ゾディアック帝国軍、巨蠍宮第四師団の長にして帝国の悪魔、邪悪なる紋章の使い手――サリスヴァール

 言いながらもすばやく室内を見取り終え、緊迫の状況を把握するやいなやアーテュラスはシャーリアの手を掴み取った。転がるように悪魔の横をすり抜け、壁際に倒れる副官のもとへと飛び込む。

 だがシャーリアは恐怖のあまり立ちすくんだままだった。それ以上引きずられることに耐えきれず、思わず手を振り払う。

「え……」

 アーテュラスは驚いた顔で振り返った。しかし、すぐにシャーリアの手を取り戻し、ぎゅっと強く握り直す。

「すっすみません、大丈夫です。ちょっと気負いすぎて転んじゃっただけで。それも毎度のことですから」

 そこでふっと余分な肩の力を抜き、アーテュラスは息をついた。照れくさそうにつけくわえる。

「で、でも、ホントあの、心配なさるには及びませんです。フランも無事ですし外にチェシーさんもいますし、それに」

 白く光るぐりぐりメガネに隠されたその表情はまるで、穏やかに笑ってでもいるかのようだった。

「あのひとなら、絶対にみんなを護ってくれますから」

 言い置いてぱっと手を離し、凛と唇を引き結んで顔を上げる。アーテュラスは掲げた左腕を右の手で支えながら叫んだ。

「確保完了です、チェシーさん」

 その身に帯びた二柱のルーン、先制のエフワズ、封殺のナウシズがますます強く、まばゆく、激しく燃えさかってゆく。

 窓の外から不敵な声が飛び込んできた。

「よくやった。あとは任せろ」

「了解っ」

「気合い入れて護れよ。全部まとめて吹っ飛ばしてやる」

「お願いですから床だけは残しておいてくださいよ」

 窓をへだてて交わされるのはどこか楽しげですらある当意即妙の掛け合いだった。打てば響く互いの声の、何と軽やかな信頼で満ちあふれていることか。

 シャーリアは耳を疑った。


 ずっと、憎んでいた。怨んでも憎んでも飽き足らぬほど、口惜しかった。

 ゾディアック帝国軍、巨蠍宮第四師団の長にして帝国の悪魔、邪悪なる紋章の使い手――サリスヴァール。

 あの男のせいでどれほどの苦杯を嘗めさせられたことか。誇り高い第一師団が、敗北を知らぬ最強の軍団が、たった数百の猟騎兵のみを率いた男によって不様に陥れられ、手玉に取られ、あえなくも壊走させられてきたのだ。一度ならず二度も、三度も。

 いきなりありえない場所から降るように現れては全軍を蹴散らして。気が付けば死屍累々の山を築いて去っていた。おびえ、うろたえ、千々に乱れる軍の中央を踏みにじり駆け抜けてゆく、漆黒の軍勢。

 先頭にはいつも、餓えた獣のように笑い、嘲る男がいた。長々と漆黒にはためく軍衣、血が差したような赤暗の襟。銃弾の届かぬ遙か遠くにあってさえ、流し向けられた眼差しから逃れることができなかった。秘めて隠した魂の奥底まで洗いざらい暴きたてられてゆくかのようだった。

 奪われた、と思った。

 ティセニア公女としての誇りや、軍人としての矜持、名誉だけではない。その他のすべてさえごっそりと否定され打ち砕かれたように思った。

 だから、誓った。例えアーテュラス家の後ろ盾を得ていようが神殿に謀られようがかまわない。あの男の存在だけは、絶対に許さない――この国を食い荒らされる前にあの男だけは必ず、弑すると。

 そう、誓ったはずなのに。

 狭い窓を我先に押し合いへし合いしていた悪魔の群れが、口々に不様な不協和音の悲鳴をあげてのたうち回っている。

 その背後から――


 詠唱が裂帛の気合いに変わった次の瞬間、空間が割れた。壁がめりめりと真っ二つに断ち割られる。

 炎とも光とも風ともつかぬ凄まじい斬突の剣圧が降り注いだ。

 網にかかった雑魚の大群さながら建物を取り囲んでいた悪魔の群れが、一瞬のうちに跳ね転がる水銀の粒に変わり、泥水のように降りしきった。わずかに残った残滓もまた悲鳴ごと真っ白に熔け、ちぎれ、瞬時に蒸発して吹き飛ばされてゆく。

「く……っ!」

 その間にもアーテュラスの腕に輝くルーンは次々ときらめく呪魂の結界を描き出していた。

 ガラスを砕く反響の音をりょうりょうと響き渡らせながら、降り注ぐ凄まじい攻撃を受け止め、はじき返し、電光の火花を散らしてシャーリアと副官を確実に護り続けている。


 やがて――ぽっかりと。


 窓も、壁も、天井さえも、いや、悪魔の取り憑いていた部屋の一角ごと全てが消え失せた結果生じた巨大な亀裂から、こぼれんばかりにまばゆい陽の光が白くさらさらと射し込んできた。

 思わずシャーリアは手をかざした。眼をかばう。

 その陽光を遮り、ぼんやりとした影があたふたと近づいてくる。

「殿下、お怪我は」

 とたんに別のするどい声が降った。

「ぐずぐずするな。本隊に感づかれた。大群が押し寄せて来るぞ」

 きらびやかな太刀を天使の羽のように引っさげて、男が部屋へ舞い降りてくる。

 思わず息を止めてしまいそうになるほど、均斉の取れた逞しい体つき。まぶしかった。

 それを見たシャーリアはついに上体を支える力をも失ってくずおれた。



「だっ大丈夫ですか、殿下」

 ニコルはあわててシャーリアを支えた。肘に手を添え、ぐらぐらと心許ない公女を助け起こす。

「何言ってる。君が護ったんだろ。傷一つあるはずがなかろう。それより」

 チェシーは平然とうそぶいて魔剣を鳴らし、しなやかな手際で鞘に納めた。ルーンとカード、それぞれに帯びた呪力の残り香が、夜に似た藍と金の混じりあった光砂となってこぼれおちる。

 わずかに乱れかかった前髪をふわりとかきあげながら、チェシーは鋭い眼で散々な状態に陥った部屋を見渡した。

「面倒なことにならないうちに撤収だ」

「は、はいっ」

 ニコルはさっそく気を失っている副官の傍らに屈み込んで傷の状態を調べた。あちこちにひどい打ち身を作ってはいたものの、幸いにして骨折や命に関わるような重傷ではなさそうだ。ほっと安堵してチェシーを振り返り、小さく微笑んでうなずいてみせる。

「不幸中の幸い、というやつだな」

 言いつつ、チェシーは気を失った副官を担ぎ上げた。

 だが、シャーリアは動かなかった。ほつれた髪を直しもせず、手を床についてへたり込み、呆然と現実を拒否したまま顔を上げもしない。

「殿下」

 ニコルはシャーリアの様子に気付いて後戻りした。側に膝をつき、肩をそっと押して避難をうながす。

「ここは危険です。移動しませんと」

「……だめ、できない」

 シャーリアの声は青ざめ、立ちすくんだかのように揺れ動いていた。

「歩けないの」

「甘えるな」

 酷薄にチェシーがさえぎる。

「さんざん覚悟が違うだの何だのと高言しておいて」

「チェシーさん」

 ニコルは驚いてシャーリアを庇った。チェシーを見上げ、かぶりを振る。

「今はそんなことを言っている場合じゃ」

「君は黙ってろ。非礼は重々承知の上だ。だが言うべき事は言わせていただく」

 チェシーは傲然と燃ゆる瞳でシャーリアを見下ろした。

「権力を嵩にきて威張り散らすだけの不躾な女なら掃いて捨てるほどいる。公女殿下、貴女もその同類か。とんだ番狂わせだったな」

 シャーリアはふいに涙まじりの長い息をもらした。床についた手をぎゅっと握りしめ、チェシーを睨みつける。

「誰が……!」

 煮えたぎる憎悪にも似たけわしい眼を、チェシーは口端に灯した冷笑で容赦なくいなす。

「悪くないな」

 言うなり挑戦的な仕草で上腕を取り、ぐっと力を入れて顔近くまで引き寄せる。吐息の吹きかかりそうな距離だった。

「気の強い女も嫌いじゃない」

 のけぞるシャーリアの髪が肩からこぼれおちた。心乱されて激しく揺れる。

「無礼な」

 シャーリアは泣き出しそうな声でうめくなり、身をよじった。

「放して」

 傍若無人な男の手を必死に払いのけようとする。

 チェシーはうっすら陋劣に笑って手を放した。

「ならば自分の足で歩くんだな」

「お黙りなさい」

 シャーリアは顔も上げなかった。歯を食いしばり、吐き捨てる。

「わたくしに命令しないで」

「それだけ言い返せる気力があれば十分だ」

 チェシーは冷ややかに肩をすくめた。ふいときびすを返す。

 そのまま悪びれもせず、何事もなかったかのようにニコルを見やる。いたずらに皮肉な、いつもと同じ、気のない笑い方だった。親指を反らし立てて軽く振り、廊下側をひょいと指し示す。

「殿下をお連れしろ」

「え……」

 なぜか、とっさに対応することができなかった。ニコルは愕然とチェシーを見上げた。息を呑む。

「何だ、どうした。さっさと行けよ」

 チェシーは気にする様子もない。本当に分かっていないのかもしれなかった。副官の身体がずり落ちたりしないよう何度もしっかりと背負い直し、重みの釣り合いを確認してから、足早に歩き出してゆく。

 ニコルは身をふるわせた。ぎごちなく立ち上がる。

 去ってゆくチェシーと、未だ動こうともしないシャーリア。それぞれを怖じ気づいた眼差しで見比べる。

 シャーリアは闇火やみびのような羞恥の憎しみを眼に宿らせてチェシーを睨み付けていた。


 ……分からない。分からないけど、でも。


 ニコルは頭を振った。今は余計なことに気を取られている場合ではない。ともすれば胸がつまってしまいそうになるのをあえて見ぬようにして、とにかくシャーリアを支え、歩き出した。

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