正体を見せろ

「ふざけるな」

 背後から数人の士官が怒鳴った。

「誰がそのような奸計に惑わされるものか。たかが悪魔ごときに!」

 銀の悪魔を払いのけ、いきなりサーベルを抜いて切りつける。

 ニコルは息を呑んだ。

「だめだ、そいつらに手を出すな……!」

 切られた銀の悪魔は、縦半分に少しずつずれてゆきながら、美しい唇をにんまりと吊り上げ──爆発した。隣にいた悪魔が誘爆する。悲鳴が飛び散った。

 爆風に吹き飛ばされたサーベルが目の前の地面に突き立った。半分に折れている。

 黒い、小さな、無数の細い手が、《カード》の図面から触手のように伸びてサーベルに絡みついた。幽体じみた青白い光が、音を立てて吸い込まれる。

 手に、おぞましい咀嚼の感触が伝わった。

 悲鳴をあげ、《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》を取り落とす。

 《カード》の表面がみるみる雨に濡れ、滲んでゆく。漂う闇紫の霧が、妬みと飢餓にくねる無数の小さな黒い手となってニコルの腕にからみついた。ねだる手つきだった。

 ニコルは泥に汚れた顔を上げた。

 限界だった。

 茫然と周りを見回す。視線の先の兵が身をこわばらせ、あからさまに逃れようとして目をそらすのが見えた。

「決めなさい、坊や。貴方自身の運命の結末を」

 混乱するティセニア兵を嘲笑の眼で見やりながら、レディ・ブランウェンが決断を迫る。

 あまりにも無力だった。

 涙交じりの喘ぎが、雨と濁流の轟音とにかき消される。

 誰ひとり、護れない。

 誰ひとりとして、救えない。

 もう、そんな風に思うことさえ、おこがましいのかもしれなかった。

「死ぬのは……僕一人で十分だ」

 声がかすれた。

「賢明な判断ね」

 レディ・ブランウェンは目をそらし、指を鳴らす。誰かに合図を送ったようだった。

「ふざけるな。勝手に投降されてたまるか! 処刑だ! ぶっ殺してやる!」

 イェレミアスがずかずかと歩み寄った。

 元帥杖を無闇に振りかざし、打ちすえにかかる。

 レディ・ブランウェンの腕にまとわりついていた黒い影が、ふいに離れた。宙へと舞い上がる。

 動きに呼応して、銀の悪魔が甲高く啼いた。鉄の翼を激しくはばたかせる。

 黒い影が弧を描き、突っ込んできた。

 風切り音を上げてイェレミアスの眼前をかすめる。元帥杖が手から跳ね飛んだ。転がる。

 影は、泥を散らして地面すれすれに飛んだ。ニコルの足下に落ちた《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》を掻っさらい、ジグザグに急上昇。闇の彼方へと消え失せる。

 イェレミアスは気色ばんだ。慍色うんしょくを注いでレディ・ブランウェンを睨む。

「何のつもりだ!」

「もう、鬱陶しい。いちいち人のせいにしないで」

 レディ・ブランウェンはうんざりした溜息をついた。腕を振って後方の部下に合図する。

「他の連中を武装解除して。使い魔には触れないようにね。ひとまとめにして、魔物にでも見張らせておけばいいわ。アーテュラス、貴方もよ」

 黒衣の女集団が四方に散った。動揺するティセニア兵から、銃やサーベルを鹵獲ろかくし、川岸に積み上げる。

 ニコルはうつろにつぶやいた。

「僕は何も持ってない」

「あらそう。なら良いわ」

「毒婦ごときがこの私に命令するな。首切り役人風情が!」

 イェレミアスが再び怒鳴り散らす。

 レディ・ブランウェンは、グラスの中の優美な毒を揺らすかのように微笑んだ。

「滅多なことを口にするものじゃなくてよ、イェレミアス。いつ、どこで、何を分からないわよ?」

「貴様など陛下の後ろ盾がなければ……」

「うるさいわ黙ってなさいなこの早漏ヘタレ短小男が!」

 レディ・ブランウェンは聞くに堪えない罵詈雑言を吐き捨てた。

「この子を盾にせずして、他の何を人質にできるというの? あの忌々しいホーラダインを抑えられるのはこの子だけだわ」

「言わせておけばぬけぬけと!」

「それぐらい卑怯な手を使わない限り、貴方にノーラスは陥とせないんじゃなくて? それとも、今度こそ自慢の勲章をごっそり剥奪されるような不細工な真似をしでかす気?」

 イェレミアスは歯ぎしりして吠えた。

「黙れ黙れ黙れ! そいつを第一級戦犯として処刑するだけで、十分に勲章ものだ。さては貴様、私から戦功をかすめ取ろうと言う魂胆だな。こそ泥め、そうはさせるものか。こやつは私の獲物だ!」

「あーもーうるさい! その子の捕虜としての価値と、あんたごときが喉から手が出るほど欲しがってる武勲とやらを比べても無駄よ。天と地ほどの差があるんだから」

 レディ・ブランウェンは、腰の帯から細い刀子を引き抜いた。ニコルへと近づいてくる。

「自決用の銃、毒、《カード》、ナイフ。それとルーンも出して。逆らったら殺すわよ。言わなくても分かってるでしょうけど」

 ニコルは黙って従った。《先制のエフワズ》はもう反応すらしなかった。

「両手を上げて。頭の後ろで組みなさい」

 レディ・ブランウェンは、つめたい刀子をニコルの首筋へと這わせた。

 耳の後ろへ突きつけられた刃先が、ちくりと食い込む。ニコルは顔をゆがめた。

「こっち向いて。手は動かさないでね。悪いけど身体検査させてもらうわよ……」

 切っ先が、軍衣の襟のボタンを切り離す。

 ニコルは、はっと我に返った。反射的に身を引く。

「待って」

 思わず身をこわばらせ、逃げ出そうとする。

 ぞっとする含み笑いが耳に吹き入れられた。

「逃げるなと言ったでしょ? 悪い子ね……意地悪したくなるじゃない」

 構わずレディ・ブランウェンは刀子を軍衣の胸元へ入れ、上から下まで容赦なく切り裂いた。

 金ボタンが地面に飛び散る。サッシュが裂け、ブラウスが裂ける。前身頃がはだけられた。

 下に着た白いブラウスが、たちまち雨に濡れそぼって透けてゆく。

「え?」

 レディ・ブランウェンは、ぽかんとした顔でニコルの胸元を見つめる。

 ニコルは、レディ・ブランウェンの手を振りほどいた。

「放して。逃げないから、お願い。やめて……」

 必死に胸元をかき合わせる。

「どけ!」

 唐突にイェレミアスが近づいてきた。獰猛な形相で手を振り上げるなり。

 切り裂かれた軍衣の襟首を鷲掴みにした。

 一気に、引きちぎる。

 ニコルは悲鳴を上げた。泥まみれの地面へと、もんどり打って叩きつけられる。

「やめろ! 触るな……!」

 ニコルは、身をよじって抗った。

 視界が涙でかすむ。

 笑い声がのしかかった。

 下卑た手が、濡れて肌に貼りつくブラウスの襟にかかる。

「ほう? こいつは驚きだ。ずいぶん華奢だな? まるで、じゃないか! どれ、暴いてやる。正体を見せろ!」

 イェレミアスは獣のように笑った。興奮しきった息が吐き散らされる。

「やめて……!」

 ブラウスが、絹を裂く音を立てて破り取られた。

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