exile番外編 甘い弾丸

 ほわわん、と甘ったるいチョコレート色の香りが厨房に漂っている。

「うはあいい匂い。美味しそうだね、アンシュ」

「えへへ、今年もメイドインアンシュなお手製義理チョコの数々を師団長のために頑張りまっす!」

「いや無理に義理とか宣言してくれなくっても」

 簡素な椅子を前後ろ反対にして馬のようにまたがりお世辞にも行儀がよいとは言えない格好でぱかぱか揺すりながら腰掛けていたニコルは、くんくんと食いしん坊な鼻をうごめかせてパティシエ姿のアンシュベルを見上げた。

「だってえ」

 アンシュベルは泡立て器とボウルを胸に押し当てて腰をくねくねさせながらきゃあきゃあと嬌声を上げる。ご丁寧なことに白いコックさんの帽子をかぶり、スカーフまで巻いてすっかりなりきり状態である。

「エッシェンバッハさんにアンシュのチョコ食べてもらいたいんだもん~」

 口ではそんな可愛らしいことを言ってはにかんでいるくせに内心はとっくに戦闘態勢、エプロンスカートにふりふりピンクなペチコートをひらひらとひるがえらせて、どこから見ても本気というかやる気満々である。

「チョコと一緒にアンシュもエッシェンバッハさんに食べてもらいちゃいたいなあ~、なんちゃってきゃーー恥ずかしーーー!」

「なななな!!!11!」

 ニコルは椅子ごとどんがらがっしゃんとひっくり返った。

「ななな何を言ってるんだアンシュももももっと自分をその大切にしなくっちゃ!」

「あ、間違っちゃいました、と、甘あぁい」

 アンシュベルは指にくっついた湯せん中のチョコレートをぺろっと舐めて笑った。

「アンシュも一緒にチョコをエッシェンバッハさんと食べたいなあ~って言いたかったんでしたあ」

「お、お恐ろしすぎるよその言い間違い」

 ニコルはびくびくしながら周りを見回した。

「そんなのエッシェンバッハさんが聞いたら何ていうか……」

 そのときがたりと背後で音がした。

「さあてとさっそく腕によりを掛けて作るですうっ」

 アンシュベルは何も気付いていない様子でうきうきとチョコレートを湯せんにかかっている。

 ニコルはおそるおそる振り返った。


 ……。


 時、既に遅かりしとはこのことである。ハンカチで鼻を押さえたエッシェンバッハが壁に手をつき、青い顔で振り向いたかと思うと千鳥足でよろよろ廊下を去っていく。

 ニコルはくすっと笑った。

「意外に純情なんだなエッシェンバッハさんて」

「え?」

 アンシュベルがけろりとして振り返る。

「何かおっしゃいましたですか?」

「いえいえ」

「そんなことより聞いて下さいです。今年はですねえ」

 生クリームのついた泡たて器を置き、ふっふっふと不気味に笑っている。

「恋の最終秘密兵器を用意しましたです!」

 アンシュベルの眼がぎらんと光った。黒と白、不気味な二つのビンに入った謎の粉を高く掲げる。

「見るですこれを! じゃーん! 恋の媚薬モテモテ粉!」


 ……。

 モテモテって……。


 ニコルはひくひくと顔を引きつらせて笑った。

「で、それをどうする気……」

「もちろん」

 アンシュベルはくるりと背を向けるなりボウルに向かってしゅばばばと粉を振り入れ邪悪な表情でかき混ぜ始めた。

「フフフ、フフフフ、フフフフフフフフ、なのです!」

「ううっ」

 さながら旋風のように猛烈なアンシュベルのかき混ぜに凄絶な本気を感じ、思わずたじたじとなるニコルなのであった。


 はたしてその数時間後。


「見て見て見て師団長~~~すんごいのができちゃいましたですう~~~!」

 ずどどどどと執務室前の廊下に物凄い足音が響き渡ったかと思うと声の主が誰であるかなど今さら疑う余地もないアンシュベルがばあんと扉を突き飛ばして飛び込んできた。

「ほらほらっ見て下さいですうっこれぞまさしく恋の最終決戦兵器!」

 ピンクのリボンとらぶらぶな包み紙でハート型に飾った可愛らしいチョコレートを、おいこらちょっと待たんかいと言いたくなるぐらいぎゅうぎゅうのぱんぱんに詰め込んだこれまたハート模様の勝負布付きバスケットごとじゃーんと掲げて突き出そうとして、アンシュベルはきょとんと立ち止まった。

「って、あれ? 師団長がいないです」

「……ここにいるってば……」

 なぜか床に大量の書類が散らばっている。

 その下から手が一本よれよれと伸びている。どうやら助けを求めているらしい。だがついに力尽きたのか、ぱったりと倒れる。

「なあんだ師団長、そんなとこに隠れてらっしゃったですかあ」

 アンシュベルはえへへと愛くるしく微笑んで小首を傾げた。

 とことこ歩いて部屋を横切り、バスケットからチョコレートを一個取り出すと執務机の上にちょこなんと置く。

「師団長もおひとつどうぞなのです」

「う、うん、有難く頂戴するよ……」

「えへへへへこのチョコはですねえホント凄いんですよ!」

 書類の下から聞こえる声に向かってアンシュベルは自信満々で胸を張った。

「悪魔サンが協力してくれたんですけどねっ、何と食べるとなぜか無性にキスしたくなるっていう超ドキドキなめいくらぶあふぇあしちゅえーしょん用ぶーびーとらっぷなんだそうですアンシュにはちょっと難しすぎてよく意味わかんなかったですけど」

「僕にも全然分からないよ……」

「とにかくこれをエッシェンバッハさんに食べさせるとですねえ、エッシェンバッハさんが急にあたしを見つめて……それで……も、もしかしてああんどうしちゃったですかって感じになっちゃったりなんかしてそれでもって強引に迫られちゃってきゃああうそっまだ心の準備がとかっでもやっぱり聞いてくれなくってああっでもだめっおねがいそんなこといきなり……てな感じになっちゃったらどうしようううんアンシュ恥ずかしい……っ!」

「ってちょちょちょちょっと待ってアンシュっていうか自分から罠にかかってどうするんだよ……!」

「なあんちゃって、うふ♪」

 書類の下でじたばたしている手のことなどもはや眼中にないらしくすっかり舞い上がってしまった夢みるオトメの危険な妄想――もはや暴走としか言いようがないかもしれないが――にひたりきったアンシュベルは両手をあわせてうっとりと頬に添え、るりるららと鼻歌を歌いながらその場でくるくるつま先立って回った。

「ということで、アンシュ、行きまあす!」

「ままっま待ってってばアンシュ、ちょっとーーー!」

 夢の超特急もかくやとばかりの凄い勢いでぴゅーーっと駆け去っていくアンシュベルの足音を聞いて、ニコルは最後の力を振り絞り、這々の体で書類の下からもがき出た。

 ぶるぶると濡れ鼠のように頭を振り、書類を振り落としながら真っ青な顔で左右を見回す。

 当然アンシュベルの姿は影も形もない。

「うわっホントに行っちゃってるよ……っていうかもしかして自分で味見しちゃったんじゃ」

 いかにもありそうな展開である。ニコルはぞくりと背筋を伝うつめたい予兆に身を震わせた。

「や、や、やばいよねいくらなんでもあれはちょっと」

 と、頭の上にほわん、と(自主規制)な映像が浮かび上がる。


 ……ふんぎゃあああ……!


 ニコルは頭のてっぺんからぷぴぃぃぃ! と蒸気を吹き上げるなり耳の先まで真っ赤っ赤にして(自主規制)映像を正視しないよう必死で目をつぶりながらほわんほわんの白い煙を振り払った。

「そんなこと呑気に考えてる場合じゃなかった! ははは早く止めなくっちゃ大変だああアンシュお願いだから早まらないでえええ……」

 とっくにいなくなったアンシュベルの後を追いかけ、半泣き状態で廊下を駆けだしてゆく。


「……なにごとですかな、この騒ぎは」


 いかにも追加発注で押しつけようと画策していたらしき大量の書類仕事を山のように抱え、ニコルが向かったのとはちょうど反対側の階段を上がってやってきた人物――彼が何ものであるのか賢明なる読者の皆様ならばもうおわかりであろう――

 そう、聖ティセニア北方面軍第五師団参謀部所属、《破壊のハガラズ》守護騎士にしてむっつり○○○、黒髪黒瞳の冷徹なる軍人ことザフエル・フォン・ホーラダイン中将は、今まさに脱走しようとしているニコルの後ろ姿を見やって苦々しくも無表情につぶやいたのであった。

「まったく」

 ザフエルは周囲の惨状になど目もくれず手にした書類の山をどすんとばかりに執務机の上へ置いた。

「急ぎの仕事だというのに」

 重みで机が揺れ、インク壺にさした羽根ペンがころがった。背後のガラス窓までがなぜかびりびりと振動する。

 しかるのち初めて状況に気付いたかのように腰に手を当てぐるりと周りを見回す。

「なんたること」

 眉をひそめ、床に散らかった書類を鼻白んだ表情で見やる。

「閣下の辞書に整理整頓という言葉はないようですな」

 装備物資支給の申請やら決済やら援軍派遣の命令書やら面倒な書類仕事を連日連夜押しつけたあげく自分は悠然として知らんぷりしていることなどどうやら棚の上どころか天井裏にまで放り投げているらしい。

 と、そこでザフエルはふと、未確認机上物体を発見した。

 穴が開くほどじいい、と、見つめる。

 紙紐およびワイヤーで上部を結索した半球状の物体。

 形は新型の擲弾にやや似ている。まさか爆弾か。

 外装はぺらりと薄い紙。ピンク色である。ちまちまとハートの模様が印刷されている。中に銀紙が見えた。

 折りたたまれたちいさなカードが添えられている。もしかしたら犯人につながる手がかりか、あるいは脅迫状のようなものが記されているのかも知れない。そう考えると先ほどのニコルの動転ぶりも納得が行く。

 ザフエルは用心深くカードをはずした。

 物体に反応はない。起爆装置の類ではなさそうだった。

 するどく眼を細め、書いてある異国の暗号らしき文字に眼を走らせる。


 スキスキ♪ キスキス♪ あたしのココロ♪

 甘ーいはあとなちょこれーと♪

 どうかおねがい受け取って♪

 スキスキ♪ ダーリン♪ ダイスキッ♪ ちゅ♪

    byあなたのあいのどれいになりたい にこるでえっす♪


 次の瞬間――

 如何なる運命の悪戯かあるいは大いなる啓示にいざなわれたか、ザフエルは無意識のうちに包み紙を開き中に入っていたチョコレートをぱくんと一口に食べてしまったのであった……。


 というわけで。

「ふむ」

 只今絶賛もぐもぐ中である。

「これは」

 もぐもぐしつつ考え込んでいる。

 どうやら多少我に返ったというところらしい。

「何ともはや」

 とか何とかもったいぶった言い回しでごまかしてはいるがやはりもぐもぐしている。かなり気に入ったらしい。

「……美味ですな」

 最後、満足そうにごっくん。

 だがそこでふとザフエルは眼をまたたかせた。

 口をつぐむ。


 ……。


 何かがおかしい。

 ニコルに言わせれば「何かがおかしいってザフエルさんはいつでもどこでも思いきり変じゃないですか」となるところだろうがそれは別にどこかおかしくてそういう態度を取っているのではなくごく普通の真っ当な対応をしてもなおそう受け取られるわけであるからしてまったくもって問題ではない。

 なのに、今は。

 ザフエルはぼんやりと考え込む。


 何かが――


 ザフエルは顔を上げた。

 廊下から誰かの声が聞こえた。

「ああもうホントどうしよう困っちゃったなあアンシュってばどこ行っちゃったんだろうエッシェンバッハさんまで全然見当たらないしんもうどうしたらいいんだか」

 ニコルの声。

 ザフエルはもう一度眼をまたたかせた。

 ざわりと血が騒ぐ。

 ゆっくりと深呼吸する。

 やはり、おかしい。

「あれ?」

 ふとニコルの嘆きが止まった。

「扉が開いてる。誰か中にいるのかな? もしかしてザフエルさん?」

「はい」

「あっ、ちょうどよかった。ご相談したいことが」

 ばたばたと突然に性急な足音がしてニコルが飛び込んできた。

 大きくみはった薔薇の瞳の上にきらりと白く、いつものぐりぐりメガネが光っている。

「なにか」

 ザフエルはニコルを見つめ、押し殺した息をゆっくりとついた。

 頭の中に奇ッ怪な幻聴が鳴り渡っている――


 スキスキですな♪キスキスですな♪私のココロですな♪

 甘いのははあとなちょこれーとですがなにか♪

 お願いいたします♪受け取ってくださいませんでしょうか♪

 スキスキ♪マイハニー♪大好き♪としか言いようがありませんな♪よって只今よりちゅう致します♪

 by最初からあなたのあいのどれいですがなにか。ざふえるでぇっす……♪



 立ちつくしていたザフエルがおもむろに振り返る。

 いつもとはほんの少し違う冷厳な雰囲気。ニコルは思わずぎくりとして立ち止まった。

「あ、あの」

 返事はない。険しいまなざしが注がれている。

 どうやら怒っているらしい。

 何を怒っているのかニコルは混乱した頭をふりしぼってザフエルがつむじを曲げそうな理由を一つずつ現状にあてはめていこうとして、あ、と脱力した。

 ……足の踏み場もないとはまさにこの部屋の状況を指して言うに違いない……。

 仕事破れて白紙ありというかいやまあ全然違うような気もしないでもないがとにかくどれほどの熱意を込めて散らかせばこのような状態になるのか想像もできないぐらいスゴイ――とはいえザフエルかアンシュベルが片づけてくれなければ基本的にいつもこういった状況であることは認めるに吝かではない――つまるところなぜだか知らないがどれほどの注意を払っていても結局なんやかんやと余計ながらくたや逸失物落下物堆積物等が生じ、結果反比例的に散らばってゆくものなのだ、床という二次元空間は。

「わわ、すみませんっ」

 とかなんとか言い訳しても始まるわけなどなくニコルは青くなって書類の海へと飛び込んだ。

 ぺたりと床に座り込み、紙を両手でかき集めては端をならし、角を打ち揃えにかかる。

「うわっととと」

 またばさばさと書類が手からこぼれおちる。

「……閣下」

「は、はい、ただいま! すぐに片づけますので」

 ニコルはあたふたと四つん這いになって目に付いた書類を片っ端から拾って回った。なぜかソファとテーブルの間の奥の奥の方にまで入り込んでいる書類めがけてうんうん唸りながら必死に手を伸ばす。

 どうしてこんなところにまで大切な書類が入り込んでしまうのだろう。頑張ってもまったく手が届かない。仕方なく頭ごと隙間へとぎゅうぎゅうと突っ込む。

「ううっ狭い暗いむさ苦しい」

 泣きそうな気持ちでいるところに再びザフエルの声がかかった。

「閣下」

 声の方向からすると思い切りお尻を向けてしまっているような気が――いやまさかきっと気のせいだとは思うが――何にしても今はさすがにそれどころではない。

「う、なに、ちょっと待って、何かひっかかっちゃって、イテテテ……ちょ、ちょっと出られな……あいたた」

 ニコルは一人じたばたともがいた。ザフエルは何も言わない。

 ようやく書類に手が届く。ニコルはしっかりと紙を掴むと何とか身体をひねりながら脱出することに成功した。

「ふう、やっと取れた」

「閣下」

 難題をやり終えた時にも似た充足感を覚え額の汗などを手の甲でぬぐっていると、再びザフエルが重々しい口を開く。

「はい?」

 ニコルはソファの横にぺたっと座り込んだまま、ザフエルを見上げた。眼をぱちくりとさせ、小首をかしげる。

「何でしょう」

「実はですな……」

「あっそうだ!」

 突然ニコルは自分が最初何を言いに戻ってきたのかそれをようやく思い出して両手をぱちんと叩き合わせた。眼を大きく見開き、堰を切ったようにしゃべり始める。

「僕のほうこそザフエルさんにご相談があったんでした! ねえちょっと聞いて下さいよ大変なんですよ」

「……」

 ザフエルの眼がすっとほそめられる。

 ニコルは髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまわしながら飛び上がった。

「いやもうホント大変なんですってば聞いて下さいます? アンシュがいなくなっちゃったんですけどそれであの何だっけええとたぶんまたル・フェがイタズラかなにかで関与してるとは思うんですけどとにかく『恋の最終決戦兵器』とかいう食べたらキスしたくなっちゃうとか何か聞いてるだけでもううわあ恥ずかしいみたいなチョコレートをですねエッシェンバッハさんに渡してふはははとか何とか言ったりして危なっかしくてどうしようもないのに二人ともいないんですよ!」

「……それは困りましたな」

「でしょう!? あ、そうだ、ええと」

 足下の書類をまるで波打ち際の飛沫のように撒き散らして執務机に駆け寄る。

「確かさっき一個アンシュにもらったのが」


 ない。


「あれ?」

 ニコルはぽかんとした。きょろきょろする。

 背後のザフエルがごほんと咳払いした。

「ですから、閣下」

「待って待って。おかしいなあ」

 ニコルはチョコレートを探し回った。机の上にはいつの間にか倍増している追加書類の他は何もない。

「確かにこのへんに置いといたはずなんだけどなあ。あれえ? ザフエルさん見ませんでした? ハートの包み紙のまるっこいのなんですけど、落っことしちゃったかなあ」

 ぶつぶつ独り言を言いながら腰をかがめ、椅子を押しやって机の下に潜り込んでみる。

「あれ、やっぱりないよ。おっかしいなあ、何でないんだろ。ここにあるはずなのに……うーん」

 と。

 ほどけたリボンが見えた。

「ん?」

 おそるおそる手を出し、つまんでみる。

 見覚えのあるリボンだ。

「あ」

 なぜか、その向こう側に半分やぶれた包み紙が見えた。

「閣下」

 ザフエルの声がふたたび思考に割って入ってくる。

「ちょっと待って。これは一体どういうこと?」

 ニコルはごそごそ机の下から這い出すとリボンと包み紙の両方を目の前に置き、自分もまた床へ座り込んでううむと小難しい顔で腕を組んだ。

「……ですから、閣下」

「ザフエルさん、おかしいと思わない? 僕は食べてないのにさあ、包み紙だけが落ちてるんだよ。何で?」

 ニコルは頭を抱えた。うんうん唸り続ける。

「おそらくは誰かが」

 ゆっくりと背後からザフエルが近づいてくる。

「……勝手に食べたかと」

「誰かってそんな」

 ニコルはザフエルらしからぬ間の抜けた返答に対し不満もあらわに振り返ろうとした。

「こんな爆弾みたいなチョコレートをザフエルさんじゃあるまいし誰がいきなり」


 こつ、


 こつ、と。


 慎重な靴音が。

 ひそやかに。

 近づいてくる――


 ……。

 …………。

 ということは……。


 ま、まさか。

 ははは。

 まさか……。


 たらりと冷や汗が流れる。

「ま、まさかザフエルさん」

「何でしょう」


 のらりくらりと返ってくる、冷静な声。

 あまりに怖すぎて振り返ることすらできない……!


「こっこっこっここにあったチョ」

 ニコルはぎごちなく振り返ろうとした。

「チョコ、まさかた、た、食べ……てま……せんよね?」

「もちろん」

 真後ろから声がする。

「いただきましたが何か」

「え」

 絶句した、瞬間。

 いきなり。

 背後からザフエルの強引な腕が伸びてぐいとニコルを抱きすくめた。


「ふんぎゃあわわああああ! あああ!」

「だから先ほどから何度もご説明申し上げようと」

「あわたたたなあああなななあななにsするrんですかザフエルさんちょっちょちょちょちょっと……うあっ!」

 有無を言わさぬ腕にとらわれ、ニコルは真っ青になったり真っ赤になったり真紫になったりしながらじたばたと身をよじらせようとした。

 なのに、まったく動けない。

「ま、まままま待って、ちょっっと、おお、落ち着いて!」


 ザフエルのゆるやかな黒髪がさらりと頬におちる。

 ほんのりと甘い香りが吹きかかった。


「ご心配なく」

 耳元でザフエルは冷静にささやいた。

「今も十分に落ち着いております」

 ニコルは半泣きの状態で身体ごとぐっと首をねじり、ザフエルの顔を見た。

「だ、だったらてを手を放してくだっ」

「それはできませんな」

 冷ややかな黒いまなざしがニコルを真正面からとらえる。

 一気に近づいてくる。

「うわああっあああだめだめだめだめ……!」

 のけぞりかけたニコルの頬に、手がなかば無理やりに添えられる。

 くしゃくしゃした髪が肩にはねた。

 宙にみだれる。

「ちょちょホントちょっと待ってそのっあああのっぼ、ぼ、ぼぼぼ僕のほうはそのあの何というかですねうわああっちょっとそ、そんなに近づかないでっ殿中でござるっ……うあああ!」

「動かないで下さい」

「い、いやこの場合そういうわけには!」

「閣下」

 ひくい、まるで怒りを押し殺したような声が目の前から発せられて、ニコルはびくんと身をこわばらせた。

「ざ、ザフエルさん」

「閣下」

 どこかぎごちない手が、髪に触れ――

 ザフエルがふっと身をかがめる。

「閣下」

「ちょっ、ちょっと待っ……!」


 ……ちーん。(と音がしたと思ってください)


「わあああふんぎゃああわわわあああーーーー!」

 大暴れである。

「困りますな」

 ザフエルは眉をひそめた。

「……いちいち大声を上げられては」

「むむむむ無理ですあのあのホントおねがい勘弁して下さいぼぼぼぼ僕がおおおおお男だって話、絶対思い切り忘れてるでしょうザフエルさんっうわあっ」

「そもそも」

 不満そうにザフエルは唸った。

「閣下があのような危険物を放置するのがいけないのです」

「ぼ、僕のせいだって言うんですかっそんなの詭弁ですっ、ひ、ひどいっザフエルさんこそいいいいつもの鉄の理性はどこにやっちゃったんですか眼が眼がもう全然いつもと……あっ……んっ……んん……!」


 ……ちーん。(以下同文)


「あああああんもう何してるんですかああああーーー!!!」

「私にも分かりません」

「わわわわ分かってるじゃないですかあっ思いっきり!」

「ご理解下さい」

 ザフエルはゆっくりと首を振った。

「私もこのような無体はしたくないのです。ただ手と唇が勝手に閣下を求めて」

「ももももも!」

 ニコルは真っ赤になって轟沈した。

「何とかしてください……!」

「了解」

「わ、わ、分かってくれてるならいいんですけど……」

 ニコルは声をあえがせ、半泣きで訴えた。

 きつく抱かれているせいか息が、ひどくみだれて苦しい。

「っでも、そのあのちょっと少し、手、手をゆるめ……息が……くるしくって……!」

「できたら苦労はしません」

「うわあああん!」

「ふむ」

 だが、そのときになってようやくザフエルはほんのすこし腕の力をゆるめた。

 用心深く眼をほそめる。

「どうやら落ち着いてきたようです」

「ほ、ホントですか……?」

 ニコルは半分ぽろぽろと今にも涙のこぼれそうなおびえたまなざしでザフエルを見上げた。

「そうですな。いったんソファへ」

「……」

 ぐすぐす泣きながら疑いの視線を向ける。

 ザフエルは落ち着き払ってごほんと咳払いした。

「どうぞお座りを」

「う、うん」

 どうやら本当に落ち着いてきたらしい。

 そう思うと急にどっと疲れが出てくる。ニコルは心底ぐったりしてソファへともたれ込んだ。

 背もたれに身を預け、長いためいきをつく。

「ああ、どうしたらいいん……」

 そのときなぜか目の前に、ばさっ、と。


 ザフエルの上衣が落ちてきた。

 続いて青いスカーフ。

 サッシュをおさえるため腰に巻いた細い飾りの革ベルト。

 ボタンに当たったのか、金具がかちん、と甲高い音を立てる。


 ……。

 …………。


 ――ふんぎゃああわわあああああああ……


 ためらうこともなくいきなり脱ぎ始めたザフエルを前に、ニコルは真っ白に石化硬直した。

「……ななななな……!!?」

 襟元に入れたクラヴァットをぐいとほどき、投げ捨て。

 輝く雪のような真っ白なシャツのボタンを乱暴にはずし、征服者のような息をつき。

 彫像のように常に完璧に整えられていたはずの軍装を見る間にしどけなくはだけさせてゆきながら、ザフエルは黒い底知れぬまなざしでニコルを見下ろした。

 首にかけた銀の薔薇十字がちりちりと光っている。

「ざ、ざ、ザフエルさん」

 ニコルはソファの上で震え上がった。

「ななな何で……脱いでるんですか……?」


 ザフエルは眼をまたたかせた。

「ふむ」

 さすがに脱ごうとする手が止まる。

「確かに。なぜでしょうか」

「分かりません!」

 ぶるぶる必死に頭を振る。

「困りましたな」

 ザフエルは淡々とつぶやく。

「っていうか目のやり場に困ってるのはこっちなんですけど!」

「申し訳ございません」

「とっとにかく」

 ニコルはすべての勇気を振り絞って声を高くした。

「早く服着てください……」

「何と」

「だ、だから早く着てと……」

「……ご所望とあれば致し方ありませんな」

 ザフエルは悠然と息をついた。

 ふいに身を乗り出す。

「……うえっ!?」

 ニコルの顔のすぐ横、ソファの背もたれにまるで槍を突き立てたかのようにザフエルが両腕をついてニコルを抑え込んでいた。

「……ちょ、ちょっと、何……」

「来いと仰有るので来ましたが何か」

「……はあ!?」

 ニコルはぽかんとした。

 眼をぱちくりさせ、絶句する。

「ち、ち、違いますってば!」

 はっと我に返って両手を上げザフエルを押し戻そうと腕を掴む。

「だだだ誰がそんなこと言うんですか言うわけないでしょ僕はねえ早く服を着ろって言ったんですよ勘違いしないでくださいまさかそんな、来てなんて言うわけが!」

 顔の真横にある腕を何とか押しのけようとするものの、いったいどれほどの膂力なのかザフエルの腕はびくともしない。

 それどころかまるで赤子の手のようにさっと軽く振り払われ、いかにも邪魔だと言わんばかりに扱われて手首ごとソファに押しつけられる。

「……や、やだ、ちょっ……」

「お気になさらず」

「い、いや、それはちょっと無理がって……、ザフエルさん!」

 ニコルは情けない呻きを上げた。

「こ、これは、その……ど、どういう……?」

「どうもこうもありませんな」

 ザフエルはにべもなく言った。

「なぜか勢いが止まりませんので、もう、このまま」


 ――絶体絶命……!


 ニコルは号泣しながら必死にじたばたと膝やら足やらを蹴り上げた。

「だめだめホントちょっと待っておおおお落ち着いてくださいようっ!」

「蹴らないでいただけると有難いのですが」

「だったらやめてくださいって……だいたいさっきザフエルさん御自分でもう落ち着いたって言ったじゃないですかあっ!」

「ですから最初から落ち着いていると申し上げております」

「だから手を放してくださ……!」

「ですから」

 ザフエルは苦々しいため息をついた。

「それができれば苦労はしないと、何度申し上げたら分かっていただけるのです」

「うわあああん!」

「閣下」

 声がなおいっそう低く、近づく。

「甘い……ですな」

「うわっ、あ、あっ……だめっ……」

 薔薇十字のペンダントのつめたい感触が首筋にすべり込む。

 ニコルは必死に顔をそむけた。

「おおおお願いお願いですってばザフエルさんはやくいつものザフエルさんに戻ってくださいお願いしますお仕事もちゃんとやりますからフランとカードをおもちゃにして遊ぶのもアンシュとおやつ作ってみんなに配り歩くのもやめます軍事教練から逃げたりもしませんし何でも言うこと聞きますから、だから、おねが……っ……ん……んっ……うううう……んっ……うう……あっ……う、う、うううう……うーうーうー!」


 ……ちーん。(略)


「くくくくく苦しいじゃないですかっななななな何分き、き、き……うあああああん馬鹿あっザフエルさんの馬鹿あっ!」

「大丈夫です」

「ぜんぜん大丈夫じゃありませんってば何堂々と開き直って言ってるんですかあああもう僕お嫁に行けない!」

「私が貰うので大丈夫です。……ではなくて」

 ごほごほとザフエルは咳払いする。

「行く必要など最初からないでしょう」

「うううううるさいうるさいうるさいっザフエルさんの意地悪あんぽんたんっすっとこどっこいっもう大っっっっっ嫌い! 窒息して死んじゃったらどうするんですかあっ!」

「なんの」

 ザフエルは冷ややかに口の端をゆがめた。

「閣下に溺れて死ねるなら本望です」

「うわああああんザフエルさんの馬鹿あ! もう知らな……うっ……ん……んん……っ!」


 ……ちーん。(汗)


 というわけで。

 ニコルの災難は悪魔のチョコレートの効力がつきてもなおしばらく続くのであった。


 ……ちーん。(おしまい)







 ……ちーん(でもまだやってるらしい)






 ……ちーん(まだやってるし)



 ……ちーん……(もう……無理……)



【おしまい】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る