「……この程度で最強とは笑わせる」

 断罪の賛美歌が麗麗と響きわたる。五線譜が光の渦を描き、こぼれた音符のかけらが水面に反射した。


 もし地底湖内で呪文が発動すれば、気化した水蒸気が膨張して爆発を起こすかもしれない。そうなればひとたまりもない。

 この場にいる五名が圧死するだけならまだしも。

 爆発の威力で坑道崩落、山体の陥没を引き起こし、地表の市街地に壊滅的な被害を与えるおそれすらある。


 ニコルは濡れねずみになった前髪をはねのけた。眼を尖らせて突っかかる。

「どう考えてもこっちのが悪いですよ! そもそも敵の本拠地に殴り込もうってのに、何でまともな攻撃用の《カード》ひとつ用意して来ないんです。奇襲する側が準備不足ってもってのほかでは!?」

「はぁ!? さっきまでうじうじめそめそして囚われのお姫様みたいなツラしてやがったくせに。んなもんクソの役にも立つかよ」

 アンドレーエが即座に切って捨てる。

「手持ちの《カード》なんてとうの昔にぶっ壊されたわ。むしろ、その、できねえのかアーテュラス。貴公の……その、あれだ。あれで。その、やつの《破壊ハガラズ》をぶっ……」

「できるけどできません!」

「ですよね! そう言うだろうと思ってました!」


「戦況解説は後にしてくれ」

 チェシーが陽気にさえぎった。水に濡れた大太刀をふるってしずくを飛ばす。

「ホーラダインがこの地底湖を吹っ飛ばすのが先か、俺たちがやつに吠えづらをかかすのが先か。いざ尋常に勝負!」

 薔薇のつるの足場を蹴った。一気に間合いを詰める。


 大太刀を縦一閃。振り抜く。杖と刃とが噛み合った。火花と金属音響がけたたましく軋り飛ぶ。

「どうした、脇がガラ空きだぞ」

 押し込みながらガードの部分を使って杖をひねり、へし折ろうとする。

 だが、小指ほどの華奢な見かけにかかわらず、結界をまとった銀杖は大太刀の重量をものともしなかった。片手で平然と押し戻す。

「貴様らの相手など、左手一本で十分だ」

 総主教がザフエルの声であざわらう。杖が黒い光芒を放った。結界の投網がさらに広がる。


「そいつは恐れ入る。わざわざ見くびってくれるとは」

 時を移さず、至近距離から上段に斬り込む。

 両手に装備した《天空と栄光のティワズ》が、ふいにきらめきの星くずをこぼした。輝きを増して、彗星の尾を引く。

「そこがあんたとホーラダインの差だ!」


 物理攻撃強化。それが《天空ティワズ》と《栄光ティワズ》、双子のルーンの相乗効果だ。常人をはるかに超える激烈な速度と打撃を、攻撃力に累乗して与える。


 大太刀が粒子状に拡散し、巨大化した。幻影の巨人がこぶしを振り下ろす。

 杖を守る結界が異様な厚みを増した。強化された刃をうけ、めきめきと音を立てて割れ砕ける。

 多角形の結晶構造がひずんだ。ピアノの鍵盤をめちゃくちゃに叩いたような不協和音が響きわたる。

 水泡が瞬時に沸騰した。円形の衝撃波となって水面を押し広げる。蒸気の柱がたかだかと斜めに噴き上がった。五線譜が水煙にかき消される。


「やったか……?」

 水蒸気の白煙を破って、結晶の槍が射出する。

「何っ!」

 割れて剥がれたのは外側の結界だけだった。ばらばらとめくれて落ちるその下から、次々と新たな結界が再生され、棘皮めいた異形に突出する。


 鋭利な先端がチェシーを突き上げた。

 かろうじて大太刀で撃ち返すも、衝撃は相殺できない。

 跳ね飛ばされる。

 チェシーは身を丸めて空中で回転。受け身をとって薔薇の足場に着地する。


 上昇気流が吹き付ける。さながら溶鉱炉のふいごにあおられたかのようだ。

「何だ、あの結界は。ホーラダインの石頭よりよっぽどタチが悪い」

 横殴りの水しぶきが熱湯の雨となってふりかかった。チェシーはむしろ楽しげに、血と泥水に汚れた顔を肩口でぬぐった。あくまでも強気を崩さない。


「……この程度で最強とは笑わせる」

 ザフエルは茹だるような地底湖に腰近くまで沈んでも、まだ水から出て動こうとしなかった。

 ぶつぶつとひとりごちる。

「ああ、そうだ……見えるか……死ぬほど恋焦がれた女のルーンが。欲しい……取り戻せ…… 誰にも奪われたくない……他の誰かに奪われるぐらいなら……この手で……殺……」


 闇の中で、異形の杖と左側の眼だけが銀色にらんらんと輝いていた。一方、黒髪の側は半身創痍だ。頬にざっくりと切り傷が走っている。

 体力と精神の限界を超えてルーンを酷使しているのだろう。


 ニコルはすばやく戦況を見比べた。

 チェシーのルーンによる強化攻撃で、何とか呪文の発動だけは阻止できたらしい。だからといって安心するには早すぎる。

 状況は何ら変わっていない。呪文を唱えなおすまでのほんの少しの間だけ、最期の瞬間が先延ばしされたにすぎない。


 このままでは何度攻撃しても同じだ。《破壊ハガラズ》の結界がある限り、ザフエルを止めることはできない。


 ニコルやチェシーが個人的感傷から自分を殺せないでいることを、渦中のザフエル自身もまた当然、気づいているはずだった。事実、ローゼンクランツ総主教はこちら側のためらいを逆手にとって、わざと動かない右側の半身を攻撃にさらし、盾がわりにしている。


 やはり、アンドレーエの言うとおり、《破壊ハガラズ》を壊すしかないのか。

 歴代の聖女たちが真実に絶望し、涙し、それでも護りたいと狂おしく願って命と引き換えに魂を捧げたルーンを。


 そんなことはできない。


 ニコルは唇をかたく噛んだ。

「どうすればいい……?」


 問いかけても答えは返らない。このままではジリ貧だ。

 ザフエルならば、即座に問題解決のための行動選択肢を提示し、決断を下すよう迫っただろう。

 感情に流されることなく。

 無謀な自己犠牲に逃げ込むこともなく。

 偉大なる全体の勝利のために。


 だがザフエルはこの場にいない。ならば逆に考えるのだ。もしザフエルならこの場をどう切り抜けるか。身体を支配され、ろくに思考することもままならぬ状況下で、何をどのようにしてのかを。


 確信がひらめいた。


「そうか。そういうことか……分かったよザフエルさん」

 そういうことならば、ザフエルの。言葉にも行動にもあらわさない。それこそがザフエルの明確な意思であり、意図だ。


 ニコルは息を吸い込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る