誰にも言ってはいけない

「どうしてこんなことになっちゃったんだろ」


 なおも心細げに、ニコルはザフエルの袖をぎゅっと掴む。

 頑なに膝へ置いたままだった手が、心ならずも反応した。我知らず立てた指先が膝へと食い込む。

 その気になれば振り払えるはずだった。あるいはおろかな幻想だと言い放つことも。


 思い出すまでもない。

 あの日見せられた寓意の景色。

 意に沿わぬ代償として、羽を折られ、閉じこめられ、ただ遠い空を見上げるほかに夢みるすべをなくした


 ザフエルは、ニコルの横顔を見下ろした。

 拳をこわばらせてはゆるめ、また愚かしくもこまねいて握りなおす。腕そのものが、膝へ貼り付いてしまったかのように動かない。

 ニコルは、ザフエルのわずかな反応に気付いたらしかった。顔を上げ、くすんと小さくしゃくり上げる。

「ごめんなさい」

 身体を離し気味にし、おどおどとうつむく。

 寒さのためか、声がわずかに震えているように聞こえた。

「すみません。どうしよう、やだ、恥ずかしいな。こんな情けないこと言ってちゃいけませんよね。だって、一応、わたしも軍人のはしくれなんですもんね。いけない、こんな気弱なことじゃ。ナシナシ。今のはナシ。聞かなかったことにしてください」


 ザフエルは再び腕が動かなくなるのを感じた。ニコルは、ぶるっと、今度こそ間違いなく身体を震わせた。

「大丈夫です。すぐに頑張って思い出しますから。だから、もう少しだけ待ってください。あと少し。あとちょっとで思い出せそうな気がしてるんですよね。もうすぐそこまで来てますから。うーん。うーん」


 しゃべればしゃべるほど襤褸が出る。こんなにも分かりやすい嘘をしらじらとつくとは、哀れにも程があった。言葉もない。

 

 ザフエルは書庫の入り口へと再び目を走らせる。

 薄緑の色に濡れて光る床。累々と無秩序に折り重なった本の山。

 その向こう側、疑獄にほくそ笑む鉄格子がなおいっそう黒々とした影を落とし、偽りの安寧をもたらす眠りの毒を匂わせている。


 眠り粉の罠。蛍光の霧が渦巻く。


 それは、絶え間なくあふれ落ちる冷気にも似ていた。本の山を越え、気流にかき乱されながら、ひそやかに足下へとからみつき、這いのぼってくる。

 だが、奇妙なことに。

 ニコルの腕にある先制のエフワズは、全くと言っていいほど反応していなかった。青い光を放つ封殺のナウシズだけが、毛布の下、足元にかけて、青白い光の輪を落とし広げている。

 眠りの毒に呼応しているのか、それとも悪魔の残り香に反応しているのか。


 ともあれ、この状態では、書庫全体へ眠りの毒が回るのも時間の問題だと思われた。ニコルは気づいていないが、そもそも毒を自覚させては罠の役をなさぬ。侵入者を生け捕り、自決の機会を与えぬための罠なればこそだ。

 猶予は数分。長くても十分以内には意識を失う。


 ザフエルは冷静な思議を巡らせた。迂闊に時を浪費すれば、毒を自覚する暇もなく相次いで眠りの奈落へと落ちてゆくことになるだろう。

 だがそれでは――


 ニコルは、またまたぶるっと身体を震わせた。

「まだまだですね、わたしって」

 あわい微笑がこぼれる。

 吐息が揺れた。いっそう白く立ちのぼってゆく。ニコルは蒼白なくちびるをほころばせた。頭を振る。

「たぶん、以前のわたしも、ザフエルさまに頼ってばかりだったんでしょうね。はやくしっかりした大人にならなくちゃ。自分で自分の中の気持ちをきちんと整理すべきでした。ホントに大変なことは誰にも頼っちゃいけない、全部、自分でやらなくちゃいけない、さもないとわたしのせいでほかのひとにひどい迷惑を掛けることになるから、だから、本当のことは誰にも言ってはいけないって、ずっと、ずっと、言われてたような気がするのに、ぜんぜんこれじゃできてな……ぁっ」


 声が途切れる。


 手が、勝手に動き出していた。

 まといつけていた毛布がはだける。寄り添う膝があらわれた。

 毛布の裾が乱れ、床にわだかまり落ちる。


「閣下」

 慇懃に、だが有無を言わさず引き寄せる。不意の動作に、ニコルが息をつめるのが聞こえた。

「ザフエルさま」

 薔薇の瞳に動顛が走り抜ける。

「な、何……?」

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