13−3 虚無《ウィルド》の闇に堕ちる

これが、ローゼンクロイツが数千年の長きにわたって秘め隠してきた真実の闇

 弾かれたように扉が開いた。ちょうつがいが錆びた軋みを上げる。

 チェシーだ。黒地に青の長外套を片方の肩にだけ回しかけ、足音も荒く踏み込んでくる。

 その後ろに、よほど急かされてきたのだろう。外の冷たい風のにおいをまといつけた医者らしき長衣の老人と数名の女官が、息を切らして、ばらばらに追いついた。


「医者を連れてきた。ニコルの具合はどうだ」

 ぬいぐるみのような顔をして枕元に座っていた悪魔が、ガラスの眼だけをぎょろりと動かした。耳をそばだてる。

(見ての通りさ)


 ニコルはベッドに置いたクッションにもたれ、荒い息をついた。

 汗ばんだ胸元に、固く結んだ拳を引き寄せる。手の甲に黒い傷が見えた。

 思わず、鏡を見やる。

 黒くひび割れたような、落雷を受けたような跡があった。熱傷にも似た傷が、ぞわぞわと動きながら、身体の表面を這い回っている。

 息が止まる。こんなことが、現実に起こるはずがない。


 見ないで。来ないで。近づかないで。


 拒絶を口にしたはずなのに、声が、出ない。


「患者はどちらに」

 女官たちが房室へ入ってくる。ニコルに目をとめた年長の女性が、眼を押し開いた。すぐに駆け寄ってくる。

 差し伸べられた手からはハーブ液の臭いがした。


「出血斑、黒紫斑が見られますね。レイディ、まずはお熱を……」

 手を取られ、いざなわれる。触れあった指先から女官の手へと、鉄条網にも似た黒い影が伸びた。


 来ないで。


 ニコルはかぶりを振る。

 幻覚だったはずのものが、いつの間にか這い出してきて現実を侵蝕する。内部に潜み、自分自身を別のものへと作り替えてゆくもうひとりの自分が。


 笑う。


 女官の手に、鉄のいばらめいた影が乗り移った。おそろしく緩慢な動作で音もなく巻き付いてゆく。

 女官は何度か手をさすり、肩をふるわせた。ふいに声を上げ、何かに噛まれたような仕草をして振り払う。


 指に点々と赤い跡がついていた。血が滲み出す。

 その間にも、鉄のいばらは新たな芽を出し、枝分かれし、先端を振り動かしながら伸びて、壁をつたい、巻きつき、広がってゆく。


「何だ、これは」

 チェシーは、四方八方を振り仰いだ。歯を食いしばる。

「どうなってる。いったい、何が」


「何、何ですの、この音。何かいますの? 虫?」

 何も見えていないのか。刺された女官が、おびえた息を呑み込む。


 鎖を引きずるような音。

 ざらつく砂の音。

 いっそ、ただの狂気であってほしかった。幻であってほしかった。

 だが、もう、気づいてしまった。

 まぎれもない現実だということに。

 きっと、何かが、どこかで、ひどく食い違ってしまったに違いなかった。


 ずるり、と。意識の下から這いずり出てくる感覚。


 歯ぎしりにも似たうめき。もだえ、はいずりまわる、怨みがましい激痛。かたちあるものへの怨恨が。


 いつか見た燃えさかる絶望の記憶が、身体の中で蠢いている。

 宿してはならない罪が、心の中にしかなかったものが、人であって人ではないものに。

 幻覚が、現実に。

 偽りの光が、真実の闇に。


 実体を得て。

 すり替わる。


 悲鳴が灯火を切り裂いた。

 縛っていた理性の鎖がはじける。教義という名の鳥籠が、割れる。突き破られる。

 黒い鉄のいばらが、無数に増殖する影となった。壁を伝い走る。またたく間に狂気の触手で覆いつくす。


 治療道具がなぎ倒された。けたたましい金属音が散乱する。

 逃げそこねた女官が、のたうつルーンの闇に捕まった。引きずり倒される。

 一瞬で全身に巻きつく。鉄のつるばらが、一斉に花ひらいた。内部に人の姿はもう、ない。


 他の女官たちは恐慌に陥った。目の当たりにした惨劇に悲鳴を上げ、逃げまどい、医師や同僚たちを突き飛ばして。我先に明かりもない螺旋階段を駆け降りてゆく。


 その絶叫を、うねり狂う闇が追った。

 ガラスの割れ散らばる音が続けざまに鳴り響いた。鈍い致命的な叫びが断続的にこだまする。


 チェシーだけが、無傷でその場に立ちつくしていた。外套が、疾風に猛々しくなびく。

 代わりに、悪魔が羽をぱたぱた言わせて、興味なさげに階下の闇をのぞき込んだ。


(これが、ローゼンクロイツが数千年の長きにわたって秘め隠してきた真実の闇だよ)


 ニコルは耳をふさいだ。

 耳の奥で悲鳴が繰り返されていた。

 砕ける音。

 割れる音。

 次々に責め立てる、声。声。声。


 青ざめた顔のチェシーが呆然と悪魔を振り返る。

「どういうことだ」


「僕のせいだ」

 ニコルはうずくまったまま泣き笑った。前髪が、昂ぶる狂気にほつれ、振り乱れた。顔をおおいかくす。


 窓の外から悲鳴が聞こえた。続いて銃声。剣を叩きつける金属音。また、悲鳴。扉を突き破る音がした。

 怒鳴り声が伝わった。足音が駆け上がってくる。


「違う。君じゃない。何かの間違いだ……誰かが、間違って、別の悪魔を召喚した」

 チェシーは、部屋中を縦横に走る黒いひび割れをにらみつけた。


 ニコルは、ふいに呻きをあげて腕を押さえた。

 手のひらに、指先に、今まで存在していなかった真っ赤な水が滲み出している。


 痛い。


 幻覚の火が赤黒く腕を伝い、ぼたぼたと音を立ててこぼれ落ちた。

 涙混じりの息を呑む。


 怖い。


 あふれ出る水は、やがてどす黒い虚無となって花開いた。黒い鉄の薔薇が、枝を伸ばし、芽をつけ、咲きみだれ、種を結び、無限にはびこってゆく。


(すべてのルーンは、ウロボロスの輪の中にある。虚無の闇を封じるために具現化した祈りの結晶を、闇が食む。光が呑む。互いに喰らい続ける終わりのない連環のさだめ)

(ひとつでも喪われれば)

(聖なる拘束は、その力を失う)


(まつろわぬ《虚無ウィルド》は、ルーンの力すべてを合わせてもなお勝る。だからこそ、)


 ぬいぐるみの悪魔が、喜悦と絶望の入り混じった笑い声を上げた。

は、を、欲したのさ)

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