【最終回】それは——ふたたび始まる、めくるめく冒険

 隣を見れば同じ速度でぬいぐるみが自由落下している。

 チェシーが手を伸ばす。ぬいぐるみは黒い長いリボンに変化してするりと螺旋にほどけた。一瞬で腕から背中に巻きつき、巨大な黒い翼に変わって広がる。

 そのまま、地面すれすれまで落下。振り子のような軌跡を描いてつばめがえしに滑空。砂煙の尾を引き、風切り音を猛然と巻きたてて反転急上昇する。

 大きく、強く羽ばたく。


 花火の煙を突き破って舞い上がる影に気づいた神殿騎士たちが、口々に指差し、たいまつを振りたてて叫んだ。呼子が吹き鳴らされる。半鐘がけたたましく鳴る。

 それらを一気に引き離して、さらに上昇。


(やい、さっきはよくもやってくれたな、ナウシズの守護騎士め。また死ぬところだったじゃないか)

 ル・フェの声がいたずらに響いた。

「ありがとう、ル・フェ。君がいてくれたおかげだ」

 ニコルは顔じゅうをほころばせた。チェシーの背中に同化したぬいぐるみの悪魔は、まがまがしい巨大な悪魔の翼を打ち振り、風を切り、夜霧を突き抜け、月の照らす広大な街並みを見下ろしてゆうゆうと滑空する。


(何だよ急に。褒めたって何も出やしないからな)

「いいや。君には絶対にお礼を言わせてもらう」

 ニコルは微笑んでかぶりを振った。

「君がいてくれたから、みんな助かったんだ。君とチェシーさんのおかげだ。本当にありがとう」

(な、何だよ今さら)

 ル・フェは黒いぬいぐるみの顔をピンク色に染め、わざとつっけんどんに横を向く。

(勘違いしてもらっちゃあ困るね。この僕を誰だと思ってる? 世界を絶望のどん底に突き落とす狂気の貴公子、最強最悪の魔王様だぞ。まさか忘れてるんじゃないだろうねえ?)

「いいや。君はまさしく天使キューピッドだよ」


 ニコルは断言した。笑みがこぼれる。


 《紋章使い》。《悪魔の紋章》。

 紋章の悪魔ル・フェがいなければ、ゾディアック帝国軍が当時はまだ目覚めてもいなかった《封殺ナウシズ》の異能を恐れることもなかった。磐石の要塞ノーラスを恐れることもなかった。チェシーがニコルを利用してル・フェを復活させにくることもなかった。


(はああ!? 君、打ちどころが悪くて頭がどうかしちゃったんじゃないのかい……)

「終わりよければすべて良し、ってことさ。細かいことは気にしない!」



 ル・フェは力強く羽ばたき、ぐんぐんと上昇してゆく。ニコルは遠ざかってゆく大地を振り返った。

 切り立った雪の山懐に抱かれるツアゼルホーヘンの大聖堂が見えた。白鳥を思わせる美しい伽藍が星と月の光に照らされ、青くきらきらとまたたく。

 そのすぐ下には真っ黒な地面の裂け目と、真っ赤にたぎる溶岩の残滓。

 溶けた雪と、むき出しになった岩肌とがまだらになって、そこかしこからもうもうと湯気を立てている。


 ゆったりと旋回して大聖堂を一周する。

 尖塔の各所に刻まれた天使像のともしびが淡いゆらめきを雪に落としていた。

 窓の雪を虹色に透かし、アーチに反射して、影のさざなみを映し出している。


「チェシーさん」

 ニコルはあまりにも美しい夜景に心奪われながら、夢心地で尋ねた。

「帰るって、どこへ」


「君が帰るところはひとつしかないだろ」


 チェシーはいたずらに笑ってはぐらかす。

 帰る場所。ニコルはひんやりとつめたい風を胸いっぱいに吸い込んだ。首を何度もあちらこちらにねじって、夜空に強く光るみちびきの星を探す。

 北の方角に君臨する極北の星座。南の空にいちだんと青白く燃える星。頭上に散らばるひとかたまりの星団。東の空を白く駆けのぼる星。

 最後に月を探して西の空を見やる。

 あの月の下にノーラスがある。


 ノーラス。

 魔物に埋めつくされ、炎に包まれ、無惨にくずれゆく城砦の最期の姿がよみがえった。今はもう存在しない、懐かしい、遠い、唯一の安住の地だったかつての戦場。

 もう、帰る場所など、どこにもないはずだった。


「本気なんですか?」

 おもわず吹き出す。

「当然だ。ひとつひとつ取り戻していくんだよ」

 やはり本気だったらしい。チェシーはかるがるとニコルを投げ上げ、一瞬宙に浮かせて、腕に抱きとめ直した。


「ひゃあっ!」

「手始めにノーラスを建て直す。忙しくなるぞ。まずは、イェレミアスがうじゃうじゃ湧かせまくった魔物どもをきれいさっぱり片づける。もちろん君の仕事だ。それから」


 身体を斜めにかたむけ、大きく羽ばたいて、ふたたび市街地上空へと戻ってくる。

 はるか下の地表で、転がる銀玉のような神殿騎士たちの部隊がアンドレーエとアンシュベルのふたりを追いかけているのが見えた。先頭にいるのはエッシェンバッハだ。

 アンドレーエの方は、相変わらずネズミ花火を好き放題ばら撒きながら逃げ回っている。


「まずは城砦の修復だ。金と仕事さえあればみんな戻ってくる。資金は、そうだな、リーラ河に橋を架けて、森に街道を切り開こう。で、森に魔物をばらまいてだな、通りたい連中から通行税をふんだくって、ル・フェの手下どもに護衛させる。ベルゼアスまで行くのには森を抜けるのが最速最短だ。通りたい商人どもならいくらでもいる。特にバシード商会の連中なんか、資材受注の仕事さえあれば、揉み手すり手で寄ってくるぞ。ちなみに俺はノーラスをおとした功績によりゾディアック皇帝の名において彼の地を封受した正統なる領主だからな。新たなる王国をノーラスの地に築き上げ、ますます大発展させるぞ。名付けて新生サリスヴァール王国!」


「そんな人聞きの悪い国の名前は嫌です」

 ニコルはまた吹き出した。

 眼下のアンドレーエが、上空のニコルたちに気づいた。略式の敬礼を投げてよこす。隣のアンシュベルがぴょんぴょん跳ねながら、両手にハンカチを持って大きく振った。笑い声が聞こえるようだった。

 ニコルは手を振り返す。ふと思いついて、両手首にはめたルーンを交互に点滅させたり、長く光らせたりする。

 信号を読み取ったチェシーは笑ってつけ加えた。

「当然、時間がかかるだろうがね。必ず元通りのノーラスにして君らに返すよ」


 ノーラスに帰る。

 本当に帰れるのだ。


 ニコルは声もなかった。涙が粒になって、夜風に吹き散らされてぽろぽろと飛んでゆく。

 城壁塔の最上階から、空を見上げているザフエルの姿が目に入った。いつの間にかもう、豆粒のように遠く、小さい。


 ニコルはあわてて涙をぬぐった。聞こえるかどうかも構わず、精いっぱいの大声をはりあげて、何度も手を振る。

「おおーーい、ザフエルさーーーん!」


 あまりに遠すぎてザフエルの顔かたちまでは見分けられない。だが、その冷厳とした所作は遠目にもはっきりと分かった。

 居住まいを正し、いつまでもその場に立ちつくし、見送っている。

 それがまるで別れの挨拶であるかのように見えて、ニコルはさらに大きく手を振りかえした。


「今度、またノーラスまで遊びに来て下さいねーー! 絶対ですよーーー!」

「おいこら止めろ。いきなり行き先をバラす奴があるか」


 あわててチェシーがニコルを揺すぶる。ニコルは、あ、と言って口を押さえた。

「言っちゃった」

 風に吹かれ、髪が自由奔放にたなびく。ニコルはくしゃくしゃの髪を押さえながら首をすくめる。

「どうせさっきの信号でバレてますって」

「もう、まったく。君ってやつは。いいよ分かった。覚悟を決めたぞ」

 チェシーはやけのやんぱちで首を振った。


「こうなりゃ絶対に逃げ切ってやる。じゃないとおちおち安心してゆっくりもできない。やっと二人きりになれたと思った瞬間に、あの男の仏頂面が横からにゅうっと出てきて『不純異性交友は許しませんぞ〜』とか何とか言われたら、もう二度と立ち直れない」


 ニコルはお腹を抱えて笑った。

「あはは、それ絶対あるあるですよ!」

「こら笑うな、揺れる」


 と、そこでチェシーはふと我に返ったような声音に戻ってニコルにたずねた。

「……ところで、ばたばたして聞くのを忘れてたが。さっきの君の頼み事は、いったい何だったんだ?」


 耳元で羽風がうなっている。

 見上げた彼方に、薄い雲に抱かれた月が見えた。夜空がどこまでも続いている。

 眼下は遙かな森、頭上は満天の星。青白く濡れる月光を眼に焼き付けて、西へ、西へ。一直線に羽ばたいてゆく。


 ニコルはふと、遠いイル・ハイラームに残されたマイヤの廃屋を思い出した。

 打ち棄てられた壁に残された呪いのゲッシュが心に響く。無数の白い帯に封印され、風が吹くたび不浄の鈴が鳴り渡っていた、あの、懐かしくも恐ろしい望郷と背徳の家。マイヤと暮らした思い出の家だ。


(いつわりのひかりは、しんじつのやみ)

(いつわりのやみは、しんじつのひかり)

(いつか、かならず、)


 呪いのゲッシュはそこで途切れて、ただの見果てぬ夢で終わっていた。


 でも、これからは違う。きっと、ずっと続いてゆくのだ。見果てぬ夢ではなく、手につかんだ確かな未来が。

 終わらぬ夜ではなく、やがて来る朝が。

 誰にも言えない嘘ではなく、心から言える本当の想いが。


「僕の願いはですね」

 真っすぐに見つめ、かるく微笑みかける。

「……今、もう、かないました!」


「そうか」

 一瞬、驚きの表情を浮かべて。

「そうか」

 もう一度、同じ事を言ってチェシーは破顔した。

 笑いあって、ともにうなずきかわして。いたずらにキスして抱き合って冗談めかして高度を上げたり下げたりじたばたしながら、明日に向かってどこまでも飛んでゆく。


 それは――ふたたび始まる、めくるめく冒険。


 聖ティセニア公国とゾディアック帝国。敵対し、憎み合ってきた二つの国に、今ようやく新しい時代の波が押し寄せてこようとしていた。

 たとえ前途に幾多の困難が待ち受けていようとも。ともに手を取り合って前に進めば必ず乗り越えられる。

 そう信じていればいつか、きっと、必ず。


 夢は、かなう。



【完】




https://kakuyomu.jp/users/yuriworld/collections/16816927862010288211

番外編もあります。よろしければこちらもごらんください。

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