……冗談はやめてよ……何言ってるんだよ……!

 踏み荒らした泥が、肌に降りかかった。

 侮蔑と嘲弄が浴びせかけられる。

「これはいったいどうしたことだ? 公国最強の元帥ともあろうものがこの体たらくとは!」

「触るな! 離せ!」

 たまらず悲鳴を上げる。

 ニコルは片腕で胸元を隠しながら、泥を手づかみにした。イェレミアスの顔めがけて投げつける。

 泥つぶては、避けようとしたイェレミアスの髪に命中した。肩から胸元にかけて、だんだらに泥が落ちる。

「小僧が!」

 イェレミアスの顔が醜くゆがんだ。ニコルの腕を掴んで、容赦なくねじり上げる。

 汚れた手が伸びた。

「離せ……!」

「ほうら、泣け! 喚け! それが貴様の正体だ!」

 イェレミアスは、げらげらと笑っていた。胸を覆っていた布を完全に剥ぎ取り、投げ捨て。

 背後から胸を鷲掴み、握りつぶす。

「……っ!」

 身体がのけぞった。誰にも見られてはならなかった肌が、あらわにされる。雨が絶望を晒し、包み込んだ。

「手を離しなさいイェレミアス、この、けだもの! 恥を知りなさい!」

 レディ・ブランウェンが眼色を変え、イェレミアスを突き飛ばした。自分の上衣でニコルを包みながら抱き寄せ、怒鳴る。


(あーあ、ついにバレちゃったんだ)


 場にそぐわぬけたたましい嗤い声が降ってきた。

 レディ・ブランウェンは、愕然と上空を見上げた。青黒い光を宿した影が、跳ね返る弾丸のように宙をよじれ飛んでいる。

「どういうことなの、これは」

(さあね)

 篠突く雨に混じって、とめどない笑いが降りしきる。

 レディ・ブランウェンは眉をけわしく吊り上げた。

「まさか、影武者……ではないわよね……?」

(んー? さあ、どうだろうねえ?)

「サリスヴァールの使い魔め」

 イェレミアスは、ようやく、黒い影がなのかに思い当たったようだった。煮えたぎる眼で、悪魔の堕とす影を睨み付ける。

 ただひたすらにケラケラと軽く、喜悦に転げるような声ばかりが素っ頓狂に響き渡った。


(そんなに知りたけりゃ、サリスヴァールにでも聞いてみたらどうだ? そのの本当の名前をさ)

 暗黒のざわめきが吹きすぎる。

 影が舞い降りてきた。中空に静止する。

 見覚えのあるかたちだった。青く光る《悪魔の紋章》を腹に宿し、先ほど奪った《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》に尻尾を巻き付けている。

「ル・フェ」

 ぬいぐるみの実体ではない。ただの影に見えた。

 ニコルは、レディ・ブランウェンが掛けてくれた上衣を胸元でかき合わせた。泥まみれになった肌をかろうじて隠す。

「何で、君が、ここに」

 ル・フェは寒々しく笑った。

 豪雨がすべてを塗り込めてゆく。

(どうしてだろうね? あのとき、アルトゥシーで、フランゼス公子も言っただろう? 、とね)

 黒い小さな膜翼が、ゆらりと闇を差す。

「……嘘」

 ニコルは、たじろいでかぶりを振った。

(彼の、真の目的も教えてやったはずだよ? 最初から、そういう筋書きだったと)

 冷ややかに醒めた声が告知する。

「待ってよ」

 ニコルはかすれた泣き笑いを浮かべた。

「……冗談はやめてよ……何言ってるんだよ……!」


 嬉々とした狂躁の笑いが、耳をつらぬいた。

(《封殺ナウシズ》の守護たる君、魔召喚の妨げとなる君をためだ、とね! なのに君ったら、何て相変わらずのお人好しなんだろうねぇ!? あの頼りないフランゼス公子に取り憑いたとき、彼の記憶にも、君の姿が残ってたよ! もしかしたら女かもしれないって。でも、あのムッツリ鉄仮面ホーラダインに気付かれるのが怖くて、確かめられなかった、って。誰だってまさかと思うよ。これを青天の霹靂、驚天動地と言わずしてなんと言おう! まさか、君が、あの、偽りの闇で塗り隠されたルーンの聖女だったとは!)

 壊れた笑いが反響する。その声がどこまでも耳障りに跳ね返り、伝わって。


「聖女……」


 チェシーは、闇の中から愕然とニコルを見つめていた。

 うつろに頭を振る。

「馬鹿な」

 濡れそぼった髪から雨がしたたり落ちた。それすら気付く様子はない。

「……そんなことが」

 あるわけがない、何かの間違いだ、と言おうとして。

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