人間らしく生きることを許されないよりは、ずっと

「あの子も、あの子のお母さんも泣いてた」

 ぽつりとニコルはつぶやいた。

「あんなにちっちゃいのに、ご両親から引き離されて」

「聖女の祈りはルーンの光」

 ザフエルは指で聖呪の印を切り、光の祝福でニコルを照らした。淡い影が地面に落ちる。

「《オダル》の祝福を一身に受ける清らかな聖女として、祈りと修学、静かな日々の務めを果たすことになりましょう」

 諭すような、教科書を読み上げるかのような、よどみのない答え。

「ありがとうございます」

 ザフエルの指先から射す福音の光が、力のある呪詞となって、心の海底を照らす。

 深奥にざらりと砂が舞い上がり、見えていたはずの気持ちを濁らせた。体のどこかが、まだ震えているような気がした。きっと全てが嘘というわけでもないのだろう。ザフエルの教導は常に正しい。その一方的な正しさを、ニコルが信じていないことも見抜かれている。


「よく言う」

 チェシーは、ふいに憎々しい表情を浮かべてニコルを睨み付けた。

「君たちにとっては、そうじゃないんだろう。娘が聖女として崇められるんだ。信者としては嬉しくないはずがない。人間らしく生きることを許されないよりは、ずっとな」

「何の話で」

 言いかけてニコルは、はっと我に返り、唐突に話を打ち切った。ザフエルの顔を見やる。

「ザフエルさん、もういいです。早く帰りましょう」

 ザフエルはうなずく。

「路地を出たところに馬車を呼んであります」


 神官たちや、集まった人々の靴に踏みにじられた泥花の散る路地を、ニコルは、みじめな気持ちで振り返った。どうしても、蔑ろにされた思いがぬぐえない。


 ぼろ家の玄関先に、先ほどの母親が座り込んでいる。

 憔悴しきった表情だった。髪はほつれ、頬には痛々しく腫れた跡さえ見える。濁った目が、泥靴の跡を、赤ん坊の消えた路地の先を見つめていた。


「ちょっと先に行ってて」

 ニコルは足を止めた。チェシーが何か言いたそうに口を開きかける。

 表情と仕草で制止されるのをあえて振り切り、ニコルは踵を返した。

 母親に近づく。うつむくその背中に、影がかかった。母親が顔を上げる。

 ニコルはほろ苦い気持ちをおさえ、声を掛けようとした。

「あの、このたびは、その」


 だが。


 ニコルを認めた母親の目に浮かんだのは、まぎれもない恐怖の色だった。羽織っていた茶色いショールを胸元でかき合わせ、がくがくと震え出す。

「お許しを、聖騎士様」

 母親は、泥まみれの雪に手をついて地面に突っ伏した。低頭する額で泥をうがち、悲鳴じみた声をあげる。

「どうかお許しくださいまし。下賤の身でありながら聖騎士の皆々様のお目を汚しました不敬を、どうか」


 ニコルは怖気づき、声を失った。


 かけるつもりだったなぐさめの言葉すら、喉を絞める綿のような抵抗に引っかかって、うまく出てこない。

「余計な真似を」

 チェシーが迎えに来ていた。馬車の戸は開け放たれたままだ。

「自分のことさえままならぬ身のくせに」

 ニコルは、二、三歩、その場からあとじさった。衆目のある場所だ。かろうじて軍人としての矜持を保つも、最後には逃げるようにして馬車へと乗り込んだ。


 コの字のかたちにしつらえられた座席の隅に、ザフエルが腰掛けている。ニコルはそのはす向かい、一番奥に腰を下ろした。と同時に、堪えきれなくなって手で顔をおおった。

「出せ」

 馭者に声を掛けてから、チェシーは体重を天蓋の取っ手に掛け、ぶら下がるようにして馬車へと乗り込んだ。

 車体がぎしぎしと音を立てて斜めに傾ぐ。


 チェシーは、ザフエルから最も離れた位置に陣取った。青い宝珠きらめく魔剣を脇に挟み、立てかけて、投げ出した足を尊大に組む。視線は窓の外へと頑なにそらされたままだった。


 がたごとと馬車が走り出す。

「閣下」

 ザフエルは一瞬、チェシーに乾いた視線を突き刺してから切り出した。

「もしよろしければ、この後……」

「え、あ、うん?」

 ニコルはぼんやりと生返事をした。赤子の母親が向けた、恐怖に焼きつく目の色が、焼けた灰を浴びたかのようにひりひりと心を炙って、どうしても忘れられない。

 ザフエルが何を言っているのかさえ、まるで聞こえなかった。緊張の糸がふつりと切れたかのようだった。

「……申しておりますが、お目通りを許してもよろしゅうございますか」

「おまかせします」

 かろうじてそれだけを返す。チェシーは嫌悪の表情をありありと浮かべたまま、それでも何も言わなかった。


 肝心な内容には何一つ触れられないまま、慰めと欺瞞を乗せた馬車は、歓喜の歌の流れるツアゼルホーヘンの街をひた走る。

 降ろされたのは、見知らぬ場所だった。

 厳冬の最中にあって、なお純白の薔薇が咲き乱れる泉のほとり。天使の舞う彫刻が繊細にほどこされた大理石のあずまやに、人影が見える。


 淡い薔薇の香りがたちこめる。

 高く結ってなお、腰まで流れるように届く、つややかな漆黒の髪。

 透き通る肌の色。

 真珠を縫いつけた薄絹を幾重にも肩に巻き、浜辺の貝殻のような、ほのかな色のローブの裾をさらりと引いて。


 伏し目がちな薔薇色の視線をニコルへと向け、完璧に作られた人形にも似た陰のある笑みを浮かべて。

 少女は、ローブをつまみ、たおやかに足を引いた。さざ波のようにドレスを揺らし、会釈する。

「お帰りなさいませ、アーテュラス元帥閣下。サリスヴァール准将。お二方とお逢いできます日を、今か今かと心待ちにしておりました」

 可憐な微笑みが、ニコルを見つめていた。

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