二度と、戻れない

 チェシーは氷碧の眼と、暗黒の金眼それぞれで周辺を見渡した。今まで見えなかったさまざまな気配の色を、魔眼で透かし視る。

 恐怖の色。惑乱の色。欲望の色。

 眼前に、魔物の群れが迫っていた。

 腐臭。噛み合わされる凶悪なあぎとの音。

 禍々しい雷鳴が号砲となってとどろく。

 明と暗が一転した、刹那。

 世界が、狂乱と絶叫の血しぶきに呑み込まれた。黒い塊が、一瞬で蒸発したかのように四散する。腕。足。あるいは別のものを、腕の一振りで削ぎ飛ばす。首を、翼を鷲掴み、粘土を引きちぎるようにして、捻じ切る。

 何か黒いものが、重たげな鈍い音を立てて地面に跳ねた。転がる。どす黒い液体が、足元に流れ出る。

 びしゃり、と、裸足で踏む。潰れた音がした。

 チェシーは嗤った。

 これほどまでにやすやすと、殺戮の歓喜に酔いしれることができるとは。思いも寄らなかった。

 自我さえ、理性さえ捨てれば、清々しいほどに狂える。

 召喚された魔は、《狂気》の波動に呼応する。《異端》の闇属性に執着する。寄ってたかって、貪り喰らう。

 前に、ニコルが言ったとおりだ。

 《異端》。《闇》。《狂気》。

 魔物は、圧倒的な《力》にこそ、享楽の反応を見せる。

 殺せば殺すほど、殺戮に興じれば興じるほど。

 魔物の群れは、イェレミアスの行使する《紋章》の支配、いわば理知的な契約、盟約から引きはがされ、より蠱惑的な原始の《狂気》に突き動かされて、群がり寄ってくる。炎に群がり集る蟲のように。

 殺し合いたい。

 喰らい尽くしたい。

 深淵の奈落へ、堕ちてゆきたい、と。

 ――自らもまた、燃える業火の炎に身を焦がして。

 また一匹。甘美な絶命の気息をすする。

 高価なワインのごとく、馥郁とした死の香りを楽しむ。

 微笑みを絶やすことなく、チェシーは、むしろ悠然と敵を屠った。

 大太刀で串刺しに貫かれた魔物が、青黒い光輪を放って腐り落ち、蒸発する。

 魂に同化したル・フェの餓えは、まだ、収まらない。この飢餓感が失せることは永遠にないだろう。おそらく、《封殺のナウシズ》の力をもってしても。

 ぎらぎらと猛る欲望に濡れた魂ごと、身裡みうちの魔をえぐり抜かぬ限り、この餓えが収まることはない。

 二度と、戻れない。

 ル・フェの遺した言葉を思い出して、チェシーはせつなく嗤った。

 どうでも良い。

 そんなことは、もう、どうでも良かった。投げ捨てた人の心のことなど。もう、どうでも。

 イェレミアスは、自尊心と猜疑心、そして嫉妬の塊だ。

 だが、その猜疑心こそが、最大の防波堤となっている。

 あの男は、かつての、そして今の自分のように、制御できない悪魔に呪われて自滅するといったような、愚にもつかぬ失態は犯さない。

 イェレミアスが呼びだす一匹一匹は、どれも雑魚極まりない有象無象だ。

 あえて、名のあるもの、強いものは喚ばぬ。力づくでしたがえられる弱いものだけを使う。

 それが、あの男の戦法だ。

 一介の人間が、魔物のうごめく毒の海を、生身で越えてゆくことはできない。

 何千の兵力があろうと同じ。ましてや、ルーンの加護を持たぬシャーリアや敗残の兵が、魔の手から逃れるなど。

 《封殺ナウシズ》の加護がなければ、絶対に不可能だ。

 一匹一匹は弱くとも、ノーラス周辺を一面埋め尽くすに十分な数さえ確保できれば、戦術的にはそれで足る。

 難攻不落の砦、ノーラス。

 その主たるニコル・ディス・アーテュラスを、《封殺ナウシズ》の騎士フラターを、堅牢な城砦から狂乱うずまく戦禍の中心へと引きずり出しさえすれば良い。

 ルーンの騎士とはいえ、所詮は生身の人間に過ぎない。

 魔物は、悪意は。無限に、永遠に湧き続けるが。

 人の心は、いともたやすく折れる。

 壊れる。

 どんなに悔やんでも、結果は同じだった。


 どれほどの間、魂を喰らい続けたことか。

 疲れすらなかった。異様な高揚感が狂気を覚醒させ、魂をそそり続けている。

 もはや人のものではなくなってしまった異形の腕をひきずり。みだらに軍衣を脱ぎ捨て。青と黒と金の邪悪な呪に彩られた血まみれの身体を生白く晒して。

 チェシーは懶惰らんだな笑みのしたたる口元をぬぐった。

 嗤いが止まらない。気が付けば、周囲には何もなかった。累々と積み上がる死骸も、既に喰らい尽くした。あるのは、雨と、泥と、腐臭と、果てしない深淵。

 孤独だけが、総毛立つ虚無感とともに打ち棄てられている。

 第一師団の生き残りは、無事に森を越えただろうか。

 ふいに、人の声が聞こえた。闇に薄赤い熱源が見えた。動いている。

 無条件に殺しに向かおうとして、チェシーは身震いし、動きを止めた。

 わずかに理性が戻ってくる。

 あれは、魔物ではない。人間だ。

「さっきから、もう、何だよ、この魔物の死体の山は!」

 聞いたことのある声だった。幾つもの足音が、泥を蹴散らして駆け寄ってくる。

「お、お、おい、何か踏んだぞ? うげ、何だこれは。気持ち悪……っ!」

「師団長、これ以上は不用意に近づくと危険です」

「ええい、うるせえ。それぐらい分かってる! でも、逆にむしろ、さっきから、ずっと生きてるものの気配がないんだ。これは人間の仕業じゃ……」

 薄緑色の光条が、ひゅっ、と探照灯サーチライトのように伸びた。夜を横切る。

「待て。誰かいる」

 びしょ濡れに濡れた迷彩服姿の男が、手で後続の動きを制した。

 チェシーは、無言で巨木の枝に身を隠す。

 男が、上空を振りあおいだ。

 ゴーグル越しに、はしばみ色のするどい視線と目が合った。

 察知された。

 震いあがるような快楽が、殺気となって心地よく肌を突き刺す。

 第二師団のアンドレーエだ。隣にいるのは見知らぬ男。おそらくは副官だ。

「誰だ。そこにいるのは」

 アンドレーエは、低い声で誰何した。

 じりじりと、腰の剣帯に手が這い寄る。

 チェシーは薄く嗤った。アンドレーエの武器は、ベルトのリールに巻きつけた鋼剣鞭ウルミ。剣でありながら鞭同然に伸びてからみつく、凶悪極まりない暗器だ。

「この雨の中で、よくえるものだ。さすがは《静寂イーサ》使い」

「へっ!? 誰だ、てめえ、えっ……ええっ!? サリスヴァール?」

 声を裏返らせる相手を嘲るように、チェシーは闇から半身を引き剥がした。絶句する息が聞こえる。

 可笑しかった。

「だとしたら、どうする」

「何やってんだ。こんなところで。っていうか、何だ、その格好……」

 嫌悪の表情が、眼の奥に浮かんでいる。

「久しいな、アンドレーエ。会えて嬉しいよ」

 チェシーは自堕落に笑った。汚物まみれの大太刀をゆらりと血振って、肩に担ぎ上げる。

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