「つまりは、君らの馬鹿が伝染った、ということさ」

「は、はい、ええと、メガネメガネ……」

「いいか、一生メガネはずすな。分かったか」

「そ、そんなご無体な」

 急かされながらあたふたとポケットへ手を突っ込む。

「あ、あれ、ない。そんな。確かに予備を持ってきたはずなのに」

 あちこちかき回して替えのメガネを探す。そのとき、壁にぶつかってくずおれていたフランゼスががらがらと瓦礫を崩しながら身を起こした。血の流れる後頭部を押さえ、ふらつく様子でがくりと首を垂れる。


「ちっ、もうお目覚めか」

 チェシーは険しい眼を走らせてつぶやいた。

「君は下がってろ」

 払いのけるようにして背後へと追いやられる。ニコルは思わずその腕にとりすがった。

「チェシーさん」

「勘違いするな。殺しはしない」

「そうじゃないです」

 ニコルは声を詰まらせた。

「チェシーさんは戦っちゃだめだ」

 青ざめた表情で言いつのる。

「いくら悪魔に取り憑かれてるって言ったってフランはティセニアの公子だ。ご自分の立場を思い出してください。シャーリア殿下やバラルデス卿や神殿や――フランにもしものことがあって、その責が少しでもチェシーさんにあると思われたらきっとまた付け込まれます」

「馬鹿言え」

 チェシーは呆れたふうにニコルを振り払いながら苦々しく笑った。

「他にどんな方法があるというんだ」


「僕がナウシズの守護騎士だってこと、忘れてるでしょ」

 ニコルは冷や汗まじりの微笑を浮かべる。

「ナウシズには、魔性のにする封殺の力がある。チェシーさんがノーラスに、僕のところへ来たのも、本当はそのためだったんでしょう」

 天空のティワズが装備されたチェシーの魔剣を、ニコルは素手で押し戻す。チェシーは一蹴しようとした。

「だが、君はまだ」

 ゆるやかに放たれる蒼白の脈動。ニコルはナウシズを見下ろした。

「確かに今はまだですけど、でも」


 ナウシズの聖女マイヤがニコルへ、次の世代へと遺した思い。

 いつか、必ず。

 その思いを。


「必ず、使いこなしてみせます。フランのためにも、チェシーさん、あなたのためにも」

 ニコルはにっこりと心安く笑ってみせた。断言する。

「友達を助けるのに、言い訳なんて必要ないでしょ」


 チェシーはちらりと静かにニコルを見下ろした。

「友か」

 穏やかな言葉遣いで繰り返す。

 その眼差しはまるでけがれひとつない雪原から湧き出した雪解け水のようだった。清冽な意志がきらめく。

「いや、何でもない」

 ニコルの視線に気付いたか。ふっと相好を崩し、肩をすくめる。

「まったくどうかしている。この私ともあろうものが」

 一転、苦虫をかみつぶしたような調子でひとりごちたかと思うと、チェシーは有無を言わさずニコルの腕をとって背後へと確実に押しやった。


 両手持ちの太刀をぐいと片手で支え、斜に構える。白刃にぎらりと殺気がひそんだ。

 ニコルはぎくりとした。威圧するかのような剣の映り込みに思わず口ごもる。

「まさか、チェシーさん」

「ずっと謎だった」

 チェシーは振り向きもしない。平静を装ってはいるものの明らかに緊迫した気配が背中から感じ取れる。

「あのへそ曲がりのホーラダインが、どういうわけか、君にだけはを誓っている。その根拠がどうしても分からなくてね。それこそ、君自身に何か隠された秘密でもあるのかと思っていたんだが。何ともはや、期せずして見いだした結論が、君らと一つ穴の狢とは」

「結論?」


 魔剣に二連装備した天空のティワズが、それぞれに金砂銀砂の星河を宿し、くるめいている。

 あふれる魔力が刃に伝わり、はらはらとこぼれてたなびくのが見えた。あでやかな夜の香りが匂い立つ。




「サリスヴァール」

 なかば折れた、半透明の黒い翼をどろりと地に引きずって。

 フランゼスは。フランゼスに取り憑いた悪魔は、手を支えに片膝を立て、よろめき、ついに立ち上がった。赤く腫れた頬を押さえ、切れたくちびるの血を小指の背でぬぐう。

 憎悪の暗い微笑がチェシーを捉えた。

「詰めが甘いな」

「甘いのは女を口説くときだけだ。野郎には容赦しない」

 剣の装具を豪奢に鳴らし、揶揄する。

 フランゼスは眼をほそめた。

「……本気で僕に逆らえるとでも?」

 酷薄の気がみなぎる。


 ナウシズが瞬時に呼応した。フランゼスが召喚の呪を唱えたのか。ルーンから青白い稲妻が放たれ、冷気と化して二の腕を突き抜ける。

 ニコルは悲鳴を上げた。

 腕をかばってよろめく。

 当初ほとんど感じ取れなかったナウシズの啓示が回を重ねるごとにますます激しくなっている。

 感応が高まっていると言えば聞こえは良いが、ただ反応するだけで、本来の力、召喚無効を発動できない状態では、防御結界を維持することはほとんど不可能だ。


 底ごもる風のうなりが聞こえた。

 かすむ砂色の視界に、フランゼスのゆがんだ姿が映る。

 感じる。

 黄昏と闇の狭間に、仄暗い色。

 何かが、いる。


 毛羽立った音が擦れる。濡れた泡息をすすり込むに似たけだものの吸気。闇にまぎれ、風にまぎれ、忍び寄る足音。

 何一つ定かには見えないというのに、ひた、ひたと、ただ無言で迫り来るその気配だけが恐ろしいほどの金属臭を帯びた悪寒となってまざまざと膨れあがってゆく。

 その数、もはや計り知れず――


「……ちっ!」

 放置しては形勢不利になるばかりと見たか、チェシーはとっさに先制の行動を起こした。空を裂く唸りとともにだんびらを振り上げ、猛々しい一閃を叩きつける。

 びしり、とするどい音を立てて血風がフランゼスの頬をかすめた。かまいたちの刃が肌を裂く。

 背後に詰めかけた悪魔の群れが、巨大な刃に断ち割られたそのままのかたちにちぎれ、吹っ飛んだ。

 耳障りな叫喚が響き渡る。

 瓦礫が飛び散った。煮えたぎった水銀のかたまりがぼたぼた降り注ぐ。毒々しい煙が吹き流れた。


 フランゼスは微動だにしない。逆巻く煙に身を預け、青白い燐火の照り返しにうっすらと闇の微笑を浮かび上がらせて小首をかしげる。

 優位を確信した表情だった。

「召喚、止めないの? それとも本当に使えないと――封殺できない、と見なしていいのかな」

「切り札は、最後の見せ場にとっておくものさ」

 チェシーはフランゼスからニコルの姿を遮るかのようにぐいと間に割って入った。客気まじりに揚々と言い放つ。

「やれやれ。口ほどにもない」

 フランゼスは肩をすくめた。籠絡の眼でニコルを見つめる。

「さっきまでの元気はどこ行ったのさ」

「挑発だ。誘いに乗るな」

 チェシーは低く吐き捨てた。

「君は公子を取り戻すことだけに専念しろ。時間は私が稼ぐ」

「で、でも」

「言い訳はしないんじゃなかったのか」

 言葉の端々に皮肉の笑みが入り混じる。

 ニコルは言い返そうとして周りを見回し、迫る悪意の群れに震え上がった。もはや引きつった笑いしか出ない。

「や、やっぱちょっと、余裕ないかもです……」

「おや、奇遇だな。私にもまったくない」

 危殆に瀕したこの状況を前に、平然ととんでもないことを言う。ニコルは眼をひんむいた。

「ええっ!」

「だが、確信だけはある。君ならきっとできるだろうし、たとえ今すぐはできなくても、いずれ必ずやってのけるだろう」

 無駄に自信たっぷりな微笑をニコルへ、次いで封殺のナウシズへと走らせてチェシーは断言する。

「つまりは、君らの馬鹿が伝染った、ということさ」

「はあっ!?」


 悠長に聞きとがめる暇などもちろんない。


 思えば絶望的な状況だった。

 カードもない。メガネもない。援護してくれる部隊もない。

 武器らしきものといえば背腰に回し下げた軍刀一本だけ。残るは二つのルーンのみ。それすら有効に使えるかどうか分からないときている。


 封殺のナウシズさえ使いこなせるようになれば――


 とてつもなく無謀な作戦だ。使えるか使えないかすら分からないルーンの奇跡を信じるなど、とてもまともな指揮官の立てる作戦だとは思えない。

 それでも。

 チェシーはニコルを信頼してくれる、と。

 その時が来るまで、鉄壁の楯となることを了承してくれた。


 倒しても倒しても湧き続ける無数の敵。

 倒すことすら許されぬ首魁フランゼス。

 いくらチェシーでも荷が勝ち過ぎるにきまっている。

 それでも。

 ニコルは立ちはだかるチェシーの大きな背中をちらりと流し見た。


 大丈夫。

 信じてる。

 裏切るような人じゃない。

 チェシーさんは新しい仲間で、友達で――


 今ならば、そんな言葉など無意味だったと分かる。

 不安を押し殺すため、何度も自分で自分に言い聞かせるかのように言ってきたが、今、戦いを前に強く感じているこの絆と比べて、どれほど主観的で、薄っぺらで、中身のないものに過ぎなかったかを痛感する。


 今なら分かる。

 チェシーへ抱いた思いは、もう、単なる言葉の羅列だけじゃない。


 チェシーになら、この命を預けても大丈夫だ。


 笑みがこみ上げる。

 チェシーは馬鹿が伝染ったと言うが、そこまで馬鹿をこじらせた覚えはない。こんな戦い方をすれば、どうせまた後で互いに無謀すぎるだの馬鹿すぎるだのと喧嘩するに決まっている。

 ずいぶんと分の悪い確信もあったものだ、と、ニコルは一人こっそりとほくそ笑んだ。

 今度こそ言い負かしてやる。どう考えてもチェシーのほうが無謀だ。きっと最高の気分で喧嘩できるだろう。


 そのとき、ふと。

 たおやかな鐘の音が聞こえた。


 場にそぐわぬ音色にフランゼスが表情を激変させる。

「まさか」

 最初は幻聴だと思った。だがすぐに思い直す。カリヨンの音だ。闇の彼方からまっすぐ射し込むように聞こえてくる。

「鐘……時計塔の?」

 ニコルは眼をみはった。


 ひとつではあまりにもかぼそかった鐘の音が次第に重なり合い、調和して、水のように、風のように、月光のように麗々と響き渡ってゆく。

 よく聞けばはずれている音もある。割れた音、抜けてしまった音もある。

 それでも戦場の鐘は歌うのを止めない。

 鳴り響いている。


「誰が同じ手を二度も食らうか」

 フランゼスは、何に対して激高しているのか、時計塔を振り仰ぐなり髪を振り乱してわめいた。

「ナウシズの守護さえ滅ぼしてしまえば貴様など――」


 ふいに、ぐるりと首をねじり、狂乱のまなざしでニコルを射抜く。


 爆発と明滅、めまぐるしい光と闇の嵐に哮り狂う銀の悪魔の群れを切り従えたフランゼスは、ふと、その暗い翼を打ち振るった。

「お遊びはここで終わりだ。ニコル・ディス・アーテュラス」

 破戒の微笑で天を指し示す。

「天と共に、地獄へ堕ちるがいい」

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