こんな暗い、誰も来ない場所に――私と、二人きりで

「あちらに閣下の私物用チェストがございます」

 書架の端に垣間見えるチェストへ向かって歩き出す。

「あ、本当だ。わたし見てきます」

 ひゅんと風が吹き巻いた。

 子鹿のような後ろ姿が、かるがるとザフエルの横をかいくぐって跳ねてゆく。


 チェストにたどり着いたニコルは、さっそく引き出しを上から順に開けてゆき、三段目にぎゅうぎゅうと詰め込まれた膝掛けの山を見いだして歓声を上げた。

「ありましたわ、ほら」

 さんざんに引っ張り出し、中でも一番暖かそうなふわふわの毛布を広げると、両手に掲げ持って嬉しそうに駆け戻ってくる。

「ザフエルさま、お座りになって」

「閣下」

「いいから座って」

 ニコルは笑って椅子の後ろに回り込んだ。

「一番大きいの持ってきましたから一緒に座りましょ」

「……」

「いいからいいから」

 ニコルは離れていた椅子を引きずり寄せて二つ並べ、渋るザフエルを半ば強引に座らせてから、隣にちょこなんと腰を下ろした。肩越しに手を回し、二人で一枚の毛布をふんわりとまとう。

「そうそう、こんな感じ」

 ニコルはザフエルの手を毛布の中でごそごそ探しながら微笑んだ。

「山で遭難した人が暖を取るときってこんなふうにするんですよねいわゆるお約束っていうんでしたっけ」

「……」

「暗いし、寒いし。ちょっとどきどきするなあ。でも、一度こういうのしてみたかったんですよね。洞窟探検みたい。憧れてたかも」

 腕を組み、肩に頬を寄せて、まとわりつく子犬のように、にこにことくっつく。

「暖かい」

 ニコルはうっとりとつぶやいた。

「それに、何だか懐かしい気がします」


 ザフエルは表情を消した。

「どうしてそんなに無防備なのです」

 低くつぶやく。ニコルはきょとんとした。間近にザフエルを見上げる。

「ザフエルさま?」

 薔薇の瞳が無垢にきらめいてザフエルを仰ぐ。


「貴女は」

 それは聖なる血の色、ルーンのさだめを受け継ぐ聖女の色だ。

 ザフエルは目をそらした。ぬくもりに捕らわれた腕が恐ろしい。

「怖くないのですか」


「何が?」

 ニコルは不思議そうな面持ちで尋ねる。ザフエルは吐き捨てた。

「こんな暗い、誰も来ない場所に――私と、二人きりで」



 しばらくは二人とも何も言わなかった。

 ニコルが身じろぎする、かすかな布ずれの音だけが伝わって聞こえた。他には何の物音もない。

 やがて、ニコルは少し困った顔でうつむいた。

「ザフエルさまは、わたしの記憶を取り戻す方法を探しに、わたしをここへ連れて来てくださったのでしょ」

 ちらりと鉄格子を見やってから続ける。

「こんなことになってしまって、むしろ申し訳ないのはわたしのほうです。なのに、一緒にいてくださるザフエルさまを怖いだなんて」

 ニコルは困惑したように笑った。

「思うはずないです。それに」


 しゃべるたびに白い吐息が立ちのぼる。


 ニコルは、毛布に隠れたザフエルの手をたぐるように探し当て、ぎゅっと握りしめた。ザフエルにとって、直接触れるには華奢すぎる手だった。冷たくもあり、熱くもあり、恐ろしくそして愛おしく、まるで光を寄せ集めたかのようにやわらかい。


 ニコルは、もじもじと身体をゆすった。かすかに頬をあからめる。


「さっきまではね、ちょっと戸惑いはしてましたけど、でも記憶なんてあってもなくてもあんまり変わらないような気がしてて、ザフエルさまもどうやらわたしのことをよく知ってくださってて変わらず接してくれるみたいだし、勝手に安心だって思ってて、だから別に、記憶喪失なんて急いで治さなくても大丈夫かなって……ザフエルさまがそばにいてくださる間は、その、軍人としてのわたしの立場もあるかもしれないですけど、別に困らないかなって、ちょっと思ってました。でも」


 ニコルは声の調子を落とした。

「でもそれだと、ザフエルさまのこと、忘れたままでもいいってことになっちゃう。覚えていない相手なのに、怖いか? って聞いてくださってよかった。ぜんぜん怖くないです。でも、だからこそ覚えてないのは嫌です。覚えてないのに、どうしてこんなに安心して、そばにいて、頼ってられるんだろうって考えてみたら、やっぱり元々のそういう信頼関係や絆があるからですよね? それぐらい近しい人なのに――忘れたままだなんて嫌です」


 ニコルは、ザフエルの腕にそっと身を寄せた。肩に顔を寄せる。


「ザフエルさまのこと、思い出したい。後で思い出して、ぎゃーってなってもいいです。怖くてもいいです。忘れたままでいたくない」

 ザフエルは答えなかった。

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