その結果どうなるかは――覚悟しておいたほうがいい

 どういうわけだかフランゼスは恐怖まじりの涙声を上げたかと思うと、身をよじり、鼻を押さえ、半ばつんのめるようにして部屋から逃げ出していったのであった。


「え」

 襟元に手をかけ、微笑を口元に貼り付けたままの不自然な体勢で、ニコルは呆然と動きを止めた。

「な、何?」


 気がつけば、ひとりぽつんと部屋に取り残されている。


 頭上で悪魔が腹を抱えて笑い転げている。さすがに居たたまれなくなってニコルはフランゼスを追い、ソファから離れた。

 ドアノブに手をかけはしたものの、無理を言って連れ戻す気にもなれず、そのまましょんぼりとため息をつく。


 どうすれば元に戻れるのか、今から何をすべきなのか、まるで分からない。


 記憶のつてを求めて、所在なく窓辺に近づく。

 またひとつ、ため息。


 だが、ごちゃごちゃと一見いとけない部屋を見回すうちにニコルはふと眉をひそめた。

 この部屋の構成――


 カタカタ動くゼンマイからくりやパズルなど、子供じみた印象の大半を占める私物はともかく、その他の調度や蔵書などはまぎれもなく軍事的なものばかりだ。

 四隅の旗は軍旗のようだし、地図や絵画もそう。これだけ詳細な地図であれば、おそらく民間人ならば所蔵どころか閲覧すら許されないだろう。

 本棚に並んだ書名もまたほとんどが兵法、歴史、築城、衛生、銃火器類の構造解説など戦争に関する論述書だ。

 目立たないように色を気遣ってはあるものの、天井には伝声管の管が何本も伝い渡され、使い込んだ飴色の柱時計もまた確かな時を刻んでいる。

 それだけではない。

 ニコルは、自分が着用している軍装をまじまじと見下ろした。

 白地に青く折り返した袖口の金刺繍、肩章、掛け渡した肩帯。そのどれにも月桂樹と薔薇の装飾が施されている。

 先ほどは見えなかったが、デスク脇にはすり切れた細革ベルト付きのサーベルまでが引っかけられていた。

 当然、本物だ。


「……わたしって、ホントに軍人だったんだ……」

 それでようやく腑に落ちる。


 先ほどからさんざんフランゼスが口調の話をしていたのは、男だとか女だとかではなく軍人、それも将校にふさわしいかどうかという観点によるものではなかったろうか。要するに、それらしいきちんとした威厳ある態度を取っていないと麾下の者に示しがつかず何かと任務遂行が困難である、云々。


「ああ、そうか!」

 ニコルは沈んでいた表情を一転して華やがせた。

 ここまで完璧に頭の中で言い訳が構築できるなら人間確定である。

 ぺったんこの胸前で両手を揉み合わせ、ひとり良かった良かったと大きくうなずいてみせる。

「なるほどね。じゃなくて、なるほどでありますわ! ね、悪魔さん?」

 ところが悪魔はなおいっそう抱腹絶倒するばかりだった。ぎゃははは、と床をばんばん叩く真似をして転げ回り、まるで会話にならない。

「……そんなに笑うことないでしょ」

 ニコルはさすがに少しむっとして、下くちびるをつんと尖らせた。

「いじわるな悪魔さんね」

 ふいとそっぽを向いて歩き出す。悪魔は笑うのを止めた。あわてた仕草で後を追ってくる。


(どこ行く気だよ)

「存じませんわそんなこと」


 ニコルはつっけんどんに言い返す。悪魔は意地悪な目をきらりと光らせ、ニコルの頭に舞い降りた。

(ま、いいけど。でも、それでどうする気? 哀れなあの公子を放ったらかしにしておく気?)

 指に髪を巻き付けて、くいと後ろへ引っ張る。

(知らないよ、どんなことになっても。下手にうろちょろしないで部屋でじっとしといてやったほうが、君のためにも彼のためにもなると思うけど?)


「それはもちろんそうでしょうけれど、でも」

 悪魔にしては正論である。ニコルは悄然と肩を落とした。ぬいぐるみが滑り落ちてくる。

「フランゼスさままで急にいなくなってしまわれるし……わたし、いったい、どうすれば」


(ひとつ、良い方法があるんだけど)

 悪魔はニコルの髪に尻尾を巻き付けロープ代わりにして逆さにぶら下がった。そのまま、にやにやと誘って笑う。

(……聞きたいかい?)


「ええ」

 誘導されるがままニコルはおっとりとうなずいた。

「お願いしますわ」

(なにっ)

 悪魔は途端に脱力してぼてっと床に墜落した。


「大丈夫?」

 急いでしゃがみ込み、拾い上げる。悪魔はいきなり飛び起き、翼を打ち振ってニコルの手から逃れた。

 ぬいぐるみらしからぬ鋭い眼光を放って喚き散らす。

(少しは疑えよ! 僕を誰だと思ってる。あのサリスヴァールをして最低最悪と呼ばしめた魂の冒涜者、紋章の悪魔ル・フェ様であらせられるんだぞ……と言ってもどうせ君は忘れてるんだろうけどね。かつて、この手で君を、《ナウシズ》の守護たる君を殺そうとし――)

 ガラス玉の目が苛烈に細められる。


 ニコルはくすっと笑った。

「よかった」

(は?)


 中空に浮いた悪魔の口を指先でそっとふさいで黙らせる。

 呆気にとられた悪魔が弄舌な口をつぐむと、ニコルは穏やかに小首を傾げて続けた。

「かつては、ということは今は違うってことでしょ? 経緯は全然思い出せないけど、でもこうしてわたしのためにいろいろ考えてくださってるんですもの、疑う理由なんかありませんわ」


 悪魔は、うっ、と押し黙ってからぶるぶる頭を振り、負けじと横を向いて舌打ちした。

(ふ、ふん。君如きに我が深謀遠慮を都合良く解釈されたくなんかないね……)


「それで、良い方法って?」

(少しは人の話を聞けよおい)

「だから今訊いてますわ」

 悪魔は諦めのためいきをつく。

(つまりだな……)


 ……かくかくしかじか。


(というわけだ。とりあえずそれで君が君らしくない、という状況を釈明することはできる)

 悪魔がひそひそと耳打ちで説明し終えるのを待って、ニコルは済まなそうにもじもじした。

 悪魔の腹に宿った《紋章》を当惑のまなざしで見やる。

「いい考えですわ。まずはそれでお願いしたいと思います。でも、それでも、肝心の記憶はどうにもならないんじゃないかしら」


 ……。


 悪魔は頭を抱えた。ニコルもまた、しょんぼりと落胆する。

(こうなったらもう諦めてあの連中に頼るしかないね)

 悪魔は捨て鉢になって吐き捨てた。

(その結果どうなるかは――覚悟しておいたほうがいいだろうけど)


 ニコルはどきりとして悪魔を見つめた。

「そ、そんなに……怖い人たちですの?」

(怖いも何も)

 悪魔は遠い目をしたかと思うと、ふいにぶるりと身を震わせた。

(悪魔中の悪魔と言っても過言ではないね)


 ニコルは眼を恐怖に押し開いた。ふるえる薔薇の瞳で悪魔を見つめ、口許を手で押さえ、息をすすり込む。

「まさか、そんな」

 他に声もない。

 寒気に襲われ、両の手で自分の軍衣の袖をぎゅっと抱きしめる。

 まさか、悪魔に悪魔と罵られるほどの人間がこの城にいるなんて。それも一人ならともかく、二人も。


 一体、どれほどの凶悪さを秘めた連中なのか……!


 だが、怯えていても致し方ない。

 ともすれば千々に乱れそうになる心をおさえ、気持ちを落ち着けて、ゆっくりと呼吸を整える。

「……わかりました」

 ニコルはきゅっとくちびるを引き結んだ。

「わたし、自分でどうにかします」

(は?)

 悪魔はまた素っ頓狂な声を上げた。

(何言ってるん……)

「自分の記憶ですもの」

 ニコルは、凛と強い眼で悪魔を見返した。結果はどうあれ、こういうときは深く考えず単純に前向きに行き当たりばったりに立ち向かうべきなのだ。当たって砕けろとはよく言ったものである。……砕けてしまっては困るのだが。

「自分で取り戻します!」


(はあ? だからそういうことじゃなくてさあ……)

「留守居をお願いしますね、悪魔さん」

 ニコルはきりりとした顔でぬいぐるみに下知言い渡すと、問答無用な態度でデスク上の毛糸かごへぽいと放り込んだ。


(ちょ、ちょっと待てよ、勝手に)

 悪魔が狼狽の声を上げる。何か破れたような、ぴり、っという音がした。

(ってあいたた、何だこりゃ引っかかって動けな……うわ、腹の糸ほつれてんじゃねえかよどうしてくれんだよオイちょっと待てコラいやあの待ってください守護騎士さま……あああ!)

「では、斥候に行って参ります」

 ぬいぐるみがじたばたと羽根をばたつかせるのを後目に、ニコルはするりとすばやく部屋を歩み出た。

 大きな扉を後ろ手にばたんと閉める。


 用心深く左右を見回す。フランゼスはいない。どうやら無駄に遙か遠くまで逃げていってしまったらしい。

 わずかにくちびるを噛み、胸元のスカーフを抜き払う。

 それを軽く振って形を整えると、ささっと頭に被った。身元を悟られぬよう頬被りする。

 しかしたんこぶが邪魔になってうまく顎で結べない。しかたなく、泥棒よろしく鼻の下に結び目を作ってみる。

 悪くない。

「これでよし、と。まずは、そうね」

 神妙なほっかむり顔で考え込みながら、ニコルはつぶやいた。

「……フランゼスさまが仰有ってた、アンシュベルかヒルデ炊事長を捜すのがよさそうだわ」


 と、いうわけで。

 国家防衛の任に当たるべき己が重責をすっかり忘れきったニコルは、自らの記憶を探すという崇高な決意を胸に秘め、網の目のように複雑に絡み合った城砦ノーラス内奥部へと――進む先の階段がいったいどこへ繋がっているのか、ろくすっぽ考えもせぬまま、呑気にかつ闇雲に、すたたたと駆け降りてゆき。


 当然と言えば当然であるが、その、五分後。


 早くも迷子となっていたのであった。


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