っている。
一面に畳が敷かれ、周囲には金色の襖と簾の風流。上座だけは一段高いようで、導く役目の女性はそこへ座るようにと、深くお辞儀をして部屋の隅で待機の姿勢を取った。
都司主(としぬし)、と呼ばれた少年は疑問を持つでもなく、無言で上座へと歩を進ませ、腰を下ろしていく。
――――正面には、純白の衣装で身を包んだ5名の女性達。
いや、『女性』という表現は違うだろうか。
それは、少年とそう変わらない年齢の者から大分年上の者まで――――その年齢の差が開いた者達。
だが、その年齢をはっきりと確認する事はできない。何故ならば、そこに集う女性の全てが白いヴェールで顔を隠し、更に深くお辞儀をした状態で顔を上げてはくれないからだ。
共通点のない女性達と、その正面に都司主と呼ばれた少年。
だが、彼はここで自分が何をするべきなのかは仕えの者から聞かされていた。
そして、正面に座ったまま顔を上げない5名の女性を目で適当に追う。
「ここに集いし者達は皆、厳しい修行に耐え抜いた『最強の花嫁』候補で御座います。貴方様主君の未来を共に生き、共に歩み、そしてその心身も御心も、そしてその命も捧げる者。――――お選びくださいませ。どれを選んでも後悔される事は御座いませぬ」
きっと、この瞬間の為だけに教育されてきたのだろう。
神門家の当主にして都司主の花嫁とあらば、誰もがその地位と権力に惹かれるというものである。
だが、選ばれるのは一人のみ。
残りの4名は、無駄な時間を費やして無駄な修行をしてきたという事になる。
(一体どちらが『犠牲者』に該当するんだろうな。俺に選ばれる者か、それとも無駄な時間を過ごした選ばれない者か)
この頃から、彼の考え方は急激に酷く冷めたものだっただろう。
幼少という年齢に見合わない思想は、彼の周囲に広がる期待を大きく膨らましていく。
責任感と責務。
肩書きと束縛、そして使命感。
彼を取り巻く周囲の全てが、彼の人生を固定させていく。
――――変化など、認めないとばかりに。
「・・お前、名前は?」
適当に指差したのは、向って一番左端の『女の子』であった。
歳は自分と同じぐらいか下だろう。線の細い小柄な体で、この雰囲気にどこか圧倒されている。
「顔をあげろ。そして声を聞かせろ。その口で、名前を教えてくれ」
一瞬だけ迷うような躊躇いが見えた。
それを『命令』と受け取るべきか、『合格』と取るべきか分からなかったのだろう。
だが、都司主の発言は全てにおいて拒否権など存在しないというこの都のルールを、彼女もまた長年に渡って教育されてきた。
――――ゆっくりと頭を持ち上げれば、その顔の下半分が彼の視界に映る。
隙間を流れる漆黒の髪が――とても丁寧に手入れされているのだろうか――縁側から入り込む光で酷く輝いて見えた。
部屋の隅で待機していた女中が徐に彼女の背後に近づけば、頭から被せられたヴェールが静かに下ろされた。
現れるのは、大きく凛とした瞳の中に眠る決意。
黒く長い髪は小さく揺れ、その唇は言葉を象(かたど)っていた。
「駿河家より参りました。――――駿河月詠(するがつくよみ)と申します」
それは、彼がまだ6歳の夏。
両親を亡くしてその地位を継ぎ、そして急きたてるようにして行われた一種の儀式。
両親の死を悲しむ間もないまま、彼の歯車は急速で何処かに向っていく。
――――例えそれが破滅でも絶望でも。
棄てる事の叶わない夢はとうに諦めていた。
1
月夜の下で、旋律が踊り狂う。
幾度も連続して刀の交わる音色は、お世辞にも賛美歌と称せるものではない。
重圧を感じさせるのは、何かが引き裂かれる音。
力強く、重く、それは何かの命が途切れる瞬間。
月の光源を上空に、4つの影は休息も知らずただ躍り続けている。
刀は光り輝き、その鮮明な雫を当たり前のように乱す。
矢は閃光の如く、獲物を逃さない軌跡で走り狂う。
雑草の上を駆ける度に、誰かの――――何かの断末魔は月に向って木霊していく。
それは、言いようのない程に醜い声帯とその塊。
最初はその数も10を越えていたが、今では残り僅かとなりつつあった。
目で確認できる程にまで減少した、その数。
それでも気を抜く事は許されない。
これは、闘いなのだから。
「闇に還れ――――・・、魔に属せし輩よ・・!」
誰かの声が聞こえたその時、4人の影は一斉に攻撃を仕掛ける。
ある者は地上で剣を振るい、ある者は間合いを計りながら槍を手のように振り回し、ある者は隠れた木の上から矢を解き放つ。
そして、その禍々しき気配が一掃された時、4人は一同に集っては月の下でその姿を見せつけていた。
「――――・・・一匹逃したか。・・まぁいい」
仕留められなかった最後の気配は既に去った後、悔やむでもなく舌打だけで眼光を光らせる。
「退魔完了。任務遂行につき、屋敷へ帰路する」
それぞれ戦闘服で身を包んだ『彼ら』は、返り血を気にするでもなく。
まるでそれが誇りだとでも言うかのように――――月下でその脅威となるべき力を持て余していた。
一刀流に最強の力を重ねし者。
二刀流に定められた身を委ねる者。
槍に眠る欠片を啓示する者。
弓矢に哀れな自身を駆ける者。
それは、この都に隠された戦士達。
誰もが当然だと豪語する常識の中で、誰もが知る事のない事実。
これが平凡な世界だと言う者がいるのならば、それは何も知らないが故の愚者でしかない。
運命と使命に隔たれた彼らの『世界』は、決して終わりのない戦いの日々。
飽きる事は許されない。
放棄する事は許されない。
それは彼らが生まれたその時から、全ては運命の歯車という悪戯によって決定付けられていた。
――――それが、使命。
――――これが、自分達のするべき事。
――――だからこそ、運命に蹂躙という遊戯にも似た過酷な真実。
――――そう言い聞かせて、17年が経った。
2
「密羽ちゃん、寝不足ですの?」
「当たり前だろ。あんな深夜に叩き起こされたんだから」
朝日が昇って数時間後、二人の女生徒はその足でいつもの道を歩いていた。
周囲にも同じ学生服に身を包んだ生徒達が多く見られ、皆が皆同じ方向向かって歩いている。友人と喋りながら、時には淡い感情を持つ男女が朝の一時を共有しながら、その長い道のりを共にし合っている。
どこか純儀式を思わせるコンセプトなのだろうか、その制服は学園生徒の証。
陰陽を司る清明紋をモチーフにしたエンブレム。
そして彼女達もまた、その中の一人として紛れ込んでいる。
一人は長い黒髪を風に揺らせながら、一人は短い髪が乱れたままで。
「髪、整える時間もなかったんだ。あんまし寝てないからね」
小柄な童顔を誇示する黒髪の少女とは正反対に、活発なイメージが湧き出ている彼女。その顔は本当に眠そうで、この通学路の最中にも数え切れない程の欠伸をかましていた。
そして事あるごとに、「あいつのせいだ」とその口が愚痴るのもいつもの事だ。
「密羽ちゃん、ちゃんとお風呂入りましたの~?」
「入ったに決まってるだろ。あんな生臭い匂い、なかなか落ちやしないんだからさ。月詠こそ、ちゃんと清潔にしてるだろうね?」
「当然ですわ。朝一の行水も欠かしておりませんわよ」
そして、通学途中にある広い公園に着くなり、二人は徐にベンチにへと腰を落としていた。
レンガ造りに拘っているのだろう、この公園の設計者は名のあるデザイナーらしいと誰かが言っていた。
噴水を中心にして下に下る階段が両脇に設置されており、そこは季節相応の花が咲き誇っている。密羽と月詠が座るベンチの周囲にも、大きな幹の並木道が展開されていて、それだけで清清しい緑を堪能できるというものだ。
「今日は技能テストだっけ?かったるいなぁ」
「もう、またそんな事言って~。いつもトップの成績じゃありませんの」
「別に。うちのクラスではアタシが有能だってだけだろ。第一、月詠だって――――」
自分と同等の高成績だろ、と言いかけ、密羽は言葉を止めていた。
座るのに邪魔なのだろうか、その両腰に携えた2刀の剣を簡単に持ち変える仕草が見えたからである。
月詠に至っては、規定されている制服の上から更に狩衣を羽織っている為見えなかったのだが――――
「アンタね、またそんな物騒なモン持ってきてるのかい」
「当然ですわ。あの方を御守りするのがワタクシの使命ですもの」
「月詠がでしゃばらなくたって、あいつは充分・・・」
はぁっ と慣れた光景に溜息をつけば、その片手で顔を覆う。
二刀の真剣を常備する月詠という少女は、顔に似合わず物騒な武器をオモチャでも扱うかのように軽々しく膝の上に置いている。
歳相応に見られた事のない童顔と、髪に括られている呪詛のようなリボン。
猫を思わせるような大きく麗しい瞳。
――――何度確認しても、隣の幼い風貌した彼女はいつでも彼女でしかない。
昔からこのままで、今更何が変わるわけでもない。
そう確認すれば、密羽は諦めたかのような溜息をつくのだった。
「――――で、男共はまだ来ないのかい」
「もうそろそろですわよ。・・あ、ほら。来ましたわ~」
月詠の視線を追うようにして密羽も顔を上げれば、正面にはよく知った姿が見え始めていた。
互いに長身なのもあるが、二人並ぶその姿は余りにも目立っている。
一人は制服を規則正しく着こなし、青く長い髪を結った男子生徒。
一人は改造した制服を独自の着こなしで乱し、赤く染まった髪の男子生徒。その片手には何かが入っているだろう長い布袋を携えている。
「夜近様~~、こっちですわ~~」
「やっと来たのかい、女を待たすんじゃないよ」
月詠が豪快に手を振れば相手も気づいたようで、その足は二人の元に向ってくる。
それを確認した頃、密羽と月詠も立ち上がり――月詠は刀をまた腰に戻し――4人は互いに顔を見合わせるのだった。
そして一番最初に月詠が、夜近と呼ぶ青年向って軽くお辞儀をする。
「夜近様、おはようございますですわ」
「鳳来寺歌麿様、見――――」
「すまんな、遅くなった。この馬鹿が、いくら待っても出てこないと思ったらグースカ寝ていてな」
「キメ台詞の最中に入ってくんな!第一夜近、寝る子は育つって言うだろ!」
「これ以上はない程の無駄だね。歌麿がこれ以上育ったら、馬鹿菌がアタシらにまで伝染っちまうよ」
「密羽、おめーなっ!下の名前で呼ぶんじゃねぇよ!」
「・・・・・麿ちゃん・・・事もあろうか夜近様に起こして頂くなんて、このワタクシでもされた事ありませんのに・・・・」
「月詠、剣をしまえ」
いつの間にやら恨みの念を背負いながら、その剣の先端を歌麿の首元に向けている月詠であった。夜近もとりあえず牽制してみせるのだが、彼女はどこか不機嫌が残る顔で渋々鞘に剣を戻していく。
「ったく、馬鹿やってないでさっさと学校行くよ。生徒会長が遅刻なんて示しがつかないんじゃないのかい」
「あぁ、そうだな」
「麿ちゃん・・・・許しません事よ・・・」
「や、夜近・・!これ置いて行くなーーーーっっ!!!」
相変わらずの朝の風景は、平和な証なのだろう。
制服に身を包み、学生鞄を揺らし、その足は変わりない日常を歩く。
背後に二人の遣りあいを感じながらも、4人は揃って学園にへと向っていくのだった。
京の都の中心部に、一際大きな存在として置かれている綾小路学園。
それもその筈、この都にたった一つの学び舎だからだ。
幼等部から大学部まで、その施設の敷地面積は桁外れにでかい。
この都の全ての若者が、毎日ここに集う場所。
すなわち、この都に住む者は全てがこの学園の在校生であり、また卒業者でもある。現在高等部だけでも数万の生徒が在籍しており、その数に対して学力や能力別にクラス分けという先進的な試みも実践中だ。
そして『特別編成特殊技能クラス』というのがそれに値する。学力は基準以下でも一つとして何かしら能力があれば、このクラスに認定されるのである。
当然の事ながら、誰もがこのクラスに入りたいと願う生徒は少なくない。なにせ学力テストの成績に拘わらず赤点でも補習を免れたり、ある程度なら出席日数も免除されるからだ。
何か一つでも他人を凌ぐ能力を誇示していれば、それだけで価値があるのである。
そして、夜近・歌麿・月詠・密羽の4人は、その特別クラス在籍の生徒でもあった。
3
場所は京の都、左京区下鴨。
自然が織り成す木々の並木道をくぐって、下鴨神社はそこにあった。
最も、正式には加茂御祖(かもみをや)神社と呼び、『下鴨神社』とは長い歴史の中で変化していった通称名だ。
京都の開拓の祖神、玉依媛命(たまよりのひめのみこと)・加茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀っており、現在でも山城の国一の宮京都総鎮護の御社として殖産興業・五穀豊穣・国土開発・縁結・安産・育児・方除け――――等の神様として広く信仰されている。
桜門や舞殿など、50棟が重要文化財建築物で国宝に指定されており、両本殿だけは文久3年に造り替えられたものの、流れ作りとして代表的な建築物でもある。
毎年5月になれば、平安朝の姿を再現するかのような祭りが行われるのも有名な話だろう。
「もう暫し歩きますぞ」
「――――了解しましたわ」
頭上を掲げるは朱色に染まった大きな鳥居。それを越えれば綺麗に敷き詰められた白い砂利道が続き、正面には塀で囲われた神社本堂が見えてくる。
道の両脇には小さな賽銭箱や、御稲荷様が祀ってある恋愛成就祈願の小さな場。
平日の昼間という事もあってか、人影はまばらにも見当たらなかった。
神主達の姿も見当たらなく、それでも『彼ら』は本殿を見上げるようにしてその場から動こうとはしない。
「・・・ここ、ですか?」
静寂で満たされた風の中、その一声がやけに冷たく響く。
トーンを抑えているのだろう、その性質は低ボイスではあるが何処か緊張感を含んでいる。
「うむ。間違いなかろうて」
「ふん。神聖なる神社の聖域に入り込むなんて、罰当たりな輩ですこと」
妖艶な匂いを漂わせる美女――――と称するが正しいだろう。少し長めの赤い髪を風に舞わせながら、彼女は見下すような目つきで挑発する。
一方、彼女の隣で杖をつく老人は装束衣装にも似た呉服でその言葉に無言で頷いている。
――――そんな頃だろうか、二人の後ろに続く一人の女性は溜息をもらしていた。時折、心底面倒臭い表情であくびなんかもかます。
「ちょっとぉ。どーでもいいけどさぁ、早く終わってくんない?アタシ、単位結構ヤバイんだからさぁ」
前にいる女性と同じく赤い髪。顔つきは酷似しているものの、妖艶な女性同等の穏やかな表情とは正反対のキツい顔つきだ。ただ違うのは短髪だというぐらいだが、髪の中にメッシュが入っていたりと、飾り物も多い。
「安心なさい、特例義務処理を後で施す手筈になっていてよ。それよりも、真面目に授業に出ないから悪いんでしょうが。自業自得じゃない」
「だってぇ、メシア様のライブ優先だもん。しょーがないじゃん」
「相変わらず変な名前ね、アンタの追っかけてるビジュアルバンドは」
「何、喧嘩売ってんの!?メシア様は、アタシのダーリンなんだから!」
「はいはい、言ってなさい」
「――――・・ごほんっ!!お主ら、少しは真面目に調査を――――」
「あーもー、うっさいなぁじじぃ!!」
「こら、風。そういう本音は思っていても口に出さないが常識よ。適当な言葉でお茶を濁してやり過ごしなさい」
「丸聞こえじゃぞ、涼・・・」
涼、風、と呼ばれた両名は、特に反省するでもなく再び正面の本堂を視界に映す。
朱と緑の二色で構築されている塀と門。現在門は閉まっているが、その奥から感じる気配を見逃す彼らではない。
「門、開かないワケ?」
「現在は休館中じゃ」
「普段は平日でも夕方までは開いているハズでしょう?」
「都司主の命令じゃ」
都司主(としぬし)――――その名前が出た瞬間、二人の言葉は途切れた。
簡単に言うのならば、この京の都を背負って立っている―――いわば、この都の頂点に立つ者の総称である。全ての権限を手にする事のできる唯一の人物だ。又、その『彼』に従う者は例えそこにどんな事情があろうとも彼から発せられる命令には逆らえない。
そして現在の都司主は、都4大名家の一つ『神門家』の長男がその座に就いている。
「意味分かんな~い。門を閉めるのにどういう理由があんのよ?バッカじゃない?」
「都爺殿、そういう事はもっと早くに仰って頂けません?私達にも準備というものがありますのよ」
「今は調査がメインの仕事じゃ。・・・ふぉふぉ、さすがのお主らでも都司主の名前は怖いか。特に涼、お前はワケありじゃからのぅ。ふぉふぉふぉ」
「このじじぃ!!余計な口開くんじゃないよ!!」
「・・・私は気にしていなくてよ、風。昔の事は忘れたわ」
さも当然だと言いたげな視線は酷く冷め切っており、その視線が空を仰ぐと老人に掴みかかった風もその力を緩めていく。
そして、残されるのは正面からひしひしと伝わってくる『気配』の渦。
その数は幾程なのかは正直分からないが、幾多もの『闇』の数が混合していると思って間違いない。
「低級族も数集れば面白い事になるのね」
「冗談を言っている場合ではない。中に巣食っているのが魔物か霊族か、確かめねば」
だが、近づこうにも近づけない理由があった。
先ず一つは、先程も確認したように門が開けられない事。
そしてもう一つは、囲いや門をも包むようにして邪悪な気配が3人を脅しているという事だ。その幾多にも重なる重圧感に触れるだけで体が動く事を拒否してしまいそうなその感覚は、門の中に入れば想像も出来ない悪夢が待っているのだろう。
さすがの二人といえども、これといった準備もなしに冒険する勇気はない。
――――さて、どうしたものか――――・・そう誰もが溜息をつきかけた時。妙に明るい口調で涼が声を出していた。
「あ、そうだ。風」
「・・へ、な、何よ?」
「アンタのさっきの質問、答えてあげるわ」
そう言うなり、涼は少し長めの髪に右手を埋めるなり何かを掴んだ。
その場から動かずに、意識だけを膨張させて何かを探る。
――――そして。
「門が閉まってるのは――――・・こいつらを逃がさない為よッ!!」
右手に掴んだモノは一瞬にして不気味な旋律で走り、蛇のような螺旋を描きながら一直線に駆けた。
そして標的は巻きついてくる『それ』を避ける事も出来ず、3人の目の前に転がらされていく。
それは、涼の従事する鞭に捕えられた一匹の『魔物』の姿。
体格的には小振りだが、構造的には人間によく似たその姿。全身が真っ黒に染まったその体毛は不気味としかいいようがなく、真っ赤に鋭く光る眼光も刃も異形の者たる証。
「門を閉める事で、こいつらが飛び出れないよう内部的結界を貼ったってワケ?都司主サマも、ここまで分かってんならさっさと片しゃいーじゃん」
「できない理由が、こいつなんでしょうよ」
「そうじゃ。都司主様は、ここの調査をするようにと仰られた。結界の維持持続予想と、魔物の分析――――」
「いつでも自分が有利な立場を作り上げるのよ、あの男は」
自分達が仕えるべき主に対して『男』呼ばわりした発言に、都爺は思わず眉を変形させる。だが、それに対して叱咤するよりも早く、風が体中で大きく伸びを見せつけていた。
「・・・で、その都司主サマは今頃お勉強中ってワケ?」
4
「・・・ねみぃ・・・」
「歌麿、いつまでそんな顔をしているつもりだ?俺まで眠くなるだろ」
「お前は眠くないのかよ、夜近・・。あんな時間まで――――」
「俺たちに時間帯を選ぶ事はできんのだ。いい加減慣れろ」
「へいへい、都司主様には適いませんよ~・・ってか」
「俺だって好きで都司主になったワケじゃない。いい加減目を覚ませ」
呆れたような返答を返してやれば、机の上でなめくじのような体勢だった歌麿は大きく伸びをする。
都司主――――自分と同年齢でありながら、神門家の宿命を背負った男。
神門夜近とは幼少時よりの付き合いで幼馴染のような関係ではあるが、体と心が成長するたびにその名前の偉大さを痛感する。
自分と大して変わりはしない、ただの健全男子。
確かに、その頭脳を比べられれば自分が遥かに劣るのだが――――それでも、友人として接する分にはこれまでと変わりはしない。
「都司主は肩書き多くて大変だな。生徒会長っつーのもお前の意思じゃねぇのかよ?」
「勝手に選ばれただけだ。ま、色々と都合がいいんだ、これが」
「この、悪人」
黒板上に設置されてる時計を見やれば、時間は昼手前の11時半過ぎ。
都合のいい事にか、この一番眠い時間帯は自習だった。
見渡せばクラスメートも各自仲の良い友人と喋る事に夢中のようで、教室中がざわついている。すぐ目の前の友人だけは、体を横に向けながらも律儀に教科書を開いているが。
3―A。
夜近と歌麿が在籍する特殊技能クラスで、密羽と月詠はその隣のクラスである。
「・・・・なんでお前教科書開いてんの?」
「知らないのか?自習だからだ」
「嘘くせー。ホントはサボリたいくせに」
「ふん、ツラだけでも優等生ぶりをアピールしなくては生徒会長なんて務まらんのだ」
「うっわ~。今のセリフ、親衛隊の連中に聞かせてやりてー」
「やめておけ。誰も信じちゃくれんさ。嘘つきよばわりで校内新聞の一面飾る事になるぞ」
友人の計画犯ぶりに諦めの溜息をつき、豪快に開かれている窓に身を乗り出しては下に広がるグラウンドを眺めた。
3年の特殊技能クラスは、第4校舎の3Fにある。
普通科の生徒で溢れる校舎とは隔離されたような場所にある為、必要のある生徒しか近寄らない場所でもあった。その為か、使用するグラウンドも技能クラス専用という独占ができる。
すなわち、広い地面の広がる更地も第4グラウンドというワケである。
今はどこかのクラスが様々なテストを受けているらしく、広いグラウンド一杯に体操服姿の生徒達がそれぞれに動いている。
「お?ありゃ月詠と密羽じゃねーか?」
「あぁ、何やらテストだとか朝言っていたな。恐らく、密羽の独占で終わるんだろう」
「あいつの足、はえぇもんなぁ。月詠はトロそうだけどよ」
やはり二人のあの風貌はどこにいても目立つ。
月詠のお団子を結った長い髪は後頭部で一つに括られているが、それでもあの呪詛を描いたようなリボンは変わらず風に揺れている。あんだけ小さくて小柄だというのに、未だ自分と同い年というのは違和感があった。妹や姪だと紹介しても全然通りそうな気すらする。
だが、歌麿の視線は月詠の一部分を凝視するのだった。
「・・・薄着にならねーと分からねーもんだなぁ」
「お前、何を見てるんだ?」
「月詠って意外とでけーな。何カップあるんだ、ありゃ?」
「・・・汚れた目であいつを見るな」
「おーおー、彼氏の独占欲ってか?」
「測りたいんなら勝手に測ればいいさ。最も、真剣の餌食になるだろうがな」
「誰が、最強の花嫁に喧嘩売るかよ・・・」
それは、『選ばれた』が故の肩書き。
夜近の環境同様、鎖で縛られた宿命にも似ているのだろう。
生まれたその瞬間から、白紙の未来など切り捨てられている。
――――俺はゴメンだ――――・・そう思わない日はなかった。
「俺は、もっと楽に生きてやる。やってられるかよ」
そう呟いてみても、まだ正面で教科書を読書感覚で目を通す友人からの返事は聞こえなかった。自分の言った言葉の意味を理解しての事なのか、それともその意味が自分の肩書きを責める言葉に聞こえたのか。
――――どっちにしても、歌麿自身ははどうでもいいようだ。
ただ、この眠い時間が早く過ぎるようにと、黒板上の時計に念じるのだった。
■□■
赤い炎は業火となり、全てを焼き尽くしていく。
生々しく燃え盛るその色が、視界一面を染め上げる。
制限のない自由を満喫するかのように、炎は我侭に勝手にどんどん広がっていた。
――――ここは、どこだろうか。
――――誰か、いるのだろうか。
――――この炎は、誰が?
――――この光景は・・・なんだ?
疑問は沢山あった。
だが、ここでの自分は『疑問』を『疑問』と解釈できず、ただこの光景に飲み込まれていくだけだ。
(・・・あぁ、またこの夢か・・)
そういう意識が、自身の中で少しの自覚を叫ぶ。
だが、それは自覚していても今の彼にとっては現実そのものだった。
自覚という意識を認識できないのだ。
だからこそ、これは夢なのだと――――・・起きてから気がつく。
(早く、醒めてくれねーかな・・・)
意味の分からない光景と、理解の出来ない夢。
一体『夢』は自分に何を見せたいのか。
一体『夢』は自分に何を知らせたいのか。
赤く燃え盛る業火の中で立ち尽くす自分が、手放した意識の欠片の中でそんな事を思う。
「・・・よっくもまぁ、ここまで寝てられるね。気配に気づかないなんて失格じゃないの」
「まぁそう責めるな、密羽。昨夜は頑張ってくれたし、体力の消耗に比例して眠気で体力を回復させようという自己機能が働くんだ」
昼休みを知らせるチャイムが鳴り響いても、赤髪の友人はまだ眠りの中にいた。
起きるのを待つ間に、いつもの制服に着替えた密羽と月詠が迎えに来る。
それでもまだ歌麿は、起きる気配の欠片すら見せはしない。
「でも、そうも言ってられませんわ~。昼食の時間ですのに~~」
「それもそうだな」
そう言うなり、夜近は手元の教科書を徐に丸めて隣の歌麿の頭を豪快に叩く。
それは綺麗に弾かれた音と称するべきか、豪快に痛い音と称するべきか。
どちらにせよ、痛いのは歌麿一人だけである。
「・・・い・・・ってぇぇぇぇッッッ!!!!」
「気にするな。俺達は痛くも痒くもない」
「ほら、さっさと起きな。今日は天気いいから屋上に行くよ」
「夜近様、今日のお弁当は自信作ですの」
「変な薬が入ってないなら構わん」
「何、アンタまた媚薬入れたの?」
「夜近様ったら、今日はそんな小細工はしてませんわ~~」
「・・・・いつもそうして貰いたいんだが・・・・」
「お前ら、待てっっ!まずは俺に謝れっつーの!!」
月詠の普段の行動はともかくとして、談義をする3人はさっさと教室の扉まで着いている。
昼休みのざわめきを聞かせる教室の中、後ろを振り返れば歌麿はまだ窓際の自分の席で痛む頭を抑えている。
「早く来い、歌麿。今日の弁当は自信作だそうだ」
そのまま不機嫌な色を全開に表現する彼を引き連れ、4人は屋上へと向うのだった。
5
「俺に何か御用でも?」
その声が届くのは、とある神社の境内の上だった。
この都の左京区南部に位置する、鷲森神社。規模こそ小さくて目立たない、どちらかと言えば寂れた場所でもある。
だが、赤い髪を揺らして妖艶な風貌をそのままに、涼は彼に近寄るのだった。
「アンタ、自分の神社ほったらかしにして何でこんなトコにいるのよ」
「俺とて、他の御利益に縋る時もあるのだよ」
「神門家からアンタに使いが行ったって聞いたんだけど?・・・逃げたね」
「世間ではそうとも言うらしいね」
「そうとしか言わなくてよ、この馬鹿ッッ!」
髪の中から使い慣れた鞭を取り出し、豪快に床板を弾く。
そんな正面の様子に彼は演技のような怯えを見せるが、彼とて武道者である事は彼女も知っている。ぶらっと散歩に来るにしろ、ただの一般人は神社に剣など持ち込みはしないからだ。
肩で結う髪は黒く長く、その物腰落ち着いた雰囲気で自前の呉服に身を包んだ青年。
余裕の態度を見せるも、その腰に携えている剣は飾りではないのだろう。
「涼、女王様顔負けだねぇ。SMプレイは勘弁だよ?」
「誰がアンタなんかに披露するものですか。こっちは都司主の命令で一日の予定を潰され、都爺に散々こき使われた挙句にアンタを探せってまで命を出されたのよ。ガキの使いじゃあるまいし、こんな雑用如きで私を起用されたんじゃ堪ったものじゃないわ」
「こんなに早く見つかるとは計算外だったなぁ。てっきり、神門の者が来るとばかり思っていたよ」
「だから私を起用したんでしょうよ」
「やれやれ、都爺達も古い脳みそで学習能力を磨いているようだ」
諦めた、とばかりに溜息を溢し、彼は軽く首を掻く。
何故、涼にだけは自分の居場所が見つかってしまうのだろうか――――普通に考えれば、それは不可能な話なのだ。
この都は、区で隔てられた区域の中に街があるのは誰もが知っている常識。
北部に左京、北、右京の区。
南部に東山、山科、伏見、南、西京の区。
更にその中に、上京区と中京区と下京区がある。
これらをまとめて『市』と呼ばれているが、何せ中心区以外は山や森林で多く囲われた都市なので道も入り組んでいると言っても過言ではない。今では文化が進んで殆どの道が整備されているが、文化財条例などの関係で手を加えられない場所も多々存在するのも事実。
だが彼が逃げるようにして来たこの鷲森神社は、そのどちらにも当てはまらない。
場所的に田舎なのと、こじんまりとした神社自体も寂れて訪問者が殆どいない事。
すなわち、人々に忘れ去られたような場所なのだ。
けれど、神社仏閣が日本一多い都市だからこそ、このような事実はこの都の中では珍しい事ではなかった。
「足だけでそう遠くは行けないでしょう。だったら、アンタの管轄内に潜んでるとしか考えられないじゃないの。その中からここを見つけたのは偶然だけれど」
「公共の施設を使って移動したとは考えなかったのかい?」
「そんな目立つ真剣を腰からぶら下げて?だとしたら、別の意味で褒めてさしあげてよ」
「・・・そりゃ有難いねぇ」
困ったような笑みを浮かべれば、観念するしかないようだ。
今度こそ本当に降伏したらしい彼は、先に神社を抜けようとする彼女の背中に従っていく。
「一体何年の付き合いになると思っているのよ」
「はいはい」
「はい、は一回」
「・・・俺の方が5つも年上なんだけどねぇ」
「うるさくてよ。――――行くわよ、日光。今度の件は駿河の管轄なんだから。嫌でも立会いぐらいはしてもらうわ」
目の前を歩く妖艶な美女、涼に『日光』と呼ばれた彼は、面倒臭い面持ちで従って行くのだった。
これから自分が連れて行かれるのは、あの神門家なのだろう――――
心中で不機嫌を自覚しながら、これから自分を待っている『仕事』に対して退屈そうな欠伸をかました。
■□■
「くっはぁぁ~~!食った食った!!」
さも満足そうな声が木霊すのは、日和のいい太陽を独り占めする屋上。
そこには夜近達4人が、空の重箱を囲んで昼休みの一時を過ごしている。
数分前までは、豪華絢爛で色とりどりの鮮やかさが満ちていただろう重箱。だが今では殆ど食べ尽くされて、プラスチックの飾りや銀紙だけしか残っていない。
「麿ちゃん・・・夜近様を差し置いて肉を一人で食べましたわね・・・」
「細かい事言うなよ、月詠。どうせこいつはそんなに食べられる方じゃねーしよ。俺様が夜近の分まで処理してやったんだ」
「今日は自信作でしたのよ!夜近様に味わって頂きたく、頑張りましたのに!」
「ちょ、何アンタ!昨夜のアレから寝てないワケ!?」
「だ、だって、密羽ちゃん~~。夜近様にお出しするお弁当ですもの、それにこれだけの量にもなると時間がかかりますもの~」
「バカっ!なんで寝ないの!こんなバカ男に尽くすよりも自分を大事にしなって、いつも言ってるだろ!」
「・・・・俺は影でそんな事をいつも言われていたのか」
屋上での一時は、いつもの風景。
歌麿が月詠の準備した豪勢な弁当をほぼ独り占めし、月詠が怒り、密羽がちょっかいを出し、夜近はそれを傍観する。
心地よい風を感じながら、この時だけは『平和』という言葉を信じたくもなる。
目の前で展開される風景が、夜近にとっては何よりも心地よい。
自分の背負う宿命すらも、この4人が集えばそれを忘れさせてくれる。
「しゃきーーん。」
「ば、バカかっ、月詠!何が『しゃきーーん』だ!その真剣をしまえ―――!!」
月詠の両剣が鞘を抜き、それが天を仰いで標的を定める。
無論、歌麿は屋上を必死で駆け回る鬼ごっこだ。
――――本人は鬼ごっこよりもタチの悪い命がけかもしれないが。
「・・まったく、何やってんだい。歌麿もこうなる事が分かってんなら少しは控えればいいのにさ」
「ははは、まぁいいじゃないか。月詠は楽しそうだしな」
一方、空の重箱の周囲に座ったままお茶を一服する夜近と密羽。
背後では二人の叫び声が聞こえてくるが、今更気にもならないらしい。
「あのさ、前々から聞きたかったんだけど。屋上は一般生徒は使用禁止、だっけ?」
「生徒手帳にはそうあるな」
「夜近、アンタが決めた規則?」
「俺じゃないな。俺の中の『生徒会長』という人物が作ったのさ」
「同じ事だろ。アタシらは一般生徒だけど、罰せられないのかい」
「俺が信用できないか?――――最も、屋上を禁止にしているのは俺にとって都合がいいからなんだが」
「?都合?」
「――――本家との連絡のやり取りさ」
遥か彼方まで続く大空を見上げれば、密羽もそれを習うようにして続いた。
晴天。
青い空。
白い雲。
時折鳥たちが視界を横切る。
何一つ変わりのないこの上空に何があるというのか――――密羽はそれを尋ねようとするも、まだそれを見上げ続ける夜近の表情が変わっている事に気づく。
「・・・何?」
「何だろうな」
見上げた先に広がる夏の日差し。
夜近がそのまま立ち上がれば、一羽の鳥が風の音を奏でながら近づいてくる。
「・・鳥・・・・鳩?なに、本家からの連絡?」
その足には紙切れが摑まれており、恐らく伝書鳩なのだろう。
教育されている鳩が屋上の手すりにその身を乗せ、夜近がそれに近づいては紙切れを受け取っていた。
大きさにして小さなメモ用紙程度だが、夜近に伝わる伝言はそれだけで充分らしい。
そしてさっさとそれを一読するや否や、彼のその表情が不敵に笑う。
そして鳩を再び旅立たせ、その手すりに肘をかけて3人を視界に映した。
勿論、気になるらしい密羽もいつの間にか立っては夜近に近づき、喧騒を行っていた歌麿と月詠も夜近の元へと足を向けていく。
「歌麿」
「なんだよ?」
「悪い知らせだ。お前、逃げた方がいいかもしれん」
「・・あ?何だよそれ。その紙にそんな事書いてあんのか?」
「都爺様達からの伝書ですの?昨夜の一件について・・・でしょうか?」
月詠には察しがついているらしい。
その概要となる中身までは分からないものの、夜近は笑いを堪えるようにして口元を押さえている。
それが何を意味するのか皆目検討もつかない3人だ。
「おい、夜近っ」
「ははは、悪い。昨夜の一件についてだ。逃がした魔物が根城にしていた場所から一匹の魔物を捕獲。分析と調査も済んだらしい。どうやら、日光殿が協力してくれたみたいだな。こんなに早く結果を出せるとは、さすがだよ」
「まぁ、兄様が?珍しい事もありますわね」
「で、何で俺が逃げた方がいいって――――」
「読むか?」
歌麿の理解できない苛立ちを悟ったのか、今さっき伝書鳩から受け取ったメモ帳程度の紙切れを差し出す。良くは分からないが、赤髪の友人は不安そうにそれを受け取り、目を通す内に――――歌麿の顔色が見る見る青ざめていくのが傍からみて明確に知れた。
そんな様子を見守りながら、やはり笑みが隠しきれない夜近だ。
「何なのさ?何が書いてあるっていうの?」
「ん?教えてやろうか?」
「お、俺は逃げるからな・・!!ここではない何処かに行く・・!!」
「あ、麿ちゃんっ。何処に行きますの、話はまだ終わってません事よ!」
必死に駆けようとする歌麿だが、動転してる為か体がうまく走ってくれない様子だ。
そして更にそれを月詠が止めている為、中々屋上の出入り口にまで辿り着けない。
「あの紙に書いてあったのは、そう大した内容じゃない」
「けど、あのバカはあんなに慌ててるじゃないか」
「あぁ、歌麿にとっては一大事な事項なんだろうな」
「だから、さっさと教えなよ」
「そうだな、あの紙には――――」
ようやく歌麿のその手が屋上の昇降口のノブに辿り着いたその時。
無意識に――――ではなく。
そして自動的にでもなく。
向こう側からこっちに向って勝手に開いていく。
そして、隙間から徐々に見えてくるその姿に――――歌麿の蒼白の表情は諦めを悟るのだった。
「『調査及び分析報告を鳳来寺家の風がお持ち致す――――』・・だな?」
「相変わらず間抜けなツラね。会いに来てやったわよ、可愛い弟。・・・そして、都司主サマ、ごきげん麗しゅう」
突然現れた風は、歌麿―――弟―――にニヒルな笑みを浮かべていた。
6
「やれやれ、人使いが荒いんじゃないのかい?」
神門家に連れられて、結界の中に閉じ込められた魔物を拝見したのは数時間前だ。
駿河家の管轄内で起こった事件の為、その立会いを命じられて素直にそれを承諾し、つまらない光景に付き合った。
まぁ内容は、今も隣にいる涼と共に魔物の分析作業である。
これまでこの都に出現した魔物をまとめてある書類から参照し、その出現場所と出現理由、更に魔物自体の属性にまで至る。そして体内の構造から蘇生能力や繁殖能力の割り出し、DNA細胞の摂取まで行う、なんとも地味な作業である。
そしてその作業を早急に終わらせるや、今度は隔離場所の調査に赴けとの命令まで発せられた。
それを受けての呟きが、先程の一言である。
そして今はその命令に素直に従う自分を健気だと同情しつつ、下鴨神社の並木道を涼と歩いている。
「アンタが逃げなきゃ事はもっと早くに終わってたはずだけれど?」
「涼、いい加減機嫌を直してくれないかい。仕事がやりにくいよ?」
「四条河原町『カフェ・ド・ボンド』のミルフィーユパフェで手打ってあげてもよくてよ?」
「分かったよ、これが終わったら連れてってあげますよ」
「あ~ら。別に催促したワケじゃなくてよ?でもそんなに私を連れて行きたいのなら仕方ないわね」
「女王様は俺の範囲じゃないよ」
「・・・何か言った?このシスコン27歳」
「シスコンとは聞こえが悪いよ。妹へ向ける愛情と謳って欲しいね」
「・・年齢はいいのね?」
「・・・・・よくないよ」
そんな他愛ない会話を続けていれば、正面に大きな鳥居が見えてくる。
歩を止まらせる事なくそれを潜れば、白い砂利が敷き詰められた道の正面に門の閉ざされた本堂が立ち構えていた。
涼にしてみれば、本日二度目となる場所だ。
「ふぅん。随分と瘴気が漂ってるな」
「あまり長居したくないわ。早く終わらせましょう」
「同感だ」
だが、こうも禍々しい気が当たり一面を覆っていては、何かを探る事すら困難に思えた。
そもそもここに来た理由は、地脈の歪みの調査と結界作用の確認である。
「さぁて、どこから手をつけたらいいものやら」
「何寝ぼけた事言ってるのよ。禍々しい力の中心の場所は割れてるんだから、その源となっている原因を突き止めるしかないでしょ」
「涼の言いたい事は分かってるつもりだよ。だけれどね、こうも地脈が安定してないと下手な憶測も作れないね」
「へぇ?真面目に仕事してくれるのね。――――とにかく、歳食ってる分知識だけは豊富なんだから役に立ってみなさいよ」
「やれやれ、言いたい放題だねぇ涼は。地脈の調査も楽じゃないんだよ?」
この大地を守っている『地脈』があるからこそ、人々は大地の上で生きている。それは光であり影であり、森羅万象全ての事象に大いなる影響を与える存在だ。
大まかに地脈とは『陰』と『陽』に分かれており、そのどちらかに分類された地脈が大地に影響される。
簡単に例えれば、『陰』の地脈は『影』を生み、『陽』の地脈は『光』を生む。この都に建立している神社仏閣は、その場所に関係して設計されている。『陰』を鎮める為に『陽』の神社仏閣がその上にあるのだ。
――――すなわち、この都は『陰』の気が絶え間なく溢れている事でもある。神社仏閣の数だけ『陰』が存在すると考えていいだろう。
だからこそ、神聖なる建物に『陰』に属する魔物が近寄るなどできはしないのだ。
「神社を根城にするとはねぇ。罰当たりな連中だ」
「どうなの?原因を突き止められそう?」
「原因も何もないだろう?都を守る結界と神社の結界に破損が生じるからこそ、地脈も異変を起こすんだろうから」
「神社の結界が役に立ってないって事?」
「そもそも、結界に頼りすぎなんだよ、この都は。結界があれば大丈夫だなんて、一体誰が決めた?陰の気が満ちすぎて、神社仏閣や都の結界が圧されている」
「・・・結界以上の力が存在してる、か」
思わず考え込むような仕草を見せれば、日光は満足そうな笑みでそれに続く。
「そう、厄介な事だとは思わないかい?外部からならまだしも、京の都――――結界の中身から汚染されているよ」
「随分と傍観的な発言ね。原因が分かっていながら手放しする気かしら?」
「別にどうでもいいさ、俺は。この都が闇に包まれようとも判断の過ちで滅びようともね」
「・・今のは聞かなかった事にしてあげるわ。都市守護結界の管理名家なら、少しは発言を控えた方がよくってよ」
この都の四方を守護するそれぞれの結界は、決して目に見えるものではない。
それはそれぞれに単独の力を放つ象徴みたいなもので、例えるならば『オーラ』に近いものだろう。
この都を包むように四方で囲い、十字に交差するその力。
北に駿河。
南に鳳来寺。
東に葛葉。
西に神門。
それが結界守護者でもあり、4大名家と呼ばれる由縁でもあった。
すなわち、日光は北を守る結界を継ぐ者だ。そして、涼も。
「肝に銘じておくよ」
苦笑染みた声を洩らしながらも空を仰げば、既に夕刻に染まっていた。
ここから『結界』が拝めるでもないが、日光は目を細めては何かを見やるような視線を見せつける。
不思議そうに思った涼がそれに合わせるも、その先にはやはり何もない。
聞くまでもなくそれに気づけば、日光は彼女と視線を絡ませていく。
「そろそろ、『夜の結界』の時間だなぁと思ってね」
――――夜の結界。
それは、時間帯で結界の『力の意味』が変化する事を示している。
日中でも結界の力は普段と同じに作用しているが、夜になるとその力が変化するのだという常識がある。それらは月の魔力を源にしているのだという説があり、だからこそ夜には結界の力が大きなものになるらしい。
勿論、その力の変化は結界それぞれに異なっている。
そしてその力を扱えるのは、それぞれ名家に生を受けし者達。
「じゃ、結界の力使って早いとこ終わらせてくれない?」
「面倒臭いよ。幾多にも枝分かれする地脈の歪みを一人で正常に戻せって?」
「・・・月詠ちゃん、もうすぐ学校から帰ってくるんでしょう?少しは兄らしい事してあげなさいよ。最近は構って貰えなくて寂しいんでしょ、コレ終わらせたら抱きついてくるんじゃないかしら?」
「涼、その場所は術の範囲に入るから3歩程下がれ」
「・・・・分かって貰えて光栄だわ」
こうも単純に引っかかってくれると楽は楽なのだが、どこか釈然としない涼である。
日光の妹溺愛バカは今に始まった事ではないが、手段として彼女の名前を出すのは気がひけるようだ。
だが、周囲に人の気配を感じたのか、涼が慌てて日光に駆け寄った。
「――――、あ、日光、ちょっと待って」
「なんだい、俺は早く月詠に抱きしめてもらいたいんだ」
「その危険思考を止まらせなさい」
一人気持ちが急くのか、日光は勝手に守護詠唱に入り始めている。
「待ちなさいって言ってるでしょうが!」
「涼が言ったんじゃないか!月詠が――――」
「駄々こねていい歳だと思ってんの!?鞭でしばくわよ!」
既に参拝時間も過ぎた、誰もいない下鴨神社の本堂前。
上に夕刻を、周囲は木々に見守らせながら――――鞭の音が当たり一面に木霊す。
「――――・・賑やかですね」
そんな時に、静かな第三者の声が背後から聞こえてくるのだった。
一直線に伸びる整備された神社内の道を通って、彼は二人の前に姿を見せ付けていく。
だが、その声の登場に――――日光は不機嫌さ満開な表情になる。詠唱しかけた術もさっさと断ち切り、両腕を呉服の中に隠し、その表情に敵意を表す。
そして涼も、彼と目を合わせるなり――――少しだけ強張った表情に変化している。
「何の用だ、クソガキ」
「その呼称もいい加減慣れましたよ。久々の顔合わせだというのに、貴方は相変わらずですね」
「ならば寄り道高校生、何しに来た」
「都司主サマは楽そうで羨ましい限りですわね。こんな場所に何か御用かしら?」
「御二方共、随分と棘のあるお出迎えですねぇ。ま、別に構いやしませんが。・・・ちょっとばかし、様子伺いに参っただけですよ」
そう言い、夜近は二人の元へと静かに歩み寄っていく。
制服である事から恐らく学校帰りなのだろうが、鞄は持っていない。その両手をズボンのポケットに突っ込み、時折風で髪が揺れる。
「一人か?」
「いえ、南入口で一人待たせてます」
「ふぅん、歌麿かしら」
「いや、あいつは涼の名前が出るなり視界から一目散に逃げた。まさか、報告に風が来るとは思ってなくてね」
「あら、残念ですこと」
不敵な笑みを洩らせば、それに苦笑する夜近。
風に涼、何とも不幸な境遇に生まれた親友に同情せざるを得ない。
「さて、風から報告はお聞きしました。出現したのは下等ランクの魔物、繁殖能力・及び生態系は危険レベルではない。ただ、雑魚故に手間がかかる撲滅作業が必要となるようだが、それも結界の力を増幅させれば問題はないでしょう。神社結界を守っている触媒を用いれば早急に終わる話ですね」
「復唱ありがたいわね。だけれど、簡単に言ってくれるじゃない」
「元より簡単な話でしょう?今は目の前の本殿内に全てを閉じ込めているんですから、それらを叩けば終わる話ですよ」
そう言い切る夜近だが、それに相変わらずの厳しい視線を送るのは日光だった。
先程までの涼との会話での口調はどこにもなく、どこか押し殺したような声が夜近に届く。
「・・・原因は必要ないというのが貴様の判断か?」
「原因、ねぇ。そのようなもの、あってないようなものですよ。修復作業に力を注ぐのであれば、魔物を放置させてしまう事になる。どちらが優先すべき事項か、分かりきった話じゃないですか」
それでもマイペースな表情でやり過ごす夜近である。
この、のらりくらりとした態度が気に入らないのか、日光の顔は強張るばかりだ。
「先代の都司主ならば、そのように落ちぶれた判断はしなかったであろうにな。若いだけで周りを振り回すのも大概にして欲しいものだ」
「期待に副えませんですいませんね。先代の都司主である俺の両親は、既に他界してますから」
「そうさ、先代がお亡くなりになったのも元はといえば貴様の力不足――――」
「日光、おやめ!」
何か触る事でもあったのか、突然声を張り上げるのは涼だった。
その顔は少し青ざめており、その表情だけで二人も意味を汲み取ったのか――――暗黙の了解にも似た空気に従う。
何も言わない夜近と、申し訳ない面持ちを垣間見せる日光。
その片手を髪の中に埋め、視線は『滑らせてしまった言葉』を彷徨う。
「――――・・すまない、涼」
「・・別に、アンタが謝るような事じゃなくってよ。私が思い出したくないだけだわ」
少しの重い空気と、空回りしてしまいそうになる雰囲気の中。
ただ耳に聞こえてくるのは――――木々が風に擦れ合う音色と、静か過ぎる気圧。
緑の匂いと、時折羽ばたいていく鳥達の旅立ち。
決してのんびりしているような状況ではないのだが――――何故か、誰もが言葉を探す。
・・・そして最初にその沈黙を破ったのは、静かに声を揃え始める都司主であった。
「・・・当時6歳の俺が力不足だったというのは事実でしょう。俺に力があったならば、『あの状況』で救えたのかもしれません」
「やめなさい、夜近。私は聞きたくなんてないわ」
「こういう時でもないと涼と話す機会もないんでね。俺に選ばれなかったのがそんなにも悔しいのか?」
どこか挑発するような言葉を吐き出せば、涼の表情が一瞬にして凍りつく。
それは決して気分のいいものではなく、自身の中の渦を巻き返されるような感覚である。
それでも目の前の高校生は、都市主の顔を誇示しながら笑みを止めなかった。
「俺を避けるのは、君が候補に残っていながらも『最強の花嫁』に選ばれなかったからかい?」
「私には、アンタの為に捧げる命なんて持ち合わせていなくてよ。過ぎた事を巻き返すような真似はよして頂戴」
顔を俯かせ、心底避けたい話題らしい涼の態度が夜近の瞳に映り込む。
いつ彼女の鞭が飛んでくるか定かではない状況だが、とりあえず『都司主』として接してる分には彼女も刃を向けないだろう。
「そうかい?だったらば、もっと頻繁に神門家に顔を出してもらいたいね。これは、都司主としてのお願いだよ。ま、命令と受け取ってもらっても構わないがね」
「・・で?今更過ぎた事を掘り返すのが都司主の趣向?悪趣味ですこと」
「趣向じゃなく、事実だろう?いつかきっと、あの件に関して話し合う日が来る。そしていつか知る時が来る。――――歌麿も、いつか知るだろうな。・・あの事件の全貌を」
「やめなさいって言ってるのよ!私の大事な可愛い弟を傷つけるなんて真似、許さなくってよ!!」
「当事者が本当の真実を知らないのもおかしな話。両親がその命を落としたのは、俺の力不足が原因かもしれない、だが、あの事件で俺の両親と貴女の父上君が巻き込まれた」
「・・なにを、語れって?私から、あの子に語れって言うつもり?」
「――――無理でしょうね、貴女方には。歌麿を守るのが、貴女方姉妹の選んだ道なのだから」
全てを見透かしたかのような瞳に吸い込まれそうになる。
何の感情もなく、ただ淡々と語る夜近の言葉が涼の中で回っていく。
何の答えも導き出せはしないというのに、目の前の主はそれでもなお何かを求めている。
――――これといった言葉も返せずに、ただ立ち尽くすだけ。
さっきまでは聞こえていた木々の声も鳥達の会話も、何も耳に入ってはこない。
そんな涼の様子に『とりあえず一段落』と区切りをつけたのか、次は日光を視界に映すのだった。
「――――ともかく、両親が死んで俺は、日光殿にとって何よりも大事なモノを手にしました」
「思い出させるな。胸糞悪い」
「そうはいきませんよ。いずれ日光殿は俺の兄になるのですからね」
「貴様のような弟などいらぬ。俺から月詠を奪った奪略者と言葉を交わすのでさえ、居心地が悪いのだからな」
えらい嫌われようではあるが、それも仕方のない事だ――――と、夜近は解釈している。
『最強の花嫁』という肩書きを持つ月詠は、夜近のフィアンセに選ばれてもう何年が経つだろうか。その当時も日光は一人最後まで反対しており、その合格を知らされた時は廃人同然だったという。
大事な大事な可愛い妹は、いつまでも自分だけの妹であって欲しいと願うと同時に――――いつまでも自分の側だけにいるのだと信じていた。どこにも嫁がず、兄の自分だけを見ていてくれるのだと思っていた。
その矢先に、神門家の花嫁に選ばれたのだ。
私怨と呼ぶのが相応しいこの感情は、ただ都司主に妹を奪われたとしか受け止められないのだ。月詠本人の感情など関係なく、ただ『兄』としての感情だけが先立つ。
「俺は今でも許したワケじゃない。今回のような神門家からの協力要請も、本当は従いたくなんかない」
「月詠がお願いしてくれれば、完全協力姿勢になってくださるので?」
「ふ、月詠の前だけならしてやろう。駿河家の当主は俺だ、月詠には理解できない宿命もある。だが、俺は月詠が貴様と共にいる事が一番理解できないがな」
今でも反対姿勢は変わっていないらしい。
だが、幼き頃自分の背中ばかりを追ってくれていた妹にとっての『追う者』が、目の前で笑みを洩らす年下の都司主に変わった事への嫉妬も混じっている事に本人は気づいていない。
「・・・それは、いい事を聞いたな。では後程、月詠からお願いさせに行きますよ」
「このクソガキ、人の話を聞いてなかったのか?大事な妹を、お前の駒に使うのか」
「ま、駒と言えば駒になるんでしょうかね。これも、都司主の務めってヤツでして」
月詠の話になると人が変わる日光は、どこまでも妹溺愛者だ。
それを利用しているのか、夜近はマイペースな流れに手応えを掴んでいた。
「・・ともかく、今夜動きます。お二方も『遊び』に来てくださると大変助かるのですがね」
目の前の本殿は、空に浮かび始める月の出現と共に活性化し始めていく。門で囲われている結界外には出られないようではあるが、その嗚咽めいた地響きのような複数の雄たけびは容易に木霊してくる。
涼と日光がそれに目を向けている間、夜近は一礼だけしてその場を去っていく。
残された二人はというと、そんな都司主の背中に声をかけるでも追うでもなく、ただ去っていくその足音と後姿にそれぞれ複雑な心境を思い描くのだった。
「・・・地脈の正常化は、こいつらを殲滅させてからって事みたいね」
「嵌められたような気もするな」
「事実、私は選ばれなかったわ。選ばれたのはアンタの妹君。・・・皮肉なものね、忘れようとしても忘れさせてはくれないわ」
「事実は複数あっても真実は一つだろう。・・・認めたくはないが、あのクソガキはその意味と効力を知っている。関わる俺達にとって、それがどれだけ効き目があるかをな」
「どうするつもり?」
「あのクソガキの言った、可愛い妹がお願いしてくれる一時を味わえるのも悪くはない」
「とことん病んでるわね」
「涼はどうするんだい」
「・・・そうね、とりあえず――――」
「とりあえず?」
「・・・パフェの相手、務めてくれるんでしょう?」
空一面の闇が襲ってくるまでにはまだ時間がある。
二人は少しの笑みを顔に浮かべ、夜近の去っていった方向とは逆に向って歩き出す。
本殿を囲う門沿いに、北に抜ける道があるからだ。
確かあの店は20時までやってたはずだと――――そんな会話が木々達に届いていた。
そして一方――――下鴨神社・南口正門前。
そこには一人の女生徒と夜近が数分ぶりの再会を果たしていた。
「――――夜近様、どうですの?」
「ん~、うまくいったと思いたいんだが」
いちいち確認するでもないだろう。
わざと月詠をさっきの場に同席させず、ここで待たせていた。
月詠がいればあの日光を簡単に頷かせる事もできただろうが、涼がいたからこそ同席はまずかったのだ。
涼は、自分が最強の花嫁に選ばれなかった過去を汚点だと考えている。
選ばれた月詠を実の妹のように可愛がっているが、だが彼女を動かすにはその話題を出すしかない。だからこそ、月詠がいては――――彼女の迷いが全面に出てしまう。
迷わせる隙間など与えずに、涼の意思と向き合わねばならなかった。
――――それは単刀直入に、そして責め立てるように。
けっしていい役所ではないが、名家同士の繋がりを深める為には必要な作業だ。
「夜近様自ら悪役を買って出るだなんて、心が痛いですわ・・」
「今回はあの二人にも協力してもらいたいからな。嫌われてるのは今に始まった事じゃないし、気にする事はないさ」
「ですが・・・」
「お前の兄上と涼の能力は俺も買ってるんだ。これで動いてくれると助かる」
「北の結界の力を扱えるのは、日光兄様だけですものね。ワタクシにも力があれば、夜近様にこのような真似させずに済みましたのに――――」
二人並んで歩き、月詠に預けていた鞄も今では主の手に戻っている。
制服で判断できるからこそ相応の二人に見えるのだが、どちらにせよその風貌だけで『恋人』と思われる並びでなない。その原因は、月詠が童顔で小さすぎるのか、それとも夜近が大人びすぎているのか。
だが、それでも顔を俯かせて夜近を想う彼女を気遣う。
「気にするなと言っただろう、月詠。あの二人と話すのは楽しかったからそれでいいさ。――――・・くくっ、日光殿は俺がいると本当に人格変わるんだもんなぁ。彼に特定の女一人でもいれば、俺に対する風向きも変わるのかな」
「昔、失恋して以来そのような話は聞きませんわね。兄様もああいう方ですし、かなり個性の強い変わった御人でないとアレを支えるのは無理じゃないかと思いますわ~」
「――――皆、苦労人だな。俺も少しは楽な恋愛をしたいんだが」
「夜近様、それは聞き捨てなりませんわ。ワタクシは、大和撫子をモットーにお慕いしておりますのに!」
「だったら、うちの女中達に『既成事実を作る為に訪ねてきた』と挨拶するのはやめろ」
「・・・・・・いけませんでしたか?」
――――夜が近づいている。
夕焼けに染まった空の色はどこか毒々しく、それも直に黒く染められていくのだろう。
そして数時間後には、きっとこの手は刃を翳(かざ)している。
明日はまた寝不足か――――
そんな事を呟くに充分だった。
7
夜の冷気を含んだ風は、どこか痛々しいものがある。
それは、この雰囲気が作り出すものなのか、それともこの地に眠るものなのか。
並木道の木々達は夜の神社という事もあってか、不気味な静寂に包まれている。
そんな道を通り、鳥居をくぐり、彼らは本殿の正面へ着くなりその足を止まらせた。
赤い門と緑の屋根。
その向こう側からは、昼間よりももっと嗚咽めいた響きが集結している。数にしてどれくらいかは想像もつかないが、戦闘服で身を固めた彼らはそれぞれに不適な笑みを浮かべる。
「都司主様、御命令を」
彼ら――――都司主である夜近を含めた4人の戦士の後ろを続くようにして、数人の都爺が膝を折って主に判断を乞う。その後ろにも幾人かの術師や防具に身を包んだ武士がおり、皆が片膝折って頭を下げている。
「結界の解放は門から行う。術師は各配置に一人就いてもらうが、役割は先程言った通りだ。俺達が門から入るのを確認次第再度結界維持を行い、門以外から標的が逃げぬようにしろ。そんなに規模の広い場所じゃない、兵士も結界周囲の気配を逃がすな」
「御意」
その命令を一言も逃さぬよう聞いた後、都爺含む兵士や術師達は一斉に各配置へと散っていく。本殿を囲う門を包むようにした配置。この作戦前に夜近が既に指示を出していたのだろう。
そしてこの正面の門に残る2名の都爺は、門番係りといった感じで門の両脇に立つ。
そんな様子を見守り、戦士の一人が徐に口を開けた。
「門から結界解いて、また結界で蓋しちまうのかよ?二度手間じゃねーか」
「結界は魔物を外に出さない為の物だ。それに、結界があっては俺らも中に入れないだろう?」
「だけどな、夜近。もっと簡単な方法なかったのかよ?わざわざ連中が活性化する夜に来るよりか、昼間の方が効率的じゃねーのか?」
「活性化という事は、それだけ魔物連中も増えるという事だ。この中で連中が増えているという事は、夜の方が殲滅させるに等しい。親玉という根本を叩けばこれ以上増殖もしない。第一歌麿、昼間っから返り血浴びたいか?」
月の下で映えて見せる赤い髪は、時に美しい。
男子高校生を演じていた昼間とは打って変わって、その格好だけで凄腕の武道者にも見えてくるから不思議だ。
背中には独特のデザインが施されている槍を背負い、一度それを振り回せば戦場を駆ける赤き炎となるのだろう。
「――――夜近様。密羽ちゃんが行きましたわ」
ふいに視界の外から彼女の声が静かに届く。
月詠もまた、戦士の格好でこの場を共にしている。
少し動けば見えてしまいそうになるスカートの上から衣を着合わせ、その両腰には愛用の真剣。呪詛が書かれたようなリボンはそのままに――――彼女の瞳の中には、戦士という姿の夜近が映っていた。
「なんだよ、密羽の奴。また勝手に独断行動か?」
「気にする必要はないだろう、歌麿。密羽にも作戦については話しているし、致命傷に発展するような行動は控えるだろうさ」
「それでいいのかよ?あいつはいっつもそうじゃねぇか。一人で勝手に突っ込んで、集団行動ってモンを分かってねぇじゃねぇ」
「麿ちゃんに言われたらオシマイですわね」
「なんだと、月詠!・・第一だ、いつかは注意しろよな、夜近」
「・・・さぁて、俺の言う事を素直に聞いてくれるような奴だったかな」
一人勝手に姿消した密羽の行動はいつもの事らしい。
今現在結界が貼ってある以上、目の前の本殿の中には入れないのは確かなので、大方屋根越しか木越しに『戦場』の偵察にでも行っているのだろう。
「それより歌麿、注意事項は守れよ?神社内での戦闘になると、本殿内の器物に気を配らにゃならん。俺と月詠はいいとしても、お前は武器をやたらめったら振り回す習性があるからな」
「・・・・・努力はする」
「一応上位にランク付けされてる国宝重要文化財に指定されてる神社なんだ、間違っても損傷は起こしてくれるなよ。後から文化保存協会からクレームが来る」
「てめーの命と文化財と、どっちが大事だってんだ。周囲に気を配りながら命かけるこっちの身にもなれっつーの」
「麿ちゃん、夜近様のお仕事を増やしたらただじゃおきません事よ」
暗闇の中、月詠の瞳が一際光り輝く。
それはもはや、己の欲に素直だと褒めてやるべきだろうか。
――――そうこうしている内に、門の両脇に佇む都爺の一人が徐に口を開けていた。
「――――都司主様。全隊員、各配置についたようですぞ」
都爺――――それは都司主である夜近に対して絶対の忠誠を誓い、都司主の雑務を手伝う身。言うなれば、側近のようなものである。彼らは戦士並の武力は持たないので戦場では役に立たないが、その代わりに知能知識に優れている。早い話、頭脳戦闘員だ。
そんな都爺の必要最低限の報告を耳にし、夜近は正面本殿を見据えた。
「――――時間だ。これより第一種結界を解除し、本殿内へと入る。目的は標的である魔物の完全殲滅、及び、魔物を誘(おび)き寄せる物質体の捕獲、並びに神社結界である力の解放と修復。状況次第では破壊も許可する」
「おうよ、存分に戦ってやるぜ」
「今宵の勝利も、全てを夜近様に捧げますわ――――最強の花嫁、参ります」
歪な何かが割れるような、形なき空の色。
結界が解き放たれる瞬間、その形は確かにその空に色で染め上げていく。
――――そして再び形なき色は『結界』という形に包まれていた。
月の下で駆ける戦士達は、その命をかけて武器に身を委ねていく。
刀が何かを切り裂く、その生々しい音。
金属音のぶつかる音は断末魔を招き、それでも終わりはなく、更に華麗に舞っては優雅に微笑を見せ付ける。
――――それは、月の下で遊ぶが如く。
「・・っ、くそっ、かすっただけかよ!」
槍を独自のスタイルで構えてそれを標的目掛けて振り回すものの、見事命中とまではいかなかった。槍という長さのリーチを考えても、充分範囲内だと思ったのだが。
「こうも暗いと何も見えねぇっつーの!闇雲構わず振り回せって事かよ!」
おまけに本殿内には細かな建物や建造物があちこちに設置してある為、戦いにくい場所でもあった。数え切れない程の魔物を4人で相手するのはいいが、死角が多々できるのも事実。そして夜近曰く、重要文化財であるそれらを破壊する事は許されない。
建物沿いに形成される道は細く、死角も多いので警戒なしに突っ込むこともできず。かといって後ろに下がっても背後からは多々敵の気配がする。
――――判断に迷うのは、未熟だからだろうか。
進むべきか、退路すべきか。
――――そんな判断を自身の中で選びかけたその時、すぐ後ろから違和感のある音が聞こえてきた。
「――――後ろがガラ空きだぞ」
その声に気づいてからでは遅かったらしい。
背後には、愛用の剣を鞘に直している親友の姿があった。その足元には、数匹の魔物が途絶えた命を語っている。
「何をチンタラしているんだ、歌麿。もう疲れたのか?」
「馬鹿言え。暗すぎて間合いが取れねーんだよ。それに、我侭なリクエストもあるしな」
「その辺は修行だとでも思って我慢してくれ」
二人を囲うように、魔物の気配が増殖する。
それを無言で察知する二人は、互いの背を合わせては死角を失くすかのように。
槍を上部で振り回しては瞬時に構え、正面で怪しく光る無数の視線を睨みつける。
若干腰を落とし、片手を鞘に沿え、もう片手で柄を掴む拳にタイミングを計らせる。
「そういや、月詠はどこだよ?あいつの剣の音がしねぇな」
「月詠は本殿奥の捧殿に向かわせている」
「この隙にお宝着服とは、都司主もやるねぇ」
「歌麿じゃあるまいし。俺はこれでも、一途真面目な都司主のつもりなんだがな」
「はっ、よく言うぜ」
少しずつ近寄ってくる気配達。
それを察知する度に、二人の『タイミング』は計られていく。
槍のリーチという範囲。
剣の刃を舞わせるリズム。
――――互いに武器を静かに構え直し、小さな金属音―――一体どちらの音なのか―――が微かに鳴る。
それが合図だったのか、その瞬間に――――二人を覆う気配が一瞬にして拡大され、一斉の雄たけびと共に襲い掛かってくる。
人間に良く似た体格で、酷く黒い体毛で覆われたその風貌。
――――それが、何匹だろうか。
いや、数える暇なんてない。
数えるのは、これらを始末し終えてからなのだろう。
転がる骸(むくろ)のカウントを取るのは趣味ではないが、面倒臭い仕事だと――――都司主は呟いたのだった。
「真面目なヤツはなっ、面倒臭いだなんて溜息つかねーんだよ!!」
数が束になって向ってくるが、歌麿にとっては好都合である。
広範囲に仕掛けられる槍という武器の為、一度に対する殺傷能力が高いからである。
チマチマした戦い方は好みではないと自負するぐらいだ、次第に機嫌も良くなっていく。
「ま、俺なりの休息ってヤツだな」
「戦闘中に休息する事自体おかしいだろーが!」
そして一方夜近も、水のような流れを思わせる動きで剣を自在に操り、次々に骸が地面に落とされていく。切れ味のいい包丁のように、その切り裂く音は綺麗なものだ。
髪を優雅に揺らし、その奥の瞳はニヒルな笑みを溢した。
「知能のない連中は扱いがラクでいい。ただ滅を与えて無残に殺してやればいいだけだからな」
■□■ ■□■
――――夜近達が本殿内に入り込んでからどれぐらい経っただろうか。
実際にはせいぜい10分程度といったところだろうか、そんな頃になってから『客』は都爺達にその姿を見せていた。
「――――あら、いやだ。もう始まってるみたいね」
「ハナから時間なんて聞いちゃいないさ。文句言われる筋合いはないがね」
「それもそうね」
堂々と横柄な態度でその姿を月の下で見せつけるのは、言わずと知れた人物だろう。
一人は妖艶な美女、一人は華麗な美男子。
「俺は、あの甘ったるいパフェで胃もたれしてるんだけどね・・」
「年寄り臭い事言ってるんじゃなくてよ。大体アンタ、アタシより食べたじゃない」
「そりゃ、月詠の為にリサーチを――――・・・うぷ、思い出しただけで胃が・・」
「・・・・・吐くんなら魔物の頭上にして頂戴よ」
顔面蒼白の色で口元を押える日光である。相変わらず呆れた表情を隣で見せる涼だが、その両手には武器など携えてきてはいない。
異様に胸を強調させるような戦闘服で、何処からどう見ても『女王様』である。
「風は誘わなかったのかい」
「メシア様の生出演の番組があるからパス――――・・だそうよ」
「都司主が聞いたら呆れるな」
「もう諦めてるでしょうよ。怒るのはもっぱら都爺の役目だわ。ま、あの計算高い都司主が直々に許可したのはワタシ達だけってのもあるんでしょうよ」
「――――・・・お主ら、丸聞こえじゃぞ・・」
正面本殿前に配置している都爺である、聞こえないはずがない。
最も、日光も涼もわざとなのだろうが。
「さぁてと。私達はどこで遊んだらいいのかしらね」
正面本殿を包む、閉じられている門。
その向こう側からは、魔物の荒れ狂う雄たけびと断末魔が途切れない。
月の光しかない光源では戦いにくいだろうに――――、二人は確認するまでもなく、その足を都爺が守る門向って進ませていた。
「駿河が当主、駿河日光。――――参らせて頂く」
「鳳来寺涼。都司主の命により参上して差し上げてよ」
■□■ ■□■
「――――っ、邪魔、ですわッッ!!!!」
二刀の真剣を大きく振りかざせば、哀れもない命は容易く絶えていく。だがそれでも、何処からか次々と現れてくれる連中に月詠は思わず舌打ちを鳴らした。
――――夜近から命令を受けたはいいが、こうも行く手を阻まれると内心焦りが出るのも当然かもしれない。目的の捧殿までは目と鼻の先だというのに、正面を遮る魔物が邪魔で仕方ない。
剣を振りかざし、それは舞のように旋律を奏でていく。その顔を衣を返り血で染め、本人は気にしなくとも――――その貴族たる美しい端麗な面立ちには荷が重過ぎる。
水音をたてて顔に降りかかる返り血を衣の袖で拭えば、更に正面向って終わりのない戦闘態勢を取っていく。
いつまで続くのか、自分の足は少しは捧殿に近づいているのだろうか。
――――それすらも、分からない。
こうも次々と正面背後から飛び掛ってくれると、溜息をつく暇すらなかった。
「こんな所で果てるワケには参りません事よ!たかが低級魔族が数束ねた所で、ワタクシに敵うと思ってますの!?」
勇みいい言葉は、体内の気力を高上させてくれた。
だが、こうも続くと月詠にも疲れが出始めてくるようだ。
夜近と歌麿が別場所で魔物を引き寄せる―――早い話、月詠を目的の場所へ赴かせる為の囮になっているのだが、それでも自分に向ってくる魔物の数は数えるのも飽きてくる。
夜空を見上げれば、光り輝く月光。
そしてこの身だけに感じるのは、駿河の血だけが感じる増幅されている結界の力だ。
愛用の真剣は既に、魔物の血で満たされている。それに対しては何の抵抗もないが、今自分が向う敵を考えれば、刃毀(こぼ)れも仕方ないと――――毒づいた。
――――そんな時だろうか。
後方頭上から、幾多もの矢が降り注いでは魔物の急所に直撃していくのである。次から次にその地上に異様な図体を沈め、命を露に変えていく魔物の最後を見守れば、いつの間にか正面へと続く道が出来ている。
その先には、まだ小さくではあるが目指すべき捧殿の姿が見えた。
「――――月詠、早く行きな」
姿も見せる事なく注いでくるのは、凛とした戦士の声。
感情も思わせる事もなく、それは起伏のない声帯にも感じられた。
――――当然、月詠にはその正体が分かっている。
「――――密羽ちゃん、頼みますわ」
振り返るでも背後を見上げるでもなく、月詠はただ一言だけ残しては正面向って走り出していた。勿論、その両手には刃を光らせながら――――危険も顧(かえり)みず一直線に突き抜けていくつもりだろう。月詠の刀が舞う『範囲内』で仕留められない輩には、容赦なく頭上からの矢が問答無用に『死』という最後を見せていく。
立ち止まる事なく突っ切り、そして見上げた先には。
――――改築も行われていないのだろう、少し古くこじんまりとした建物への階段が、視界正面に自分を招いているように思えた。
■□■ ■□■
槍の矛先で魔物を転がせば、その死臭が嫌と言うほど漂ってくる。一体何匹かは知らないが、それでもまだ自分立ち向かって殺気を突き刺してくる気配は変わらない。
「――――で、月詠はなんだって捧殿に?」
なんとか無事、神社本殿内の建物を壊さずに済んだ事に安堵すれば、背後の夜近もその真剣を鞘に収めていた。無論、周囲ではまだ数を帯びているその気配には気づいているのだろうが、大方魔物連中への挑発にも似た余裕だろう。
「神社の結界にはな、とある物質がひつようなんだ。一言で言えば、触媒だな」
「触媒?」
「ああ。神聖たる聖気を生み出すための『気』を増幅させて結界を張る――――その、中心の源となっている物さ」
「それが、この神社に祀られてんのかよ?」
「神社じゃだけじゃない。寺院にしたってこの都市にしたって、同じだ。何もない場所からは何も生み出せはしない。だからこそ、『触媒』という名前の『聖力』で結界を張ると共に地脈を守っているのさ」
「地脈っつったってよ、夜近。所詮は目に見えねぇじゃねぇか。目には見えないものを俺たちは守ってんのか?」
「触媒は現実的物質だぞ?そんな事も覚えてないのか?」
「じゃぁその触媒とやらを、なんで月詠が――――」
「土地の力を守っているのは地脈であり、結界を守っているのは触媒であり、そしてその全てを守護するのが俺達の仕事だ。――――まだ分からんか?」
――――夜近が、何かの気配を感じたのだろう。
細い視線の中で厳しさを備えれば、躊躇う事無くそれを抜いた。瞬時に鞘から抜いた真剣を振りかざせば、湧き出る力は波という形となって前方を走り行く。
こうも暗い周囲では、どんな気配にせよ油断はできない。
それを確かめるでもなく、彼は一方的な攻撃を仕掛けたのだった。
「――――触媒とは、神聖なる力を生み出す道具。我ら名家が管理する力。そして触媒に異変が生じているからこそ――――この今の事態が現実的な物となっていてよ」
夜近が仕掛けた先の暗闇から、静かな声が届いていた。そしてそれと同時に、二人の周囲を照らし出すかのような光が灯される。
――――それは小さな炎の揺らめきにも似た、複数の灯火。
いや、それが空間的に作られた偶像である事は分かっているが、その光だけで二人の周囲は一気に拓けた空間へとなっていた。
――――足元周辺には、幾多もの屍。
異様な異臭が漂い、地面は黒い血で染まりかえっている。
――――だが、そんなリアルな周囲を確認するでもなく夜近は――――正面から静かに歩み寄ってくるその影に、ニヒルな笑みを洩らしていた。
「せっかく来て差し上げたっていうのに、随分な歓迎ですこと。女性の扱い方も知らなくては、花嫁に逃げられてよ」
「――――申し訳ないね。何分、こうも暗くてはその麗しい姿も見えなかったもので」
炎にも似た光を導くようにして現れた涼は、相変わらずの態度を維持する都司主に向って返事をするでもなく――――気に入らない物を見るかのような視線だけで答えたのだった。
そして、それと同時に夜近の背に隠れる人物が一人。
当然、歌麿である。
「――――出てきなさい、そこの出来の悪い弟」
「・・厄日だ、ぜってー厄日だ・・!昼間は風が来るし、なんでこんな時に涼まで来やがるんだよ!」
「俺が呼んだからだ」
しれっと他人事のように爆弾発言―――歌麿にとっては―――かます夜近である。
涼の出す『炎にも似た灯火』のおかげか、歌麿の顔が青ざめている様がよく分かる。
家ではどんな扱いを受けているかは知らないが、こうも恐怖を抱いている弟と、正面では女王様スタイルで堂々と仁王立ちしている姉だ。
「歌麿、アンタ鍛錬サボってるんじゃなくて?こんなショボい雑魚に手間取っていては先が思いやられるわ」
「暗くなけりゃこいつらなんて秒殺だ!ったく、いちいちムカつく事言いに来たのかよ!」
「環境のせいにして自分の力を認めないだなんて、我が鳳来寺家には必要なくてよ」
厳しく言い放つ涼だが、歌麿は声にならない怒りを顔中に広げている。
癪に障るだとか、納得できないだとか、心中としてはその辺りだろう。
そして、周囲に押し寄せてくる気配を睨みつけては、細く華麗な掌から淡い光を放たせる炎を作り出していた。
――――それは、現実的な炎なのだろう。
不規則な揺れと不似合いな温度が、ソレからは感じられる。
「さぁてと、こいつら一掃したら私達も捧殿に向ってよ。日光が暴走しない内に、ね」
■□■ ■□■
捧殿の扉を開けると、狭く暗い空間がそこにはあった。
少し朽ちた木の歪みからは歪な音がし、建物自体も古いことは明らかだ。
暗いからこそ余計に狭く感じるのだろうか――――そう思うも、足はただ前向って進んでいく。
静かに足を踏み出せば、一歩一歩軋む床の嘆きが聞こえてくる。
(・・・ここは無事のようですわね。魔物も、そう易々と侵入できませんのね)
安堵を感じれば、正面にて目的物を見つけた。
――――その捧殿は広さにしてどれくらいだろう、ただ必要な物を捧げる為だけの場所のようだが、やけに拓けた空間、というのが印象的である。
ただ、目的のものしかない為か無駄なものが一切なく、そのせいでやけに拓けていると感じるのかもしれない。
「――――・・これですわね」
両手に携えていた二刀の真剣を鞘に収めれば、『ソレ』に向って静かに御辞儀をした。
捧殿の中にある小さな祠――――とでも称せばいいのか。五芒陣を描くような大きな紋章の中心に、祠が神々しくそこにはある。様々な貢物も見受けられたが、月詠が今必要とするのは、その中心に捧げられている物だけだ。
水晶玉にも似た、その風貌。凛と輝く光は独特のもので、それに近づくと一層光を増していく。ゆっくりと手を差し出せば、丸い球体からは部屋全てを光照らしていくかのような輝きで満たされる。
だが、そこに一つの違和感を感じれば、月詠は差し出した手を止めるでもなく両手の中に収めたのだった。
手にした水晶体―――とでも言えばいいのか―――は、確かに聖力の源としての役割があるのだろう。この自ら解き放つ輝きが何よりの証だ。だが、その中にも―――神々しい光の中に瘴気にも似た『聖』とは似ても似つかない力を感じたのである。
――――答えは、その目で確認すれば一目瞭然だった。
掌に収まった聖力の源である水晶体、この穢される事の許されない存在に、一筋のヒビが一直線に入っていたのだ。
それはまだ『割れる』とまではいかないのが唯一の救いか、そんな思いを抱えながらもそのまま月詠の足は再び捧殿の外向って歩み出す。
「あとは、駿河の血で結界の力を使うだけですわね」
夜近曰く、『触媒』を持ち出す月詠は、再び来た道を戻るように捧殿から去ろうとする。
その場所に面するようにして拓けた場所が視界に映るが、幸いな事に敵が襲ってくる気配はなかった。いや、それよりも敵そのものすら鎮圧したかのような、不気味な風だ。
昼間拝むのならば、それは真っ白な砂が敷き詰められた土地なのだろうが、月の光源だけが頼りのこんな真夜中では――――逆に不気味な静けさだけが増幅されてるような気がする。ともあれ、月詠は手にした触媒を大事そうに抱えながらそんな大地に足を落としていく。
月の真下で、その位置を確認するようにゆっくりとその足で砂を踏んだ。
――――そんな時。
突如背後から自分を覆ってくる物体に、気配すら感じることができなかった。
「――――っ!?」
剣を抜こうにも、遅すぎる。
下手に体勢を崩そうものなら、触媒を落としそうになる。
思わず舌打ちをして自分の油断を後悔した。
――――だが。
「ああぁぁっ、月詠ぃ~~!!無事かっ、怪我はないかっ、愛してるぞっ!!」
「最後のは余計でしてよ、日光兄様!」
天狗になっているわけではないが、月詠とて一流の使い手である事を自負している。
そんな彼女が全神経を行渡らせて警戒していたにも係わらず、こうも背後を取られるとなるとそれ以上の使い手だ。
「日光兄様っ、離してくださいましっ!暑っ苦しいですわよ!!」
「俺は寒い!心が寒い!お前という灯火が欲しいのだ!」
さすがは妹溺愛馬鹿、といった所か。
この度を越えたスキンシップは日常茶飯事の事ではあるが、月詠はそんな兄の愛情が鬱陶しいらしい。それ故、相手されないからこそ日光も暴走するのだろう。
「もぉっ、いい加減になさいませ!こんな事してる場合では――――」
いつものように苛立った声で牽制しようとすれば、未だ背後から抱擁してくる彼が冷めた声を放つ。
「――――油断しただろう。修行が足りんぞ」
酷く厳しく冷めた声は、月詠を現実に戻すのに充分だ。
無論、駿河家の当主である日光は月詠にとっては師匠も同然的な存在でもある。
普段の兄ぶりは軽蔑したい所だが、武道者としての彼は彼女でも到底歯が立たない。幼き頃より彼から剣術を学んできた月詠にしてみれば、その兄に落ち度を指摘されると何も言えなくなってしまう。
「そ、それは、日光兄様が気配すら感じさせてくれませんからでしょうっ!これが夜近様でしたら大歓迎ですのに!」
「なんだと!?あのクソガキにこんな事されてるのか!?」
「そこ、暴走しないでくださいまし!!」
夜近の名が出た途端、思考が制御できなくなる日光であった。
――――ともかく、そんな時間を暫し過ごしていれば、皆がその場に集ってくる。最初にやって来たのは、囮を買って出た夜近と歌麿に涼。そして少し遅れて密羽も合流した。
広大な土地に敷き詰められた白い砂に、6人分の影。
触媒を抱えた月詠、日光を中心に――――それを囲う夜近と涼、歌麿。そしてどこかその輪に入ろうとしない密羽は、近場の大きな木の幹に背中を委ねている。
「繁殖していた魔物は、確認できる全てを滅した。――――やはり触媒の効果は絶大だな。血の者が触れるだけで修復効果があるようだ」
「でも夜近様、ワタクシはただ持ってるだけですわ」
「月詠ちゃん、それが血の力なのよ。駿河の管轄である土地は、駿河の力で支配されてるの。それ故、そこに祀られている結界も触媒も、全ては駿河の力には逆らえない」
「そんな道具・・触媒だっけ?それ自体が認識してんのかよ?」
「・・・ほんとにアンタは馬鹿ね。勉強し直しなさい」
京の都を4つに分けて管理しているのが、4大名家。
現在のこの下鴨神社は、北部を統治する駿河の管理下にある。
早い話、駿河の力によって結界が維持されているのである。
そうなれば当然、そこに祀られている物も設置されている物も、その全てが駿河の守護によって守られている事になる。
もし何らかの影響で触媒が『聖』の力の流れを変えられてしまったならば、再度駿河の力によって修復する事が可能なのである。
まぁ元々の原因を突き止めていけば、それは大地の下を走る地脈に問題があり、地脈そのものを解決させなければ永遠に終わらない作業なのだろう。
「では日光殿、お願いします」
柔らかい笑みで誘導する夜近に対し、それを受ける日光は不快そうな表情を浮かべている。大方、夜近の指図というのが気に食わないのだろう。だが、隣の月詠に足を蹴られては文句も言えなくなる。
どんなに憎くとも、月詠に嫌われる事だけは避けたいらしい。
「月詠、触媒を渡しなさい」
水晶にも似た触媒は、亀裂から瘴気が漏れている。幾分かは月詠によって中和されているのだろうが、それでも完全修復には至らない。
「いいか、俺は貴様の為に力を使うワケではないからな」
「ええ、充分存じておりますとも」
どこか笑みを浮かべる夜近は、日光の嫌味すらも水のように受け流している。そんな光景に『相変わらずだ』と溜息をつくのは鳳来寺姉弟で、遠くで呆れているのは密羽。
月の真下で触媒を支える日光を中心に、彼らは円を描くように立つ。
その中心点から半径数メートルだろうか、まるでその足元に描かれている円を踏まないように、少しの距離を保っている。だが、その地面に絵が描かれていくのはそれからであり、彼らもそれを知ってるからこそ日光との間に『距離』を作ったのだろう。
触媒を片手に抱く日光がその右腕でゆっくりと平行線を作れば、瞬時にしてその大地には煌びやかな円が描かれていく。金色に光り輝く何かの陣と、中に刻まれるのは幾多かの模様だった。
それこそが駿河家の陣形なのだろう――――月の光と共鳴するかのように、それは日光を中心点にざわざわと広がっていく。
「さすが、綺麗な術陣ですね」
外からは夜近の感心した声も届くが、特にこれといった返事は語らない。
月詠、夜近、歌麿、涼、そして少し離れて密羽。
陣の外で囲うようにして立つ彼らは、いつの間にか各々の武器をその手に構えていた。
「残りの瘴気を消滅させようとすれば、当然それを拒もうと連中が戻ってくるはずだ。まぁ、5人もいれば充分だろう」
「・・・それは、アタシも入っているのかい?」
――――密羽の声だった。
無機質な瞳でこちらを見やるその視線に、夜近は『当たり前だろう?』と視線を投げ返している。そんな視線だけで何かを判断したのか、密羽は溜息を落としながら再び俯いていく。そして重い腰を持ち上げるかのような仕草で、彼らの輪に向かった。
「文句があるなら聞くが?」
「ふん。聞くだけなら野良猫にだってできる」
「まだ、隠密行動の方が好きか?」
「――――知っての通りだよ。馴れ合いは嫌いなんだ」
忍者にも近い隠密系の衣服で身を包む密羽は、首に下げた口布で顔半分を隠す。これから交えるだろう戦闘の準備といった所だろう。
背中には弓矢を、腰には紐が頑丈に巻きつけられている短剣。短剣に至っては、随分と長い間使われていないのか、紐自体も相当古いことは見て明らかである。解く事も困難に、まるで封印でもされているかのような風貌だ。それでもこういった出動命令の際、使う事もないのに必ず腰のお供をしている。
それは彼女なりに何かの理由があるのだろうが、それを口にすることはなかった。
「催芽せんと欲する月の導きよ、彼の光よ――――血の流れに定める一切の不浄を見せしめんと応えよ――――」
日光を中心に円を描く彼らに、その詠唱が始まったと知るには容易い。
手の中に収められている水晶体のような触媒は罅割れた箇所から瘴気を溢れさせ、それが術陣によって滅ぼされていく。それに呼応するのは、月の光と彼の中に流れる『血』だ。
「構えろ。来るぞ」
「仰せのままに――――」
鈍い金属音が鳴れば、誰もが戦闘態勢に入っていた。
弓を構え、槍を見せびらかし、剣をその手に。
「あんだけ倒してんのに、まだ出てきやがるのかよ?底なしだな」
「少量でも瘴気が残っていれば、それを源に魔物へと変貌する。禍禍しい気で満ちた瘴気だ、完全に消滅させるにはこれしかあるまい」
「初めから、アタシ達が来る事を前提って聞こえるわね。どこまでも計算高い男です事」
ふん と不満そうな顔を浮かべては、彼女も髪の中から一振りの鞭の先端を地面に叩きつけた。荒々しい音が響くものの、『お似合いだ』という声はどこからも聞こえてはこなかった。
言うとしたらば、日光ぐらいのものだろうか――――彼は詠唱の真っ最中で、そこまで余裕はないらしい。
その体から溢れ出る力は血の流れを認めさせ、月の光はそれに反応しているのか――――特殊な力が降り注いでくるかのようにも感じられる輝きを放つ。
駿河の血を継ぐ身の彼に扱える、駿河の力。
彼の普段を見ている限りは新鮮な雰囲気でもあるのだが、駿河当主を名乗るだけの力量は充分にあると言ったところだろう。
術陣から放出される金色にも似た光は緩やかな風を生み、彼の衣服や髪はそれに踊る。
細く鋭い瞳は閉じられ、その口だけが静かな音を奏でている。
「力は輪と成し、光は凛と戦(そよ)げ――――」
詠唱も中盤に差し掛かった頃合だろうか、歪な金属音と絶え間なく聞こえてくる断末魔は一層激しくなっていた。自らの存在を消滅させようとする力に逆らっているのだろう、瘴気の塊から形成された魔物は暴走しているようにも感じられた。
理性も知性もないこいつらに危機感があるとも思えないのだが、肌身で感じられる殺気は現実的に証明されている。
「歌麿、持ち場を離れるな!」
「んな事いったってなぁ、夜近ッ!槍はリーチが長いから使い方ってもんがあんだぞ!?接近戦には不向き、間接武器を扱う俺の事も考えろよ!」
「向かってくるこいつらを消滅させなくても構わん、時間稼ぎとでも思え」
「・・・アタシ達の目的は、殲滅の要を再構築する日光を守る事。術陣の中は完全無防備地帯、日光がやられたら全てが台無し」
視線が向かってくるでもなく、隠密染みた風貌の密羽は感情の起伏すら見せずに静かな声を届かせる。歌麿に呆れているのか、丁寧にも説明つきだ。
だが、密羽も接近戦では弓矢が不向きだと判断したらしく、武術で対応しているようだ。背中に弓矢を抱え、両腕に嵌めている手甲で応戦していた。
――――だが、そんな様子を見て疑問を抱くのは歌麿だった。
その腰に短剣を挿しているのに、何故敢えて生身で戦うのか。
確かに、頑丈に絡められた紐を解くのは時間がかかりそうだが、魔物と素手で遣りあうのは果たして得策だろうか。
(そういや、密羽が腰のアレを抜いた所、一度も見た事ねぇな)
なんなのだろうか、この疑問の中に感じる渦は。
しかし、戦闘中の密羽ははっきり言えば別人と呼ぶが相応しい。
ハナから会話なんて出来るはずもなく、かといって夜近達にでも聞けば隣で応戦中の姉から『集中しなさい』と檄が飛んでくるのは目に見えている。
「・・ちっくしょ、すっきりしねぇな」
槍を手前に構えて振り回し、近づいてくる連中を一斉に凪ぎ飛ばす。しかし致命傷には至らなかったようで、すぐに起き上がってくる。そしてその背後には新たな数が目を光らせているようだ。
――――さすがにこうも続くとゲンナリしてくるのが本音だが、かといって放棄は許されない。
これが自分たちの『仕事』であり、『役目』だからだ。
4大名家として生を受けた時点で、通常とは異なる環境に身を置いてきた。それが理解できない頃は、それが『普通』なのだと勝手に認識していたが、成長を繰り返す度にそれが『異常』だと知っていく。
この都に隠された存在であり、都を守護する存在。
命を賭けて肉体労働に励んでいるのだから、少しくらいは祭り上げてくれても良さそうなものだが――――存在が公になると都合が悪い、と、会話の度に夜近は口を尖らせる。
それは一体何の為の都合だと、子供のように突っかかれば、
『――――ふ、色々さ。英雄とは公にならないからこそ尊大な存在になるのだ。自ら名乗り出てはつまらんではないか』
――――と、やっぱり適当にあしらわれた。
夜近には夜近なりに、都市主としての考えの元動いているのだろう。
それに従うのが自分達で、そしてそれに逆らう事はできない。そうやって、それが当たり前な日常になっているのだから今更文句を言おうにも遅すぎる。家柄同士の協力関係は確定されているのだし、代々この都を守護してきた4大名家だからこそ、この関係は絶対的なものでもある。
神門家当主都市主――――夜近を頂点に、その花嫁である駿河家の月詠。葛葉家の密羽、そして鳳来寺家の歌麿。無論、涼と風も同じ位置にある。
古い仕来りを維持する都だからこそ、それは過去から続く掟のようなものだ。
「きゃぁっ!」
「っ、月詠!」
荒れ狂う魔物の群れとの格闘の最中、月詠の声が叫んでいた。
夜近は自分に向かう魔物を投げ飛ばした後何事かと視線をずらせば、彼女は二刀の真剣を豪快に構え、その魅力的な生足が数匹の魔物を踏みにじっている。
どことなく酷く怒っているようだが――――
「スカートを捲りましたわね・・っ、この下等生物・・っ!」
「つ、月詠・・?」
「今日は買ったばかりの下着ですのに、夜近様より早く拝むなど許されるとお思いですの!?」
背後では詠唱中の日光から乱れた集中力と、何故か怒りの矛先が夜近に突き刺さっている。
無論、夜近にしてみれば濡れ衣同然だ。
「ま、待て月詠・・!」
待て=それ以上喋るな、という意味なのだが、詠唱中の背後からは不気味な圧力が背筋を凍らせてくれる。
「夜近様はそれで良いと仰るのですか!?このワタクシの新品のランジェリーを!そりゃぁもうっ、可愛いフリルの施されたシルクですのよ!」
「ぶっっ!!!」
「薄いピンク色で、フリルにも可愛い刺繍が――――」
「それ以上喋るな、月詠ッ!・・・は、背後から物凄い殺気が・・ッ!」
具体的な抽象を聞かされれば、嫌でも想像してしまうのが男というものだ。
鼻からは酸っぱい逆流を味わっているが、それでも剣裁きに乱れがないのは流石と褒めてやるべきだろう。
――――と同時に、背後から襲ってくる般若。
「アタシもそんな可愛い下着を着けたら、少しは襲ってくれる男がいるのかしらね」
どこか投げやりな涼の言葉だが、ここ数年恋人がいない事を強調したいのだろう。
だが、女王様の性格に付き合える男などそうはいないだろう――――と、その場の男の呟きは誰も声には出来ない。
「我が駿河が名の下、日光が命ずる――――その力に秘められし聖なる力を貸し与え給え・・・月の導きよ、日の流れよ、この血に眠りし定めのままに――――」
清華な声が天上向かって放たれたのが最後だった。
触媒は日光の手の中で、天を仰ぐ。
月の光は一直線に柔らかく降り注ぎ、『彼』を認める。
そして月と彼は同調し、その力は確かな光と共に周囲を照らし出す。
「グ、ギャァ――――ッッ!!!」
幾多にも重なって聞こえる断末魔の群れを数える気はない。
魔物だった姿は薄気味悪い瘴気となり、瘴気は光に殲滅させられていく。
まるで浚われて行くさざなみのように、清清しい程の光景だった。
「・・・これで、貸しが一つだ」
終わるや否や、日光は疲れたでもなくそんな一言を夜近向かって唱えていた。
それには『相変わらずだ』と苦笑し、肩を竦めながら了解してみせた。
「御苦労様でした、日光殿。これでここも元の姿に戻る事でしょう。あぁ、その触媒は元の場所に安置して頂けますか」
「貴様の為にやったのではない。そもそも、俺がこなければどうしていたつもりだ」
「さぁて、考えもしなかったですね。今回の仕事は、貴方方が遊びに来られる事を前提でしたから」
日光の手の中に収められている触媒は罅も見事修復されており、その丸い輪郭に沿って月の光が弾かれて光り輝いている。水晶のように小さくはあるが、それでも罅が発生しただけでこの有様だ。
宝玉として祀られているだけの事はあると、さすがの歌麿でも理解してくれるだろう。
「あー、疲れたぜ・・。周囲の建物に気を配るなんざ、もうこりごりだ・・」
「一応最小限には抑えられたが、魔物が破壊してくれた灯篭なんかは始末書と弁償だけで済むだろう」
「はぁぁ?魔物の後始末まで負えってのかよ!?」
「案ずるな。そういった事は神門家の役割だ」
「当然でしてよ。全ての管理を担うのは神門家なのだから、全責任を都市主が負うのは当たり前よ」
「魔物の奴らめ、もっと派手にしてくれても良かったのにな」
「日光兄様!何て事を仰るのです!」
やはり難癖つけては突っかかる日光と、それに憤慨する月詠、それを共有する歌麿と涼。
いつの間にか密羽の姿はなかったが、先に帰ってしまったのだろう。
仕事の後は神門家にて報告作業というものがあるが、この場に呆れて先に向かったようだ。
「では、夜近様、見てくださいまし~~」
「?何をだ?」
「ワタクシの新品ランジェリーですわ」
猫のようにコロコロした可愛い顔で迫られ、一瞬たじろいでしまうのは当然だろう。
その内容が内容なだけに、仕事後だというのに別の嫌な汗が体中から溢れ出して来る。
「ちょ、ちょっと待て月詠――――」
「殿方はチラリズムに弱いのだとお聞きしましたの。このミニスカートでしたら、少し屈めば太腿も簡単に見えますわ」
「ば、馬鹿かっ!そんな不埒な真似、できるとでも――――」
「・・・・・・・・・ほぅ・・。貴様はしたいとは思っているようだな・・・・」
そして一筋の真剣が月の光を浴び、その太刀は風を切って新たな一戦が展開されていた。
「――――・・やれやれ、後始末が一番面倒だな」
苦労の耐えない都市主は少しの疲労と安堵を同時に落とし、繰り返されていく使命にただ従うだけだ。
それでも人間味のある環境が唯一の救いだと、楽しそうに帰路に向かっていった。
天上に輝く月は何事もなかったかのように綺麗で、その下では毎晩のように戦士が踊り、それを知らない人々は遥かに多いけれど。
それでも手を握り締めては自覚する。
その拳を開いては確認する。
『この力は、守る為にある』
例え何かを犠牲にしようとも、誰かの嫌う手段だったとしても、与えられた力は自分にしかできないものだ。
自分だから出来る事の意味。
自分にしかできない事の真意。
何度も手を握っては開き、その感じる握力は刀を持つ為のもの。
「夜近様?お怪我でもされましたか?」
「――――あぁ、いや。日光殿の剣裁きは流石だと思ってな。少し痺れている」
この手は、いつも隣で微笑む彼女を守る為ではない。
『顔をあげろ。そして声を聞かせろ。その口で、名前を教えてくれ』
「顔を上げて、声を聞かせ、その口で名前を――――・・」
(俺に、それが出来るのだろうか)
下鴨神社を抜けた頃、時刻は深夜の2時手前だった。
酷く冷たい夜風は髪を泳がせ、幾分か体すらも冷やしていく。
警備に当たっていた兵士や術師は後始末に向かったらしく、今頃は境内にて浄化作業に入っているのだろう。
正面で門番を務めていた都爺が迎えに来ると、彼らは揃ってその車に乗り込んでいた。
「・・・退魔完了」
夜近の声は、感情の見えない都市主としてのものだった。
『月に遊ぶ都・これは巣窟の都』終焉~第一話完結~
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