我が真の名は、ゾディアック
泥にうもれたチェシーの手が。
ふいに、イェレミアスの足首をがちりと掴んだ。イェレミアスは悲鳴を上げた。ぶざまによろけ、身を仰け反らせる。
「ひぃっ」
「イェレミアス!」
チェシーは、力任せにイェレミアスの足を薙ぎ払った。イェレミアスは、もんどりうってしりもちをついた。泥水が飛び散る。
動かぬ身体を引きずり、チェシーは起き上がった。
杖代わりの大太刀を、ぬかるむ地面へと突き立てる。
激情にぎらつく隻眼が、青くきらめいてイェレミアスを睨んだ。
「《
口の中に入り込んだ泥水を吐き出す。血が混じっていた。
「お、お、思い上がるな、国賊が!」
イェレミアスは、蒼白になって舌をもつらせ、しりもちをついたまま後ずさった。
「貴様も、いずれは同じ運命だ。帝国に叛逆する者が許されることなど、決してない。我が麗しのアリアンロッド、ゾディアック女皇帝陛下の名の下に、貴様を、断罪する!」
「できるものなら、やってみろ!」
チェシーは、剣を引き抜きざま、相手を見もせず叩きつけた。
イェレミアスは女のような悲鳴を上げた。恥も外聞もなく、四つん這いで逃げ出す。
泥が跳ね、チェシーの眼に飛びついた。視界が奪われる。
チェシーは眼を拳でぬぐった。
「くそっ」
「ふははは、馬鹿め! この私が、いちいち国賊ごときの相手などするわけがなかろう!」
イェレミアスは、恐怖と憎悪で異様にぎらつく偏執の形相で怒鳴った。醜悪に声をうわずらせる。
「貴様の相手は、悪魔どもで十分だ!」
「侮るな」
チェシーは、ふとイェレミアスから目をそらした。身をかがめる。
手を伸ばし、泥に沈んだル・フェを拾い上げる。
ちぎれたぬいぐるみの身体から、滝のような泥水が流れ落ちた。足下に、血の赤と入り混じる青い波紋が広がる。
腹に刻まれていたはずの《紋章》は、ほとんど消えかけていた。
「黙れ。もはや手遅れだ」
イェレミアスは、チェシーの気が逸れたのを見て取った。すかさず、漆黒のマントを不格好にひるがえらせる。
「どんなに足掻こうが、貴様の負けだ! ここでやつらが無惨に滅びてゆく様を、とくと眺めているがいい!」
悪し様な捨て台詞で、罵るだけ罵って逃げてゆく。
代わりに、濁流にも似た無数の魔物が、群れをなしてチェシーへ襲いかかった。
「……盟約を結べ、ル・フェ」
眼前に迫る凶悪な魔物の群れ。
牙を鳴らし、爪で虚空を引き裂き、敵味方関係なく食い荒らし、のたうち、悶え、絶叫しながらなだれかかってくる悪意そのものの姿。
チェシーは、ぽっかりと空いた胸の傷を押さえもしなかった。かすれ声で笑う。
「油断した。このままだと、俺の方が先に死ぬ」
(……本当に、戻れなくなるぜ。ノーラスにも、あいつのところにも。いいのかい。それでも)
ル・フェは、ガラス玉の眼を開けた。わずかに、笑ったような気がした。つや消しの光がまたたく。
ためらいが風のように吹き流れる。
チェシーは眼を閉じた。
「ああ、死神の導くところ、
ふたたび穏やかな表情を取り戻す。
「どうせ、残り幾ばくもない命だ。俺の
(サリスヴァールなんていう偽名のままじゃあ、また前回の二の舞なんだけどねぇ……?)
「確か、
チェシーは、血の匂いのする笑い声をあげた。
ぬいぐるみが、むくりと身を起こす。
(できたら、もったいつけずに、ちゃっちゃと済ませてくれると嬉しいね。あと五秒以内に死ぬ。もう死ぬ。そろそろ死ぬ。ついに死ぬ。ああ、死んだ)
ぬいぐるみの耳が、だらりと垂れた。
「死にかけのくせに口達者な」
かすかに笑って、ぬいぐるみの身体を持ち直す。暗黒の鳴動が轟き渡った。
「我が
ガラスの砕け散るような絶叫が無数に乱れ、つんざく。極光が空に弾けた。
天空に描き出された星が、燃える流星の嵐となって降りつのる。こぶし大の
チェシーは、人ならざる絶叫をあげた。
己が腕に、再度宿した完全なる《悪魔の紋章》を解放する。
ぬいぐるみの骸を掴んだ腕が、青黒い炎をあげた。渦巻きながら立ち昇る。
闇が収斂した。生気を吸われた森の木々がよじれ、みるみる枯れて、のたうち、阿鼻叫喚の軋みを上げる。
けたたましい笑いが、響き渡る。
ふいに。
静謐が訪れた。
青い波紋が、闇を彩る。
深い、泥のような吐息をつく。孤独の影が、水底のように暗くゆらめいた。
チェシーは、伏せていた顔を上げた。
雷紋にも、刺青にも似た、青くゆらめく魔の紋様が、目元から頬にかけて広がっている。ちりちりと馴染まぬ感触に、チェシーは重たくこわばった手を持ち上げた。
頬に触れようとして、わずかに表情を変える。
変質した手の先から、引きちぎられた軍衣の残骸が垂れ下がっていた。
それはもはや、人間の手ではない。
感傷が、見る間に削がれ、朽ち果ててゆく。
今さら驚くには値しない。最初から分かっていたことだった。
以前、アルトゥシーで、ル・フェに身体を乗っ取られたときよりもはるかに深く、無防備に。
自らの魂を、貪欲な悪魔の食指にからめとらせてゆく。
燃え尽きたぬいぐるみが、灰となって手のひらからこぼれ、消える。
それは、ためらいとの決別だった。
よどんだ笑い声が二重に和する。
過去と、現在の笑い声。貪り喰われ尽くした魂の成れの果てを。心の痛みを。友と過ごした日々を、捨てて。
魔物と一体化した腕で、疼く右目を押さえる。二度と光を感じることはないと思っていた右目が。
異形の形に、裂ける。
漆黒の眼球に、金の重瞳。二つの虹彩が瞬きもせず、邪悪な歓喜にきらめいていた。
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