「こっち向け、こっち」 「どこですか!」 「こっちだ」

 石と金属がけざやかに跳ね返る。火花が散った。荒々しい物音にニコルは驚愕の眼を押し開いた。はっと我に返る。

 刹那、チェシーの姿が忽然とかき消えた。


 存外に思う間もない。目にもとまらぬ殺気が突き抜ける。白い影が視界の端を横切った。右か。否、左――速い! 疾風が襲いかかる。

 動顛の所作でフランゼスはのけぞった。


 四方八方に振り回されてニコルは思わず声を迸らせかけた。勢いでメガネがはずれ、吹っ飛ぶ。


 ふいに頭上から白の残映が射しかかった。

「上か」

 凶悪に嘲ら笑ってフランゼスは手を振り払った。天を仰ぐ。

 ふわり――

 宙に舞っていたのは、残照に紅く映える金の肩章と縁刺繍も美麗なティセニア騎兵軍装の上衣だけだった。ひるがえって落ちてくる。ニコルは虚を突かれ息を呑んだ。


 何という軽やかさだろう。本当に風のようだった。


「くそっ、逃げる気か」

 頭の上に落ちた軍衣を引き裂いて投げ捨てながらフランゼスは口汚く罵った。ニコルを引きずったまま振り返ろうとする。


「どこを見ている」

 思いも寄らぬ方向から笑いを含んだチェシーの声が降ってきた。

 土煙が舞い立つ。軌跡すら捉えきれない。


「私は、ここだ」


 いつの間に急追したのか。電光石火の動きでチェシーが肉薄する。フランゼスの目に巨大な拳が映り込んだ。

 悪魔がわめき散らす。悲鳴だった。

 砕け、潰れたような音とともにフランゼスの身体は宙に吹っ飛んだ。壁に激突し、そのままくずれ落ちる。


「おっと」

 一緒に飛んでいくところだったニコルだけが手首をつかまれ引き戻されて、チェシーの腕にすとんと落ちる。チェシーはフランゼスに目をやった。

「斬れるものなら斬ってみろ、か」

 肩で風を切る狼のようにひくく笑う。

「男なら口先ではなく拳で勝負するんだな」

 フランゼスはぴくりとも動かなかった。


「さてと、おい。ニコル」

 やや荒く肩をゆすられ、ニコルは放心状態でうめいた。身体に力が入らない。感覚もまだ完全には戻って来ていないようだった。力ない喘ぎがこぼれる。

「どうだ。立てるか」

 異常に気付いたらしい。チェシーが尋ねてくる。

 ニコルはくすむ目をまたたかせた。なぜかやたらと声が近い。ぽぅっとうつろに聞く。

「くそ、聞こえてないのか」

 チェシーは懸念まじりの苛立たしげな声で舌打ちするとニコルの頬にてのひらを押しつけた。

「ニコル、起きろ」

 顔を近づけ、頬をぴしゃぴしゃと叩いて意識の有無を確かめる。

「眼を覚ませ」

「……」

 もちろん単なる気付けであって本気で引っぱたかれたわけではない、のだが。

 だが、そんな頬を叩かれるのとは明らかに違う、別の種類の、信じられない、あり得ない感覚――チェシーの腕にぐいと抱かれた感触のほうばかりが、いきなり、とんでもなくくっきりはっきりあざやかに強烈に伝わってきて。

「さ、さっ、さわっ」

「何だ元気じゃないか」

「だあああああ!!」

 ニコルは顔を真っ赤にして悲鳴の噴火を上げた。狼狽のあまりじたばた転げ落ちそうになる。


 ――何でこんな目と鼻の先にチェシーがあがががあああ足が足がぜんぜん地面に届いてな……!


「だったらとっとと降りろ」

 言うなりチェシーは何の雑感もなくニコルをぽいと放り投げた。

「ぐぎゃあ!」

 勢いでぐりんとでんぐり返され、べちゃと頭から落っこちる。ニコルは鼻を盛大にすりむいて七転八倒泣きわめいた。

「痛いたいたい痛ああ鼻がもげる!」

「君は馬鹿か? いや失礼、愚問だったな」

 チェシーは鼻白んだ様子で断定した。

「君は馬鹿だ」


 自ら投げ捨てた太刀のもとへすたすた歩いてゆきながらじろりとニコルを睨み付ける。

「恐れ入ったよ。口車に乗せられるのもいい加減にしろと、何度言えば分かるんだ? 私の真の名も知り得ぬ悪魔ごときが、初めて会う君の過去だか何だかそんなわけの分からない秘密など知る由もないだろう。それぐらい気付け、ナウシズの使い手ならまったく、本当にこの、馬鹿頭!」

「ば、馬鹿……!」

 馬鹿馬鹿馬鹿と連呼され、ニコルはあまりの衝撃に打ちのめされてよろよろした。いくらなんでもそれはあまりに非情な……とそこではっと我に返る。

 なぜこうもさんざんに言われねばならないのか。文句を言いたいのはむしろこちらのほうだ。

 というわけでニコルは怒りのあまり鼻を押さえるのも忘れ、半泣きで飛び上がった。

「バカじゃありません!」

 びしぃっ! と、チェシーの声が聞こえてくる方角を正面きって指さし、怒鳴る。

「な、な、何言ってるんですかチェシーさんこそ! せっかく考えた僕の計画をめちゃくちゃにしてくれちゃって! 何で気付いてくれないんですちゃんと合図したのに!」


「どこを見てる。そっちは壁だ」

 チェシーのぶすりとした声が、横から聞こえてくる。

 ニコルは真っ赤になって振り返った。

「隠れようったってそうは!」


「だからそっちは壁だと言っている」

 チェシーは、げんなりと顔を手で覆って嘆く。

「こっち向け、こっち」

「どこですか!」

「こっちだ」

 肩を掴まれ、ぐるっと振り向かされる。

「見えてないわけじゃないんですからね! ちょっとぼやけてるだけです!」

「メガネがなければまったく使い物にならんじゃないか」

「問答無用!」

 ニコルは、頭を抱え、じたばたと地団駄を踏んだ。

「今はそういう問題じゃないでしょいくら僕だって秘密がばれてるだなんてこれっぽちも思っ……ってうわああそうじゃなくて」

 興奮のあまり自分からべらべらと秘密の在処を喋ってしまいそうになるのをあわてて口をつぐんで押しとどめる。

「ナウシズさえ使えれば悪魔がフランゼスから離れた瞬間に封殺の力とか召喚無効の効果とか働くかもしれないじゃないですか」


「……」

 チェシーは剣を拾い上げながらひたと黙り込んだ。しばらく考え、それからちらりとニコルを見やる。

「で、働いたのか。そのナウシズの加護は」


「え」

 ニコルはどきりとして口を押さえた。

「そ、それは」

「働かなかったんだろ。だから」

 青い目がするどくきらめいた。

「もう少しで奴に魂を奪われるところだった」

「それは、その、そうだけど、でも」

 ニコルは弾かれたように顔を上げる。

「でももくそもあるか。何も分かってないくせに分かったような口を利くな」

 ぎろりと睨まれる。ニコルはひぃっと頭を抱えて縮こまった。びくびくと上目遣いにチェシーを見上げる。

「す、すいませ……」

「謝って済むことか。だいたい君は行動が突飛――」


 そこでチェシーはなぜかたじろいだ。

 眼をそらし、いらいらとやたら落ち着きのない仕草で頭を掻きむしったかと思うと、舌打ちして結局粗暴に吐き捨てる。

「くそ、卑怯だぞ、その顔は。分かった、分かったからさっさとメガネを探せ」

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