もう一つの、お願い

 暖かみの消えぬうちに、粛としてニコルの肩へと回し掛ける。

「ご自分の身をこそ何よりも第一に案じられませ」

「い、いえ、でも、あの、それはちょっと」

 ニコルは固唾を呑んだ。強引に上着を着せようとするザフエルの手を押し返す。

 暖炉もなく、灯りもひとつしかない。壁に躍りゆらめく影さえ、こごって見える。身体が冷え切っているのは自分も相手も同じだ。


「なりません」

 問答無用だった。ザフエルはニコルの肩を半ば抱くようにして、ぶかぶかとずり落ちてくる上着のかたちを整えた。その後、やや神経質な仕草で、襟元のスカーフや飾緒のねじれを直しはじめる。

 丁重な、だがひんやりとつめたい指先が喉元に触れるたび、ニコルは心なしかすくみ上がって身をこわばらせた。

 息を吸い止めてザフエルの優美な指使いを見つめる。


「ルーンの、直系って……?」


 ザフエルは戯れにスカーフをもてあそんでいた手を止めた。

 どこか他人行儀な、痛々しくさえある仕草。

「いえ、別に」

「でも」

「何でもございません。お忘れになって下さって結構です」


 暗にこれ以上は訊くなと――


 思わせぶりに耳打ちしておきながら拒絶するその心裡が、何一つとして分からない。

 以前からずっとこんな態度だったのか、それとも記憶を失ったことに由来する何か憤りのようなものがあるのか、それすら分からない。

 だが、暗澹としているわけにはゆかなかった。

 長すぎる袖の中で凍える手をもみしぼり、息を吹きかけて暖めながら、この後何をどうすればよいのか、まるで役に立たぬ頭で考えを巡らせる。


 このまま、見知らぬ優しさに甘えきってしまうわけにはゆかない。


 たとえどれほど素っ気なく見えようと、ザフエルが、彼自身のことよりむしろ自分の――彼のことを覚えてすらいないニコルの身を案じて行動してくれているのは、ありありと肌で感じていた。

 だが、今の自分を庇うことが、ザフエルに多大な負担をかけることになるだろうことは想像するに難くない。

 上着を貸してくれたことにしてもそうだ。騎士道精神といえば聞こえは良いが、いくら平然としてはいてもこのきびしい寒さである。長時間過ごせるわけがない。

 だからといって、いかにも気難しげなこの軍人を言いくるめ、暖かい部屋へ帰らせるなどほぼ不可能に等しく、かといってザフエルの補弼なしではきっと何ひとつ満足にこなせない。


 つまりは、指揮官としての責務を放棄し、記憶を失った状態のまま、無為無策の日々を重ねることこそ、最も許されぬことだと――

 ザフエルはそう言いたいのだろう。


 それは分かっている。

 痛いほど分かってはいるのだけれど。

 ためらえばためらうほど、迷えば迷うほど、心の奥底に沈んだ記憶のかけらが儚い光を放って溶け、揺らぎ、消え落ちてゆく。


 ニコルは、掌中のザ印ハンカチを見つめた。くしゃりと握りしめる。

 闇へと消えていったサリスヴァール。

 光を携え、現れたザフエル。

 ともすれば忘れてしまいそうになる二つの名を、何度も心の中で繰り返す。

 思い出すのも怖かった名前。

 思い出せないことを申し訳なく思う名前。


 背反する想いに心がちくりとさいなまれる。

 いったい、この二人の何が違っていたというのだろう。


 そこでぶるぶると頭を振り、頭の上に乗ったたんこぶを押さえる。

 よほど打ち所が悪かったのだろう。このたんこぶのせいで、今のこの記憶さえ、たぶん、数十分後、数時間後にはまた消えてしまう。どうしようもないことをくだくだ悩んでいては何の解決にもならない。


「そうだ」

 ニコルはふいにきらりとメガネを反射させ輝かせた。表情をぱっと明るませ、手を打ってザフエルを見上げる。

「素晴らしい名案を思いつきましたわ」

「一応お伺いします」

 ザフエルは相変わらず素っ気ない。

「この本を全部」

 そんなことは気にも留めず、ニコルは両手をいっぱいに広げて、机の上に積み上げられた大小の本をじゃーんと一斉に指し示した。

「上に運んでしまえばいいんです!」

「理由は」


 思い立ったが吉日とばかりに、さっそくニコルは本をまとめる手際も悪く積み上げにかかった。なぜか都合良く目に付いた紐で縦横デコボコに縛り上げながら、力いっぱいザフエルへ微笑みかける。


「わたし個人の部屋に持ち込めば、軍の他の人はそうそう入ってこられないでしょ。それに本を運ぶ作業中なら長々と立ち話もできないですし、そうしたらまず記憶のことは気付かれないで済みますわ。あ、でも、どうしましょ」

「何が」

「自分の部屋の場所が分かりません」

「ご案内申し上げます」

「よかった」

 ニコルはそれを聞いてほっと安堵の胸を撫で下ろした。にっこりと笑いかける。

「うんって言って下さらなかったらどうしようかと思いました」

 ザフエルはわずかに眼をほそめた。

「なぜ」

「だってもし、わたしのせいでザフエルさまがお風邪召したりしたら」

 言っているうちに、何だか少し気恥ずかしくなってきた。

「それじゃあまりにも申し訳なくって。でも、もしお時間のほうがよろしかったらその、わがままついでなんですけどもう一つあの、お願いさせていただいても構いませんでしょうか」

「何です」

 ニコルは頬を真っ赤にしてうつむく。

「ええと、そのう、やっぱり、ちょっと不安で。も、もしよろしかったら」

 もじもじと指先を突き合わせ、手を揉み合わせる。

「しばらくの間、せめて記憶が何とかなるまでお側に置いてくださると……嬉しいかな? って」


 ザフエルは黙りこくった。

 机上の一点を凝視し、口の端をわずかにゆがめて動かない。

 ニコルはおずおずと顔を上げた。

「あの」

 おそるおそる尋ねる。

「だ、ダメですか……?」

 やはり反応はない。

「……ザフエルさま?」


 ザフエルはおもむろにニコルを見返した。

「傍、とは」

 押しつぶした機械的な声が返ってくる。

 青白い顔はいつになく人形めいて、まるで何か肝要なものがごそりと欠落してしまったかのようだった。

「あの、どうかなさいまして?」

「いえ」

 ザフエルは己の胸元に手をやった。胸襟をまさぐり、シャツの上から何かを握りしめる。

「別に、何も」


 声に、血の色にも似たかすかな緊迫が混じる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る