【完結】 exile 異端《ウィルド》の血を引く魔女であることを隠すため、性別を偽り男装して聖騎士となったのに付き従う部下は超女ったらし亡命者と無表情にグイグイ迫る黒髪黒瞳の鉄血参謀
「激突したら前歯が折れるだけでは済まないが?」 「大丈夫。前歯がなくてもチェシーさんはかっこいいです」
「激突したら前歯が折れるだけでは済まないが?」 「大丈夫。前歯がなくてもチェシーさんはかっこいいです」
「君の導くところ
チェシーはにやりと笑った。両眼を閉じ、右斜め前へ走り出す。
ニコルは誘導の声を飛ばす。
「向かって右。壁に飛んで蹴って回って逆に走る! ハイ!」
「そんなふわっふわな指示で意図が通じると思うのか」
それでも勢いをつけて右側の壁を蹴上がり、かろやかな後ろ宙返りにひねりをくわえた離れ業で方向転換。再び走り出す。
「……誰もそんなに格好つけてバク宙キメろとは言ってません」
「ふっ、いい度胸だ。後で裏庭に来い」
「鉄拳制裁は後。真正面に壁。接近。速度ゆるめるな」
「激突したら前歯が折れるだけでは済まないが?」
「大丈夫。前歯がなくてもチェシーさんはかっこいいです」
「そんな俺はいやだ」
「速度を維持したまま、壁面を天井まで斜めに駆け上がれ。三、二、一、行けえ!」
「サーカスの曲乗りか。少し楽しくなってきた」
上からまっすぐ一直線に降る光の柱は、照準をチェシー自身に合わせるのではなく、大地そのものに触れた足跡を検出し、自動追尾する。
だが、座標軸が平面ではなく壁面上にあればどうなるか。
ザフエルは眉間にしわを寄せた。いらだちの息を投げやりに吐く。上をふり仰ぎ、逃げるチェシーを目線で追う。
爪先が地面の小石を踏みにじった。
チェシーは地下聖堂の側面の壁を、四分の一周ぶん斜めに駆け上がった。上階にせり出す
岩盤を掘り抜いた壁は、当たり前だが真上からの光を透過しない。
壁面の凹凸にさえぎられ、狙いが散らばる。照準の
「なるほどな。さすが長年、連れ添ってるだけはある」
チェシーは苦笑する。
おそらく足跡の位置を正確に測定できなければ、技そのものが発動しないのだろう。その証拠に、あれほど執拗に追いかけてきた光の柱が、側面を走っている間は一発も投下されていない。
ザフエルの完璧主義を見越した上で、発動条件の
かと言ってのんきにトロトロ走ってはいられない。
先ほどまでの記憶と照らし合わせると、おそらくはところどころで
手すりに右手を添え、片勾配のついた壁を斜めに走る。
手すりが途切れた瞬間。
チェシーは床を蹴った。身長の数倍はあろうかという距離をやすやす飛び越える。
着地地点の足元がくずれた。がらがらと音をたてて瓦礫が散らばる。かまわず、半ば空中に浮いた床を踏み抜き、姿勢を崩しながらさらに走る。
背後に、照準の光点が迫った。
「ぁっ」
ニコルは変な声を出した。
「やめてくれそのいかにもやっちまった的な反応」
「あああああ」
「だいたいの想像はつくが」
「まんまとやっちゃいました……」
走るチェシーの足元を同心円が照らした。薄紫の魔法円が
「どうするんだ。また壁を走るのか」
ニコルは一瞬、返事に迷った。
光の柱が続けざまに落ちた。走る端から、足場が次々崩れ落ちてゆく。
いくら人並外れた身体能力を持つチェシーでも、あと残り数秒ほどしか壁の側面を走ってはいられないだろう。
飛び降りて着地に失敗すれば《聖属性付加》を浴びて死ぬ。運良く死ななかったとしても、直撃すれば《
無事に着地できたとしても、逃げ場がなければ以下同文。壁をさらに走って逃げても、足場が途絶えればいずれ墜落して以下同文。
ならば。
方法は。
これしかない。
「右、九十度。飛べ! つかめ!」
ニコルは叫んだ。指示を受けるやいなやチェシーはためらいもせずに空中へと身を躍らせた。
飛んだ先に何があるかも知らない。落下と着地の感覚もわからない。ただ手を伸ばす。指先が空を切る。何の手応えもない。
むなしく落下する。
それでもチェシーはさらに高く手を伸ばす。
そこに何があるのかは見えない。だがたとえ何があったとしてもニコルを信じる。その一心で。
左手の先が硬い突起に引っかかった。
ぐいと掴み取った。引き寄せる。全身の体重が指先にかかった。
鎖の吐き出されるけたたましい音が頭上に響き渡った。飛びついた慣性で大きく揺れる。いっぱいに伸び切って、波打つ。
壁から壁へ、天井から天井へ。秘密裏に張り巡らせた薔薇の鎖が幾重にも枝分かれし、絡みついて垂れ下がっていた。その中の一本を命綱代わりにして、チェシーはぶら下がる。
鉄の花びらが散った。
「薔薇の鎖……!」
大きくつるが揺れる。チェシーは振り子のように勢いをつけてこぎ、壁の反対側まで到達した。荒々しく笑い飛ばす。
「さんざんコケにしてくれたお返しだ」
足を蹴り上げ、頭を下にした体勢で片足を薔薇のつるに巻きつける。
「くらえ、足の裏爆弾!」
逆さまにぶら下がった状態で身体を支えながら、鉄のとげを次々に蹴り落とす。甲高い金属音が雨音となって降りしきった。
ザフエルの周辺に、足跡のついた鉄のとげが散乱する。照準光がとげに当たって乱反射した。
「ふざけた真似を……」
言いかけたザフエルの周辺に、重なり合った魔法円が広がる。
直後、光の柱がザフエルの頭上に降り注いだ。轟音と土煙と光の滝がなだれ落ちる。
「小賢しい!」
《
ザフエルは苦々しく舌打ちした。無言で自動追尾を解除する。
チェシーはゆうゆうと離れた地点へ飛び降りた。膝を柔らかく折り曲げて着地。立ち上がり、腰に手を当て振り返る。
「借り物の技など使うな。男なら自分の拳でかかってこい」
「きゃっはー准将さんかっこいいーー!」
アンシュベルは呑気に黄色い歓声をあげ、ぱちぱち拍手する。
ニコルはアンシュベルから離れ、その場にへたり込んだ。
「……お見事です」
何とか、それだけ言った。
こわばっていた全身の力が抜ける。あまりにも強く手を握りしめすぎていたせいか、指から血の気が失せ、手のひらの内側に食い込んだ爪の跡が赤い三日月型にいくつも残っている。
チェシーはぎろりと横目を走らせた。
「目隠し状態で鉄条網の空中ブランコとか壁走行とか落とし穴とか、どんな即死
「でもチェシーさんなら攻撃せずに攻撃をやめさせられると思って……」
緊張の糸が完全に切れる。ニコルはへなへなとかすれ声で笑った。
チェシーは苦笑した。
「まあいい。話は後でゆっくり署で聞こう。おかげで程よく身体も温まった」
閉じていた眼をゆっくりと開く。
「さてと。眼も治って来たようだし、今度こそ本日の
ぽたり、と。頬に水滴が当たった。
チェシーは顔をしかめ、手のひらを上に向けた。床がびりびりと振動している。
眉根を寄せる。
地鳴りとともに、地下聖堂全体が揺れた。獣の唸り声にも似た、ごうごうと鳴る音が聞こえてくる。
壁に亀裂が走る。ひんやりと湿った風が吹き下ろしてきた。
地圧に耐えかねたか。洞窟を掘り広げた地下そのものがついに崩落し始めたらしい。
「雨……? なんで?」
ニコルは呆然と天井を見上げた。
雨が降っている。だが、こんな地下に雨が降るはずもない。
「うわあ何ですかこれは。足がお水でびちゃびちゃ!」
アンシュベルはうひゃあとうわずった声を上げた。つま先立ちで飛びのく。
チェシーは闇の続く頭上を見やった。
「いわゆる水責めじゃないか? これ」
「へっ!?」
地下水は、いつの間にか滝ほどの水量に増えていた。あっという間にくるぶしまでが水に浸かる。
黒曜石の床、石造りの聖女像、燭台の柱。かろうじて残っていた建造物が水飛沫を浴びてつややかに黒くぬめる。
壊れた投影機が、最後の火花を放って動かなくなった。煙が立ち上る。灯りのない闇の底に、水飛沫の音がぞわぞわと響き渡った。
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