「だが、その優しさこそ最も闇にふさわしい」


 西から東へ、黄昏から宵闇へ。空は移り変わり、暮れなずむ。

 風が吹きすさんだ。ちぎれた雲が深みへとなだれ込んでゆく。

 寒い。

 ニコルは息をあえがせた。涙入り混じる怒りの眼でフランゼスを睨み付ける。風に髪が吹き乱された。抗えば秘密を暴かれる――


 秘密。


 いつか、必ず、本当の自分に。

 それが、囚われの運命から逃れようと足掻いた二人の聖女の最期の願いだ。


 ニコルがだと知りつつ、育ててくれたレディ・アーテュラス。

 ニコルをの闇で庇おうとしてくれた、救いの母にしてナウシズの聖女、マイヤ。

 ニコルをの運命へと導いた、本当の母にしてウィルドの聖女、シスター・レイリカ。


 たとえ今は叶わなくとも、いつか、必ず――


 それこそが、悲痛な叫びと引き替えに残された唯一の希望だ。

 唇を噛む。

 かぶりを振る。

 すくんだ心を懸命に奮い起こす。

 その希望を、無碍に捨て去ることなどできない。こんなところで、こんな形であきらめるなど、絶対にできようはずがない。


 泣くのも、ほぞを噛むのも。

 すべて終わってからで十分だ。


 ふと、風が凪いだ。

 風向きが変わる。遠く地鳴りのような音が聞こえた。また強く吹きつけて来始める。

 もう一度、よく、考えろ。

 平静を取り戻した思考が急速に回転しはじめる。

 そもそも悪魔如きに何の秘密が握れるというのか。出生の秘密を知ると高言したにもかかわらず悪魔はナウシズの守護を怖れていた。ニコルが異端とされながらもナウシズの守護をうべなわれているのは内務卿アーテュラスの家名ゆえではない。ナウシズの聖女マイヤの嫡流だと見なされていればこそである。


 ということはつまり――


 頭ごなしに押さえつけられた前髪が冷や汗に濡れて、震え出しそうなほど冷たい。

 ニコルはぴかりと斜にメガネを光らせた。

 憎々しげにフランゼスを見上げる。

「どうして……僕を、支配しようとする……!」

「帝国へ連れてゆくためさ」

 あざとく笑ってフランゼスは答える。


 ニコルは浮き足立つ内心をおさえ、チェシーにするどい目線を走らせた。だがチェシーは否定も肯定もしない。顔色すら変えなかった。剣を構え、微動だにせず、ただ青い瞳に底知れぬ不穏と静寂のみを宿してフランゼスを見つめている。

 ふと目が合う。

 チェシーは反応しない。


 待っているのだ、と思った。

 チェシーの手練を持ってすればニコルに傷一つ負わせることなくフランゼスだけを切って捨てることも可能なはずだった。だが敢えて無理をせず待ち受けている。打開の糸口が見えるそのときが来るのを、おそらく、今や遅しと。

 ニコルはナウシズにちらりと視線を落とした。

 ぎごちなく目配せし、笑ってみせる。


 チェシーは眼をみはった。

 分かっているのかいないのか、我知らず苦笑いがもれる。こんな目配せ一つで正確な意図を伝えられると期待する方が甘いのかもしれない。

 だがやってみるしかなかった。大丈夫だ。チェシーならきっと分かってくれる――


「残念、時間切れだよ。これ以上はもう待てない」

 フランゼスの口調から笑みが飛び失せた。

 くいと指先でニコルの顎をつかみ、言い放つ。

「僕の命に従ってフランゼスを解放するか、あるいは僕ごとフランゼスを焼き滅ぼすか。どちらでも好きな方を選んでくれ」

 ニコルは変わり果てたフランゼスから眼をそらした。絶望と希望は紙一重だ。ナウシズの加護を信じるほかに術はない。


「わかった」

 ひくく、つぶやく。

「言うとおりにする。その代わり」

「やめろ。約束するな」

 チェシーが押し殺した声で唸る。


 ニコルは打ちのめされた挫折の眼差しをフランゼスへ向けた。

「お願いだ。本当のフランゼスだけは助けると約束して」

「おお、何と気高き精神であることか」

 フランゼスは喜悦に喉をふるわせてくくく、と笑った。逆巻く風に髪をかき乱し、手を高く差し伸べる。

「高邁なる善意と自己犠牲。裏切り者のあんたには勿体なさ過ぎるよサリスヴァール」

「黙れ」

「大丈夫ですよ、チェシーさん」

 ニコルはかすかに胸を張って笑った。

「フランは必ず取り戻します」

「いみじくも美しいね」

 フランゼスは陶然と眼を細めた。両手を広げ、漆黒の翼をはためかせてニコルをゆらりと包み込む。

「だが、その優しさこそ最も闇にふさわしい」


 ぞわり、と。

 何か、つめたいものが頬をなぶる。

 ニコルはふいに力を失って膝を折り、前のめりに倒れ込んだ。

 くずおれる寸前、フランゼスの胸に抱きとめられる。


 フランゼスは気怠げに手を振った。旋風が巻き立つ。黒い煙が無数の同心円を描いて奔った。軌跡にそって何本もの呪がめらめらとくゆり出してゆく。


「誓え、ニコル・ディス・アーテュラス」


 逆らおうにもまともに立っていられなかった。膝が笑い、手先が震える。後悔が脳裏をよぎった。

「永遠に――闇を」

 ぬめりを帯びたかぎろいの翼が暗くゆらめく。


 悪魔の微笑が近づく。長い影が、踊る。

 怖い。

 感じるものすべてが力なくかすれ、熔けてゆく。

 動けない。声が、出ない。


 こうなるはずじゃなかった。かすかな後悔が脳裏をよぎる。

 耐えられると思っていた。なのに、動けない。抗えない。焦りがこみ上げる。

 永遠に、闇を。闇を。闇を。吐息が、いざないが、支配が、ささやきが、心の奥底に忍び込んでくる――


 次の瞬間。


 チェシーは手にしていた太刀を地面に叩きつけた。

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