いわゆるひとつの福利厚生
白銀のノーラスに、カリヨンの音が、遠く、高く、鳴り渡ってゆく。
何もかもが、白銀の輝きを放つかのようだった。
照り返しの雪が、空気中の微細な氷粒に反射してなおいっそう光り、青空を跳ね返すかのようなまばゆさを増してみせている。
鳴き交わす犬の声がひどくかまびすしい。
郵便配達の犬ぞり隊である。
弓張り形をした巨大な木のそりを引くのは、冬毛に覆われた逞しい灰色の犬たちだ。そりの後部には、あちらこちらの街の消印が入った、大小いくつもの麻袋や木箱が積みあげられている。
猛然と蹴立てられる雪煙にむせ、配達人は笑って鞭を振るった。
あごひげが白く凍り付いている。だがむろん犬を叩くのではない。そりの腹をたたいているのだ。甲高い打擲の音だけが、ぴしりと空に走る。
驚いた白イタチが巣穴から跳び出した。しなやかな長い身体をくねらせながら雪上にちいさなまるい足跡を点々とつけて逃げてゆく。
若木の小枝をかじっていたヘラジカの雄が首をもたげ、そりを見送る。
凍土まじりの湿原では、ゾディアックから飛来した雁の群れが羽を休めている。白鳥たちとの餌場の主導権争いにうつつを抜かしながら、彼らは同じ湿原でいっときの休息を取る。
犬の吼え声。そりの鈴の音。重なり合う音色が、ノーラスの山麓に滔々と流れてゆく。
山河を越え、森を越え、一時の平和を空高く歌い上げるかのように。
「寒い中を、本当にお疲れ様でした。ありがとうございます。みんな本当に喜んでますよ。主計室にも忘れず回っていってくださいね。精算が上がってると思いますので」
各地からの手紙が届いたという朗報を受け、何はさておき倉庫前へと駆けつける。
ニコルは、荷物の搬入を終えた郵便配達人に向かって、にっこりと屈託のない笑顔を向けた。
恐縮しつつも差し出された送付状に、さらさらと受け取りの署名を入れて返す。
「来年もよろしくお願いします。えっと、これはほんのお礼ってことで……えへへ、僕はまだ飲めないんで、どうか犬さんたちと一緒に景気よくやってください」
取って置きの葡萄酒と一緒に、燻製肉やら干し魚やらを惜しげもなく詰めこんだ袋を手渡す。ひげの郵便配達人は帽子を取り、はげ上がった頭をつるりと撫でた。
「はてさて、とはいうものの、だ」
ニコルは腰に手を当て、くるりと振り返った。
(どうするよ、これ)
天井から声が聞こえた。
羽の生えた黒ウサギのぬいぐるみこと、紋章の悪魔ル・フェは、短い腕を傲然と組み、尻尾を命綱代わりにして、ランプといっしょに逆さまにぶら下がっている。
「どうするもこうするも」
倉庫の中の状況を目の当たりにし、思わず漏れてきた笑いをかみ殺す。
どーんと積み上げられている木箱。中身はもちろん郵便の山山山である。これらすべて手紙と仕送りだ。
果たして何千通あるやら知れたものではない。
「ニコル、用事って」
ぎい、と重たげなちょうつがいの音をさせて、倉庫の扉が開いた。フランゼスが顔をのぞかせる。
「部屋を間違えました」
かと思えば、いきなり扉を閉めて立ち去ろうとする。
「やあやあこれはフランゼスくん」
ニコルは、白々しい愛想をてんでに振りまきながら、フランゼスに駆け寄った。
「ようこそおいで下さいました」
「い、いや、そろそろおいとましようかと」
「またまた。ご遠慮なさらず」
ここで逃がしては元も子もない。すかさず扉を押さえてフランゼスへと手を差し伸べて、がっちりと固い握手をして引き止める。
「諸兄にお集まりいただいたのは他でもなく」
「他の人なんか全然いないじゃないか!」
「大丈夫」
ニコルは悪戯っぽくウィンクしてから、肩越しにちょい、と悪魔のぬいぐるみを指さした。
「有能な悪魔が一柱おわします」
「分かったよ」
フランゼスはしぶしぶといった様子で折れた。
「で、何をすればいいの」
「これさ」
「え」
親指を立てて、ひょいと倉庫の中身を指差してみせる。
虚を突かれたフランゼスは、眼をぱちくりとさせる。
「な、何、何これ」
「お手紙」
「は?」
まるで分かっていないフランゼスに、ニコルは生真面目な顔で説明を始めた。
「いいかい、毎年、今ごろ、新年を迎える前に、ノーラスに駐留している兵士全員に対して、少なくともひとり一通は手紙や贈り物が届くよう、故郷の家族や親戚の者にお願いをしてあるんだ。集荷の予算も大してかからないしね」
「ぜ、全員に?」
「当たり前だろ」
ニコルは平然とうなずく。
「いわゆるひとつの福利厚生、ってやつさ。それぐらいどうってことないだろ? 試し撃ちするたびに木っ端微塵になる新造大砲の開発費用に比べたら、お手紙の一枚や二枚なんて微々たるものさ。もちろん、フランにも来てるはずだよ。恐れ多くも大公殿下から」
「そ、それはいいんだけどさ」
フランゼスは、おずおずと揺らぐ視線を郵便物の山へとやりながら言った。
「な、何で僕を呼んだのかな?」
気後れした様子で口ごもる。
「ん?」
ニコルはきょとんとした。眼を大きく瞠り、まじまじとフランゼスを見つめる。
「え、何でそんなことを訊くの?」
フランゼスはたちまちしどろもどろになって口ごもった。
「い、いや、別に、ふふ深い意味はないんだ」
ぎごちなくこめかみの汗を拭う。
「こ、こんな大量の手紙をその、僕と、君の二人だけでどうするのかと」
「そりゃあもちろん……分かるだろ?」
ニコルは、明らかに下心満載の笑みをにんまりと浮かべた。
フランゼスはよろめいた。後ずさる。
「ま、まさか」
「さあ頑張ろう!」
言うやいなや、いきなりフランゼスの手を引っ張って歩き出す。
「うわあ、む、む、む、無理」
「……フランの意地悪」
「そんなこと言われても無理なものは、む、無理――っていうか、な、な、何言ってるんだよふふふ二人っきりでなんてそんな作業出来るわけないだろ粛正されちゃうよ本気であああの人に」
フランゼスはみるみる顔色を失ってゆきながら自失して口走った。
何をそんなに怖れているのか、がたがたと震えさえしながら、四方八方に怯えきった視線を走らせる。
「大丈夫大丈夫」
「む、無理だってば」
フランゼスは郵便袋からあふれ出てきた手紙の雪崩れ具合を一目見るなり、早くも泣き言を連ねはじめた。
「み、見てよ。ま、街の消印と名前しか、か、書いてないんだよ? こんなの分かるわけないって。ろッしゅ村、ぱぱカリュリョ……読めないよ!」
「ロッスのカルロ伍長なら歩兵団第二大隊メルキオレ中隊所属だね」
「え」
フランゼスは、ぽかんと口を開けた。手紙を持ったまま、宇宙人でも見るような目でニコルを振り返る。
「口髭の格好いいおじさんでね。きっとお子さんからだ。僕が赴任してきた年に最初の奥さんに逃げられて、次の年には二番目の奥さんと結婚して、そのまた次の年に三つ子が生まれててんやわんやって言ってたからあははやっぱり綴り間違ってる……とまあそれはいいとして段取りをどうしようかな。ええと、じゃあ、こうしよう。僕が中隊ごとに分類してル・フェに渡すから、フランがそれを隊ごとに分けた箱にいれるんだ」
気が遠くなるような作業だ。卒倒寸前の青い顔で、フランゼスは郵便袋の山を見渡す。
「本気で言ってるの、それ」
「本気と書いてマジと読みます」
フランゼスは、ふらふらと山の向こう側へ回っていった。
しばらく姿を見せないまま、何やらごそごそとかき回している。
「何やってんの」
ニコルがたずねると、フランゼスは首だけを荷物の山の向こう側から突き出した。
「い、いや、ここにやけにきれいな木箱があるからさ」
「ああ、だったら士官の誰か宛だ。それなら早いかもね」
ニコルはパパカリュリョへの手紙を、ぽいと中隊別の箱へと放り込んだ。
フランゼスの背後に回り、無造作に積み上げられた郵便袋の下をのぞき込む。
厳重な梱包を施された木箱が見えた。
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