ただ、閣下の御身をこそ護る

「申し訳ありません、アーテュラス閣下。まさかこんな状況になっていようとは」

 ヴァンスリヒト大尉の整った顔立ちが、極度の緊張に青ざめている。

 ニコルはゆっくりと息を吐いた。窓へ近寄り、カーテンを払って光を浴びる。萌葱色の遠景が、春の日差しにうっすらとかすんでいた。

 ザフエルは机上の書類に手を伸ばした。目を落とす。

「ふむ。護国省発令と。バラルデス卿のサインもありますな。それで、サリスヴァールは今、どこに」

 ヴァンスリヒト大尉は、やや言葉を濁した。

「その……グルトエルベルク経由で北方任務に向かっています。予定では明後日にリーラ河支流のローアン川を渡河とか。さらに北上してレリングシュタット森の西、ロッテンフェルト村付近にて合流まで宿営しゅくえいの予定です」

「へえ、わざとノーラスを迂回して行くわけだ。第一師団の大半がまだこっちに残ってるっていうのに」

 ニコルは不機嫌に吐き捨てた。

「いえ、それは、その、できるだけ早く各地の部隊と合流するためですので、こればかりは如何ともしがたく」

「嘘はいいよ」

 子供じみた態度ではねつける。

 ヴァンスリヒト大尉は、男らしい顔をわずかにゆがめた。

「申し訳ありません」

 短く詫びたあとは、何も言わない。

 ニコルは顔をしかめた。ヴァンスリヒト大尉を責めても何も変わらないし、変えられもしない。自分が無力であることを思い知らされるだけだ。

「すみません。言い過ぎました。続きをお願いします」

 力なく、次の報告をうながす。

「フランゼス公子にも、早々に帰郷するようにとの御諚が出ています。バラルデス卿ご息女レイディ・キーリアとのご婚約を、内々に取り交わすことになったとお聞きしました」

「それは重畳。僕からもお祝いを申し上げなければ。そのことをフランには、もう?」

「いえ。後ほどお伝えする予定です。まずはアーテュラス閣下にご報告をと思い、参上つかまつりました」

「お気遣い、痛み入ります。レイディ・キーリアは才媛との誉れも高い聡明なお方だ。フランとも気があうでしょう」

 ニコルは青白い笑顔を作った。心にもない祝辞を述べる。

 また、ひとり、友達がいなくなる。

 心の扉のどこかが錆び付いてしまったかのようだった。気持ちが揺らぐたび、嫌な音を立てて胸が軋む。それでいて、顔だけで笑うことに、こんなにも慣れてしまった。

「それにしても、参ったな。相変わらず、僕ら現場の意見は通りませんね」

 助言を求めて、ザフエルを振り返る。

「公女の要求を容れ、サリスヴァールを最前線へ投入する口実で、偶然の戦死を装わせた方が、ノーラスで飼い殺すより手っ取り早い処分方法だと判断したのでしょうな。代わりに殿下の外戚の地位を得るという条件で」

 ザフエルは、残酷な見立てを下した。

「さすがに少々、策に溺れすぎのきらいがありますな。それが是と出るか非と出るか」

 ザフエルは、中央の卓に大きく広げられた戦略地図を眺めた。

 北端のノーラス、南洋に面するイル・ハイラーム、極東のツアゼルホーヘンを結ぶ、本物の軍道が描かれている。執務室の壁に掲げられた絵地図とはまるで違う。距離も方角も正確な、軍事機密そのものの地図だった。

「ノーラス駐屯中の第一師団部隊に関しては、出立の準備が整っている。一週間以内に発てば、公女とも時期を逸することなく、ロッテンフェルトで合流できるでしょう。大尉、もし要望があるなら兵站部隊を同道させるが」

「配慮のほど重ね重ね痛み入ります。ですが、これ以上、第五師団のご好意に甘えるわけにはゆきません」

 ヴァンスリヒト大尉は、丁重に断った。首を横に振る。

 ザフエルはうなずいた。伝声管に近づき、呼び鈴を鳴らしてレゾンド大尉を呼びつける。

「遅くなりました」

 すぐにレゾンド大尉はやってきた。手に何やら書きつけた紙片を持っている。ザフエルは黙って紙片を受け取った。ニコルへと押しやる。

 一連の様子をうかがっていたヴァンスリヒト大尉が、再び口を開いた。

「それと、こちらは公女殿下からの依頼ですが」

 ニコルは上の空で話を聞いていた。レゾンド大尉が持ってきた書きつけには、華やかな女性の名に混じって、興味深い名が羅列されていた。兵器工廠ともつながりの深い冒険商人の屋号が特に目を惹く。

「非常に申し上げづらいのですが、国外での《紋章》の使用に関して、神殿の許可を頂けるかどうか確認せよとの」

「却下。浅慮に過ぎる」

 ザフエルは即座に突っぱねた。

 ニコルは、紙を握りつぶした。

 ヴァンスリヒト大尉の表情にも苦渋が浮かんでいる。

「御懸念も致し方なきことと存じます」

「《封殺ナウシズ》の御加護なしに魔召喚を使えば如何なる結果をもたらすか、殿下におかれては早くもお忘れか」

 ヴァンスリヒト大尉は、打ちのめされた様子で声を落とした。

「アルトゥシーの惨状を見た者としてお恥ずかしい限りです」

「《紋章の悪魔》ル・フェは、ノーラスで厳重に封殺している。公女が何と仰られようが、《封殺ナウシズ》の監視のもとに運用する以外は、絶対に使用を禁ずるとお伝えしろ。局所的戦術に浪費するなど、愚行でしかない」

 にわかには理解できず、ニコルは眼をしばたたかせた。

「局所戦術に……何?」

「報復連鎖的に魔召喚を戦略爆撃に用いられては元も子もない、ということです。もし消耗戦に引きずり込まれてしまったら、地力に劣るティセニアに勝機はない」

「待って。何、どういうことです。意味が分からない」

 眉をひそめてザフエルを見返す。

「戦術的ではなく戦略的に、ってどういう意味ですか」

「あの悪魔が、アルトゥシーに与えた損害を閣下もご覧になったはず」

 ザフエルは戦略地図に歩み寄った。

 ティセニア北端の国境に位置する青い点、アルトゥシーを指し示す。

 ニコルは、記憶の淵に沈んでいた凄惨な光景を脳裏によみがえらせた。肩を震わせる。

「もちろんです。続けてください」

 つとめて冷静をよそおう。

「サリスヴァールが喚び出した悪魔ル・フェは、単体では人心を惑わし、憑依する以外の力を持ち得ません。その代わり、意のままに空を飛び、大量の下級悪魔を任意の空間に召喚する。もし、あの悪魔に類する魔が、我が国の戦略拠点に放たれたとしたら」

 黒い革手袋の指先が、ぴたりとツアゼルホーヘンを指した。

 続いて北の炭坑地帯。周辺に点在する鉄鉱山。銅、および金鉱山。大河沿いの交通要衝。平原中部の穀倉地帯、商業都市。次々に示してゆく。

 ニコルは、せわしなく眼をしばたたかせた。

「でも、ツアゼルホーヘンにしたって、もちろん鉄、石炭の産地で軍需と通商、金融が盛ん、という特徴はありますけど、言ってみれば普通の街じゃないですか。ノーラスみたいな国境の要塞でもないし、大聖堂はあるから神殿騎士はいても、どこかの師団が駐屯してるわけでもない。街を壊して何になるんです。徴発も略奪もできない、生産の拠点にもならない、制圧すらできない瓦礫の山になるだけじゃないですか」

「もし、私がゾディアックの参謀ならば」

 冷淡な眼差しが、静かにニコルの左腕にゆらめく青い輝きを見つめた。

「アルトゥシーの被害状況から、魔召喚による戦略爆撃の対価有用性を導き出すであろうことは言を俟たないでしょう。これらの街、あるいは、ある程度の人口を擁する都市であればどこであろうと」

 ザフエルは、するどいピンの付いた赤い矢を手に取った。

「悪魔という、使い捨て同然の魔召喚によって、敵国のし、荒廃にさらすことで、人心および通商の破壊をも同時に狙えるとあらば、試してみる価値はあると見なすでしょうな。ですが、ゾディアックはこの冬にそれをしてこなかった。ということは、サリスヴァールの亡命以後、未だ、大量の魔召喚部隊を空輸挺進くうゆていしんする段階にまで及んでいないか、あるいは戦略爆撃の思想そのものに気付いていないか。いずれにせよ、我々も、対抗手段としての抑止力を常に手元に置き、ここぞという時にこそ行使する必要があるということです」

 手首をしならせ、矢を放つ。

 赤い矢が、ゾディアック極北の帝都ベルゼアスの位置に突き立って、揺れた。

 決して到達し得ない最果ての地トゥーレ

 それは距離以前の問題だとされていた。ベルゼアスを取り巻く大陸の冷涼な気候そのものが、南国出身であるティセニア軍の侵入を阻む絶対の凍土防壁となっているのである。

 ニコルは、呆然とザフエルを見やった。

「まさか、そのために、ずっとル・フェを確保してたっていうんじゃ」

「他に何か有用な価値があるとでも」

 当然の響きを帯びた示唆が返ってくる。

「えっ、で、でも」

「我が軍の疲弊を防ぎ、敵の戦力を削ぎ、物量的に不利な状況下での決戦を防ぐという目的のためであれば、どのような手段を執ることもためらうべきではない」

 ザフエルは平然と断じた。

「ですから、さほど重要でもない今の局面において、あの悪魔を無駄に浪費すべきではないと申し上げました」

「で、でもさ」

 ニコルは戸惑いの声を上げた。助けを求める眼差しをヴァンスリヒト大尉へと向ける。

「もし、本当にル・フェを使って、悪魔を降らせるような真似をしたら、互いの国の、罪のない一般の人まで巻き込むことになるんでは」

「是非もないかと」

 非情なザフエルの言葉。ニコルは息を吸い込んだ。

 険悪な雰囲気を察したか。ヴァンスリヒト大尉は後ずさった。レゾンド大尉と用心深い目配せを交わしあい、踵をそろえて敬礼する。

「では、我々は進発の準備を」

「武運長久を祈る、同志ヴァンスリヒト。貴公に聖ローゼンの加護あらんことを」

 ザフエルはニコルを見つめたままだった。副官たちの敬礼を一顧だにしない。

 ニコルは、かりそめの微笑と返礼を合図に、ヴァンスリヒト大尉を執務室から送り出した。参謀副官二人が、急ぎ足で執務室を辞してゆくのを見送る。

「そんなことのために、一日にして、アルトゥシーを再び灰燼とせしめたのですか」

 口元を、けわしく引き結ぶ。

 やはり、あの悪魔が言ったとおりなのか。

 悪魔がもたらす災厄よりも。フランゼス公子の命を危険にさらすことよりも。大量破壊兵器である《紋章》の確保を、何よりも優先する、ただそれだけのために。

 揺るぎない鉄壁の仮面で本心を覆い隠したザフエルを、ニコルはまっすぐに見上げた。

「まさか、そんな血も涙もないことを、ザフエルさん自らお認めになるとは思いませんでした」

 ザフエルは顔色ひとつ変えなかった。

「ご期待に添えず申し訳ありません。戦時において、そのような感傷は無用かと存じます。我が本領たるツアゼルホーヘンを守るために、前線基地でしかないアルトゥシーを見捨てるは当然かと」

「ならば、ノーラスも同じように捨てるのですか」

 虚ろなまでに研ぎ澄まされた眼差しが、ニコルを射すくめた。

「ノーラスは特別です。聖地ワルデ・カラアの盾として絶対死守命令が出ております。私も閣下も、死なばもろとも。ノーラス陥ちるときは、誰一人生きてはおらぬでしょう」

 他人事のような態度だった。薄ら寒い感情が忍び寄ってくる。

「すみません。言い過ぎました」

「謝罪をいただく理由が分かりません」

 ザフエルは自らを見上げるニコルの眼を、蔑むように見下ろした。

「時に気休めも必要かとは思いますが」

 乾いた視線が、ニコルの手を遡って顔へ、それから首筋、肩、身体、腰へと。細すぎる線に添って伝いおちてゆく。

「今は不要です」

 戦略地図に突き立てられた矢を執拗に見くだすまなざしが、一瞬、貪婪の闇を放ってくるめいた。

「釈明はいたしません。軍人として戦争を遂行してゆく以上、私の責務はただひとつ。如何なる手段を用いてでも、何千人の命を無下に散らそうとも、ただ、閣下の御身をこそ護る。それだけです」


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