今は閣下がすべてです

「黙れ、異教徒の分際で」

 口々にさえずる神殿騎士に、チェシーは悪魔めいた憫笑を投げかけた。挑発の仕草で親指を地面へと向ける。

「いいのか、そんなこと言ってしまっても? その異教徒に競り負けたら、貴公らは地獄の底あっちへ真っ逆さまだぞ。あるじの名を貶めてまで私と剣を合わせる勇気があるのか?」

 きらびやかな太刀の柄にはめ込まれた双子のルーン、《栄光》と《天空》のティワズが星と蒼穹のきらめきを放つ。

 神殿騎士の一団は、ルーンの霊圧にたまりかねてじりじりと後ずさった。


 そこへザフエルが冷徹に割って入った。

「サリスヴァール、もういいでしょう」

 揃えた指の背で、ぎらつく剣の腹をついと押しやる。

「これ以上、私に恥をかかせるのはやめていただきたい」

 チェシーは敵意を隠しもせずに吐き捨てる。

「ふん。こっちが良くてもあっちはどうだか」


 ザフエルは白い息をついた。伏せたままの視線を神殿騎士へとちらりと向ける。神殿騎士全員がその場に跪いた。こうべを垂れる。

 ザフエルは手で払いのける仕草をした。

「よい。下がれ」

「しかし、猊下」

「下がれと言った」

「はっ……」


「閣下」

 下がってゆく神殿騎士に冷たい一瞥をくれ、ザフエルはニコルをうながす。

「聖女の確保を」

「やれやれ、また茶番か。もううんざりだよ」

 チェシーは皮肉に肩をすくめた。ザフエルに払いのけられた剣を、ざっと血振りしてから納刀する。

「できるのなら最初からそうしてろよ」


「ザフエルさん」

 ニコルは駆け出そうとし、立ち止まった。すがる眼でザフエルを見上げる。

「あのひとは――どうなります」

 ザフエルはしばし無言だった。わずかに鼻白んだ様子でむすりと言う。

「差し赦す、と」


 ニコルは、それと聞くや、ぱっと表情をかがやかせた。

「やった! さすがザフエルさん名君! アンドレーエさん聞きましたかっ? イーサの加護を解除しても大丈夫ですって!」

 大きく破顔し、飛び跳ねながら母親と赤ん坊のもとへ向かってゆく。


「他人事だと思って呑気なやつだ」

 跳ねる背中を眺め、チェシーが鼻先で嘲った。

「奴の為なら平然と道理を曲げやがるときた。あんたは戒律がすべてじゃなかったのか」

 隣に並んだザフエルは、チェシーの眼を見もせずに答えた。

「今は閣下がすべてです」

「今は、ということは、いつかそうではない時が来るのか」

 ザフエルは直截の返答を控えた。

 遠い過去を見はるかすふうに、ニコルの姿を目で追う。

「いつか、などという曖昧な時間は存在しない」

 その白すぎるほど白い感情のない顔を盗み見て、チェシーは鼻で笑った。



 ニコルは走るのをやめ、いったん立ち止まった。

 雪にまみれ、赤子を抱いて立ちつくす母親のもとへと、ゆっくりと近づく。

 母親は凍える目でニコルを見つめていた。

 滲みだらけの布靴一枚に覆われた足。膝から下が、がくがくと震えている。恐慌のまなざしだった。

「お許しください、聖騎士様、わたしのような、端女のために、お、お手をわずらわせ、ほんとうに申しわけござい……」

「ふ、ふ、ふえっくしょん!」

 ニコルは大きなくしゃみをした。腕で自分の身体を抱きしめ、ぶるぶる振るいあがる。

「さ、さ、寒い、こんなとこに長居はむよ、無用……っくしょん!」


 笑いが全てを秘め隠してくれる。

 ニコルはわざとくしゃみしながら、上着を脱いで雪を振り落とした。上から赤ん坊に覆いかぶせる。

 軍衣の下には、こんなこともあろうかと鯨骨の板を分厚く縫い込んだ胴衣ジレをいつも着込んでいる。大丈夫だ。


「そんなこと言ってたら赤ちゃんが風邪ひいちゃいますよ! ううっ、へっくしょん寒っ、ね、ほら、早く暖かいところに連れていってあげないと、へっくちん!」


「聖騎士さま、ああ」

 母親は、その場にくずおれた。背中を丸めうずくまり、ニコルの上着をかぶった赤子を抱きしめる。

「慈悲深き御身にルーンの加護のあらんことを」

 こぼれる涙がぽたり、と落ちて雪を溶かした。その涙でさえ、すぐに白く頰を凍らせる。

「さあ、立って」

 ニコルは手を添え、うながした。

 母親はかぶりを振った。跪いたまま、震える手で赤ん坊だけを差し出す。


 ニコルは、上着をおくるみ代わりにして赤ん坊を抱き取った。落とさないよう、しっかりと腕の中にくるみ込む。


「ほんぎゃあ、ほんぎゃあ」

 とたん、赤ん坊は火がついたように泣き始めた。

「うわっ泣き出した、どうしよう」

 びくぅっと身体を固まらせて、あたふたする

「レイリアちゃん、おね、じゃなくて、あのねーお兄ちゃんはねーぜんぜん怖くないんだよー、よちよちー、泣かないのー。そうだ、面白い顔してあげる、ほら、いないいない、ばあ。いないいない、ばあ、あばばばば」

 白目をむいた珍妙な顔をして、必死に赤ん坊をあやす。赤子はなおいっそうふんぎゃああと泣きわめいた。


 母親が眼を押し開く。

「どうして、娘の名を」

「やだな、さっき言ってたじゃないですか」

 その名は、顔も知らぬ別の誰かを思い起こさせた。ニコルは泣きやまぬ赤ん坊に自分も同じく泣きそうになりながら微笑んだ。

「ほら、もう泣かないでレイリアちゃん。後でママにミルクもらおうねー」


 ニコルは手袋を歯でくわえて引っ張り脱いだ。顔をぐしょぐしょにして泣く赤ん坊のくちびるに、指の先を軽く押し当てる。


 乳と間違えたのか、くちびるが指先に柔らかく吸い付く。

 おもちゃみたいにほそい、ちいさな赤い手が、ぎゅっと指を握った。

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