「腐っても公国元帥にして第五師団長、あなたの上官ですよ」


 瓦礫の下に誰かが倒れている。


「そう、それ。それが、」

 笑い声が耳障りにひびいた。

「彼だよ」


 まさか。

 ニコルは後ずさった。

 あり得ない。

 ふいにどっと泣き笑いがこみ上げた。

 どうせまたいつもの見間違いだ。駆け寄って揺り起こしてみたら実はパン屋のおじさんの看板だったとか、はたまた街の広場で良く見かけるおしっこ小僧の石像だったとか、あるいは本当にチェシー本人だとしても結局大したことじゃなくて、それこそさっきみたいにやられた振りをして突然お尻をナデナデし始めたりだとか。

 そんな冗談、チェシーならやりかねない、チェシーなら。なのに、どうして、こんな――


「チェシーさん」

 ニコルは足下の瓦礫を跳ね飛ばして駆け寄った。今にも転びそうになりながら、瓦礫の山に閉じこめられたチェシーのもとへとたどり着く。

「チェシーさん!」

 埋もれた腕が、ぴくりと動いた。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ振り払う。泣いている場合じゃない。ニコルは痛みに砕けそうな腕で瓦礫を掘り返し始めた。作業する端から割れた石煉瓦ががらがらとくずれ落ちてくる。

 あおざめ、砂埃に汚れた血まみれの顔が半分、現れる。

 絶句する。

 ニコルごときの力ではどうすることもできない巨大な壁が、折り重なるように崩落してチェシーの救出を阻んでいた。手の施しようもない。それでもニコルは必死に瓦礫を取りのぞき続けた。

「チェシーさん……」

 無力感にさいなまれつつ、沈痛に呼びかける。

「ああ」

 意識を取り戻したらしい、うつろな声が答えた。

「君、か」


 声に混じる、なまぬるい死の臭い。


 ニコルは身体が震え出すのを感じた。とっさに顔をそむけ涙をこらえて、くしゃくしゃ極まりないひどい笑い顔を作ってのぞき込む。

「だ、だ、大丈夫です。こんなのすぐですから。だから、あの、……!」

「そんなに泣くことはないだろ。しっかりしろ」

 血まみれのチェシーが掠れた声で笑う。

「泣いてません!」

 ニコルはついに泣き出しかけながら怒鳴り返した。

「すぐに救出します」


「せいぜい感謝の意を表してやるんだね」

 フランゼスは座っていた壁の残骸からひょいと飛び降りた。水面をついばむ鳥のように、瓦礫の上をとん、とん、と跳ねて近づいてくる。

「本当なら街ごと吹っ飛ぶはずだったのにさ。彼にほとんど撃墜されちゃったせいで大失敗だよ。いや、それにしても意外だね。サリスヴァールなら、君たちを捨てて絶対一人で逃げると踏んだのに」

 賢しらな眼が笑っている。

 ニコルはこぶしの背で涙をぬぐった。

 ぎりぎりと歯を食いしばり、睨み付ける。

「フラン……」

「まさか本当に君を庇うなんて愚挙を犯すとは思いも寄らなかった」


 はっ、としたときにはもう、目の前にフランゼスの手が伸びていた。喉をわしづかみにされ、悲鳴を上げる間もなく吊り上げられる。

「……!」

「もしかしたら、さ」

 もがくニコルを見上げながら、フランゼスはひそやかに笑った。

「案外、もう、とっくに知られてたりしてね? 君の秘密」



 そのまま恐ろしい力で抛たれる。ニコルはチェシーの真横、瓦礫の山に叩きつけられた。もんどり打って転がり落ちる。

 動けない。土煙にまみれ、咳き込む。息もできなかった。

「馬鹿、私ならもう、いい」

 耳元にチェシーの苦しげなうめきが飛び込んでくる。

「君は、逃げろ」

「見損なわないでください」

 ニコルは砂と鉄の味がするざらざらのくちびるをぐいと袖で拭き上げ、よろめき、立ち上がった。

「僕を、誰だと思ってるんです」

 顔を上げ、真っ向からフランゼスを見返す。

「腐っても公国元帥にして第五師団長、あなたの上官ですよ。司令官ともあろうものが、負傷した部下を見捨てて逃げるだなんて、そんな、情けない真似をするわけがないじゃないですか」


 ずっと――

 護られてばかりだった。

 くじけては励まされ、失敗しては支えられ助けられ、いつの間にか、頼り切っていた。

 本当は女だからとか、カードがなければ戦えないとか、ルーンが使えないとか。心中に逃げ道ばかりをひそかに作って。

 結局、チェシーひとりに重責を担わせていた。逃げていた。

 その結果が、これだ。


 この作戦の目的は何だった?

 何のために、アルトゥシーへ来た?


 思い出せ。


 誰一人欠くことなく、全員で、無事に、ノーラスへ帰還する。それが今の自分に課せられた任務であり、目指すべき終着点だ。

 街の人達を見捨てることもなく、フランゼスを傷つけることもなく、チェシーを失うこともなく。


 だから。

 ニコルは、涙を拭いた。ちいさく笑う。

「みんな、一緒に帰るに決まってるでしょう。チェシーさんも、フランゼスも」


 もう、逃げない。


 腕にはめた封殺のナウシズが、ふいに、きらりと青い光を放った。

 鼓動が響き渡る。

 感応し、エフワズまでもが赤くきらめいた。強く明滅し始める。

 共鳴している。

「馬鹿な。ナウシズが」

 フランゼスが不様な悲鳴を上げてのけぞるのが見えた。

 透き通った氷のかぎろいがニコルを包み込む。伏せていた薔薇の瞳にまばゆい希望が射す。

 込められた無数の思いが一斉に羽ばたいた。

 白く輝く呪魂の文字が空に描き出される。光が舞い上がる。髪が揺れる。火を孕んだ氷の翼が幻燈のように広がった。

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