黒、黒、黒

 アンドレーエは、意味不明の叫びを喚き散らした。

《静寂のイーサ》を前方へ突きかざし、瞬時に薄緑の結界を張り巡らせる。

 爆風が襲いかかった。

「無理です無理無理もう無理です無理っ!」

 アンシュベルは、チュチュをかたく抱きしめた。全身で幼い身体を庇う。その頭上に、火花散る結界のかけらがこぼれ落ちた。

「クソったれが!」

 ルーンの結界だけでは、爆風の圧力に耐えきれない。続けざまに何枚も張り重ねる。

 だが張るたびに一瞬で溶け、めくれあがり、霧となって蒸発してゆく。

 爆炎が晴れた。苦い煙が吹き流れる。

 アンドレーエは、隙を見てアンシュベルの肩を掴んだ。引きずり起こす。

「裏手に、井戸やら畑やら堆肥を積み重ねてる小屋とかがあっただろう。あの奥に隠れてろ。後で、必ず迎えに行ってやる。それまでおチビを守ってやれ。それから」

 アンドレーエは、自嘲じみた笑いを放った。

「他の聖騎士連中にだけは、絶対に見つかるんじゃねえぞ。ホーラダインにも、エッシェンバッハにも、ユーゴにもだ。この爆撃が止んだら、俺からヒルデのおばさんに頼んで、ノーラスを脱出できるよう計らってやる。だから、絶対に、他のやつらには助けを求めるな。下手したら本気で殺されるぞ」

「アンドレさん……」

「俺は、お前なんか影も形も見てねえからな! 行けッ!」

 アンドレーエは、アンシュベルに《静寂イーサ》の効果を、そのまま突き飛ばした。

 アンシュベルの姿が揺らめいて消える。

 見送る間もなく。

 銀色の悪魔が、次々と突入、落下。一直線に突っ込んで来た。

 主城の屋根が砕け散った。

 尖塔が崩れる。

 凄まじい音響が、瓦礫となって跳ね転がった。回廊を粉々に粉砕し、崩落。

「こんなところで終わらせねえ、ってか? 笑かすな。あいつがいねえノーラスはもう、死んだも同然なんだよ!」

 アンドレーエは、半ば自暴自棄の笑いを浮かべる。

 ティセニアの旗が、一瞬で消し炭になるのが見えた。


 門衛塔が倒壊している。

 魔物の海嘯が、突堤を乗り越えた。散乱する瓦礫を踏みにじり、砲塔から兵士を投げ落とし、ノーラスへとなだれ込んでくる。

 燃える滝と化した火が、半分に折れた塔の亀裂からあふれ落ちていた。

 こんなものは、もはや戦闘とは言えない。誰も応戦できない。空から一方的に攻撃され、逃げまどい、火だるまになって倒れ伏す。

 また、壁が剥がれ落ち、砕け散った。粉塵まじりの黒煙が立ちのぼる。

 アンドレーエは、転がる死体から目をそむけて走った。時にナイフをふるい、時に鞭を振るって敵を切り刻み、最前線へと突き進む。

 煙の彼方に、聖なる閃光が瞬いた。白銀の壁が空へとそびえ立つ。

 《絶対の盾アブソルータ・スクトゥム》。

 エッシェンバッハだ。

 絶対の防衛線に跳ね返された悪魔どもが、空中で爆発した。燃えかすが墜落してくる。

「おっさん、生きてるか!」

 アンドレーエは、エッシェンバッハと背中合わせに飛び込んだ。

 銀の盾が空中に浮かび上がり、回転していた。頭上から、剣戟の音が降り注ぐ。

「おっさんではない」

 エッシェンバッハは苦々しく応じた。

 アンドレーエは、袖口で鼻をこすり上げた。獰猛に笑う。

「聞きたいことがあったら答えるが? ちなみにチュチュなら無事だ」

「ならば問題ない」

 エッシェンバッハはふいと視線をそらした。はるか北の空と暗黒の森を睨みつける。

 いつもの色眼鏡は、もう、とうに片方が割れていた。目の奥の激しすぎる火が、隠しきれずにらんらんと燃えている。

「それでいいのか!」

 魔物が這いずり寄ってきた。牙を剥き出し、食らいついてくる。

 アンドレーエは、中空に振り上げた鞭を甲高く打ち鳴らした。振り下ろす。迫り来る魔物の首に、鞭の先が巻きついた。

 返す手で空高く引きずり上げ、真っ二つに両断。

 魔物の残骸は、黒い粒となって霧散した。

「俺ら二人はともかく、他の連中はどうなる」

「分かっている」

 衝撃音が、轟き渡った。

 激しい揺れが地面を突き上げる。

 赤黒い閃光が空を染めた。瓦礫を含んだ爆風が吹きなぶる。

 膨れあがる巨大な煙が、視界を完全に奪った。

「ノーラスは、もう駄目だ」

 腕で眼を庇いつつ、アンドレーエは怒鳴った。

 煙の向こう側で、白亜の居館が、残酷な炎に呑まれるのが見えた。崩れ落ちてゆく。

「聞こえたのか! ノーラスは! もう!」

「分かっている」

「馬鹿か、てめえ!」

 アンドレーエは、埒のあかないエッシェンバッハを説得するのはあきらめた。頭から罵倒する。

「俺は逃げるぞ。城なんか捨てちまえ! 逃げなきゃ、全員が無駄死にだ! あんたも死ぬ! チュチュも死ぬんだ! こんな山城いっちょを護ったところで何になる! 城なんかより先に、生きてる人間を守れよ!」

「敵襲! 敵襲ッ!」

 伝令の触れ回る叫びが、絶望のなか、途切れる。

 鬨の声が吹き上がってくる。

 山津波のようだった。

 この、声は。

 アンドレーエは、ゆがんだ笑みをぎごちなく背後へと向けた。

 燃える森を、見はるかす。

 林立する無数の軍旗が、目に飛び込んだ。

 黒に紺青の、獅子の旗。

 黒と赤の、山羊の旗。

 赤に黒の、蠍の旗。

 夥しい敵の軍勢が、視界を埋め尽くしている。

 炎と、轟音と、降りしきる瓦礫の崩落音。それに加え、地面を揺るがす軍馬の蹄の音が、迫る。敵の進軍ラッパが、ここまで聞こえてくるかのようだった。

 もはや要塞砲は破壊されて動かず、稜堡の十字砲火も、射手を失っては防衛の用を為さぬ。

 敵軍の先頭、漆黒に身を包んだ重騎兵軍団が、城砦前の突堤を駆け上ってくる。

 黒。黒。黒。どこまでも連なるそれは、さながら、青ざめた馬にまたがる死の軍勢に見えた。

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