あの日に戻れるなら

虚無ウィルドの闇……これが、ルーンの力だと……?」


 無意識に支えようとしたチェシーの手が、空振りして霞を散らした。喪失の闇が霧となって、ニコルを取り巻く。

 チェシーは舌打ちした。粘性を帯びた霧を、異形の腕でつかんで払いのける。

 青黒い蛍光の軌跡が、虚無の霧を引き裂いた。ちぎれた霧が凝集し、再び鉄のいばらによじり合わされ、棘をくねらせる。


「来ないで」

 ニコルは手で押し返そうとしながらかすれた声で言った。

 苦痛のうめきをあげ、身を折る。

 手のひらが黒くひび割れた。裂ける。そこからさらにいばらが伸び、手首に巻きついた。背後へ引きずられる。

「チェシーさんまで……巻き込む……」


 とっさにチェシーがニコルの手をつかんだ。抱き寄せる。

 肉の焦げる、異様な煙が立ちのぼった。

 足下から噴出する虚無の霧が、鋼鉄の棘をするどく伸ばしてチェシーにからみついた。食い込む。絞り上げる。

 軍衣が音を立てて裂けた。


「まったく、幻影にしては少々強引すぎやしないか、これは」

 チェシーは異形の腕でいばらの棘をへし折った。

 だが、むしり取るたび、いばらはさらに枝数を増やし、投げ渡すようにして四方へと巻きついてゆく。

 嫌な音が軋む。

 ニコルはかぶりを振った。

「チェシーさん、もう、いいから……僕から離れて……」

「断る」

 チェシーは青い異形の血と冷や汗のにじむ顔で、ふいに笑った。

「誰が離してやるものか」

 ぎらり、と魔眼が燃え揺らぐ。


 毒々しい燐光の泡が、ごぼ、と吹き上がった。

 その、闇に照らされて。

 切迫した明滅を放つ無数のルーン紋様が、ニコルの身体の内側から透かし出され、浮かび上がった。


 《与奪のギュフ》、《破壊のハガラズ》、《庇護のアルギス》、《先制のエフワズ》、《豊穣のイング》、《静寂のイーサ》、《大地のイェーラ》、《太陽のソウェル》、《故郷のオダル》、そのほか、もはやあまりにも古すぎて正常に転写できないほど無限に捺し重ねられた過去のルーンの封印が。

 聖なる呪縛が織りなす凄惨な光の鎖と鈴が。


 苦悶に身をよじり、半ばあらわになった肌を縛り上げ、ねじ伏せ、全身を拘束する薔薇十字の枷となって、磔刑たっけいのかたちに縛りつける。

 足元に、幾重にもねじくれた光の魔法円が現出した。

 虚無を飲み込んでゆく。


 ニコルの魂もろとも。


 消える。

 押しつぶされる。

 何も、聞こえなくなる。

 何かを叫ぶチェシーの声までもが消える。


 顔を上げる。

 周囲は、がらんとした虚無の深淵だった。


 誰かが呼んでいる。


 ニコルは走り出した。水の跳ねる音が足下から聞こえる。記憶がこぼれおちているのだった。水面に誰かの笑顔が映っている。だがその笑顔はすぐに踏みつけられ飛沫になって飛び散った。走るたびに思い出がふりすてられ、くつがえされ、置き去りにされる。


 あの日に戻れるなら。

 その一心でニコルは走る。


 《封殺ナウシズ》の聖女、マイヤが死んだあの日に帰って。


 《虚無ウィルド》の聖女、レイリカが、絶望のうつわを宿したあの日に帰って。


 代わりに、すべてを。


 マイヤは、いつも笑っていた。

 レディ・アーテュラスの双子の姉で、顔も声も、本当にそっくりだった。同じように笑って、同じようにしゃべって、歌うように、花のように、皆を癒した。


 少年として育てられたニコルをかくまう日々のなかで、神殿兵に追われ続けて気の休まる日など一日たりともなかったはずなのに。


 占いのカードを鮮やかな手つきで切り混ぜては、いつも言っていた。

 ほら。見てニコル。このカード。

 逆位置の《死の嵐テンペスツ・レ・ラ・モルティス》。

 いずれ道は開ける、という意味よ。

 大丈夫、自分を信じていれば、いつか必ず願いはかなう。

 あなたならできるわ。

 《虚無ウィルド》の運命から逃れられる日がきっと来る。

 私も、あなたの本当のママも、私の妹も。みんなで、ずっとあなたの幸せを祈っていてあげるから。

 だから。


 だから?


 マイヤの笑みが、一瞬にして暗黒に挽き潰された。

 足下の地面が消えた。崩れる。

 無に沈んでゆく。膝から下が消える。動けない。

 前方で闇に飲み込まれた誰かが手招いている。すべて、無かったことにすればいい。思い出など消してしまえばいい。そうすれば、何もかもが──


 気付いたとき、ニコルはまだチェシーの腕に抱かれたままだった。

「大丈夫か」

 チェシーのかすれ声が、耳朶に触れる。鎖の音がした。

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