鍋に叩き込むよ、ヨハン
敵騎兵師団の押し立てる漆黒の旗が、鯨波となって打ち寄せていた。
銃声が頭上を飛び交う。
跳弾に砕けた瓦礫と砂塵が降る。
アンドレーエは輪にした指をくわえた。崩壊した壁に貼り付き、空を見上げ、甲高く指笛を吹き鳴らす。
退避を命じる指笛の合図。
「第二師団と第五師団は、俺の責任で全員退避させる。おっさん、聞いてんのか。退け!」
「分かった」
火線と煙の交差するなか、エッシェンバッハは無造作に立ちつくした。銀の盾を携えた姿勢のまま、振り向く。
ルーンの結界が、千々に色合いを変えた。
「チュチュを頼む」
「ふざけんな」
アンドレーエは、エッシェンバッハの元へと駆け戻った。
「何度言えば分かるんだ、このガチガチの石頭野郎。てめえの娘ぐらいてめえで護りやが……」
「俺以外の誰が、全員脱出する猶予を稼げるというのだ」
絶句した。
ゾディアック帝国軍の黒旗が、城内へとなだれ込もうとしていた。敷設した地雷が爆発し、通路に掘られた落とし穴に馬が落ちる。それでも、進軍は止まらない。
アンドレーエは鼻をゆがめた。
ひきつった笑いが浮かぶ。
「カッコつけてんじゃねえよ」
「無理して笑わずとも良い。素直に泣けばよかろう」
「おっさんのくせに、ひねたこと言ってんじゃねえよ」
アンドレーエは、はしばみ色の眼をぎらりと猛々しく光らせた。
「逃げるにしろ守るにしろ、娘に一言ガツンと言っとけ。さもないと、ここまであのチビを連れてくるぞ。いいのか」
強引に腕を掴み、引きずる。
「それはいかん」
「だったら、一旦下がれ。上からくる敵ならともかく、下からくる敵は急がねえ。ありったけの地雷に、毒煙、落とし穴、剃刀鉄線に鉄条網を、ノーラス周辺一帯に仕掛けておいたからな、魔物どもはともかく、人間はそうやすやすとは近づいてこれねえ」
その辺にいる兵を捕まえ、全員に撤退を知らせるよう命じる。
アンドレーエは、エッシェンバッハを強引に連れて、裏門へと向かった。
搦め手の門は、脱出しようとする兵であふれていた。
エッシェンバッハ配下の参謀、ファンデル大尉が、その巨躯で睨みを利かせながら全員を順に後方へと送り出している。
アンドレーエは、兵に揉みくちゃにされながらも、四方を見渡した。
裏庭へと通じる生垣の鉄門が開いている。
庭は、荒れ放題だった。
つる状に這い回る謎の枯れ草が、畑を覆い尽くしている。かろうじて見える野菜らしきものは、とっくに立ち枯れていた。
井戸の横に、掘っ立て小屋が建っている。
扉の前の堆肥に、掘り崩した跡がある。小屋の戸が、ほんの少しだけ開いていた。
駆け寄って怒鳴る。
「チュチュは無事か、ってうわあっ熊が出たっ!」
薄暗い小屋の奥で、何かがギラリと光った。
巨体がぬうっと身を起こす。
直後。
銀の二丁お玉が、交錯する軌跡を描いて飛来した。
「……ぐふっ!」
かろうじて一発だけは避けたものの、二発目は避けきれない。直撃。鼻を押さえてのけぞる。
「ほう、よく避けられたね。次は三枚おろしだよ……」
巨大な肉切り包丁を、火花が出るほど互いに打ち合わせながら、バンダナに前掛け姿の巨体がのっそりと現れた。
その後ろに隠れていたアンシュベルが、驚愕の面持ちで眼を見開く。
「うそ、ヒルデさんのお玉を避けたっ!」
「伊達に長年、食らい続けてねえよ」
アンドレーエは、よろよろしながら鼻を押さえた。手を挙げる。
「良かった、食堂のおば……軍曹と一緒だったのか」
「いつから、このあたしに生意気な口を聞けるようになったんだい? 鍋に叩き込むよ、ヨハン」
かつて、チェシーとザフエルの二人すら床に沈めた、最強の二丁お玉使い。
ヒルデブルク軍曹は、緊迫の笑いを浮かべた。
「チュチュはどこだ」
太陽を背にしたエッシェンバッハが、逆光の位置で立った。チュチュの手を引いて出ようとしたアンシュベルを、あわててヒルデ軍曹が引き戻す。
「あんたは下がってな!」
「ととさま!」
チュチュは、堆肥の敷き藁がほっぺたにくっついたまま、エッシェンバッハの胸に飛び込んだ。
みるみる、その眼に、大粒の涙が盛り上がる。
「俺は、皆を護らねばならん。分かるな、チュチュ」
エッシェンバッハは一瞬、万感の愛情を込めて、娘の額に唇を寄せた。
強く抱きしめ、前髪にくっついたゴミを取ってやり、頬ずりしてから、ひどくのろのろと地面に下ろす。
「ヒルデ軍曹と、あと誰やらよう分からんが、そこに誰かもう一人下働きの者がいるようだから、その者たちの言葉をよく聞いて、守ってもらえ。決して皆に迷惑をかけるな。良いな」
別れ難いふうに、小さな手に自分の指を握らせて。
エッシェンバッハは、声を押し殺した。それだけを言う。
ちっちゃなレイディは、エッシェンバッハから一歩離れてスカートをつまんだ。涙を拭き、にっこり笑って優雅に会釈する。
「チュチュはよいこにしています。おまかせくださいませ、ととさま」
「ああ、良い子だ」
エッシェンバッハは、眼光するどくヒルデブルグ軍曹を見やった。
「娘を頼む、軍曹。あと誰やら分からんそこの者も」
「はいですっ!」
「あんたは下がってな」
ヒルデブルク軍曹は、軽々とチュチュを抱き上げた。
袈裟懸けに吊り直した前掛けのポケットに、すっぽりとちいさな身体を包み込んでくくり付ける。
「よし、これでいいだろ」
「師団長」
ユーゴが、転がるように裏庭へと飛び込んできた。迷彩服が、泥と煤と血にまみれている。
「また、空飛ぶ悪魔どもが……」
つんのめりつつ叫んだ。
悪魔の呼び声が聞こえてくる。
アンドレーエは、上空を振り仰いだ。
銀の悪魔が数匹、城砦のはるか上空を、大きな弧を描いて飛び回っている。
りゅうりゅうと響き渡る笛めいた鳴き声。まるで、何かを探しているかのようだった。
互いに呼び交わしている。
「み、見つかっ……ちゃったです……?」
アンシュベルが絶句する。
チュチュは、ぶるぶる震えながらも、ヒルデブルク軍曹の胸に顔をうずめた。そのちいさな身体を、ヒルデ軍曹は太い腕でしっかりと抱きしめる。
一匹が、羽ばたきを止めた。
けたたましい笑い声がつんざく。
風切り音が巻き起こった。
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