黒と白の塔

 城壁と城壁の間に生じた一瞬の狭間に、白い塔が垣間見えた。円錐形の黒い屋根に、鈍色に光る薔薇十字が突き刺さっている。

 塔の下半分は青々とした太いツタに覆われている。まるで森に呑まれ、緑色に溶け出してでもいるかのようだった。かろうじて、黒く太い面格子の窓の部分だけが、目玉をくりぬいたように残っている。

 

 再び、ピアノの音が聞こえた。何の旋律もなく、ただ両手で鍵盤を叩き壊しているかのような不協和音。


 ニコルはぞくりと身をふるわせた。だが、その音はすぐに馬車の騒音にかき消された。塔そのものもまた、城壁の向こう側に消えて車窓から見えなくなる。


 胸の中のどこかが、ざわざわと揺るぐ。

 息が苦しい。

 動悸が高まる。ニコルは眼を閉じた。深呼吸する。

 胸騒ぎが収まらない。《先制のエフワズ》が放つ穏やかな赤い光を、そのぬくもりを、すがるように握りしめる。

 手で胸元を押さえ、唇を引き結ぶ。


「何か」

 ザフエルが眼を上げた。ニコルが黒と白の塔を追ったその視線を、ザフエルの炯眼が見落とすはずなどあろうはずもない。それでいて、あえて冷然と問う。

「いえ、何でもありません」

 ニコルはうつむいた。


 あの塔は――何なのか。


 尋ねることすら許される雰囲気ではなかった。聞いたが最後、今もどこからか感じる重苦しい眼差しから逃れられなくなるような気がする。


 馬車は泉のある庭園を抜け、羊飼いの装いをさせた門番がこうべをたれる山小屋風のロッジ前を駆け抜けた。

 つづら折になった林の小道を曲がりくねり、小川のせせらぎを聞き、石橋を渡り、滝の水しぶきが岩にはねるさまを横に見ながら坂を上りきる。

 目の前に、灰色と黒の柱、扇形にきらめくステンドグラス、東と西の対となって長く伸びる回廊と中央塔とが空高くそびえ立つ正面ファサードの壮観があらわれた。

 祝祭の間、客人が滞在する別荘として使われる邸宅である。


 馬車は、ゆるやかに速度を落としていった。城館の車寄せに滑り込む。


 雪一つ、枯れ葉一枚、落ちてはいない。冷たい山の空気に、馬がぶるぶると白い鼻息を散らし、蹄を鳴らした。

 チェシーが馬を落ち着けているうちに、ニコルは、アンシュベルとともに馬車から降りた。


 出迎えた執事に案内され、いちめんに天使が舞う天井画に眼を奪われつつ玄関ホールを抜けると、真正面に二階と三階の手すりが見える、黒と金の穹窿きゅうりゅうきらめく吹き抜けの大広間サルーンが広がった。奥へと進んで、深紅のカーペットを敷き詰めた主階段を上がる。


 階段の中途に、泉のほとりで腰を下ろす聖女の絵がかけられていた。黒髪に薔薇の瞳。てのひらに黒いルーンの光を宿している。その顔立ちはどこかザフエルに似ている、ような気がした。

 二階へと向かう。

 主階段を上がった先の、画廊ギャラリーの壁には、金の額縁に入った大きさもさまざまな絵画がぎっしりと何枚も、小品をも含めると何十枚も掛けられていた。

 古めかしい格好――真っ赤な切れ目スラッシュの入ったとかだ――に、くるくるカールの長髪かつらをかぶって、杖を格好良く突いている年代物の肖像画もあれば、素朴な筆遣いの風景画や、流行りの画家が描いたらしい鮮烈な色の静物画などもある。彫刻、置物、彫像、はては見たこともない巨大な動物――動物というよりは竜だ――の化石までもが飾られている。

 鏡板張りの壁、陽光をあふれんばかりに取り込む張り出し窓、漆喰の天井、クリスタルの剣を無数に吊り下げたかたちの明かり。贅を尽くした調度が並ぶ画廊を左へゆくと、図書室。落ち着いた雰囲気の木の壁板には、触れるだけでも心地よさが伝わる彫刻が施されている。足下は一面、毛足の長い、やわらかなじゅうたん。


 まるでお上りさんのようにきょろきょろと眼を丸くして豪奢な調度を見回しながら、ニコルは、イル・ハイラーム郊外にある自分の屋敷を思い浮かべていた。

 元々は、義父が夏の狐狩りに使う下屋敷だった森の家だ。爵位もなく封もない者に邸第は不要、と、ずっと断っていたのを、レディ・アーテュラスが『パパと喧嘩したときに丁度良い隠れ家になるから、このおうちはぜひともニコルさんにもらっていただきたいわ!』というので、ノーラスへ赴任が決まったおりに、仕方なく名義のみを譲り受けたものである。よって、自分の家と言っても実質は義父の別荘であり、所領でもない。


 そんなことを思って、ニコルは肩をすくめた。ザフエルはホーラダイン家の嗣子ししであり首都ツアゼルホーヘンのグラーフである。自分とは違う。ただそれだけのことだ。


 画廊を抜け、また階段を上がる。棟の最上階まで上がったところで、執事は役目を終え、丁重に辞した。


 ザフエルは控えの間を示し、アンシュベルに向かって、荷物はすべて運び込んであることを告げた。

「この棟の階を、第五師団専用とします。自由に使って下さって構いません」

 それまでおとなしく後ろからついてきただけだったチェシーは、さっそく勝手知ったる他人の家とばかりに、目についたドアというドアをことごとく開け放ち、ベッドの下まで頭を突っ込んで、何もないことを入念に調べて回った。

 結局、一番奥の部屋を、くいと立てた親指で示す。

「君は奥を使え」

「チェシーさんは?」

「その隣だ」

「えー?」

 ニコルはジト目でチェシーを見上げた。

「念のために言っておきますけど、絶対に、絶対に勝手に入ってこないでくださいよ?」

 チェシーは心底不思議そうな顔をして、首をかしげる。


「……勝手に入って何が悪いんだ?」

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