不肖アンシュベル、お恥ずかしい格好ながら師団長を取り戻しに行ってきまぁーっす!

 兵を呼び集める声にくわえ、犬のけたたましい吠え声が追いかけてくる。

「くそ、犬はヤベェな。ま、このまま生ぬるく見逃してもらえるとも思ってなかったが」

 ぐしゃぐしゃと茶色の髪を掻き回し、引きつった表情で四方を見渡す。

「はっ、キツネ狩りの獲物にでもなった気分だ」

 猟犬をまくには、姿を消すだけでは足りない。風下に逃れるか、川を渡るか、あるいは空でも飛んで足跡を完全に消し去ってしまうかのどれか。

 となれば。

「逃げ足にかけちゃあ、ティセニアで堂々二位を誇るこの俺に不可能はない。とにかく、面倒からはおさらばだ。逃げるぞ」

「はいですっ!」

 遮蔽物を探して、茂みから茂みへと突っ走る。

「いたぞ。あそこだ」

 追い立てるわめき声が、みるみる背後に迫ってくる。

「追いつかれちゃうですっ」

 アンシュベルが息を切らしながら叫ぶ。アンドレーエはアンシュベルの手を引いて木の柵を飛び越えた。塹壕掘りの工兵に踏みしだかれた砂利道の向こうに見えるレンガ色の屋根を目指し、ひたすら走る。


 無理をして走るたびに、痛めた足の骨がまるで削られたように痛んだ。

 細く蛇行して流れる小川が、きらりと陽の光に反射した。レンガ色の瓦屋根は水車小屋。川の対岸は、どこまでも広がる草原と荒野、そして森。


「橋がないですーーっ!」

 アンシュベルが悲鳴とも笑い声ともつかぬ奇声を上げる。

「濡れるぞ、気をつけろ」

 アンドレーエは吠えるように短く笑った。

 アンシュベルをじゃがいも袋か何かのように頭から担ぎ上げ、小川へと身を躍らせる。

 スカートが裏返しにめくれあがった。

「きゃああああああおはずかしいですうう……!」

「静かにしろって」

 きらめく水しぶきをまき散らしながら、水辺の葦原を走り抜ける。越冬の水鳥が、進軍ラッパのように鳴き交わして羽ばたき舞い上がった。騒然となる。


 騒ぎを聞きつけたティセニア軍の工兵たちや村の男たちが、何ごとかと振り返った。

 その目の前を、アンドレーエはつむじ風となって駆け抜ける。


「よっ、御苦労さん! あとは頼むぜ!」

 しましま靴下の足をばたつかせるアンシュベルを肩に担ぎ、吹っ切れたように笑いながら。

 すれ違いざまに略式の敬礼を放り投げる。

「おおおおおぱんつ見えちゃってるですう!」

 思い切り逆さまに裏返ったエプロンドレス。ふりふりのペチコート。いちごのアップリケ付き純白かぼちゃぱんつ。手にはしっかり、おやつの籐かご。


 神殿騎士が川辺に現れた。川を渡れずに右往左往しながら、村の男たちに向かって頭ごなしに怒鳴りつける。

「脱走者どもを追え!」

 杖を振りかざし、喚き散らす。だが、誰一人として動こうともしなかった。

「追えと言っているだろう!」

 地団駄を踏む神殿騎士に対して、工兵たちはわざとらしく肩を竦めて見せる。それどころか、わざと斧を振り下ろして迂回路の丸木橋を落とし始める始末。


「行け!」

「負けんなよ!」

「元気でな!」

「がんばれよ!」

 アンシュベルへ向けた兵士たちの声は、希望と応援の喝采だった。皆が、こぶしを突き上げ、シャベルを振り上げ、勝どきにも似た笑い声を上げている。


 ノーラスから逃れてきた兵たちに、アンシュベルとその運命の不条理を知らぬ者などいようはずもない。

 あるじであるアーテュラスに最後まで忠誠を尽くそうとするいじらしさを、最前線で戦いもせぬくせに、傲慢にいばり散らす神殿騎士ごときに汚されたくない。

 おそらく、全員が同じ気持ちであったろう。


「はーーい! 不肖アンシュベル、お恥ずかしい格好ながら師団長を取り戻しに行ってきまぁーっす! みなさん、お元気でーーっ! ヒルデさんによろしくお伝えくださいですーっ! あとそれからちっちゃなレイディにもーーっ! それからエッシェンバッハさんと、あともし副司令が戻ってきたら副司令にもーーっ!」

「その辺にしとけよ……縁起でもない……」

 アンシュベルは、アンドレーエに担がれたまま、ザフエル印のハンカチを振り続けた。笑顔に涙がキラリと浮かんだ。


「さてと」

 村を脱出したのち。

 アンドレーエとアンシュベルの二人は、身を隠す木陰に並んで座り込んでいた。

 小川で顔を洗ったり、手を洗ったり。

 遣る方無くためいきをつく他には、とりあえず何もすることがない。

 ぼんやりと青空を見上げる。

 アンドレーエは、痛めた足首を何気なくさすった。

「この後どうするかな」

「そうですねえ」

 言葉が続かない。


 何の考えもなしに飛び出してきたのだから、まずは方針を決めなければならない。だが、妙に気分が疲れて、ろくに何も思いつかなかった。


「アンドレさん、足のほうは? 痛くないです?」

 アンドレーエの仕草に気づいて、アンシュベルはほっそりした眉をひそめる。

「ああ、どうってことねぇよ。本当は杖なんてもういらねえんだ。看護班のビジロッテが『自分の眉毛がまだ片方残っているうちはどうしても使っていただきます!』とかいうから、仕方なく使ってただけでよ」

「ビジロッテさんの眉毛、いつもこげてますもんね……無理させてしまってごめんなさいです」

「だから気にすんなって」

 半分は強がり、半分は本音でかぶりを振る。

「それより、少し休んだら出発しよう。とりあえず寝床だけは確保しとかねえとな」

 アンドレーエ自身は、枯れ草にくるまって寝ようが木の股に寝ようが平気だが、女連れの旅にそんな落人おちうどまがいの真似はさせられない。

「はいです!」

 元気よく返事はしたものの。

 よほど疲れているのか、アンシュベルは立ち上がらなかった。

 おやつのかごを胸に抱えたまま、座り込んでいる。


 アンドレーエは、眼の前で揺れる野の草をちぎった。くるりと指先で回しあそばせたあと、ぴんと弾いて放り投げる。葉っぱは小川の水面に落ち、水草に引っかかることもなくそのまま流されて、どこかへ行ってしまった。

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