最終話 さらば男装メガネっ子元帥、花嫁強奪!とか聞いてないんですけどっ!?
ザフエル、我が
澄み切った南国の青空。小鳥が楽しげに鳴き交わし、じゃれ飛んでゆく。
ローゼンクロイツ総本山、聖ワルデ・カラア大聖堂。
門前には、幽玄の森が広がる。
赤、白、淡紅色、紫、青、黄色。
色も形もとりどりな薔薇が、こぼれんばかりに甘く咲き揺らめく庭の小径を抜け、ルーンのきらめくがごとき聖女の噴水像を見上げ。
何処へ連なるとも知れぬ瀟洒な柱廊を、黒の
放し飼いの子鹿が、短い尻尾を白く振った。いたずらに木の芽をかじってはかろやかに跳ねて。
幻のように消える。
木陰の下に、白を基調にしたちいさな礼拝堂が見えた。十六角の屋根を持つ、古びた建物である。
ザフエル・グラーフ・フォン・ホーラダインは、硬い踵の音を立てて、数段のきざはしを上った。
礼拝堂の前で立ち止まる。
流麗な彫刻を彫り込んだ正面のアーチ。剣と薔薇の交差する聖ローゼンの紋章。
小さいながらも建物全体を支える飛梁の装飾。
居住まいを正す。
柱廊の左右に、蔦の浮き彫りを施したエンタシスの柱が立ち並んでいた。
歩き続ける。
どこからあらわれたものか。足下に黒い猫がまとわりついた。甘えた声で鳴いて、身をくねらせる。
ザフエルは猫を無視した。
開け放たれた礼拝堂へと歩み入る。扉の左右には、翼ある天使の彫像が彫り込まれていた。
無表情のまま、堂内を見回す。
壁面には、官能的な表情を浮かべ、薔薇を手にした聖女の像。向かい側には、騎士の装いをした天使の像が浮き彫られている。
天井を仰げば、白地に金の装飾をほどこした豪奢な天井のモザイクと薔薇窓のステンドグラス。
紅白の旗布が、ゆらゆらとはためく。
あわく染まった陽の光が差し込んでいた。明るい。
「よく来たね、ザフエル」
気安い男の声がする。
ザフエルはゆっくりと、完璧な貴族の所作でひざまずいた。
頭を垂れ、胸に手を当て。
祝福の言葉を申し述べる。
「第十七代ローゼンクランツ総主教聖下と、聖ローゼンに永遠の栄光あれ」
「同志ザフエルに、更なる覚醒と祝福の有らんことを」
男が指に嵌めた《
指先で、軽く空中をはじく。
聖女像の真下には作りつけの本棚がいくつもあり、貴重な古い神学書が収められている。
男は、それらのうちの一冊を手にし、立ち上がった。
薔薇の瞳。
至高の位に就いて以来、一度もはさみを入れられたことのない、長い、まっすぐに腰までこぼれおちる銀の髪。
つめたい微笑を絶やさぬ怜悧な面持ち。
白の法服。鬱金に縁取られた深紅のベルベットのストール。
「堅苦しい挨拶はいいから、ここに座りなさい。此度の戦では、ずいぶんひどい怪我をしたのだってね。ずいぶんと辛そうな顔をしているじゃないか」
空恐ろしいほど、顔立ちも、雰囲気も──ザフエルに似ている。他人を隔て、あるいは蔑む雰囲気を心底に押し隠した男が、心にもない労りの言葉で天鵞絨の椅子を勧める。
ザフエルは乾いた面持ちで見返した。
「お召しにより参上仕りました」
「久しぶりに逢えたというのに。何ともはや、他人行儀な」
ローゼンクランツは静かに笑っている。
「で、怪我の具合はどうかな」
「大事ございませぬ」
「無理をしてはいけないよ」
上澄みのような声が、頭上を通り抜けてゆく。
「勿体ないお言葉、恐縮に存じます」
ザフエルは顔すら上げなかった。
ローゼンクランツは、媚びるように鳴く黒猫へと手を伸ばした。
「後で良い法薬を届けさせよう。ところで、ザフエル」
撫でられようとして猫は身を寄せる。
じゃれるに任せつつ、ふと、首輪に指先をかけて。
男はつぶやいた。
「鳥籠の鳥を逃したそうだね」
突然、猫は悲痛な呻き声をあげてのたうった。首輪と喉の間に残忍な指が食い込んでいる。
縊り殺す寸前、ローゼンクランツは猫をゴミ袋のように投げ捨てた。
あるじの寵を失ったと知って這々の体で逃げてゆく黒猫を、ローゼンクランツは変わらぬ微笑で平然と見送っている。
ザフエルは、唇を引き結んだ。
「覚悟はできております」
「如何なる覚悟だ」
ローゼンクランツは薔薇の眼をほそめた。
「純血を絶やさぬことが、ハガラズの後継たるものの唯一にして無二の務め。その務めを徒や疎かにして、聖なる証を立てることなど決して能わぬぞ」
ザフエルは顔を伏せたまま表情を変えない。
その様子に気付いたのか、ローゼンクランツは声を上げて笑った。緋表紙の書を閉じ、傍らの小机に置く。
指先が、ルーンの力をたたえた光の印を描き出した。
「我等、人の子にゆるされるのは、聖女の天啓が伝える神の言葉を信じることだけだ。福音とは神々の叡智そのものである。信仰に身命を捧げ、ただひたすらにルーンの奇跡にすがり、祈りなさい。されば、罪はすべて
翳りのある微笑みが、ローゼンクランツの口元を暗くいろどった。
「誓いなさい。神の御前に己が身の潔白と忠誠を。《
しずかな、抑揚のない声が。
頭に宿る疑念を、洗い流す。
導きの光が、いざなう。
白い指先が呪を空書し、ザフエルの額を指し示した。光の花びらが額に散る。
「《
ザフエルの眼に、あやうく熔け落ちる光が白く、狂おしく映り込んだ。
薔薇の花びらに似た光が、しん、と音もなく。
降りしきる。
「穢れ無きルーンにのみ、仕えるさだめを。今こそ」
ザフエルは、何の感情も交えず、ただ同じ言葉だけを淡々と繰り返す。
ローゼンクランツは、手を引き戻した。
柔和に微笑む。
「ルーンの純血を伝える子らに、更なる叡智の覚醒があらんことを。期待しているよ、ザフエル。我が息子よ」
天の薔薇窓から、蒼い光が差し込む。
切っ先の如く引き延ばされた聖十字の光矢が、ザフエルを照らし出した。
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