虚無《ウィルド》の聖女
「臣下たる身が、偉大なる皇帝陛下のために尽くすは当然の努め。帝国軍人として何の労を厭うことがありましょう」
「まずは、そなたを皇位に連なるものとして復権し、新たなる準正名を与えることから始めねばなりませんね。サリスヴァールなどという、かりそめの名ではなく、我が一族の名を」
アリアンロッドは楽しげに言い、いそいそとした仕草で左右を見回した。
「秘書を呼びましょう。書記させねばなりません。そうですね、まずは」
部屋の奥に張り渡された緞帳の向こう側から、かすかな音が聞こえた。チェシーは眼を底光らせた。
顔を伏せたまま押し殺した声でつぶやく。
「陛下。我が望みは、偉大なる皇統の末席に列するにあらず。恥ずかしながらこの通り、悪魔ごときの制御もままならぬ身に成り果てておりますゆえ、いったん野に下り、魔境ノーラスを我が
ニコルは、愕然とチェシーを見やった。
アリアンロッドもまた、驚きに眼を押し開く。
「何を言うのです。あのような不浄の地を」
「陛下は、ノーラスを喉元の楔とおっしゃいました。ならば、かの地を護ることこそ、帝国を護るに他ならず」
「そなたに、帝国の継承位を与えるつもりでおりましたのに」
「一縷たりとも望みませぬ」
アリアンロッドは、衣擦れの音も不穏に一歩後ずさった。きらめく青い瞳が曇る。
女帝は、ふらつきをおさえ、玉座へと戻った。腰を下ろし、息を吐く。
「なぜです」
「異形に堕ちた我が身には過ぎたる望みと心得ます」
「しかし」
チェシーは低くさえぎった。
「もはや我が身は魔の同類なれば、陛下の御威光にも関わるかと」
アリアンロッドは、苛立たしく扇を振った。傍らの卓から
瞳に、険しい色が浮かんだ。
「聖女よ、そなたの企みか」
視線がニコルをとらえる。
ニコルは何と答えたものかためらった。わずかに身構える。
だが、すぐに思い直した。
唇を噛みしめ、背筋を凛と伸ばす。
心の中で、何度も繰り返す。
我が名はニコル・ディス・アーテュラス。公国最強の闇属性使いにして元帥。
「違います。僕は聖女じゃない。ティセニア公国元帥ニコル・ティス・アーテュラス。第五師団長にして北方面軍司令官です」
真っ直ぐに女帝の、チェシーの母親の視線を跳ね返す。
たおやかなドレス姿にそぐわぬ捕虜の矜持に驚いたか。
女帝は一瞬、気後れした表情を浮かべた。
「何と僭称しようと現実は変わらぬ。そなたは聖女だ。瞳を見ればわかる」
女帝の声色が少しずつ変わってゆく。
「そなたを奪い返す、という大義名分のためならば、ティセニアは何十万もの兵を失おうと気に掛けもすまい。迎え撃つも良いが、たかだかそなた一人のために国を荒らされる妄挙を許すわけにもゆかぬ。だが、何故だ。そなたはティセニアにおいては、異端とされる血を引くのであろう」
女帝の視線が刺さる。
ニコルは表情をかたくした。
「たった一人の背教者を処刑するために、大軍を動かすなど。我が軍にそのような愚将はおりません」
思ったままを口にする。
チェシーが、わずかにみじろぎした。
「だからこそ問うておる」
アリアンロッドは言外の意味を取りちがえたようだった。
扇を揺らし、つぶやく。
「聖なるは理解し難きゆえに触れがたく、御しがたく、故に疎むべき穢れとなり、禁忌へと貶められる。真の禁忌なくば、うつしみごとき如何様にもできたはず。名を偽り、異端を装ってまで、真の名を消したのは訳があろう。言うてみよ」
「それは」
言いかけて、よどむ。
チェシーの背中が目に入った。
アリアンロッドは、油断ならぬ眼差しをニコルへと向けた。
「知らせねば分からぬ。言わねば永遠に分かり合えぬぞ。そなたの身は捕虜であると同時に我が帝国の庇護下にある。おそらくティセニアは、確たる信念、確たる正義をもって、聖女なるものの聖性を欲しているのではないのだろう。ルーンの血を宿す形代、妙なる血筋を注ぎ分けるうつわを求めての劣情であれば、それは、もはや神ではなく自らの座への狂信に過ぎぬ。己が何者かを悟らせぬまま、その身に宿した聖なる杯で、自らの国を、民に争いをもたらせば。返す呪詛はすべて己が身に降りかかるのだぞ、聖女よ」
ニコルは黙り込んだ。
いたずらに時が過ぎてゆく。
払暁の鐘が聞こえた。
天窓から、白く降る砂のような光が射し込める。足元に十字の影が落ちた。
ニコルは、顔をあげた。薔薇の瞳に決意が満ちる。
「僕の本当の母は」
唇を湿らせる。唾を飲み込んだ。喉がごくりと鳴る。
「《
「何と」
アリアンロッドは、驚きに眼を瞠った。
チェシーが、弾かれたように顔を上げる。
「待て。どういうことだ、それは。《
「黙ってろ、裏切り者。恐れ多くも陛下のお尋ねだからこそ、真実を申し上げてる。貴様には関係ない」
ニコルは冷ややかにさえぎった。見下げた笑みをチェシーへと向ける。振り返ったチェシーのこわばった表情が、ひどく可笑しかった。
嘲笑で追い討ちする。
「いいや、ちょうどいい。覚えてますか、チェシーさん。僕がツアゼルで怪我した時のこと」
チェシーは怖気付いた顔をした。唇をゆがめる。
「肩を……階段から落ちたと」
「いくら僕が馬鹿でも、そんなに毎度毎度、階段からころげ落ちてばっかりいるわけないでしょう」
そっけなく続ける。
「あのときには、もう、ザフエルさんには知られてたはずだ。でも、黙っててくれた。見過ごせばザフエルさん自身が罪に問われるにもかかわらずだ。この街に連れてこられるまで、ずっと、考えてた。どうして、あのひとは、僕や母さまだけでなく、実の子のザフエルさんまで、あんなに憎んでいたんだろうって。ザフエルさんの胸の傷、見たことがあるでしょう。どんなに考えても考えても、ずっと、分からなかった。分からなかったけど」
ニコルは、ふいに声をあげて笑った。
「今の、陛下のお言葉で、やっと分かりました」
なぜ、もっと早く気付かなかったのだろう。
ザフエルの母が言った呪わしい言葉の真意に。
ザフエルの態度に。
ずっと、背教者であることが罪なのだと思っていた。
教えを棄てて逃げた聖女の血を引くこと自体が許されぬことなのだと。
だが、そうではない。
《
聖性を構築する真理が内包する最大の矛盾にして罪の予兆。
光にして闇。闇にして光。
無垢なる憎悪そのもの。
だから、終わらせようとしたのだ。
ニコルは唇を引き結んだ。
「僕を、ティセニアへ帰してください」
アリアンロッドはかぶりを振った。
「それはならぬ」
「ならば永遠の慈悲を賜りますよう」
女帝は扇で掌を打ち叩いた。甲高い音が響き渡る。
「それもならぬ! そなたの奉ずる教えが、そなたの死を望んでいるというのにか」
女帝は椅子の手すりを揉んだ。身を乗り出す。
ニコルは身体をわずかに震わせた。うつむく。
「……それでも、帰りたいんです。僕を信じてくれるひとのために」
女帝は明らかに動揺してチェシーを見やった。
チェシーはこわばった表情のまま動かない。
「分かった」
女帝は、おもむろに立ち上がった。まといつける雰囲気が粛として強まる。
「これより叙爵いたす」
荘厳な声。チェシーは顔を上げた。アリアンロッドが手を差し伸べる。
チェシーは女帝の手を取った。指先にくちづける。
アリアンロッドは儀礼通り、両の手でチェシーの手を押し包んだ。
「ゾディアック皇帝アリアンロッドの名において、チェシー・エルドレイ・サリスヴァール・ゾディアック。そなたを、ノーラス辺境の公に
「寛容なる御処置、幸甚に存じます」
チェシーの手の中に、ゾディアック皇帝の紋章を浮き彫りにした漆黒の指輪が下賜される。
やがて露払いの従僕と女官が現れ、女帝をいざなって去った。
音のない部屋に、チェシーと二人きりで取り残される。
チェシーは一言も発しなかった。
ニコルはただうつむくだけ。
開け放たれたままの扉が、牢獄へと繋がる闇をのぞかせている。
ひどくいたたまれない空気だけが漂った。
ようやく。
チェシーは立ち上がった。身振りでついてくるよう命じ、歩き出す。
宮殿の中を、通り抜けてゆく。
軍靴の音が固く響いた。
数限りない扉が並んでいた。角を曲がれば、窓のない、日の届かない魔宮の闇が広がる。
視線の定かではない魁偉な肖像画。潜み隠れる何者かの息苦しい気配。
剣を思わせる深緑の観葉植物が、奇妙にゆらゆら揺れる影を落としている。
それはまるで、つい今し方まで物陰にうずくまって聞き耳を立てていた密偵が潜んでいたかのようだった。
【第十二話 チェシー・エルドレイ・サリスヴァール、戦火に消ゆ 終】
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