4 悪魔、襲来

どろりと濡れた太い舌

「いったいどういうこと。出発できないだなんて。説明なさい」

 シャーリアは机に手を叩きつけて叫んだ。後ろ腰にベルトで吊って回し下げた贅沢なこしらえの軍刀が、金貨をばらまいたかのような音をたてて跳ねる。

 真正面から浴びせかけられた容赦ない罵声に、副官のヴァンスリヒト大尉は男らしい顔を苦々しくこわばらせた。

「ですが、殿下」

「言い訳は無用よ」

 シャーリアはけわしい眼で相手の顔を睨み返した。

「敵が攻めてきたのならさっさと撃退なさい。わたくしは今日中に本営へ戻らなければならないの。こんな下らない場所で足止めを食っているわけにはいかなくてよ」


「不可能です」

 ヴァンスリヒト大尉はシャーリアの勘気を恐れながらも冷静に反論した。

「魔物を使われました。外部との通信も遮断されています。哨兵との連絡がとれず各部隊の位置確認も行えない状態ではとても移動など」

「魔物――第四師団か。あの男、やはり通謀して」

 シャーリアは舌打ちしつつわずかに動揺を含んだ眼差しで窓の外を見上げた。

 窓際の縁を掴み、親指の爪を我知らず噛む。


 だが空にも地上にもまだ不穏なものが徘徊する気配はなかった。すぐに気を取り直し、居丈高な口調を取りつくろって続ける。

「魔物だから何だというの。奴らも人間や動物と同じよ。引きつけるだけ引きつけておいて一斉掃射。それで簡単に迎撃できる。むしろ奴らの陽動に気を取られて敵の本隊に側面を突かれることのほうが余程危険だわ。分かったら狼狽えたりせずにすぐ護衛の兵を集めなさい。脱出するわよ」

 吐き捨てるように言うとシャーリアは手袋をつかみ、副官を無視して歩き出した。


「しかし殿下、それではアルトゥシーの住民が」

 焦った様子でヴァンスリヒト大尉が追ってくる。シャーリアはめっきの剥げた扉の取っ手に手を掛けたところで苛立たしげに軍靴の踵を高鳴らし、振り返った。


「アルトゥシーは捨てる」

 理不尽な、憤りに満ちた眼が大尉を突き放す。ヴァンスリヒト大尉は愕然と足を止めた。シャーリアは言い放った。

「こんな街、何の戦略的価値もないわ。住民には地下壕へ逃げ込むよう命じなさい」


 無情に言い捨てて扉を開けようとした、そのとき。


 窓ガラスが粉々にくだけた。

 ガラス屑が吹き込む。

 空気を揺れ震わせるけたたましい喊声が響き渡った。灰色の巨大な影が差し込む陽をさえぎって飛びすぎてゆく。

「殿下!」

 ヴァンスリヒト大尉がシャーリアを庇って駆け寄った。

 ふたたび叫声がつんざく。


 ――近い!


 こわばったシャーリアの眼に、横薙ぎにぎらりと空を伝い走る銀灰色の影がかすめ映った。

 次の、瞬間。

 窓に残るガラスすべてをこそげ取り、突き破って、それは襲いかかってきた。知性のかけらもない銀の爪が窓際のデスクやランプ、陶磁器の飾られた飾り棚などを粉々に掻きむしる。金属の砕け散る音が響き渡った。

「お逃げ下さ……!」

 叫ぶ身体が吹き飛んだ。壁に叩きつけられる。声が無惨につぶれ途切れる。

 シャーリアは悲鳴を上げようとした。だがそれすらもかなわない。

 動けない。

 震えることしか、できなかった。それを目の前にして、ただ息を凍らせ、呻き声を押しつぶし――


 生気も表情も、何一つ無い。ただ美しすぎる女のかたちにのみ似せてつくられた、銀の悪魔。

 陰惨なまでの妖美な痴態をしたたらせる生物、それが、ぎ、ぎぎ、と首をたわめ、ねじって。

 割れた窓から、頭を覗かせている。


 銀に塗られた美しいくちびるから、どろりと濡れた太い舌があらわれて口の周りをなめずった。ひゅう、ひゅうりり、と、水笛を吹き鳴らすのにも似た鳴き声がもれている。

 同じ声がどこからともなく聞こえてきた。共鳴している。仲間を呼び集めているのか。


 シャーリアは震えながら喘いだ。

「だれか」

 声が続かない。

 悪魔が、嗤った。

 耐えがたい狂気をはらんだ翼をゆらめかせ、みだれる銀の髪を水煙のようにたなびかせて。

 ゆらり、薄氷色の息をまき散らしながら、悪魔は立ち上がった。光彩すらない眼でシャーリアをひたと見つめている。

 蹴爪をそなえた鉛の裸足が踏み出される。

 金属の硬い爪が床につめたく鳴った。

 嗤っている。見つめている。

 悪魔の手が伸ばされた。

 シャーリアの顎先を、指の先でくっ、と持ち上げて、弾く。

 猫のように、蛇のように。妖艶な爪が手挟んだ頬をもてあそんでいる。凍りつくなまぬるさだった。

 それでも、動けない。

 窓の外を見えない風が横切った。

 空を切る影が、ひとつ。またひとつ。

 涙があふれた。


 空をどす黒く埋め尽くすほどの銀色――


 だしぬけに、凄まじい哄笑をほとばしらせる悪魔の群れが部屋めがけてなだれ込んできた。一度に殺到したため窓から入りきれず、数十匹が互いに悶え狂いながら精神を引き裂かんばかりの絶叫を響き渡らせる。

 建物全体がぎりぎりと崩れそうな軋みをあげた。腕や足、ひきゆがんだ顔や翼だけが狂乱のうごめきを見せてびたびたと暴れ狂う。

 壁にひびが走った。床が揺れる。

 シャーリアは声にならない悲鳴を凍りつかせた。

 もはや眼をそらすことも、サーベルを取ることも、この場から逃げ出すこともできない。抗う意志すら奪われ、ただ、悲鳴だけは奪われまいと口を押さえ、のけぞって。

 そのときだった。


《天空の稲妻、地の烈風、見えざる刃となりて走れ……!》


 かつて何度も耳にした声。血みどろの高笑いを放っていた、悪鬼の声。

 残忍にして非道、冷酷。

 戦慄と暴戻の限りを尽くしていながら、身にまとう異形の火すら無慈悲なまでに狂おしく、うつくしく、身もだえせんばかりのあでやかさを見せつけてやまなかった――チェシー・エルドレイ・サリスヴァール。


 その男の奏でる呪詞が。

 大伽藍に鳴り渡る無数の鐘の音のごとく、壮烈にひびきわたった。



 凄まじい太刀風が壁の向こう側、此方からは見えないところから放たれていてさえみるみる逆巻き始めたと分かるうなりを上げている。

 悪魔は反射的に髪を振り乱し、シャーリアの身体を床になげうって外を振り返った。

「殿下!」

 入れ違いに、にわかには信じがたい白の軍服姿が背後から飛び込ん――


「ってうわあちょちょちょちょっと待っ……どわあ!」


 ――で来たかと思うといきなり腰に吊した自身の軍刀にからまって突っ転んだ。思いきり前のめりになって頭からびたーん、と転倒する。


 ずしゃー。ごろごろごろ。ピクピク。


 ……。


 悪魔はあんぐりと口を開けた。どうやら理解の範疇を超えてしまったらしい。ぴきんと固まっている。微動だにしていない。

 何はともあれようやく魔の手から逃れたシャーリアは、逃げだそうとしてよろめき、ふらついて喉を押さえた。がらがらと咳き込む。


「あいたたた……じゃない、何のこれしきっ」

 ずっこけていた真っ白な軍衣姿がびょょんとバネ仕掛けのように跳ね上がった。


 腫れあがった鼻を押さえながら、ずれ落ちてくるメガネの位置を直し、涙目でびしっと身構える。

「ももももももう大丈夫ですからね、殿下っ」

 男のくせになよなよと、それこそ少し力を入れてぐいとひねりでもすれば軽く押し倒せそうなほど華奢めいて見えるくせに――

「あ、あ、安心してください」


 眼前に立ちはだかる恐怖そのものの存在に対し、持てる勇気のすべてを振り絞って対峙しながらニコル・ディス・アーテュラスは叫んだ。

「こっ、こっ、この僕が来たからにはもう!」

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