ザフエル城
丘の北西側、断崖絶壁の真上に、枯れたツタの巻きつく塔が建っている。
ザフエル率いる神殿騎士の隊列に続く馬車の中から、ニコルは木立に見え隠れするホーラダイン城の影を仰いだ。
風雪にさらされ続けた城壁は見る影もなく色褪せ、中には崩れ落ちている部分すらある。
だが、恐ろしくさびれて見えるのは外周だけだ。
地下にはおそらく縦横に走る坑道が張り巡らせてあるのだろう、雪の貼り付いた絶壁の中途に銃眼が切られ、その暗い穴の奥には巨大な鋼鉄の砲身を光らせる要塞砲が見て取れる。
ここまで来れば、もはや城が街を外敵から守っているのではなく、街すべてがその真の姿をくらますための囮であるかのように思えてくる。
切り立った崖から崖へ、細い鉄橋が架かっている。
立ち眩むような絶壁を見下ろしながら橋を渡りきると、すぐに真っ暗なトンネル。
前方におぼろげな光が浮かぶのみで、出口の存在さえ確認できないなかを、半ば馬任せにして馬車一行は進んでゆく。
がらがらと荒っぽい音を軋ませて回る馬車の音が、孤独に反響する。
外から城へといたる出入り口はこのトンネルのみ。
ふいに山道が曲がった。出口が見える。光があふれた。
▼
「なかなかどうして、あんたのそのやんごとなき猊下っぷりも堂に入ったものだな」
「放っておいて頂きたいですな」
城手前の城門にて神殿騎士の護衛をすべて下がらせると、ザフエル・グラーフ・フォン・ホーラダインは、権力者の仮面をややうんざりしたためいきとともにかなぐり捨てた。
現れ出たのはさらに素っ気ない、いつもの顔だ。
じろりとチェシーを横目に見やる。
「異教徒の貴方には、私が何者であるかなど関係ないでしょう」
「今まで笑わずにいてやった恩人に向かって何を言うか」
「笑いたければどうぞご随意に。軽率な行動に相応しい代償を払って、なお生きて笑える余裕があればの話ですが」
「ザフエルさん」
さっそくチェシーと口さがない言い争いを始めたザフエルの姿に、ニコルはようやく安堵した。
「ああ、よかった、やっぱりいつものザフエルさんだ」
馬車を降りて、ザフエルに駆け寄る。
「一時はどうなるかと思いました。本気で神殿騎士に異端審問されるのかと」
「ようこそおいでくださいました、閣下」
ザフエルは、おだやかな物腰で、ニコルの前にかるく片膝をついた。法衣を地面にこすらせながら、頭を垂れる。
「お待ち申し上げておりました」
「だ、ダメですってば、ザフエルさん」
ニコルは、あわててザフエルを立ち上がらせた。
「ツアゼルの司教副伯ともあろう方が、一介の守護騎士の前に膝をつくなんて。そんなところをもし誰かに見られたらまずいです」
「ここは私の居館です。誰一人として見とがめる者はおりません」
ザフエルは広大な山腹の奥、借景の山懐にちらほらと見え隠れする白い山城を振り返った。
アンシュベルが、ぽかんと口を開けて山を見上げる。
「えっとぉ……つかぬことをお伺いしますが、まさか、あの山の真ん中にあるのが、副指令のおうち……じゃないですよね?」
ニコルは現実から目を背けながら、上の空で答える。
「考えたくないけど、たぶん、このへんの山全部がザフエルさんのおうちだと思うよ」
「つまり、われわれは今、ザフエル城に足を踏み入れてるわけですね……何と言う、魔王の城っぽい響き……!」
「祝祭までまだ一週間ほどございます。狭苦しい田舎の荊扉ではございますが、どうか心ゆくまで御逗留を。分かったらさっさと馬車を出しなさい、そこのとうへんぼく」
ザフエルは最後がらりと口調を変えた。掌を返して居丈高にチェシーへと命じる。
チェシーは顔をひくひくさせて唸った。
「くそ、覚えてろよ」
それでも黙って客車の戸を開け、全員に対して、乗れ、というふうに顎をしゃくる。
「はいっ」
ニコルは、いの一番に馬車へと飛び乗った。
「おいで、アンシュベル」
手すりにつかまったまま、ひょいと手を差し伸べる。アンシュベルは可愛らしくメイド服をつまんで会釈した。にこにこと笑いながら、ライフルとぬいぐるみを抱えて馬車に乗り込む。
「ありがとうです、師団長」
「いいえどういたしまして、レイディ・アンシュ」
「きゃっ、レイディだなんて、アンシュ照れちゃう」
「昨日来より」
ザフエルは、最後に乗り込みながら事務的に報告した。
「第一師団シャーリア殿下がお越しになっていらっしゃいます。本日夜半には第二師団のアンドレーエ、第三師団エッシェンバッハ、第四師団クリスティアンが到着の予定」
「えっ」
ニコルはわずかに声を押し殺した。
「どうしてシャーリア殿下が」
「どうもこうも呼んだつもりはなかったのですが。来てしまったものは仕方ありませんな」
「出すぞ」
チェシーは振り向かずに言った。固い声だ。
ニコルは、チェシーの背中をぎごちなく見上げた。拒絶にも似た反応に思わず声を無くす。今の話、チェシーも聞いていたにちがいない。
シャーリア公女が――来ている。
チェシーは、ぴしりと鞭を鳴らした。
馬車が、がたごとと走り出す。
山腹にありながら、広々として勾配ひとつない庭園には、整然と矩形に形作られた緑の植栽が植え込まれていた。下草のところどころに白く、雪が残っている。
白と黒の玉石を敷き込んだ道を左右に見ながら、群舞する天使の彫刻の脇を通り過ぎ、瀟洒な列柱の並ぶ左右対称の回廊を抜けて、大理石の泉の中央を駆け抜ける。
冬の山中でありながら、なぜか、泉はまったく凍っていなかった。それどころかうっすらと水蒸気のさざなみがゆらめき立っているようにすら見える。
ようやく、といった感のある時を過ごして庭園を抜け、重苦しい音を立てて開かれる城門をいくつもかいくぐり、壁に沿って、右へ左へと、つづら折りに馬車は走る。
いくつもの門で閉ざされた、恐ろしく広い庭園。ニコルはわずかに唇を噛んだ。これでは、まるで巨大な牢獄だ。
そう思ったとき。
力任せに鍵盤を叩きつける、狂気めいたピアノの不協和音が聞こえた。
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