たったひとつ残された希望

 うずたかい風が舞いたてられる。


 ニコルは顔を上げた。

 微笑みをもって掌中の珠を見つめる。


 ――もしかしたら、あの日の記憶が逆にナウシズを、聖女マイヤの想いを縛っていたのかもしれない、と。


 本当は、心の底でずっと――


 恐れていた。


 今までの平和な日々も。

 恵まれた地位も。

 すべて、守ってくれたのおかげだ。

 でも、なぜ、命を捨ててまで自分を守ろうとしてくれたのか。ずっとそれが分からなかった。分からなかったからこそ、その思いが重く、そして怖かった。


 本当は女であることを隠し。

 本当は虚無ウィルドの聖女であることを隠し。

 偽りの闇、呪われた魔女の子、の騎士として生きることを余儀なくされてまで。


 なぜ。どうして。自分は。

 本当の自分を隠してまで生かされているのだろう、と。


 本当は、心の中でずっと、自分自身を恐れていた。


 虚無ウィルドの聖女レイリカは、生まれてくる子がこの世にと分かっていながら自分を産んだ。

 封殺ナウシズの聖女マイヤは、ルーンの教えを捨て、自ら破戒と異端の誹りを受けて死んだ。

 レディ・アーテュラスは、最愛の姉を、として見殺しにしなければならなかった。


 考えても、考えても、答えは出なかった。

 ずっと、おびえていた。

 もしかしたら、逆に、自分の存在が、聖女たちの、母たちの命を捨てさせたのではないかと。


 自分さえ、いなければ。

 自分さえ、生まれてこなければ。

 こんなことにはならなかったのに、どうして、と。


 でも。

 きっと――そうだ、今なら分かる。


 レイリカは、マイヤは。その運命に苦しみ、絶望し、怨んで死んでいったのではない。

 ただ、護りたかった。

 いまの自分と同じように、目の前の命を。

 幼かったニコルにたったひとつ残された希望を。

 ただ、ただ。その未来を。


 護ってやりたかったのだ、と。



「使わせるものか」

 光に怯えたフランゼスが、どす黒い悪鬼の形相で喚き散らす。

「消せよ。その光を消すんだ。さもないと!」


 もはや原型すらとどめぬほど寄り固まり、どろどろにねじれた悪魔の群れが上空からニコルに向かってなだれ込んでくる。

「ニコル、その光……君の」

 チェシーが呻く。

 ニコルは微笑み返し、うなずくと左の掌を闇へかざした。高く掲げる。


「魂なき闇のものたちよ、もう君たちを束縛する掟はない」

 穏やかに語りかける。

 ナウシズが清浄にきらめいた。

「召喚は無効だ」


 掌に宿る、ほんの小さな光。ニコルは光を握りしめた。指の間から細い光の線がこぼれ出す。その光をニコルは空めがけて投げ上げた。

「偽りの闇よ、真実の光に散れ」

 ほんの一言だった。

 激烈な光も、爆発もなく。

 一瞬にして、すべての闇がかき消える。


 何ひとつ、残らなかった。ナウシズの光を浴びた銀の悪魔はことごとく砕け散る涙のように四散していく。

 夜風が吹きすぎ、空がのぞいた。星が瞬いている。防空壕に避難しているらしき赤ん坊の泣き声と、泣きながらそれを必死にあやす母親の声が聞こえた。

 それほど静かだった。


「まだだ」

 がらり、と残骸が崩れ落ちる。歯ぎしりにも似た声が聞こえた。

「まだ終わったわけじゃない」

 ニコルは振り返った。

「君も帰るんだよ。ル・フェ」

 真っすぐな眼でフランゼスを見つめる。


 フランゼスはふいに笑い出した。

 飛びすさり、額に手を当てて笑い転げる。

「甘いよ。甘過ぎだ。笑っちゃうよね。少し力を使えるようになったからってもう勝ったような気になっちゃって。本当に何も知らないんだ。サリスヴァールが何て言ったか、思い出してごらんよ」


 笑いながらふいにぞっとする声を入り混じらせて吐き捨てる。


「僕はフランゼスの魂を依り代にしている。身体を乗っ取っているわけじゃないんだ。もし君が召喚を無理に断ち切り、異界へ送り返せばどうなると思う」

 フランゼスの喉から、くくく、と喜悦にゆがんだ残忍な笑い声がこぼれ出す。


「僕はフランゼスの魂ごと異界の底へ真っ逆さま。さようなら、ごきげんようだ。そうなれば仕方がない。今回はあきらめてあげる。またいつか誰かに呼ばれて舞い戻るときまでおとなしく悪夢の中で眠っていよう。でも、ね」

 ざり、と、さざれ石を踏んで。

 フランゼスは嘆かわしげに首を振った。


「そうしたら、君の友達の魂はどこへ逝くのかな……?」

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