「私が一緒に行ってやるから安心しろ、な?」

 あわててニコルは身を乗り出した。

「冗談抜きで論外です。いくらシャーリア殿下が相手でも、そんなの絶対に認めません」

 第一師団が駐留するアルトゥシーの北側。ゾディアックとの国境地帯に広く対峙する敵軍の赤い駒を睨みつける。

 ゾディアック帝国軍、第四巨蟹宮きょかいきゅう師団。かつて敵だったころのチェシーが率いていた、直属の部隊である。

 横目でチェシーの様子をうかがう。

 目が合った。チェシーは事も無げに肩をすくめる。口元に薄笑いが浮かんでいた。

「どうあっても、私を敵国の間諜スパイに仕立て上げたいらしいな」

「身に覚えがあるなら、さっさと尻尾を出しなさい」

 ザフエルが平然と煽る。チェシーはゆっくりとザフエルに向き直った。

「望むところだ。こんなところで、のんべんだらりと飼い殺されても、戦の腕がなまるだけだからな。さっさと最前線に放り出してくれ」

「二人とも、滅多なことを言わないでください」

 ニコルは、口の減らない連中をじろりと睨みつけた。

「じゃあ、どうする」

「シャーリア殿下をなだめる役割なら、僕が引き受けます」

「よろしい。では決定」

 すかさずザフエルが言った。

「だから……え?」

 ニコルは、眼をぱちくりとさせた。

 必死で食い下がるつもりだったのに、いつの間にやら丸く収まったらしい。

「ガキのおり決定か」

 チェシーが、わざとらしく嘆息した。やれやれと頭を掻く。

「何が?」

 何だか急に心許無くなって、まずはチェシー、次にザフエルと、それぞれを交互に見比べる。

「どちらにしろ、あからさまに大軍を動かすわけにもいきますまい。一国の公子が、名誉の負傷でもない、ただ転んで怪我をしただけなどという醜聞を喧伝されては、我が国の恥」

 ザフエルは、もう資料の片付けにかかっていた。話が飛びすぎて、何が何やら分からない。ニコルはおろおろと右往左往した。

「あの」

「何でしょう」

「ええと、ちょっと、決定って、何が?」

 ザフエルは、ニコルの質問を堂々と無視した。

 レゾンド大尉ほか、居並ぶ士官たちをぐるりと見渡す。

「参謀士官各位。閣下不在の間は総員戦時日課に移行。第二種警戒管制に入る旨を、各分派堡塁および大隊に緊急令達せよ。以下は追って沙汰する。以上、解散」

「了解!」

 士官たちの表情に、緊張がみなぎってゆく。それぞれの出入りが急にあわただしくなるのを見て、ニコルはごくりと喉を鳴らした。

「あ、あ、あの、閣下不在って……どの閣下?」

「この閣下」

 ぴたりと指差しされる。ニコルは青くなった。

「僕!?」

「自分で言い出したんだろう。もう忘れたのか? 君の頭には、たんこぶ以外、何も詰まってないのか?」

 チェシーが苦言を呈する。ザフエルはニコルに向き直った。おごそかに告げる。

「閣下が最も適任です」

 ニコルは、眼をきらりと輝かせた。身を乗り出す。

「ああ、なるほど、分かりました! こういう極秘の任務には、奇襲探知能力を持つ《先制エフワズ》の加護が必須と」

「いえ、戦闘要員でもない傷病兵一名の収容ごときに、いちいち余分な軍勢を割くわけには参りません。よって、一番ヒマそうな閣下にお願いし、ついでに護衛としてサリスヴァールを遣わせばよろしいでしょう。それで面目が立ちます。ご理解いただけましたでしょうか。では私はこれにて。失礼仕ります」

 慇懃に言い放って、きびすを返す。

 指揮室の扉が、ザフエルの端整な後ろ姿を飲み込んだ。音もなく閉じられる。

 ニコルは、ふと、小首をかしげた。

 何だろう。まるで肉を焼くのに塩だか砂糖だか分からないまま、全力でファサーっと行ってしまったかのような感がありありとする。いや、どう見ても振った時の感触が、塩のサラサラ感ではなく、砂糖のしっとり感に近かったような感じ。つまるところ、やっちまった的な挫折感と言うか、無力感と言うか。

「いちばんヒマって言われた……!」

 図星だけに言い返せない。チェシーは、ニコルの頭を軽く、ぽんと叩いた。

「任務頑張れよ、師団長どの」

「ヒマじゃないもん……!」

 しょぼんとうなだれる。

「うんうん、私が一緒に行ってやるから安心しろ、な?」

 チェシーは、まるで子どもをなだめるかのように、ニコルの髪をくしゃりと撫でた。


#2 君の行くところ、何処なりとも


「今後の予定を聞こう」

「進む。食べる。寝る。以上です」

「聞きしに勝る適当さだな」

 東に向かい、いくつかの分派堡づたいに、数日かけて馬で走ると、小さな農村、グルトエルベルクに至る。

 小山に抱かれたこの村は、一見、牧歌的な畑や牧草地、雑木林などがゆるゆると連なる、ごく普通の村だ。

 が、その実体は、第五師団の後方連絡線の結節点。兵站地としていつでも補給部隊を送り出せるよう機能する糧秣集積所であった。

 夕暮れの空が、藍色に暗く沈んでゆく。

 東の空は、既に夕闇よりなお暗い。風車の影絵が二基、ゆらり、ゆらりと、聞こえるか聞こえないか程度の唸りをたてて動いている。

 ニコルは、赤茶けたレンガ造りの建物を、馬上から遠く眺めた。煉瓦積みの櫓の頂上で、ぐるり、ぐるり、と梯子状の光が灰色に回転している。探照灯サーチライトだ。

「今夜はこのグルトエルベルクで休んで、それからアルトゥシーに向かいます」

「アルトゥシーか。嫌な名だ」

 チェシーの声には、自嘲が混じっているような気がした。

「行ったことあります?」

「幾度となく」

 小高く盛り上がった切り通しの道を、大きく回り込んで村へと入る。頭上に、石煉瓦の橋がかかっていた。草の垂れ下がる暗渠をくぐり抜ける。

 チェシーは、青くきらめく双眸に、名状しがたい光をひそませた。

「本当に、何も聞いてないのか」

 声が、低く反響する。

 ニコルは、前方の暗がりに眼を凝らした。松明が揺れている。歩哨が飛び出してきた。手を振る。

「こんばんは! お世話になります! 第五師団のアーテュラス、サリスヴァールの二名です」

「あっ、アッ」

 歩哨は、つんのめるようにして立ち止まった。担いでいた銃を、捧げ筒の姿勢に持ち替え敬礼する。

「アーテュラス閣下!」

 ニコルは馬から飛び降りた。気安く笑いかける。

「ダレジオ大隊長はいらっしゃいます?」

「はっ、ただいま!」

「今夜一晩、休憩所をお借りします、とお伝えください」

「はっ、はいっ! どうぞ、こちらへ!」

「急がなくても大丈夫ですよー」

 上級官舎用に徴発された屋敷へと案内される。

 官舎に着くと、フロックに身をやつし杖をついた分遣隊の隊長が、足をひきずりながら進み出てきた。

「お待ち申し上げとりました、アーテュラス閣下」

「ダレジオさん」 

 背中にしょったリュックを上下にゆさゆさ揺らしながら、ニコルは相手に駆け寄る。

「足の具合はいかがですか。まだ痛みますか」

「はは、閣下から見たら自分もそんな心配されるような歳ですか。面目次第もない。たかが骨の一本や二本ですわい」

 ダレジオは、太い腹を抱えて小気味よく笑った。背後に控える髭の軍人に合図する。

「誠にあいすみませんなあ。何せ小身なもので、何かと気配りの足りんこともあろうかと思いますが、どうかその辺りはご寛恕くださると有り難いです」

 いかにも叩き上げらしく、親しみのこもった胴間声をあたりかまわず響き渡らせる。

 ダレジオは頭を掻いてから、笑みを引っ込めた。

「だいたいの連絡は、参謀部から貰うとります。救命馬車が入り用との事でしたんで、とりあえず準備できるだけの薬草やら包帯やら、まとめて積んでおきました」

「お気遣い感謝します」

「あと、つまらんものですが酒宴の用意をさせていただきましたんでよろしければこの後、すぐにでも」

「喜んで!」

 ニコルは眼を輝かせた。

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