2 金髪の人

火薬庫

 そのころ上の階では。

「もっと早く走るです、殿下!」

「む、無理だよもう」


 ぜえぜえと肩で息をしながら、咽せたように廊下を転がり走るフランゼスを、紺のワンピースにふりふりエプロン、といういつものメイド姿をしたアンシュベルが泣きそうな顔で急かす。

 角から顔だけを突き出し、足踏み速度も最大、身体だけが今にも前を向いて走り出しそうだ。

「無理だよじゃないですっ。だいたい、そんな状態の師団長をほったらかしにして逃げて来ちゃうなんて絶対信じらんないです殿下のいくじなし!」

「だ、だから、ごめんって……」

「ごめんで済んだら警察サンは要らないんですっ学校で習わなかったですか!?」


 人形みたいなふわふわの巻き毛。主のニコルとは雲泥の差な体つき。

 切迫の息をはあはあと弾ませながら、アンシュベルはスカートの裾が巻き上がるのを気にとめもせず廊下を駆け抜けた。

 ようやく執務室にたどり着く。

 アンシュベルはまた後ろを振り返った。顔を土気色にしたフランゼスが、千鳥足でよろよろと壁にすがってやってくる。

 執務室の扉は、何事もなかったかのように閉まっている。アンシュベルはためらうことなくドアに手を掛けた。


「師団長ーーっ!」

 ばんっと蹴破る勢いでノックも無しに中へ飛び込む。


 だが、何の反応もない。

 執務室はがらんとして、何の気配もなかった。早くも薄暗くなりかけた執務室に、しんと冷たい空気だけが残されている。


「そ、そんなあっ」

 アンシュベルは愕然と声を詰まらせた。

「師団長、隠れんぼしてる場合じゃないです……どこに行っちゃったですか!」

「い、いないって。そんな、馬鹿な」

 ようやく追いついてきたフランゼスが、いつにも増して蒼白な顔で呻いた。部屋の中をぐるっと見回し、はっと気付いて続ける。

「ル・フェがいない。あの悪魔まで、い、いなくなってる」


「ああもうサイアクすぎですっ」


 アンシュベルは頭を抱えた。両頬を押さえ、身を折り、天を仰いで、ふるふると頭を振る。

「とにかく、このままでは非常にマズイですっ」

「さよう」

 冷ややかな指摘が廊下側の薄暗がりから下される。

「まずは扉を閉めて誰にも声を聞かれぬよう計らうべきかと」

「そ、そう、その通りだよアンシュベル」

 焦った顔でフランゼスは同意し、開きっぱなしになっていた扉に駆け寄った。

 廊下に顔を突き出し、きょろきょろと左右を確認して誰にも聞かれていないことを確認後、ばたんと戸を閉め、震える手つきで鍵を掛ける。


「とりあえず、これで何とか」

 ふう、と安堵の吐息をもらして振り返り――

「ってわああああいつの間に!」

 仰天の悲鳴にアンシュベルもまた飛び上がった。つられて悲鳴を上げる。

「きゃあ出たああっ!」


「……静かにせよと申し上げたはずですが」

 黒髪が揺れ、かつん、とブーツの硬い踵が床に鳴って。


 一瞬のうちに執務室へと身を滑り込ませてきたザフエル・フォン・ホーラダインは、靴音を響かせながら部屋の中央に佇立した。

 腰に手を添え、総毛立つ無表情を薄闇にまぎらわせて、主不在の執務室を見渡す。

「閣下は何処に」


 みるみる部屋の気温が下がってゆくような心地がして、アンシュベルは声を失った。フランゼスに至っては、恐怖のあまりがたがたと震え出している。

「そ、その、あの」

「端倪すべからざる事態、と」

 ザフエルはひそやかな焔を宿した闇の眼差しをフランゼスにちらりとくれて、言った。

「最初から説明していただきましょうか、フランゼス公子殿下」



「え、えーと、ここは……うーん?」


 鼻をつままれても分からない、灯り一つ無い狭い廊下を、ニコルはおっかなびっくりにたどっていた。

 なぜか腕にくっついていた赤と青の不思議な宝珠のおかげで、かろうじて歩くに足る光量は確保できているものの、どうやってここまで来たのか、どうやって元に戻ればいいのか、皆目見当もつかない。


 おそらく城の地下にあたる場所なのだろう、ひんやりと湿った空気が漂っている。よどんだ空気やかび臭さがあまりないのは、わずかに流れる換気の風のせいか。

 廊下の左右には、漆黒に塗られた怪異な扉がまるで墓碑か何かのようにずらりと並び、厳重な雰囲気を醸し出している。掛かっている錠前も妙に堅牢で、少々の攻撃では打ち砕けそうにもない。


 かすかではあるが硝石の臭いがしてくる。

 ここは――ニコルは冷静に考えた。武器庫。あるいは火薬庫だ。でも何かがおかしい。訝しみながらもゆっくりと歩き続ける。

「あ」

 声をあげて立ち止まる。


 ここにたどり着くまで、誰にも会わなかった……。


 それが違和感の元だ。ここがもし武器庫なら、歩哨の一人や二人配置されていないと不自然だ。

 その事実に気付いたとき。

 かつん、と苦い靴音が響き渡った。赤色の宝珠がふいにきらめきを増し、焦燥のかぎろいを放つ。

 赤い光が唐突にちらついた。砂嵐のように乱れ始める。何かを告げる光。なのに、感応できない。もどかしい思いがこみ上げる。


 暗闇に、誰かがいる。


 ニコルはぞくりとして目をこらした。


 険しい眼光。するどい青の瞳。息を殺し、気配をひそませて、こちらを見つめている。

 寒気がこみ上げた。

「だ、誰……かいるの……?」

 こころぼそく誰何する。声がわずかに湿り気を帯び、反響してゆく。

「驚いたな」

 闇の奥に一瞬、はらはらと金の砂をこぼしたかのような幻光が見えて、ニコルは息を呑んだ。

 金属の鳴る音。剣の音か。

 ゆっくりと近づいてくる。

「まさか、君に気取られるとは思わなかった」

 奥底に不穏当な笑いをにじませた声が聞こえた。

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