「公衆の面前で何やってんだい、このヘンタイ野郎!」

「お怪我はありませんな」

 抱きかかえていた腕の力をゆるめ、ニコルを解き放つ。

 ニコルは、立ちくらみを感じてくらりとよろめいた。壁につかまり、額を押さえる。

「すみません、お手数をおかけしました……」

 無意識に隠すようなかたちで、胸を手で押さえた。まだ、どきどきと怖いほど高鳴っている。

 ザフエルは肩に被さった髪を指の先で払った。どこか冷ややかな眼差しで見下ろす。

「緊急時とはいえ、みだりに聖騎士の玉体に触れた御無礼をお詫び申し上げます」

「滅相もなく」

 ニコルはぶるりとして、緊張しきった吐息を飲み込んだ。まだ、きつく回されていたザフエルの手の圧迫が腰のあたりに残っている。

 こんなときはとみに、ザフエルの考えていることが分からなくなる。いつも分からないと言えばそうだけれど、そもそも何を考えているのか、どこまで気付いているのか。

 未だ煮えたぎるかのような胸の古傷。それに重なって揺れる薔薇十字が、渇いた血の色に光っている。

 聖ローゼンクロイツの象徴である、剣とつるばらを意匠した形。神殿騎士団出身のザフエルなら、肌身離さず身につけていて当然の銀十字だ。

 なのに、なぜか、それがひどく恐ろしいものに――束縛の鉄条のように映った。

 怖いのかもしれなかった。

 こんなひどい傷があることすら、今までずっと黙っていたのと同じように。

 白皙黒瞳の参謀が、ときおり向けてくる眼差しの底知れなさと、その奥にひそんだ、ほのぐらい薔薇の闇が。


「ここからは、二手に分かれたほうがよろしいかと」

 突き放すようにザフエルは言った。ニコルから眼をそらし、軍靴を鳴らしてきびすを返す。階段は目の前だ。

「閣下は大砲台へおいで戴いて、援護斉射をお願いしたく」

「分かりました。さっきヒルデ班長にチェシーさんを探すようお願いしたので、可能なかぎり合流して行動するようにしてください」

「了解。准将には敵勢力の威力偵察を命じます。私はノーラスの守備を固めま、う」

 平静を取り戻し、地階へと下る城砦の大階段に向かって歩き出したはずの声が。

 突如、変なところで途切れる。

 そこにあったのは、階段ではなかった。

 聞こえてくるのは、にちゃにちゃ、ごぼごぼ、という粘液の泡立つ音ばかり。

 怪物スライムが、階段の壁という壁に、べっちょりと貼りついていた。

 壁から無数の目玉が生えている。その目玉が、ざわり、と。一斉にニコルとザフエルを認めて振り向いた。

 ニコルは、おそるおそる、横目でザフエルの様子を伺い見た。

 ぎ、ぎ、ぎ、と。

 ザフエルの首だけがねじれて回転した。顔色が石の色に変わっている。お化け屋敷の操り人形みたいだ。

「かっかっ、か、スススススララララ、眼が、うごうごうごごごご」

「わああザフエルさんがまた壊れた!」

 さっきまでの凄味はどこへやら。

 再度正気を失ったらしい。ザフエルは、たがの外れた人形みたいに、全身の関節をカクカク痙攣させながらニコルめがけ襲いかかって、……もとい、倒れかかってきた。

「ににににににににげにげにげげ」

「ザフエルさん、痛いってば。大丈夫です。僕がついてますから。大丈夫ですから。落ち着いて、焦らないで、ほら」

 ニコルは、とっさにザフエルの背中に両腕を回し、きつく抱きしめた。背中をとんとん叩き、撫でさすってなだめる。それでもザフエルの腕の力はゆるまない。

 荒い息が覆いかぶさる。耳元に喘ぎ声が吹きかかった。

「閣下。お許し、を」

 身悶えるような声。語尾が消え入るようだった。恐ろしいほどの力で、全身を抱きしぼられる。

 ニコルはザフエルに押し倒され、足を滑らせて床に倒れこんだ。背中を打つ痛みと触れる吐息に喉元まで割り込まれ、悲鳴をあげる。

「やっ、や、やだ、ザフエルさん、しっかりしてください。ザフエルさん!」

「公衆の面前で何やってんだい、このヘンタイ野郎!」

 いきなり、どすどすと重量感ある足音が駆け寄って来た。胴間声が、床を跳ね上がらせる。

 直後。

 銀の双旋風ダブルおたまが、交差するブーメランの軌跡を描いて飛来した。縦にシュート回転しつつ、唸りをあげて振り迫る。

 ダブル巨大おたまは、ニコルの胸元に顔を埋めたザフエルの後頭部にスコーン! カコーン! と立て続けに命中した。濁りのない音が、火花となって飛び散る。

「ふむっ」

 ザフエルは、哀れ断末魔の呻きを漏らし、ぐんなりと伸びた。そのままピヨピヨクルクル回る妖精さんに意識を運び去られ、ぴくりとも動かなくなる。

 銀の光跡が跳ね返った。吸い込まれるようにヒルデ班長の手へと返ってゆく。

 ヒルデ班長は、ダブル巨大おたまを手に駆け寄ってきた。モザイク模様のザフエルを情け容赦なくひっぺがす。

「大丈夫かいお嬢ちゃん……って閣下じゃないか!」

 仰天した眼が、まじまじと押し開かれた。

「てっきり看護部隊の子かと」

「ヒルデさん! よかった、ご無事で」

 ニコルは、泣きかけの顔をくしゃくしゃにして飛び起きた。このスライム地獄の中だというのに、ヒルデ班長の藍色したエプロンは、まったく溶けも破れもしていない。

「あ、あたしゃ全然だよ。あの怪物ども、あたしには恐れをなして近づいてこないんだ。それよか、びっくりしたよ。まさか閣下とは……ってことはあのヘンタイ男は」

 おそるおそる振り向いてから、ヒルデ班長は突然、別のことを思い出すことにしたらしい。せわしなく手を打ち合わせた。

「そんなことよりもだよ。閣下に言われて、ずっとデカい准将を探してたんだけど。外で見かけたってアンシュベルが言うから、連れてくるよう言っておいたよ。あの子もデカい准将と一緒にいる方が安全だと思うし」

 お尻のあたりが、引っこ抜かれたみたいにひゅうと寒くなった。

「どう考えても逆じゃないですか」

 スライムまみれの丸裸にひん剥かれたアンシュベルをチェシーに任せるなど。嵐の夜にぶるぶる震える哀れな子羊を、飢えた狼に投げ与えるも同然ではないか! 想像するだけでおののき震える。

「大丈夫さね。うちの糧食部隊のエプロンさえあれば」

 ヒルデ班長は謎の自信に満ち溢れた様子で、前掛けをぱんと引っ張って鳴らす。

 と、再び、ノーラス城砦全体が揺れ動いた。崩落の衝撃が床を震わせる。遅れて届いた砲撃の音が、空振となって鼓膜をびりつかせた。逐次射撃の砲声だ。今度はかなり近い。距離、方向ともに確実な弾着修正が行われている。ガラスの割れる音までもが聞こえた。

 こんな理論射爆をやってのける部隊が、ノーラス近辺にまで降って来ているとは。

 ニコルは記憶の中の資料を繰った。《先制のエフワズ》が見せた幻影から、該当する敵の名を選り出す。

 焦げのある分厚い手袋、遮光ゴーグル、襟元の白いマフラー、くしゃくしゃの黒髪、陰鬱な眼差し、猫背の姿勢。あれは、ターレン・アルトゥーリだ。ゾディアック屈指の機甲部隊、第十磨羯宮まかつきゅう師団を率いる野戦砲の専門家。間違いない。

「呑気に馬鹿なことやってる場合じゃないな」

 ニコルはうすく笑った。下くちびるを吸い込んで噛む。あれだけの巨砲だ。移動するだけでも相当の人馬がいる。そういえば、傍らに、小山のような巨体がうずくまっていた。あれを牽いてきたのは魔物だ。

「とすると、第四巨蟹宮きょかいきゅう師団が側面についている可能性があるな……なるほどね」

 河の対岸に攻城砲の橋頭堡を作られたら、兵站中枢としての機能が射すくめられてしまう。

 ザフエルを肩越しに振り返る。まだ、意識を取り戻す気配はなし。

 傍らに屈み込む。

 触れたザフエルの肌は冷たかった。濡れた身体が凍え始めているのかもしれない。

 手をこすり合わせ、息を吐きかけて、ザフエルの手を取る。骨に触れているような気がした。ニコルはためらいもせずに上着を脱いだ。冷えた肩に回し掛ける。

 長身のザフエルにとっては小さすぎるうえに、そもそも半分以上破れていて、とても毛布代わりにはなりそうにもない。それでもモザイクまるだしで転がしておくよりは、はるかにマシだ。

 濡れた黒髪が頰に貼り付く。ひやりとかすめる唇の感触に、ニコルは決意を固めた。

「待ってて、ザフエルさん。すぐに怪物スライムをやっつけてくるから」

 息苦しくならないよう、頭の角度を直してやりながらつぶやく。

「よし。これで後顧の憂いはなし、と」

 ニコルは、肌寒さに鳥肌の立った上腕をさすった。立ち上がる。溶けた白いブラウスが、手首から包帯のように垂れ下がった。

「ヒルデさん、何度もお願いして申し訳ないんですが、ザフエルさんが眼を覚ましても、あのスライムを見ないですむよう、見張っといて欲しいんです」

「起こさなくて大丈夫なのかい」

 言外に、一人で大丈夫か、と心配されているのだった。頼りなく見えていることは分かっている。ニコルは堂々と照れて鼻の下をこすった。えへん、と胸を張る。

「これでも一応、師団長なんで。せめて、やることだけはちゃんとやっとかないとね」

 ヒルデ班長は眼を丸くし、やがて砂糖が煮溶けるみたいににんまりした。

「そっか。すっかり忘れてたよ。閣下って、うちの師団で一番偉かったんだっけね」

「ひどい。本気で忘れないでくださいよ」

「悪い悪い。そうだ、デカい准将を探しにいくんなら、これを使うといいよ。うちの部隊のお仕着せだけどさ。いっぱいあるから全部持ってお行き。あいつら避けに、きっと役にたつよ」

 ヒルデ班長は、前掛けのポケットから白いフリル付きの何かを取り出した。ニコルに手渡す。

 ニコルは、押し付けられるがままに、たたまれた白いフリルを広げた。

 シミひとつない真っ白なメイドエプロン。可憐なフリル付き。ついでに頭の中も真っ白である。

「あの。まさか、僕に、これを、着ろと?」

 口元がひくひくと笑いにひきつる。ヒルデ班長は当然、といった顔をした。

「他に何を着るってんだい。閣下の軍服も変態参謀の軍服もすっかり溶けちゃってるじゃないか。せめて前ぐらいは隠しなよ」

「えっ」

 ニコルはあわててエプロンを頭からかぶった。

「いや、でも、あの、これってもしかして」

 着てみて改めて分かった。純白のひらひらした裾レース。肩を覆う大きめなふりふりのフリル。背中は斜めがけになっていて、腰できゅっと結ぶ形になっている。間違いない。

 アンシュベルがいつも着ているメイドエプロンだ。確かに可愛い。それは良いのだが。

 ニコルは、頭のてっぺんからぷっしゅぅう、と蒸気を立ち上らせた。耳の先まで真っ赤にして、エプロンの裾をモジモジと引っ張る。

「……裸エプロンにしか見えないのですが……!」

「ああん? 全裸よりマシだろ」

 ヒルデ班長は、ザフエルすら一撃で床に沈めた最強の巨大おたまを、ぎゅんっと旋回させた。正眼に構える。

「任せときな。参謀にはあたしが着せといてやるよ」

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