早咲きの薔薇

 北へ抜ける春の風が、急に強く吹いた。ぬるむ陽射しに、空が白くかすんで見える。

 なのに、なぜか頬を打つ風だけが冷たい。

 ノーラス城砦の正面玄関前。列柱の並ぶ車止めに横付けられた馬車の戸が、がたがたと風に揺れた。

 昇降口の前に陣取ったフランゼスは、根が生えたように立ち止まったまま、いつまでたっても乗ろうとしない。

「き、気をつけてよ、ニコル。本当に、あの、無事、じゃなくて武運を、いの、祈ってるから」

 頬を赤くし、焦れたようにうつむいては顔を上げる。フランゼスは、何回聞いたか思い出せないぐらい、また、同じことを言った。

「大丈夫だってば」

 ニコルは、半ば呆れ返って苦笑した。風に引っ張られる髪をうなじで押さえ、フランゼスの背中をやや強く押しやる。

「ありがと、フラン。君の気持ちは十分に分かったからさ。ほら、もう乗って。馭者さんが困ってる」

「ぜ、絶対に無理しちゃ、駄目だから。約束だよ」

 フランゼスは、ニコルの背後に控えるザフエルへ、こそこそと上目遣いに窺う目線を向けた。とたんに、冷たく睨み付けられる。フランゼスは小亀みたいに首をちぢこめた。

「危なかったら逃げていいんだ。僕だって、情けないけど、こうやって危険から逃げてる。できるなら僕だって、きみと、一緒に戦いたいよ。で、でも、僕がここにいたらきっと、きみの足を引っ張ることになる。自分でも分かってる。僕は、本当に役立たずだ……」

「その言い方はやめてくれって言っただろ。君は美しいものを美しいと感じる係。僕らはそれを壊す係だ。大丈夫だよ。ザフエルさんがいてくれるから」

 ニコルは、にこやかに作った笑顔をザフエルへと向けた。

「道中、お気をつけて」

 すかさずザフエルが口を挟む。あからさまに早く行け、と言わんばかりだ。

「ニコル、あ、あのさ、僕」

 それでも、フランゼスは手すりを掴んであらがった。

「いいから乗った乗った」

 ニコルは、有無を言わさずフランゼスのお尻を押して、強引に馬車へと乗り込ませた。フランゼスは、勢い余ってうわわわ、と変な叫び声を上げた。クッションめがけて前のめりに倒れ込む。

「はい、一丁上がりと」

 すかさず、ばたんと客車の戸を閉める。

「だめだよ、まだ言いたいことがあるんだ。謝らなきゃ」

 窓が開いて、フランゼスが頭を突き出した。取っ手をがちゃがちゃと言わせている。

 ニコルは、またドアを開けられたりしないよう、外から馬車の戸を押さえた。にやりと笑いかける。

「気のせいだろ。何も謝ってもらうような覚えはないよ。それより、この春戦役が終わったら、久し振りにどこか古い神殿のフレスコ画探検にでも行こう。この間、ツアゼルの大聖堂で見たフレスコ画がさ、本当に凄かったんだよ。何百年、もしかしたら千年以上前のものもあるのに、すごく保存状態が良いんだ。ほんと、フランにも見せてあげたかった」

「そんな、いつ叶うか分からない先の約束なんかしたくないよ。僕は、い、い、今、きみとできる約束がしたいんだ」

「ツアゼル大聖堂の地下には秘密の殿堂があるらしいよ。だったら行くしかないだろ? おとなしくイル・ハイラームでいい子にして待ってるんだね。それと、レイディ・キーリアによろしく。結婚式には絶対呼んでよね。約束だよ」

 フランゼスは、泣きそうな声でかぶりを振る。

「ぼ、ぼ、ぼくは。キーリアなんかより、ずっと、きみと」

「それじゃあまたね、フラン。お元気で」

 ニコルは後ずさった。手を挙げて馭者に合図する。

「ちょ、ちょっと待って、まだ話し終わって」

 黒服に黒帽子をかぶった馭者は、待ちくたびれた様子を見せることもなく慇懃に一礼した。馭者席に乗り込み、鞭を打つ。

「姉上のこと、怒らないで」

 声を飲み込んで馬車は動き出した。ノーラスの城外門へ向かって進んでゆく。護衛の騎兵隊が、整然と後を追った。

「やれやれですな。お気持ちは分からないでもありませんが」

 ザフエルが腰に手を当て、もっともな感想を洩らす。

「仕方ないですよ。遠いんだもの。時間もかかるし」

「予算もですな」

「公子のお召しですものね」

 ニコルは苦笑して相槌を打った。

 以前、早馬でイル・ハイラームへ向かったときは一昼夜ぶっ通しの強行軍で走り続けたが、公子を乗せる馬車となればそうもゆかぬだろう。きっと死ぬほど退屈な、仰々しい旅になるに違いなかった。

「一生に一度ぐらいは、僕もそんな豪勢な旅をしてみたいんですけど。ね、ザフエルさん」

 ニコルは、にっこり笑ってザフエルを振り返った。

 自分の意思では、ノーラスから出ることを決して許されない身であることを、まるで伺わせない笑顔で。

 ノーラスは、薔薇の花咲く鉄の鳥かごだ。

「さてと、次の予定は」

「第一師団の壮行ですな。ずいぶん押してしまいました。今朝早くから順次出立しているもよう。ヴァンスリヒトの本隊が最後です」

「じゃあ急がなくちゃ。それにしてもロッテンフェルトか。遠いんだろうなあ。行かれたことありますか」

 ニコルは嘆息した。遠い北の空を振り仰ぐ。

 ザフエルは言外に否定した。

「何もない、ひなびた村だと聞いております」

 ニコルは、戦略地図にぽつんと打たれた黒い点のことを思い浮かべた。

「戦争さえ無ければ、そんな平凡な村があれこれ取り沙汰されるようなことはなかったでしょうにね」

 科戸しなとの風が吹く。ニコルは返事を待たず、歩き出した。

 回廊を渡り、前庭を横切って、閲兵広場へと向かう。

 行き過ぎざま、去年の夏に作った、入り口横の花壇が目に入った。まだ寒いだろうに、手入れもされぬ早咲きの薔薇が一輪、季節外れの蕾をほころばせている。

 駐屯していた部隊のいくつかは、とうに出陣式を終えていた。

 現在集結しているのは、壮途そうとの時を、今や遅しと待ち受ける輜重車隊、砲兵隊ばかりである。

 広場には、人と馬、物資と鉄と弾薬の臭いがひしめき合っていた。金具がこすれ、ぶつかり合うたびに、鉄が軋めく。

 黒ずんだ幌の覆いが、風にばたついている。

 ニコルは目印となる軍旗を探して、しばらくの間、周囲を歩きまわった。

 巨大な麻袋や木箱に入った資材を山積みにした荷馬車、車輪の付いた軽野戦砲などが、ずらりと並んでいる。

 書類を持ったディー主計官が、輸送科の担当士官と熱心に打ち合わせしているのが見えた。

 奥のほうでは、腕まくりをしたヒルデブルク糧食担当長。巨大な釜や什物を荷馬車の台にぶら下げている。

 さらにその横では、無数の瓶、紙包み、薬の缶、包帯やあて布、担架のほろなど、あふれんばかりの衛生用品を詰め込んだトランクを前に、ビジロッテ中尉が几帳面に指差し確認していた。なぜか人面蛾の翅がトランクからはみ出している。

 それらの彼方に、ようやく。

 きらりと風になびく金の房が見えた。

 ティセニアの青。聖ローゼンクロイツの薔薇。ヴァンスリヒト大尉率いる隊であることを示す、城壁の銃眼模様を組みあわせた軍旗がたなびいている。

 旗を捧持ほうじしていたのは、まだ少年と言っても良い年頃の下士官だった。へんぽんとひるがえる旗を、緊張の面持ちで支えている。

 ニコルは、軍旗に歩み寄った。

 旗に向かって敬礼する。

 歴戦の軍旗だった。銃弾につらぬかれ、焼けこげた跡が何カ所もある。開いた穴は、綺麗に金糸で刺繍され、修復されていた。

 ぼんやりと、軍旗のはためくさまに魅入る。

 奇妙な不安がこみ上げた。


「アーテュラス閣下」

 声が聞こえた。幻想が破られる。

 廉潔な印象の白い乗馬コートに身を包んだヴァンスリヒト大尉が、腰に吊ったサーベルと騎兵銃を鳴らし、大股に近づいてくる。

「あっ、大尉。おはようございます。よかった、間に合って」

 ニコルは両手を前で揃え、ぺこんと大きく頭を下げた。

 ヴァンスリヒト大尉は、快活にうなずいた。

「最後にもう一度、お二方にご挨拶をと思いまして居残りました。こたびは本当にありがとうございました」

 物資調達の配慮に関して丁寧な感謝の言葉を述べてから、ぐるりと広場を見渡す。

「ところで猊下は」

「ザフエルさんならそこにって、あれ」

 背後にいたはずのザフエルが、いつの間にかいなくなっている。ニコルは眼をぱちくりさせた。背伸びして、きょろきょろと見回す。

「さっきまで一緒にいたんですけど……あ、あんな所にいる」

 来る途中で呼び止められでもしたのか。

 輜重車の合間をせわしなく行き交う輸卒や、昂ぶったいななきをあげもせず剛胆に尻尾を打ち振る軍馬の向こう側で、何やら人目をはばかるようにして話し合っているレゾンド大尉とザフエルの姿が見えた。

 ヴァンスリヒト大尉はニコルの視線を追い、状況を把握した。

「ご挨拶して参ります。では」

「あ、あの」

 出立の時間が迫っていた。

 軍楽隊のラッパが響き渡る。うまく言えず、ニコルは口ごもった。勇壮な太鼓の音が、空を駆け上がってゆく。

「チェシーさんに、会ったら、その」

 言いかけて。

 ニコルは頬を染め、口ごもった。

「やっぱりいいです。どうせ、僕の言う事なんてはなっから聞いてくれやしないんだから」

 こみ上げてくる思いを打ち消して、照れ笑いする。

 ヴァンスリヒト大尉は、まるで年端の行かぬ弟を見るような目でニコルを見つめた。

「了解。准将には、さようにお伝えしておきます」

「えっ、いや、それはちょっと困るかも」

「ご心配なく。閣下のお気持ちは間違いなくお伝えいたします。では」

 ヴァンスリヒト大尉は、きりりと態度を改めた。厳粛に敬礼する。

「行って参ります」

 ニコルは敬礼を返した。

「御武運を、大尉。第一師団に、ルーンのご加護がありますように」

 《先制のエフワズ》が、ほのかに赤く反応した。すきとおる宝珠の中央に、火の芯が揺らめいている。

 ヴァンスリヒト大尉は敬礼を解いた。コートの裾をひるがえし、ザフエルに向かって歩いてゆく。

 ニコルは、その後ろ姿を落ち着かない思いで見送った。今になってようやく、なかなか馬車に乗らなかったフランゼスの気持ちが分かったような気がする。

 生還と勝利の証である、弾痕の残るヴァンスリヒト隊の軍旗を見上げる。大尉とともに、何度も死線をくぐり抜けてきた旗だ。

 次いで《エフワズ》へと視線を落とす。

 赤い色が揺れている。

 だが、すぐに思い直す。胸騒ぎがするわけでもない。悪い予兆が見えているわけでもない。大丈夫だ。

 背筋を伸ばし、わだかまりを吹き飛ばす。

 ヴァンスリヒト隊の軍旗は、まぶしい朝日を浴びて、揚々と輝かしくはためいていた。

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