知られた


「お望みとあらば喜んで」

「よかった」

 ニコルは相好を崩し、手を打ち合わせた。

「じゃあさっそく持って上がりますね」

 ザフエルのひそやかな変調にはまるで気付きもせず、どうにかこうにか結び終えた本の束をぶら下げてみる。だが努力の甲斐無く本の束はぐんにゃりと斜めにたるんだ。どこをどうひっくり返してみてもゆるゆるだ。

「あれ、ほどけちゃった」

「お持ちします」

 ザフエルが手を伸ばす。

「いえ、これぐらいでしたらぜんぜん平気ですわ」

 軍人たるもの、たかがこれぐらいの荷物など何するものぞ。しかしどうにも安定が足りない。

 両腕に抱え込んではみるものの、きっちり結んだはずの紐はだらんと垂れ、今にも崩壊しそうだ。それでも、何とか持ち上げられる。

 ニコルはさっそく、あっちへふらふら、こっちへよろよろしながら、鼻高々に荷を揺すった。

「やればできるものです。心なしか、にこういう作業、こき使われ慣れてる気がするんですよね……うわっとっと」


 ザフエルは眼をそらした。

「閣下」

 こわばった声がもれる。


「はい?」

 一瞬の静寂。


「よもや」

 ふいに予想だにせぬするどい声が突き立てられた。

「あの男に――サリスヴァールに悟られてはおりませんでしょうな」

 唐突な問いに、ニコルはぎくりとして立ちすくんだ。本の束がぐらりと傾ぐ。

「ももももちろんに決まってますわ」

 あわてて本の塊を抱き支えながら、かろうじて表情を取りつくろう。

「あの方でしたら全然大丈夫ですわわたしのことなんかよりたんこぶばかり気になさってましたしむむむしろ逆にその」

 そこでニコルは、ぴき、と顔を凍り付かせた。


 言っちゃった……。


 冷たい汗がじわりと滲み出てくる。

 汗は次第に量を増し、やがてたらーり、たらーりとガマの油みたいに流れ始めた。

 これは真剣にまずい。確か、何だっけ、ええと、誰かの名誉のためにとか何とかで口止めされていたはずだ。誰の名誉か全然思い出せないけれど、でも、ああ、どうしようどうしよう、なぜ、口止めされていたのだったっけ。

 あまりにも汗だらだら過ぎて、顔ごと流れ落ちてのっぺらぼうになってしまいそうだ。どうすればこの場をうまく切り抜けられ――


「ふむ」

 ザフエルは気のない様子で、燭台の灯のほのかに乱れるのを眺めた。

 じりじりと燃えくゆる火が、細く苦い煙を立ちのぼらせている。

 焦げ茶色の残像が闇にゆらめく。

 天井には歪曲の影が躍る。


「つまりその」

 ニコルは、書庫の出口に向かってじりじりと後ずさった。

 ごくりと喉を鳴らす。

 何とか思い出せた。確かこう念を押されたのだ――誰と会ったか、ではなく、どこで会ったかを知られてはならない。そう言われたことを。


「その、サリスヴァールさまとお会いしたのは地下で迷子になる前で、案内してくださるはずだったのですが、あの、つまり、要するにはぐれて」

「知られたと」

「そういう意味ではなくて」

「もしそれが事実であるならば」

 ザフエルは眼を陰鬱に伏せた。

 氷の吐息が流れ出す。

 ニコルはぞくりとしてザフエルを見やった。どこか遠くに隙間風が鳴っているような、そんな気がした。

「あの、もしかしたら、何か大変な誤解をなさって」


「見過ごすわけには参りませんな」

 ニコルはぞくりと身をこわばらせた。

 寒気に襲われ、総毛立った真っ青な顔で言いつのろうと口を開きかけて。

「ふがっ」

 なぜか、中途で声が途絶える。


 ――ふが?


 ザフエルがちらりと鼻白んだ眼をくれた。

 眼がしょぼしょぼする。鼻の奥もやたらひどくむずむずとして。

 これは、もしや。

 恐るべき予兆にニコルは震撼した。

 再びまずい。激しくまず過ぎる。このふがふがはどう考えても先ほどの生理的欲求再来の図としか思えずしかもこの体勢で再びくしゃみしてしまった日には本が本がそれも大量にふがあっってだめっ……ぁっ……ふがっ……やだ、出ちゃ……ふわっ……ふぇっ……


「……ぶえーっくひょー!」


 というわけで、ニコルは抱えていた本を炸裂弾さながらにとっ散らかしながら、再び盛大なくしゃみをさんざんばらばらと吹き上げた。


 当然、手にした多数の本の行方は推して知るべし、である。


 天井に跳ね、書棚を突き抜け、壁へと激突した本の大群は、さまざまな投射角を描いたのち、あちこちに跳ね返った。天に唾するのことわざどおり、それらの本はごちごちごちと鈍い音をたて、あるものはニコルの頭上へと自業自得の集中砲火。またあるものはカーペットを敷き詰めた書庫の床へと降り注いだ。


 その振動と衝撃と怒濤の騒擾に入り混じって。

 なぜか。

 かちり、と。

 異質の音が鳴り渡った。

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