決して心を許すな

「え?」

 ニコルは眼を大きく見開いた。呆然としてレディ・アーテュラスを見返す。

「嘘……?」


「ええ、そう。嘘」

 レディ・アーテュラスは、ニコルが包帯代わりに使ったハンカチをひょいと引っ張ってほどいた。ひらひらと揺らかしながら、しばし不思議そうな面持ちで、その柄模様に見入る。


「ところで、先ほどからずっと気になっていたのだけれど、なあにこのザザザっていう模様」


「いえ、それは」

 ニコルは顔を引きつらせてレディ・アーテュラスの手からハンカチをひったくった。

「お気になさらず、その」

 どぎまぎしながら、ろくに畳みもせず、いきなりポケットへと突っ込む。

「これは師団支給のハンカチでして、ええと」

 半ば逃げるように後ずさる。

 出し抜けに背中が何かとぶつかった。

 予期せぬ衝撃に驚いて飛び退こうとしたとたん、今度は縁の裂けた敷物に蹴つまずく。

「うわわわわ!?」


「おっと」

 思い切り足を滑らせたところを、チェシーに支えられる。

「す、すみま……」

「足下に気をつけろ」

 言ってから、チェシーは微苦笑とともにつけくわえた。

「まだ持ってたのか。その悪趣味極まりないザ印ハンカチ。貴族のくせに官製支給品を使うなよ」


「べ、べ、別に」

 痛くもない腹をあからさまに探ってくるような、そんなチェシーの態度がやたら気に障って、ニコルは口ごもった。

「いいじゃないですか。そ、それにあの」

 ますます無駄に上気した顔で、あたふたと言い返す。

「わ、わざわざ返すほどのものじゃ」


「どなたかにお借りしたの?」

 レディ・アーテュラスは、柔和にほそめた目でニコルを見つめた。小首をかしげて問う。

「あ、う、いえ、その、な、何ていうか」

 言い訳を連ねようとしてニコルは口を開きかけ、何も言えず、すぐにしょんぼりと気落ちしてうなだれた。


「え、ええと……その、か、返さなくっちゃとは思ってたんですけど忙しくて、返すに返せなくて、そ、それで何て言って返せばいいのか何だかその、よ、よく分からなくなってしまって、つまり、あの、要するに雰囲気的に返せないというか返しそびれて……その」

 終いには、蚊の泣くような声でおずおずとうつむく。


 レディ・アーテュラスは、美しい眉をわずかにひそめた。

「ホーラダイン卿に、ということかしら?」

「はい」

 不明を恥じ入るあまり、ニコルは、真っ赤な顔でぎゅっと目をつむる。


「あら、そう。ふうん?」

 レディ・アーテュラスはまた陶然と笑った。


「だめよ」

 ひゅっと扇子を振る。

 白い羽根が一枚、はらりとちぎれて空に舞った。

 音もなく羽根はひるがえり、床へと散り落ちる。


「あの方にだけは、決して心を許すな、と申し上げたでしょ」


 刹那。

 言葉がずきりと胸に突き刺さった。



のことは、この国の誰にも、決して知られてはならないの」

 霹靂にも似た微笑を浮かべて、レディ・アーテュラスはローブの裾を払い、しずしずと立ち上がった。


 世界が白と黒に満ち欠けてゆく。濃密な光と影。


「これは、アーテュラス家の存続にも関わることですの。背徳の破瓜を散らして生まれた子を聖女として列するわけにはゆかない。を持つ娘は多くいる。もしかしたら貴族の遠縁で、ルーンの血を薄く引くかもしれないから。でもね。の聖女は、もう、二度と、のよ」


 秘密の薔薇園へ誘い入れるかのような秋波を笑みこぼす。レディ・アーテュラスは、チェシーを挑発的な眼差しで見やった。


「もし、ホーラダイン卿を通じて、聖ワルデ・カラアにまであの子の名が知れたら。間違いなく、は、マイヤと同じ運命をたどることになるでしょうね」


「異端」

 チェシーは慎重に口をつぐんだ。こめかみを押さえる。

「魔女狩りじゃあるまいし」


 かろうじて困惑の笑みに口をゆがめ、言葉の奥に隠された感情を探りながらつぶやく。

 信じていないのは明らかだった。顔を上げ、いつも通りの、とってつけたような仕草で両手を広げ、首を振る。


「聖なる血筋に生まれたが故に、レイディは罪に問われると仰有るのか。あり得ない。矛盾し――且つ理不尽だ」

「理由は既に申し上げましたわ。私たちが《禁忌の壁》を必要とした訳も。すべてはを護るため。お分かりかしら?」

「仰有ることがよく……」


「あるいは、全てがもっと単純な、逆説の論旨と思って下さっても構いませんことよ」

 レディ・アーテュラスは、壁に描かれた呪いゲッシュを見つめた。


「ニコルさんが偽りの闇の誹りを背負ってくださるからこそ、ニコラはうたかたの夢として生きてゆける。たとえ、真実の名で二度と光の当たる場所に出ることが叶わなくとも」


 チェシーは唇を噛んだ。

「一つだけお伺いしたいことがある」

「残念ね」

 レディ・アーテュラスは、扇子を優雅にあそばせながらニコルの腕に手をからめた。

「これ以上はもう教えて差し上げられませんわ」


 くすくす笑いながら、女らしいなよやかな仕草でニコルに寄り添う。

 ニコルは臆面を隠せず、レディ・アーテュラスの横顔を見下ろした。


 チェシーは諦めない。

「では、なぜ、私にを明かそうとなされる」

 なおも食い下がる。


 レディ・アーテュラスは、長い睫を伏せるようにして視線をかわした。


「だって、知られてしまったものは仕方ないでしょ。協力を仰ぐ以上、ある程度は、こちらの手の内を明かすのが礼儀ですもの」

「ならばせめて、そう、レイディの居場所だけでも」

「あら、どうして?」

 レディ・アーテュラスは、そらとぼけたふうに小首をかしげた。

「ニコルさんに聞いてみればいいじゃない」

「教えてくれるようなら、元より貴女に聞きはしない」

「じゃあ教えない」

「……」


「もう、そんなお顔なさらないで」

 レディ・アーテュラスは、いたずらな春風のように笑い出した。

「嘘よ、嘘。困ったお方ね」

「困らせているのは貴女だ、マダム」

「だめよ」

 レディ・アーテュラスの口元が、うっすらと淡い微笑の色に染まってゆく。

「それでももう、あの子のことは探さないでいただきたいの」

「なぜ」


「もしまた准将にお逢いするようなことになったら、ニコラはきっと辛い思いをする。それだけのことですわ」

「どういう意味です、それは」

「さあ、どうかしらね」


 ニコルは、こみあげてくるもどかしい思いをどうにかこらえ、チェシーを見つめた。

 黙りこくってしまったチェシーに対して、レディ・アーテュラスは遙かに果敢だった。再び《禁忌の壁》に近づき、そろりと手を伸ばそうとする。


 ニコルは、あわててレディ・アーテュラスの腕を取って、引き止めた。

「義母さま、近づいちゃだめです」

「あらま」

 レディ・アーテュラスは肩をすくめる。

「思いのほか勘のおよろしいこと。でも、そうしないとさっぱり分からなくって……どの辺でしたかしら。ええと、ニコルさん貴方お分かりになって?」


「え」

 唐突に矛先を向けられる。ニコルは眼をぱちくりとさせた。

「何の話です」

「お話も無事終わったことですし、取り敢えず壁に触ってみて下さいな」

 ニコルはたじろいだ。レディ・アーテュラスを見返す。返ってきたのは変わらぬ微笑だ。


 覚悟を決め、手袋をはずす。ニコルは壁に向かって手を伸ばす。

 チェシーが不穏に目を細める。


 《封殺のナウシズ》がぎらりと青く光った。


 瞬時につめたい感覚が襲ってきた。指先が壁に触れる。黒い電流が、指先を伝って背筋を駆け上り、手首を絞め上げる。

 煙が立ちのぼった。壁の塗料が焦げているのか。


 ニコルは詰めていた息をちいさく漏らし、あえいだ。

 抑制された触覚が解放される。

 感じる。

 全神経を指先に集中し、呪いゲッシュにそって掌を滑らせる。

 掌へ吸い付く、使い慣れた感覚。

 意識が、水を打ったように研ぎ澄まされる。

 昏い負の重力を帯びた指先が、青白くゆらめいた。凍れる炎を孕んで、ふいに黒く燃え上がる。


 息をつき、いったん手を放す。

「大丈夫なのか」

 チェシーが緊張の面持ちで問いかける。


 ようやく全てを理解する。


 ニコルはかすかに笑って見せた。

 ずっと怖れていた。自身が異端とされる理由を、頭では理解していても、心の奥ではひそかに。

 だが、今は、違う。


 この呪いゲッシュが、何のために存在するのか。

 ここに、何があるのか。

 その理由を。

 マイヤの愛を。

 レディ・アーテュラスの勇気を。


 すべて。

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