互いの瞳に、互いの姿だけが

 まるで違っていた。

 目つきも。口調も。

 いつもへらへらと表面的にふざけてばかりのチェシーとはまるで違っていて。

 乱暴というより、むしろ――


 ニコルは力の入らない笑い声をたてた。

 見苦しい話だ。

 誰のものでもなく、腹心の部下でもなく。それどころか敵国との通謀を内心疑っているくせに、幼い、自制心のない、子供じみた嫉妬や独占欲にさいなまれて一人で勝手に苛立っているなんて。


 おもちゃを取り上げられた子供みたいだ。わがまま以外の何ものでもない。


 いや、きっと嫉妬ですらないのだろう。好きとか嫌いとか、そういう分かりやすい単純な感情とはまるで関係なく、ただひたすらにどうしようもなく、もどかしく、二度と戻らない何か、手を伸ばしても絶対に届かないような何か、心臓の奥に宿ったこの痛みを――


「閣下」


「うわ!?」

 いきなりかけられた声に、ニコルは仰天して飛び上がった。


「何をしておいでなのです。このようなさびれた庭で」

 規則正しく雪を踏む靴音が近づいてくる。


「い、いや、べ、べ、別に」

 とっさにあたふたと手を振り、しゃくり上げ、涙をこすって鼻をすすり上げる。

「び、び、びっくりしたあ! 何でザフエルさんが!」

 畏れるあまり、振り返ることもできない。


 そっけない声と同時に、背後の足音がひっそりと止まる。

 いつもと同じ。つかず離れずを保った、踏み込むぎりぎりの一線で。

「ユーディットが閣下がまた迷子になっていると言いますもので」

「またって、ここでは初めてですよ」


 ニコルは息を大きく吸い込んだ。もう一度こぶしで目をこする。

「何か御用でしょうか」

 覚悟を決めて、振り返る。


 ザフエルの黒い、静かな瞳が真っ直ぐにニコルを見つめていた。

「ふむ」

 値踏むかのようにつぶやく。ニコルはまたまたぎくりとして、顔を引きつらせた。


「べべべ別に何でもないってさっきから言ってるでしょう!」

 ザフエルはふと、遠い目をした。視線を何処かへとそらす。

「もし何でしたら、そうですな、私の胸で思い切り泣いていただいても」


 ザフエルは白々しく横を向いたまま、いきなりハンカチを差し出した。

「どうぞ」

 見覚えのある柄。

「だから何で」

 ザフエルは平然と胸を張る。

「影になり日向になり何処までもしつこく付きまとういつものアレですが何か」

「別に、だから、そういうんじゃなくて」

 ザ印のハンカチを前に何とか抗弁しようと試みるニコルへ、ザフエルはふん、と鼻を鳴らしてみせた。

「あくまでも白々しく言い張るところを見ると、さては図星ですな」


「……」

 言い返せない。

「そこがまた何とも言えず愛くるしいのですが」

「……」

 黙り込んでいると、ザフエルはふと眼を瞬かせて、視線を戻した。

「いささか反応が鈍いようですな」

 ぶすりとご機嫌斜めに言う。ニコルは答えられなかった。



「まったくもって理解に苦しみますな」

 ザフエルは腕をかるく組み、顎に手を添えて、ぶつぶつ言い始める。

「シャーリア殿下のいったいどこが良いのか。直截簡明に申し上げてあんな高慢ちきな、礼節の至らない、慎ましやかさの欠片もないような、」

 放っておいたらいつまでも悪口を並べそうだ。ニコルは手を振ってザフエルを押しとどめた。

「言い過ぎです」

「失礼」


 ニコルは、何とはなしにちいさく笑った。まさか、ニコルがシャーリアに恋していた、とでも勘違いしたのだろうか。

 ザフエルでもそんな見立て違いをすることがあるのかと、安心してふと気を許す。

「どうぞ」

「はい」

 再び差し出されたハンカチを、ニコルは逆らうことなく受け取った。


 風にひらひらと丸ザ印がそよいでいる。中央部にはいちだんとでかい顔をした巨大ザの字の金刺繍。まばゆくもキラキラと光りながら鎮座ましましている。


「まったく」

 ニコルはつい噴き出した。

「このハンカチはいつ見ても凄すぎです」

「恐れ入ります」

「大きなザフエルさんのまわりにちっちゃいザフエルさんがいっぱいいるみたいで」

「お気に召して頂けましたようで何よりです」

「いや別にお気に召してるわけではなくて」

 何気ない会話。本当に、どうということのない、いつも通りの――


 唐突に目頭が熱くなった。


 ニコルは、びっくりして目を何度もしばたたかせた。

「ご、ごめんなさい。取り乱してますね僕、ど、どうしたんだろう」

 あわてて顔を伏せ、ハンカチでぎゅーと目を押さえようとした、そのとき。


 ふと、足元にゆるやかな影がかかった。

 不思議に思って顔を上げたニコルの目の前で。


 ざあっ……、と。


 凍りつく一陣が吹き巻いて、雪と氷をその枝身にまといつかせた冬枯れの大樹を揺るがせた。

 どこかで、どさりと枝雪が落ちる。白煙が舞い上がった。視界が奪われる。

 たれ込めた曇天がふと切れて、雲間から差し込む薄日が一瞬、きらめいて、すぐにかげって。

 驚きに目を瞠るニコルの表情からまばゆさを消し去る。


 互いの瞳に、互いの姿だけが。

 映り込み、

 近づき、

 いっぱいに広がって。

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